聖徳太子について。予言伝説。日本のブッダ「厩戸皇子とは何者だったのか」

聖徳太子

転輪聖王か、優れた政治家か

厩戸皇子。聖徳太子の本名

 聖徳太子しょうとくたいしという名前は、彼の生前のものではないとされる。
聖徳というのは、彼の死後に贈られた諡号しごう(天皇から贈られる特別な名前)である。

 彼の生前の名は、厩戸皇子うまやとのみこ
また、上宮太子じょうぐうたいしとも呼ばれていたという。

父と母。摂政となって

 父は、陽明天皇ようめいてんのう
母は、穴穂部間人皇女あなほべのはしひとひめみこ

 太子は19歳で、摂政せっしょう幼君ようくん)や女帝の代理で、政治を行う人)となった。
そして、「遣隋使けんずいしの派遣」、「冠位十二階かんいじゅうにかいの制定」、「憲法十七条の制定」、「三経義疏さんぎょうぎしょの執筆」、「法隆寺ほうりゅうじの建設」などの、画期的な政治政策を次々に行ったという。

日本のブッダ。転輪聖王

 聖徳太子は、王族であり、政治家であるが、また、仏の教えを重んじた、日本における釈迦、ブッダであった。
お寺「仏教の教え」宗派の違い。各国ごとの特色。釈迦は何を悟ったのか 釈迦の宮殿「釈迦の生涯」実在したブッダ、仏教の教えの歴史の始まり  実際に、彼は日本に、仏教を広め、また、同じく王子であった釈迦と、よく比較され、論じられたとされる。

 シッダールタ(釈迦)は誕生の際、占い師に「この子はやがて、理想の王たる転輪聖王てんりじょうおうか、偉大なる宗教の開祖となるだろう」と予言された。
結果、シッダールタは、仏教の開祖となる道を歩んだが、聖徳太子こそ、理想の王。
シッダールタが選ばなかった、転輪聖王そのものと称する者もある。

 言うなれば聖徳太子は、IFルートのブッダなのだ。

聖徳太子伝説。救世観音の化身として

仏教徒達が広めた日本の仏教開祖としての聖徳太子

 聖徳太子の人生はほとんど謎に包まれている。
後世に伝わっている記録も、断片的なものばかり。

 伝説によると、太子は、西方より、東の果ての国、つまり日本に、
仏の教えを伝えるべく、王族の子に生まれ落ちた、救世観音ぐぜかんのんという仏の化身である。

 また、日本の仏教徒達の中で、その存在は、ほとんど伝説的で、最澄さいちょう空海くうかいのような、歴代の高僧の多くが、その前世は聖徳太子であったと称されていたという。

 真面目な歴史家からは、荒唐無稽とされるような聖徳太子の伝説だが、今よりも仏教がずっと多くの人々に信仰されていた時代においては、それらはちゃんと歴史であったと思われる。
特に、平安時代に、藤原兼輔ふじわらのかねすけという人が書いたとされる、「聖徳太子伝歴でんりゃく」は、江戸時代まで強い影響力を保ち続け、太子伝を大きく広めたとされる。

仏のお告げ。妊娠八ヶ月においての声

 欽明きんめい天皇32年(571年)の頃。
歴代天皇「歴代天皇」実在する神から、偉大なる人へ 天皇の娘である穴穂部間人皇女の前に、突然、 金色に輝く僧侶が現れ、自分は西方さいほうの救世観音だと名乗った。
さらに、あなたのはらにしばらく宿る、とも告げた。
 そうして、皇女は身ごもったのだった。

 観音様というだけあって、その子はどう考えても、普通ではなかった。
まだ産まれる前、妊娠八ヶ月の時点で、胎児は、皇女はもちろん、周囲の者にも聞こえるほど、大きな声で喋ったという。

厩の戸で生まれ落ちた子

 観音のお告げからちょうど1年。
敏達びだつ天皇元年(572年)に、皇女は、厩の戸に来ていたところで、子を産み落とした。
兆しもなければ、痛みもまったく伴わない出産で、皇女は最初、自分が出産したことにすら気づかなかったという。
 赤子の片手には、仏舎利ぶっしゃり(ブッダの遺骨)が握られていたともされる。

 厩の戸にて産み落とされたから、赤子は、厩戸皇子と名付けられた。
また、父の宮の南の上宮に住まれる事になったから、上宮太子とも呼ばれるようになった。

南無仏。握りしめていた仏舎利

 さすが仏の化身、としか言いようがないが、太子は生後4ヶ月にして、すでに、自由に言葉を操ったとされる。

 2歳の時、誰に教わったわけでもないのに、彼は唐突に、東の空に向かって手を合わせ、南無仏なむぶつと唱えた。
そして、その手から、産まれた時からずっと握りしめていた仏舎利が、初めてこぼれたという。

生まれつきの神通力。予言者としての能力

 仏教の厳しい修行を乗りこえた者には、神通力が宿るともされるが、太子は生まれながらにして、この仏の神通力を有し、例えば未来を見通す事が出来た。

 576年。
太子が5歳の頃。
彼は乳母うばに抱かれて、皇后である豊御食炊屋姫とよみけやしきやひめの前にいた。

 太子は唐突に、乳母に耳打ちした。
蘇我大臣そがのおおがみが来たら、大臣が皇后に挨拶をする前に、私を下ろしてくれ」

 そして、大臣である蘇我馬子そがのうまこが来ると、乳母は、言われた通りに、太子を下ろした。
 すると太子は、大臣よりも先に、皇后に一礼し、また乳母のもとへと戻った。

 なぜそんな事をしたのか、訳を尋ねた乳母に、太子はこう答えた。
「お前にはわからないだろうが、彼女はやがて、我らの国の天皇となるお方なのだ」

 実際に、後に皇后は推古すいこ天皇となり、蘇我馬子と太子自身が、その政治を助ける事になるのである。

疫病が蔓延するのは、神も仏も関係なし

 太子の生まれた時代の日本は、仏教徒にとっては、肩身の狭い国であった。
それどころか、日本古来の古くからの神々こそを信仰し、 外国から来た異端宗教である仏教など、排除するべき、というように考える者も多かった。

 そして、太子が十代の頃、 疫病が流行り、それは仏教の神々のせいとされ、次々と仏の品の破壊や、仏教徒への暴力が起こった。
 一方で太子は、疫病が蔓延するのは、神も仏も関係なし。ただ因果応報な事である、と説いたという。

崇峻天皇と蘇我馬子大臣

 用明天皇の次には、豊御食炊屋姫の推薦もあり、泊瀬部皇子はつせべのみこが即位し、崇峻すしゅん天皇となった。
彼は即位後にすぐ、神通力を有する神童だと評判のおい、つまり太子を呼びよせ、自分の事を占わせた。
 太子は、新天皇の顔を見て、すぐに、「前世からの因縁でございましょう。悲命ひめいの相が出ております。これは私にもどうしようもありません。罪を遠ざけ、仏を敬うのが、ただひとつ救われる道でございましょう」

 しかし崇峻天皇が仏を心から拝む事はなく、結局、彼はわずか四年の治世の後に、暗殺されてしまう。
力をつけてきていた蘇我馬子大臣を殺そうと計画するも、先に殺されてしまったのである。

推古天皇の摂政となる

 崇峻天皇の次には、豊御食炊屋姫自らが、推古天皇となった。
しかし、崇峻天皇の最後から、推古天皇の心は穏やかとは言えなかった。
自分もいつ、強い権力を持つ蘇我馬子に殺されるか、わかったものではない。
だが、天皇としての実権すべてを彼に譲るのもまた気にくわない。

 そこで、 推古天皇は、馬子と同じ仏教の信者であるために、彼の抑えも可能であろう太子を摂政として立たせ、自分は影の天皇に徹する事に決めたのであった。

 太子は、最初は推古天皇の誘いを断った。
彼は、血生臭い政治戦争を毛嫌いし、むしろ出家し、仏の道を行く考えさえあった。
 だが、太子は、自分の事を決してあきらめない女帝を見て、決心する。

 仏の教えを世に広めることは、権力者の立場からもできる。
むしろ、日本を仏教国とするには、 そういう立場が必要でさえあるかもしれない。

 こうして聖徳太子は、正式に、推古天皇の隣に立つことになったのだった。

慈悲深さ。自らの終焉

 太子は40歳ぐらいの頃から、周囲の者に、よく別れの話をするようになった。
 その慈悲深さも一層増したとされる。
太子は、自身が病気にかかった時、薬を用意させ、そしてそれらの薬を、自分は一切服用しないで、自分と同じ病気にかかった人々に全てわけ与えた。

 そして50歳の頃。
一緒に床についた妃のひとりに、「一緒に行きましょう」と告げた。 
翌朝、ふたりが目覚める事はなかった。
文字通りふたり一緒に、永遠の眠りについたのである。

聖徳太子ゆかりの品々の謎

阿弥陀如来の手紙

 太子が39歳くらいの時、信濃しなの善光寺ぜんこうじの本尊、阿弥陀如来あみだにょらいに手紙を書き、3通の返書をもらった。
 太子は、それら3通の返事の手紙に目を通した後は、小箱に保管して、法隆寺に収めたという。

 しかし、門外不出ではなかったのか、ほぼ同じ内容だという3通の手紙の内容を知るという人も結構いたようである。
そして1872年、 明治政府が実施した社寺宝物しゃじほうもつ調査の際に、この小箱は開かれ、1通は写しまでとられた。
その内容は、それを知る者達が知っていた内容と、一致していたという。

仏舎利。地球儀

 聖徳太子が生まれた頃から、2歳になるまで、その手にずっと握りしめていたとされる仏舎利も、法隆寺に納められたという。
不思議なことにこの仏舎利は、その大きさや数を、突然に変えたりするのだとされる。

 また、江戸時代に、「聖徳太子の物」として発見された、地球儀がある。
地球儀と言うか、何らかの模様らしきものが刻まれている球体で、それらの模様を地球の各地の大陸に当てはめれば、確かに地球儀のようにも見えるのだという。
この地球儀には、聖徳太子の時代には未発見だった大陸も描かれているともされるが、そもそも、これが聖徳太子のものだという根拠が乏しいとする人も多い。

七星剣。丙子椒林剣

 大阪の四天王寺寺では、生前に太子が愛用していたとされる七星剣しちせいけん丙子椒林剣へいししょうりんけんが納められたという。
これらはどちらも反りのない直刀。

 七星剣には、その刀身に、北斗七星と、その他いくつか天体現象を表現しているとされる図が刻印されている。
 
 丙子椒林剣の、丙子椒林とは、やはり刀身に刻まれている文字。
これはおそらくめい、 つまり製作者の名前とされる。
その場合、丙子は「ひのえね年」と解釈し、その年生まれの椒林という人が、刀の製作者とされるのが一般的。
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推古天皇、蘇我馬子、聖徳太子の時代

 推古天皇、蘇我馬子、聖徳太子に関しては、様々な説がある。
 推古天皇は単なる傀儡に過ぎなかったという人もいる。
 少なくとも前代の天皇の推薦など、一定の政治的発言力はあったとする人もいる。
 そもそも推古天皇も、それどころか聖徳太子も存在しなかったという考えさえある。
実はこの時代は、蘇我馬子が天皇として立っていたという説である。

 しかしいずれの説を唱える人でも、推古天皇の治世は、実質的には蘇我馬子が政治的権力を握っていたとする点においては同意している。

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