ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス
ヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1855)は、 人類の歴史上、最も偉大な数学者の一人であると言われている。
ある時、自身も大数学者であるラプラスは、「ドイツで最も優れた数学者は誰か?」と聞かれ、ひどく悩んだ。
「ガウスでは?」とさらに聞いてきた質問者に、彼は即座に答えたという。
「世界で一番優れた数学者というのなら、彼で間違いない」
そのような数学の大家中の大家であるガウスだが、実は幼少時代はレンガ職人を目指していたという。
両親も最初はギムナジウム(中等教育機関。今で言うと中学校)に進学させる気すらなかった。
大学入学を勧められた時も、そのための金がなかった。
天才少年のガウス
レンガ職人の父
ガウスはドイツのブラウンシュヴァイク出身。
1777年4月30日の生まれ。
父はレンガ職人で、本人も幼い頃は、将来は父の職業を継ぐのだろうと考えていた。
後年にガウスは、「父とはいい思い出がない」というようなことを言っているらしいし、彼の父は、才能ある息子の人生を潰そうとした無能な人物というように評価されることも多い(注釈1)
(注釈1)レンガ職人の道は本当に愚かだったのか
確かにガウスという人が、歴史上でも希に見る数学の大天才だったことだけは間違いない。
ガウス自身が、自分が進むべき道を、父は閉ざそうとしてたと考えていた節もある。
そういう考え方が、彼自身の性格というか、認識に表れてるように思う。
例えばガウスは、誰かに数学を教えることをあまり好まなかったと言われている。
正確には、彼が無能の刻印を押した生徒に数学を教えることが時間の無駄以外の何物でもないと考えていたようだ。
そして彼が、優れた生徒と接する機会は稀だったという。
この人間社会では、学問に優れた者が偉いと思いがちだ。
現実にいた大数学者ガウスと、レンガ職人ガウスならば、単に環境の ifの違いであるのだとしても、我々は前者の方が偉い人物だと思うだろう。
人間社会においては、才能や努力と同じくらい、あるいはそれら以上に運が必要な要素だということか。
ここに道徳の問題を持ってきたらもっと難しくなる。
ガウス並の大数学者ではあるが性格が凶暴な人と、心やさしいレンガ職人ならば、どう評価されるであろうか。
優れた知性の前においては、悪も免除されるのだろうか。
二歳児の計算
歴史上の天才という人物は数いれど、彼ほど早熟な人物は珍しい。
ガウスの優れた記憶力と高い暗算能力は、 生まれつきのものだと言う人さえもいる(コラム1)。
これはさすがに、ありえないだろうと考えている人も多いが、ガウスがまだ三歳にもならない頃のこと。
土曜日のある日に、彼の父ゲアハルトは、自分が監督している労働者たちの、週の給料を計算した。
隣には幼いガウスがいて、父が計算を終えるや、その答えを見て言った。
「お父ちゃん、間違ってるよ。本当はこうだよ」
ゲアハルトは驚きつつも再計算してみたが、正しかったのは息子の方だった。
(コラム1)人間はコンピューターに勝てないか
複雑な計算もコンピューターに任せられる現代においては、暗算能力というのはあまり有用性の高い能力ではないと思われる。
ただし、その人の暗算能力がコンピューター以上の性能ならば、話は違ってくる。
普通そんな高い計算能力、人間にはありえないが、コンピューターにあって人間にないものがある以上、人間の方が優れた計算能力を有することができる可能性はなくはないはず。
「意識とは何か」科学と哲学、無意識と世界の狭間で
「人工知能の基礎知識」ロボットとの違い。基礎理論。思考プロセスの問題点まで
ビュットナーの意地悪問題
ガウスの通った小学校には、ビュットナーという教師がいて、わりとすぐに暴力に訴える、危ない人だったという話もある。
だが彼は、ガウスに対してはよき先生になったそうだ。
10歳になって、ガウスが算術のクラスに入って間もなく。
諸説あるが、ビュットナーは、 生徒たちに少々意地悪な長ったらしい計算問題を出した。
一般的には「1+2+3+4……+99+100」という問題だったとされているが、とりあえずガウスはその問題を数秒で解いてしまったらしい。
「数列の基礎」和の公式。極限と無限。単純な増加、減少
ビュットナーは、彼の才能に驚嘆し、自費で数学の本一冊買い与えたとも言われる。
しかしガウスはその本も、すぐさま読破してしまい、ビュットナーは呟いたという。
「俺なんかじゃ、こいつにはもう何も教えられない」
バルテルスとの勉強。厳密主義者を目指し始めた頃?
ビュットナーは、ガウスにだけは特別な授業も行ったとされる。
また、彼の助手のヨハン・マルティーン・バルテルス(1769~1836)は、趣味のレベルではあるが、数学に情熱を傾けていた人で、ガウスのよき友になってくれたようである。
ガウスとビュットナーは、代数や解析学の教科書を一緒に読んで、その中にある証明を次々とやった。
その中で彼は『二項定理(Binomial theorem)』に出会ったらしい。
「数字と数式の種類」数学の基礎の基礎。
彼は後々、最初の厳密主義者と呼ばれるほどに、曖昧さのない明確な証明を重視したが、その精神が育まれたのはこの時期であり、特に二項定理についての考察が始まりだったのではないか、とも言われている。
どうも彼は、本の中に書かれてあったそれに関する証明に不満を持って、自分で新しい証明を書いたのだそうだ。
曖昧さのない明確な証明を重視するのは、少なくとも重視しようと努力するのは、20世紀以降の数学では当たり前のことである。
未来の偉大な数学者
バルテルスは(あるいはビュットナーも)、ガウスの父に、 彼をギムナジウムへと進ませるように説得した。
レンガ職人に学問などいらないからだ。
しかしバルテルスのあまりの熱意に、父はついに折れ、ガウスはギムナジウムに入学することになった。
そしてそこでもやはりガウスの才能は存分に発揮され、ツィンマーマンという先生が、やはり彼を大学へと進ませるようにと、父親へとお願いした。
だが今度ばかりは説得も無意味だった。
なにせ大学へ行かせようにも、そんな金がどこにもないのである。
ツィンマーマンは諦めなかった。
金などというくだらない問題で、未来の偉大な数学者を埋もれさせるわけにはいかなかった。
ツィンマーマンは領主のカール・ヴィルヘルム・フェルディナントにガウスを紹介した。
そして目論見通り、領主もガウスを気に入り、彼への経済的な援助を約束する。
また、ガウスが本の欄外などによく書いていた書き込みは、もう父には、デタラメに書いた数字や記号の羅列と区別がつかなかったかもしれないが、ここに至ってようやくその父も、息子の類まれな才能を認め、レンガ職人に育てることを諦めたとされている。
言語と数学の間で揺れた大学時代
ひたすらに興味を持ち、学んだ
ガウスは1795年10月に、ゲッチンゲン大学に入学した。
ブラウンシュヴァイクの我が家からは、100km以上の距離があったそうだが、彼は帰省時などには、その長い距離を歩くのを好んだようだ。
たぶん歩くのが好きだったというよりは、考え事をしながら歩くのがよかったのではないだろうか。
そういう人結構いるだろう
ガウスは数学以外に、言語にも強い興味を持ち、熱心に勉強した(注釈2)
授業時間以外でも図書館でひたすら読書にふけっていて、友人はそんなにいなかったとされる。
しかし彼は完全な孤独だったわけではない。
彼にはヴォルフガング・ボヤイという親友がいた。
(注釈2)趣味の大天才
大学入学時には数学者の道を進むか、言語学者への道へ進むか迷ったようだし、数学者になってからも毎日数時間ぐらいを外国語の勉強などに費やしていたという話もある。
この人、大天才と言われてるけど、同時に趣味の人だったらしいから、マジにレンガ職人になってたとしても、案外何かの大発見を成し遂げてたかもしれない。
親友の見たガウス
ボヤイ曰く。
ガウスは、何か考え始めると、もはや誰が何を尋ねても一切喋らなくなり、ひたすら集中した。
また、彼は自分の考えていることに関して、あまり人に喋ろうとしなかった。
ただし彼にも機嫌がいい時、悪い時があるようだった。
ある時のこと。
ボヤイが彼の部屋に入ると、いきなり楽しそうに正十七角形に関して計算したノートを見せてきたのだという。
それほどにご機嫌だったのは、多分それ一回だけだったと思うとも、ボヤイは述べている。
またある時、ガウスは自宅にボヤイを招いてくれた。
その時にガウスの母が、息子のいない時を見計らって聞いてきたそうだ。
「あの子は見込みがあるでしょうか?」
もちろんボヤイは即座に答えた。
「あいつは間違いなく、ヨーロッパで一番の大学者になりますよ」
彼女はそれを聞いて涙を見せたという。
「代数方程式は必ず解ける」という証明
1799年。
領主フェルディナントを通し、ヘルムシュテット大学に、ガウスは「一変数の有理整関数はすべて、一次と二次の実因数に分解することができるという、新しい定理の証明」という論文を提出した。
これは、後には『代数学の基本定理(Basic theorems of algebra)』と呼ばれるようになった「代数方程式は必ず解ける」ということを証明した論文である。
ガウス以前は、ある方程式の問題が与えられたとき、それが解けるかどうかというものを考える人はほとんどいなかった。
解けるかどうかわからないけど、とにかくいろいろやってみて、なんとか解くというふうな方法が当たり前のようにとられていた。
方程式に答えがあるということは、例えば「物には全て色がある」というようなことと同じくらいに、当たり前のことであった。
ガウスは、そうではなくて、数学という学問を厳密たらしめるためには、それを証明しなければならないと考えたわけだ。
「複素数とは何か」虚数はどれほど実在してないか。実数は本当にリアルか
大数学者となってから
数論の研究
数学史上の偉大な名著とされ、ガウスの最高傑作ともされる「数論の研究」は、ガウスの最初の本でもある。
冒頭には、この本の目的について、「数学のうちの整数と分数に関するもの」と書いている。
全部で七節に分かれている本だが、実は第八節があったようである。
残念ながら印刷費節約のために省かれてしまったそうだ。
主に『合同式(congruence)』、『平方剰余(quadratic residue)』、「作図可能な正多角形」についてなどを論じているという。
二度の結婚と子供たち
ガウスは1805年に結婚、その結婚生活は非常に幸せなものだったようだが、三人目の子供を産んだ時に妻ヨハンナは亡くなってしまう。
子供たちへの愛情と研究への情熱を秤にかけてしまった彼は、妻が死んでからわずか半年ほどで、再婚という妥協をすることになった。
この第二の結婚はあまり幸せではなかったともされているが、一応この後妻との間にも、何人か子供が生まれている。
あらゆる科学への貢献
ガウスの興味は数学以外にも、天文学や物理学など多岐に及んだそうだが、そのいずれの分野においても、彼は大きな貢献をしているという。
その功績はあまりに多いが、彼の生前には発表されていなかったものも多い。
しかし彼は、日記などに自分の発見を書き残してくれてはいたから、後からいろいろと判明してきたわけである。
ただし、発見に至る過程はあまり記録されていないために、いろいろ議論を呼んでいる。
晩年のガウスは、天文台で泊まることが毎日のようだった。
彼はその最後の数年間、望遠鏡を覗いては、まだ発見されて間もなかった海王星を探したという。
「太陽と太陽系の惑星」特徴。現象。地球との関わり。生命体の可能性
ガウスはなぜ多くの発見を公表しなかったか
ガウスがあまり自分の発見を発表したがらなかった件に関しては、いろいろ言われている。
厳密性を重視するあまりに、完全に確信したこと以外は発表する気がなかったとか。
無名な頃に学会に提出した論文が鼻で笑われてしまったことにずっと怒っていたとか。
そもそもそんなことに疑問を持つのが、我々が名誉ばかりに興味を持つ卑しい人間だからなのだ、とか。
ガウスはかなり広範囲に興味を持ち、見込みのない学生への授業など時間の無駄と考えていた人である。
おそらく発表のための準備などに時間を使うよりは、新しい研究を、というふうに考えていたのでなかろうか。