イスラム世界に誕生した暗殺教団
カスピ海(Caspian Sea)は、中央アジアと東ヨーロッパの境界にあるとされる世界最大の塩湖で、それを囲むとされるロシア連邦、アゼルバイジャン、イラン、トルクメニスタン、カザフスタンの5国は海と定義している。
英語「Assassin(暗殺者)」の語源である『ハシャシン(الحشاشون。暗殺教団)』は、一般的には11世紀から13世紀ぐらいまでにかけてカスピ海の南(現在のイラン)の「アラムート城(Alamut Castle)」と呼ばれた山岳地帯を拠点に活動していたとされるイスラム系の秘密組織である。
「イスラム教」アッラーの最後の教え、最後の約束
彼らは、イスラム教のシーア派の分派である「イスマーイール派(الإسماعيليون)」のさらに分派である『ニザール派(نزارية)』だったとされる。
イスマーイール派、ニザール派
イスマーイール派は、グノーシス主義的と言われる。
「グノーシス主義(Gnosticism)」とは、イスラム以前に誕生している、自己の本質と真の神を追究することを信条とした教義。
「グノーシス主義」不完全なソフィアの神と物質世界。異端の古代と近代
イスマーイール派もまた、隠された本質の知というものを想定した体系を築いた。
そしてイスマーイール派には、「イマーム(امام。カリフ)」と呼ばれる指導者たちだけが特別に知ることができる真理があるのだという。
ニザール派はイマームの継承争いによりイスマーイール派が分裂した時、ハサン・サッバーフ(1050~1124)を開祖として誕生したようだが、その秘密主義精神はさらに深まっていたとされる。
イマームの座を追われたニザールという人が、その座を奪った弟の陰謀により、息子のアル・ハーディ共々処刑された、という悲劇をニザール派の者たち自身が伝えていたそうだ。
ニザールには幼い孫ムーフタディもいたが、 彼だけはニザールの忠実な部下たちに逃がされ、1090年くらいからアラムートで活躍していたハサン・サッバーフにより、密かに助けられ、そのまま育てられることになる。
こうしてアラムートのニザール派は誕生した。
また、カリフやイマームと呼ばれる最高指導者の継承争いで、イスラム教の派閥が分裂するということはよくあった話らしい。
しかしムーフタディに関しては、新しい教団をスムーズに立ち上げるための、嘘の物語だったのではないかという説もある。
ほぼ確かなことは、アラムートで新たなニザール派の教団を始めたのは、ニザールの家族の生き残りであるムーフタディでなく、彼を保護してやったというサッバーフだったこと。
ただ、そういうわけで、サッバーフはイマームではなかった。
どうもムーフタディも結局跡継ぎを残すことなく死んだようで、以降この教団は、イマームはお隠れになっていると解釈してたらしい。
長老、布教者、弟子。そして犠牲を厭わぬ者
ニザール派(イスマーイール派)においては、上から「シーク・アル・ジェバル(長老)」、「ダーイ・アル・キルバル(大布教者)」、「ダーイ(布教者)」、「レフィク(上級弟子)」、「フェダーイ(信者)」、「ラシク(新米)」という6つの階級が設定され、さらに一番下の7つ目の階級として「エアミル(労働者)」や「ハルフィ(職人)」があった。
ニザール派は、暗殺教団とも呼ばれるように、イスマーイール派が時に政治的武器としていた暗殺を、より盛んに行ったとされるが、 実行者となるのはたいていフェダーイだったという。
フェダーイには「犠牲を厭わぬ者」というような意味もあるとされる。
特に異教徒として敵対することが多い「十字軍(Crusader)」にとっては、文字通り容赦のない暗殺をしてくる彼らは、相当な恐怖の対象だったらしい。
この暗殺教団に関する幾多の伝説は、たいてい大なり小なり誇張されている話とされているが、そのように暗殺者たちの存在を大げさに伝えたのは、ヨーロッパに帰還した十字軍兵士たちだったという。
「十字軍遠征」エルサレムを巡る戦い。国家の目的。世界史への影響
また、イスマーイール派は、イスラム世界においても基本的に異端とされていたようだ。
そういうわけで、この教団に関して残っている記録は、ほとんど敵対していた者たちの視点での記録ということは、注意しよう。
それと、ニザール派の最高指導者は「山の老人」と呼ばれていたともされるが、これはマルコ・ポーロ(1254~1324)がヨーロッパに伝えた名称らしい。
要塞と秘密の花園伝説
ニザール派は、アラムート山地にいくつも要塞を築いて、拠点とした。
そのアラムートの要塞は、 13世紀にチンギス・ハン(1162~1227)のモンゴル帝国軍に侵入されるまで、難攻不落の城として知られ、そこから放たれる暗殺者たちは、敵には恐るべき脅威だった。
ちゃんとした記録が残っておらず、創作の可能性が高い(そもそもまったく関係のないところから生じ、アサシン伝説に加えられた噂)とされているが、教団の山の要塞には、「アルハディカト・アルシリヤ(秘密の花園)」が存在したという伝説は有名である。
その花園は「ハシーシュ(大麻)」の畑で、そこで過ごす者に(おそらく大麻による幻覚作用で)凄まじい幸福と快楽を与えたらしい。
教団に入団した若者は、基本的にここに連れてこられ、一旦は楽しませてもらう。
しばらくしてから若者を花園から外に出し、「再びまたそこに来たいなら」という条件を出して、忠義を誓わせたわけである。
そうして中毒になった若者たちは決して逆らう事は出来ず、都合のよい暗殺兵器になった。
この恐ろしい洗脳まがいの話は、前述したようにおそらくはフィクションであるが、一時は歴史学者たちの間でも、かなり真剣に受け止められていた。
アサシンというのも、語源はハシーシュとされている。
ハサン・サッバーフ
ニザール派、あるいは暗殺教団(アサシン)を始めたハサン・サッバーフとは何者だったのだろうか。
(現存はしていないが)彼は自伝を書いていたようで、その生涯について知られていることは案外多い。
あらゆる学問を学び、イスラムの真理に近づく
実のところサッバーフ本人も、イマームの家柄の者だった。
彼が生まれたのは、ペルシア(イラン)西部の都市クムだという。
彼は7歳の頃に学問の探究を志すようになったとされる。
クムはシーア派中心の都市だったが、サッバーフは若い頃、スンニ派中心の街ライで、 初期仕事をしながら、言語学、天文学、幾何学、錬金術など、様々な学問を学んだ。
「錬金術」化学の裏側の魔術。ヘルメス思想と賢者の石 「中世アラビアの魔術師たち」イスラム神秘主義、占星術と錬金術
そして、そのうちにイスラムの奥義に近づくようになり、絶対なるアラーの神、預言者ムハンマド、そして楽園や地獄の存在を確信したのだとされる。
スンニ派のもとで学んでからも、彼はシーア派のままで、やがてイスマーイール派こそが、偉大なる哲学の根源と考えるようにもなる。
そして、まだアラムートになかったニザールの教団が、最も厳しく、そして正しい戒律を有していると悟るにいたる。
ニザールはエジプト生まれの血筋で、そしてこのエジプトのイマームこそが、イスラムの真理の体現者と考えていたのだ。
スルジュークの手
サッバーフは奥義を極めるためにエジプトに数年間留学もした。
ペルシアに帰ってきたのは1080年代とされるがはっきりしない。
ただその時にはすでに、自身のニザール教団の構想はほぼ完璧にあったともされる。
ちょうどそのくらいの頃。
王朝も建てて、ペルシアで大きな勢力を誇っていた、スンニ派のセルジューク族の、シーア派系教団への追及が強くなっていた。
どうもスンニ派に対する暗殺や略奪事件があったらしい。
セルジューク族から隠れるためにも、サッバーフはいち早く要塞にもなる拠点を確保する必要があった。
そして目を付けたのが、自身が潜伏していたマザンデラン地方の南、エルブルズ山脈の中にあるアラムートの城だった。
マザンデラン地方は、当時は農業が盛んな地域で、 現在は石油などの天然資源が豊富なことでも知られている。
サッバーフの城の乗っ取りはなかなか巧妙だったようだ。
彼はまず数名の仲間をそこに送り込んだ後、自ら城にやってきて、上手い交渉術で乗っ取りを成功させたのだという。
それが1090年のことだったらしい。
以降、セルジューク人は、後の十字軍と同じくアラムートの城の強固な守りを崩せなかったそうである。
厳しい戒律、芸術教育、コーランの完全暗記
非常に厳しい掟で、自らも含めた教団を縛りつけたサッバーフは、城を得てから、1124年に死ぬまでの期間、2回屋上に現れた以外は、一切外に出てこなかったとされている。
彼はまた家族にも容赦がなかった。
ある時、資源不足の問題を解決するために、自分の妻と娘の何人かを他の城に送って働かせたが、それから二度と彼女らを自分の元に呼び戻すことはなかった。
息子のうちの一人は掟破りの酒を飲んだということで死刑にし、また別の息子は殺人の容疑がかけられた時点で死刑にした。
一方で彼は芸術分野における教育に熱心だったようだ
ニザール派に属していた者が書く文学や詩は評価が高く、敵対しているはずのスンニ派の間でも結構人気だったらしい。
また彼は、コーランを隅から隅まで完全に記憶していて、どんな状況においても、そこから適切な1文を引用できたという。
誰がどのくらいに恐れていたか
サッバーフが死に、新たな指導者としてキヤ・ブズルグ・ウミッド(~1138)が後を継いだ時。
すでにニザール派は、目的のためなら暗殺もまったく遠慮しない恐ろしい存在ということで知れわたっていたとされる。
というか、この頃のペルシアにおいては、基本的に暗殺が起こると、とりあえずニザール派の仕業と考えられたらしい。
ニザール派は、異教徒はもちろん、自分たち(イスマーイール)の教義を守らないイスラム教徒たちも邪悪な者たちであるから、殺すのはまったく問題ないというような考え方だったとされる。
それどころか、その殺す方法も残酷であればそれほどよいとされていたという。
ただ文字通り暗殺教団としての最盛期はサッバーフの時代であり、ウミッド以降はその過激さは(噂レベルではともかくとして)鳴りを潜めたとされる
無差別なやり方ではなかった
あくまでも暗殺は手段であったとされる。
彼らのターゲットにされた者は、カリフや将軍、大富豪や大学者など、有力者ばかりであり、無名の民衆を無差別に狙ったりすることはなかった。
また、別に民間においては彼らはそれほど恐ろしい存在というわけでもなかったという説もある。
なぜなら彼らの暗殺は基本的に、戦争時における勝利のためか、あるいはイスマーイール派への攻撃や迫害に対する報復だったからだ。
彼らに敵と認識されなければ危険はなかったし、そして普通に生きていて彼らの敵と認識されることなどあまりなかったろう。
それと(おそらく他の派閥や、もしかしたら異教徒でも)イスマーイール派に友好的な者の敵も暗殺対象にしていた。
ただしそこにビジネス的な関係が発生したことはなかった。
当時から一部に、金銭で暗殺を請け負っている者達がいるという噂もあったようだが、それはごく一部の堕落した者の話だと考えられている。