「メアリー・セレスト号」海洋史上最も有名な謎の真相。陰謀はあったか

海洋史上、最も有名なミステリー

 メアリー・セレスト号(Mary Celeste)は、シャーロック・ホームズのシリーズなどでも有名な作家アーサー・コナン・ドイル(1859~1930)が小説にそれを登場させるにあたって使ったマリー・セレストという名前でもよく知られている。

 問題の小説は、コーンヒルマガジンの1884年1月号に掲載されたという「J・ハバクック・ジェフソンの証言(J. Habakuk Jephson’s Statement)」。
これは創作要素もかなり強いが、真実の記録のように勘違いした人も多かったらしい

 とりあえずこのメアリー・セレスト事件は、海洋史上最大というほどに奇妙かは微妙な部分もあるが、最も有名なミステリーであることは間違いないだろう。

 また、典型的な無人船発見の例である。

 バミューダトライアングルと関連付けようとする者もいるようだが、おそらくあまり関係ない。
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ブリガンティンとは何か

 メアリー・セレストはブリガンティン(brigantine)というタイプの船である。

 ブリガンティンとは2本のマストを持っていて、その2本の1つが横帆おうはんを備えている帆船である。

 横帆とは、船の中心線と交差するような形で張る、追い風を動力とするための帆のこと。

 2本のマストとも横帆を備えた帆船はブリッグ(brig)と呼ばれるため、一般的にはフォアマストに横帆、メインマストに縦帆を備えたものをブリガンティンとして区別する。

アマゾン名称時代の記録

 メアリー・セレストはもともと曰く付きだったとされる。

 完成当初、長さ99.3フィート(30.3メートル)、幅25.5フィート(7.8 メートル)、深さ11.7フィート(3.6メートル)、重さ198トンと登録されることになったこの船は、1861年に、カナダはノバスコシア州のスペンサー島で造られた。
その名前は「アマゾン」であったという。

 しかし建造中、あるいは処女航海中に事故が多かったとか、持ち主に不幸が続いて次々変わっていったとか、いくつか妙な噂がある。
ただ、それらに関しては詳細も不明で、どこまで事実か怪しい。

 「ブリタニカ百科事典(Encyclopædia Britannica)」などには、アマゾン名称時代の話も少し紹介されている。

貿易船として。歴代船長の記録

 1861年6月頃。
処女航海の途中、船の最初の所有者であった9人の1人でもあった船長ロバート・マクラレンが肺炎で死亡。
彼の死後はジョン・ナッティング・パーカーという人が、新しく船長となった。
船はあらためて、目的地であったイギリスのロンドンへと向かったが、その途中でも不運な事故が多発したという。

 1863年まで、パーカーを船長として、アマゾン号は貿易船として活躍した。
その後、この船はパーカーからウィリアム・トンプソンという人に譲られる。
このトンプソンが所有していた1867年までの期間は、特におかしなこともない、平穏な期間だったようだ。

 しかし1867年10月。
アマゾン号は嵐に見舞われて、ノバスコシアのケープブレトン島はカウ・ベイで座礁した。

 アマゾン号はひどく損傷していたが、1868年11月にアメリカ人のリチャード・W・ヘインズが所有権を買い取り、彼はそれを修理にだす。
船をメアリー・セレストに改名したのは、このヘインズとされる。

 その名前の由来に関しては不明だが、ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)の娘からとったのではないか、という指摘がある。
ガリレオ「ガリレオ・ガリレイ」望遠鏡と地動説の証明。科学界に誰よりも業績を残した男  ヘインズには借金があったようで、1869年の8月に、メアリー・セレストは債権者さいけんしゃに押収され、また売却される。
新たな買い取り手は、ジェームズ・H・ウィンチェスターという人を中心としたニューヨークの小団体だった。

 1872年初頭、船は1万ドルの大規模な改造を施された。
それで船の長さは103フィート(31メートル)、幅は25.7フィート(7.8メートル)、奥行きは16.2フィート(4.9メートル)、重さが282トンと、よく本などで紹介されるサイズとなる。

 その頃には、家族とともに消失したとされる1872年の船長、ベンジャミン・スプーナー・ブリッグス(1835~1872?)が、ウィンチェスターから株を買って、その所有権のいくらかを得ていた。
株式ゲーム「株と価値の仕組み」金儲けの為に動く現代社会  そして1872年11月7日。
ベンジャミン・ブリッグス船長率いるメアリー・セレスト号は、工業用アルコールを積んで、ニューヨーク港を出発した。
しかし目的地であったイタリアのジェノバに着くことなく、行方知れずとなり、しばらく後の1872年12月4日(あるいは5日)に、無人状態で漂っているのを発見されたというわけだった。

ベンジャミン・スプーナー・ブリッグス

 他の乗組員たちとともに消えてしまったメアリー・セレスト号の船長ベンジャミン・スプーナー・ブリッグスは、かなり優れた船乗りだったようだ。

 彼が生まれたブリッグス家は、そもそも船乗り一家で、ベンジャミンも人生の大半が海での暮らしだった。 
兄弟も四人いたようだが、船と関係のない仕事に就いた者は一人だけだったという。

 ベンジャミンは日常的に聖書を読むこむほど、神への信仰に熱い人で、その能力はもちろん、公平を重んじる精神から、部下たちからの信頼も厚かったとされる。

 1862年にフォレストキングという船を持った彼は、同年に従姉妹のサラ・エリザベス・コブと結婚。
そして最初の息子アーサーが生まれた1865年に、ベンジャミンは兄弟でありビジネスパートナーでもあったオリバーに、そのフォレストキングに関する指揮権を譲った。

 1870年には、娘のソフィア・マチルダ・ブリッグスが生まれる。
この頃には船乗りとして、かなり安定した地位にあったようだが、彼はオリバーと共に、業界から引退するべきか悩んでいたらしい。

 しかし結局、1872年にメアリー・セレスト号の船長となったベンジャミンは、また海に出ることになったのだった。

母への最後の手紙

 ベンジャミンはメアリー・セレストの航海にあたり、かなり船員を厳選したとされる。
結果的には信頼のできる者ばかり、7人の船乗りが募ったらしい。

 さらに船には妻のサラと、幼い娘のソフィアも乗ったという。
息子のアーサーは学校があったため、祖母(ベンジャミンの母)に預かってもらっていて、結果的には助かることになる。

 ベンジャミンは、行方知れずとなる航海に出る直前に、その母に手紙を書いている。
手紙には、ソフィアが公園で楽しんでくれたとか微笑ましいプライベートの報告に加え、「船は綺麗でいい感じ」とか「(手紙を書いている二日後にあたる)火曜日に出発するつもり」とか、今となっては貴重な情報が書かれている。

 手紙の日付は11月3日で、5日にはまた別の港に移動しただけ。
実際にニューヨークから出港したのは7日だったとされている。
延期があったとする説もある。

デイ・グラティア号による発見

 ニューヨークを発ってから行方知れずとなっていたメアリー・セレスト号だが、1878年12月4日午後3時頃に、アゾレス諸島とポルトガルの海岸の間の海域で、ついに発見される。
発見した船はデイ・グラティアという船で、船長はデヴィッド・モアハウスという人だった。

 偶然ではあるが、ベンジャミン船長とモアハウスは、業界内では近い立場にあったようで、知り合いだった可能性が高いとされている。
少なくともモアハウスは、メアリー・セレストをはっきり知っていて、遭遇した船がすぐにそれであると判断ついたらしい。

 異常を察知するや、モアハウスと共に何人かが、メアリー・セレストに乗り込んだが、例によって、それは無人となっていたわけである。

 しかし捨てなければならないほどに、船がひどい損傷を受けた様子はなく、かなり不気味であった。

 モアハウスらは、メアリー・セレストを港に連れ帰った後に、「海事法(maritime law)」にのっとって、「遭難船回収(shipwreck salvage)」の報酬を要求。
しかし、モアハウスとベンジャミンの関係的に、これはある種の詐欺なのではないか、という疑惑も出て、裁判沙汰にまでなる。

 結局のところモアハウスらは無罪とされ、報酬も受け取っている。
ただそれはともかく、このような裁判が行われたおかげで、発見当初の船の様子などは、かなりはっきり記録に残っているという。

 このメアリー・セレスト発見者たちの証言記録とも言える裁判記録は、懐疑論者からは特によく重要視されている。
事件に関して伝説的に語られている怪奇的な要素の多くが、この公式の記録に存在していないからである。

何が消えて、何が残っていたか

 水を排出するためのポンプがいくらか壊れていたようで、貨物を積んでおく船倉せんそうには、1メートルほど水が貯まっていたが、メアリー・セレストのサイズでは、それは危機的というほどの量ではなかった。

 救命ボートがなくなっていたが、他に大きな問題もなさそうで、むしろそれが奇妙だった

 救命ボートがなくなっていたことを記述していない本などが多く、よく「話を面白く見せかけるために、あえてその事実を省いているのだろう」と推測されている。
しかし実際には、船にさほど大きな損傷がないにも関わらず、なぜ船員たちは救命ボートに乗り込み、船を捨てる必要があったのか、というのがこの話の最大の謎と言えよう。

 貨物や私物も、かなり残っていたようで、乗員たちはかなり慌てて、船を放棄したと考えられた。
救命ボートも、かなり急いで無理矢理出したのか、それが固定されていたと思われる場所には血痕もあったという。

 デッキのハッチ(出入口)が開きっぱなしだったが、仮にこれが内部に溜まった水の原因なら、それは船が捨てられてから溜ったのかもしれない。
一方で貨物ハッチは密閉されていたという話がある。

 食料貯蔵室もまた開きっぱなしだったそうだ。
ただし水や食料はかなり残っていた。

 さらに時計は狂っていて、 どういうわけだかコンパスが破壊されていた。

 また、なくなっていたのは救命ボートだけでもない。
角度計算のための「六分儀(sextant)」や、船の揺れなどの影響の少ない時計である「クロノメーター(chronometer)」などの航海道具はなくなっていた。
このことは、船員たちが一時的でなく、完全に船を放棄しようとした証拠とされることもある。

 船長の航海日誌を除く船の書類もなくなっていたという。
日誌の最後の日付は11月24日で、アゾレス諸島の西方100マイル(160キロメートル)の海上にいると書かれていたそうである。

いったい何が起きたのか

 単純な発想としては、嵐にでもあって、沈没するのではないかと恐れた搭乗員たちが、さっさと逃げたのでなかろうか。
だが船にそれほど破損がないから、そうは考えにくい。

 海賊説は特に人気だが、それなら貨物がほぼ手つかずだったのはおかしい。
それに当時のヨーロッパの海は、イギリス海軍などが強力な存在として幅を利かせていたから、海賊行為自体があまり一般的ではなかった

 何かアルコールが爆発しそうと不安になるような事があり、慌てて逃げたという説もあるが、これはかなりもっともらしいと、よく言われている。

 とにかく、理由は不明だが、一時的にだけ離れるはずだったのに、ロープが切れてしまったりして、置き去りにされてしまったと考えるのが、最も一般的である。

不気味な伝説

 史実をかなり取り入れているコナン・ドイルの作品の影響のせいか、 単純にこのミステリーが有名になりすぎてしまったせいか。
このメアリー・セレスト号の発見時の状況に関しては、先に紹介した裁判記録などには一切書かれていない、いくつもの不気味な伝説がある。

 例えば、ほんのついさっきまで厨房で食事を用意をしていたような形跡があり、食卓にもまだ温かなゆで卵などの料理が並べられていたとか。
船長室の寝床の下から血まみれの剣が見つかったとかである。

 汚れた剣は実際にあったが、血などついてないなかったという話もある。

フォスダイク文書。秘密の乗客は本当にいたのか

 メアリー・セレスト号には、公式記録には残っていない、生き残った秘密の乗客がいたという伝説もある。
その人はアベル・フォスダイクという名前で、彼の死後に、彼自身が書いたらしい記録文書が、友人だったハワード・リンフォードに発見されたのである。

 この「フォスダイク文書」の情報は、1912年のストランドマガジンにて、最初に公表されたとされている。
フォスダイクは何らかの理由でアメリカを去りたがっていて、ブリッグスの船に乗せてもらっていたらしい。

 しかしこの文書には、娘の年齢や船員の数が違うなど、お粗末な間違いがいくつかあるとされる。

 文書に書かれている真相としては、とりあえず航海途中で、船長は娘のために、見晴らしのよい台を船員たちに作らせた。
その後、船長と一等航海士の「服を着たままでどのくらい泳げるのか」という議論から、船員たちで水泳コンテストを行う流れになった。
水泳に参加しない者も、先の見晴らしのよい台に揃い、そのコンテストを楽しんだ。
しかし、突然サメが現れてパニックとなり、さらに台が壊れて、 船に乗っていた全員が外に投げ出されてしまう。
フォスダイクだけは壊れた台の破片の上に運よく落ちたが、水面に落ちた他の者たちは皆サメに食われてしまった。
フォスダイクは一人で船に戻ることもできず、そのままさまよった末に、アフリカの海岸に打ち上げられて助かったのだという。

その後のメアリー・セレスト

 事件が一段落した後。
メアリー・セレスト号は不気味に思われながらも、しばらくは持ち主を変えながら、船としての役割を続けた。

 しかし1885年に、ハイチのゴナーブ島に座礁し、再起不能となる。
これは当時の持ち主であったギルマン・C・パーカーが保険金目当てにわざとやったのだろうという見方がはなから有力だった。

 最終的にパーカーは逮捕され、メアリー・セレストは、回収もされずに放棄されることになったのだった。
一応その残骸は、2001年8月に発見されたらしい。

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