「エヴァリスト・ガロア」悲劇の生涯。凡人社会と決闘に奪われた天才数学者

フランスの家

エヴァリスト・ガロアと数学者なら言う

 フランスはパリの『リセ・ルイ・ル・グラン学院』は、古くからの歴史ある学校である。

 文学好きは、この学校は、ヴィクトル・マリー・ユーゴー(1802~1885)やシャルル=ピエール・ボードレール(1821~1867)の出身校と言う。
演劇好きは、モリエールことジャン=バティスト・ポクラン(1622~1673年)の出身校と言う。
そして数学者なら、おそらくそこは、エヴァリスト・ガロア(1811~1832)の出身校と言うだろう。

 またこの学校は、ガロアが生まれるより、ほんの数十年くらい前の出来事であった、フランス革命の立役者の一人であるマクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(1758~1794)の出身校でもある。

ルイ・ル・グラン校のガロア、あるいはガロワ

聡明な父と母

 エヴァリスト・ガロア、あるいはエヴァリスト・ガロワは、 1811年10月25日、パリから8キロほど離れた、ブール・ラ・レーヌという小さな町で生まれた。

 エヴァリストの父ニコラ・ガブリエル・ガロアは、公立学校の校長で、詩と哲学を愛する人でもあった。
一方で、堅苦しいような人ではなく、お酒も飲むし、歌も歌うし、踊るのも好きな人気者で、周囲の期待を受けて町長にもなった。
 ニコラは偉そうなキリスト教の僧たちを嫌い、町長になってからは、僧を町の政治に参加させない制度を確立しようと尽力したほどだった。

 エヴァリストの母アデライド・マリ・ドマンドは、ガロワの家の近所だったパリ大学の、法学部教授の娘だった。
 アデライドは父からラテン語を学び、古代ローマの文学を好んだ。
情熱的な夫と比べて物静かな人だったようだが、キリスト教が嫌いなところは共通していて、彼女にとって、聖書は批判の対象であった。
十字架「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束

数学への狂気が彼を狂わせている

 聡明な父と母、それに仲のよい姉と弟と一緒に暮らしたガロアの幼年時代は、幸せだったとされている。
 子供たちは主に母親が教育した。
彼女の授業は、ギリシア語やラテン語の古典を使ったもので、とても楽しかったようだ。

 そして1823年。
ガロアは、 ルイ・ル・グラン校に入学した。
名門ではあったが、数学はあまり重視していなかった。
上級のクラスでは必須科目ですらなかったようだ。

 ガロアは母から教わっていた古典の授業でよい成績をおさめたが、校風が会わなかったのか、だんだんと勉学への興味を失いつつあった。
そんな時に彼は、アドリアン=マリ・ルジャンドル(1752~1833)の幾何学の教科書と出会ったとされる。
 真実かは怪しいともされるが、彼は本来、2年間の授業で学ぶはずのその教科書を、わずか2日で読破し、理解しきってしまったのだという。

 そしてそれから彼は、数学という学問の虜になった。
「数学への狂気が彼を狂わせている」とは、当時の教師の報告の一つである。

一般五次方程式への興味。理解されなかった天才

 ガロアはさらに、ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(1736~1813)の著作に熱中した。

 数学者たちから、人生一つをまるまる無駄にしてしまう悪魔の問題とされていた、『一般五次方程式(General fifth-order equation)』の問題に取り組み始めたのは、16歳くらいのことと考えられている。
代数式「代数式は何のためか」変数と関数。二次方程式の解の公式  彼は、その解法に関する最初の論文もこの頃に書いた。
普通それは正しいものではなかっただろうと考えられているが、しかし正しい答えにつながるものだった可能性は高い。
彼は最終的にその答えに行き着くから。

 だが教師たちは彼の天才を理解できなかった。
ありえない空想や愚かな夢ばかり見て、何の意味も必要もなく、つまらない質問しかしない狂人として見られていた。
 当初は論文の内容どころか、その独創性をすら少しでも理解できた教師もいなかったと言われる。

夢破れた悲劇の天才

エコール・ポリテクニクの無能な試験官

 ガロアが数学を必死になって勉強していたのは、単にそれが好きな科目だったからというだけではない。
彼は『エコール・ポリテクニク』へ入学したいと考えていた。
ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)が、 数学や物理学の重要性を考えて設立した学校で、ガロアはそこに入学した自分が、ひたすらに数学の問題に取り組む姿を夢想した。
彼はその学校が、自分のような者のために存在しているのだと考えていたほどだった。

 だが、ガロアは見事受験に落ちてしまった。
彼の天才を信じる友人たちも、彼自身も、試験に落ちたのは無能な試験官のせいだと考えた。

リシャール先生と、頭の硬い大数学者コーシー

 エコール・ポリテクニクは、二回の受験が許されてたから、もう一度だけチャンスがある。

 受験失敗で一時はかなり落ち込んだようだが、結局ガロアはすぐに思い直して、数学の高等クラスに入り、再び勉強し直すことにした。

 クラスの先生リシャールは、 教師となってからもパリ大学へと通う、知識に貪欲な人だった。
そして彼は、ガロアの天才を理解できた。

 それからリシャールの励ましを受けて、ガロアは「循環連分数に関する一定理の証明」を専門誌に発表。
その後は、素数次代数方程式に関する論文を書いた。

 リシャールは、ガロアの論文の重大さを見抜き、それを科学アカデミーへと提出するように勧めた。
ガロアは期待を抱いてその通りにした。

 ところがその論文は、フランスのガウスとも呼ばれていた、大数学者のオーギュスタン=ルイ・コーシー(1789~1857)が、 発表すると約束しながらも紛失してしまった。
ガウス「ガウス」数学の王の生涯と逸話。天才は天才であるべきなのか  コーシーという人はえらく保守的な人だったようで、数学者として偉大であることは間違いないのだが、才能ある若者を失意のどん底に落とすのも得意だった。
 ガロアはその犠牲者の中で、最も才ある一人であったことは間違いない。

二度目の試験の失敗

 論文紛失から間もなくのこと。
1829年7月2日に、ガロアの父は亡くなった。
その町長としての政策のせいで、教会との対立が激しくなり、殺し屋まで送られて脅迫された彼は、恐怖のあまりに自ら命を絶ってしまったのだ。

 悲しみのあまり精神を病んでるような状態となった彼は、そのまま二度目のエコール・ポリテクニクの試験に挑み、またしても失敗した。

 この二度目の試験に関してはいろいろな逸話が伝えられている。
試験官の質問の内容があまりにも幼稚だったために、からかわれてると思ったガロアが、黒板消しを投げつけた。
あるいは簡単な問題に笑うばかりで答えようとしなかったとか。

 しかし理由はどうあれ、彼は二度目の試験に落ちたために、彼のためにあるはずのその学校に入学することは、永久にできなくなってしまった。

 彼は結局、エコール・ノルマルという学校に入学したが、そこの授業は、彼には退屈でしかなかったという。

あと2年もすれば偉大な大学者になる

二度目の論文紛失。政治活動への参加

 リシャールはガロアをまた励まし、以前にコーシーに失くされた 論文を書きなおして、また科学アカデミーに送るようにと促した。

 ところが、その論文を受け取った、やはり大数学者のジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ(1768~1830)が、自宅に持ち帰った後に帰らぬ人となってしまう。
つまり二度目の論文も、見事に紛失してしまったわけである。

 そういう中で、1815年に復活したブルボン朝を再び市民が打倒した、七月革命が起きる。

 ガロアはいつからか、自分のような才能ある者がこのような不幸にばかり見舞われてしまうのは、世の中のせいだと考えるようになっていた。
彼は、急進的な政治団体「民衆の友の会」などに参加したりするようになった。

 「民衆が立ち上がるために遺体が必要ならば、僕がその遺体になってもいい」とまで、彼は言ったとされる。

数学への情熱だけは捨てなかった

 結果的に、政治活動への参加は彼にさらなる不幸をもたらしただけだった。
エコール・ノルマンも退学となり、 だんだんと過激派になっていた彼は、当局にも危険人物として認識されるようになってしまった。

 しかし彼は数学への情熱だけは捨てなかった。
彼が19歳の時、今度は科学アカデミーの方から、彼に論文をまた提出するよう求めたのである。
さすがにアカデミー側も、論文を二度も紛失したことに対する負い目があったのだろうとされている。

 しかし、何度も催促したにも関わらず、アカデミー側からの返事は一向になかった。

ラスパイユの見たガロア

 彼の精神はいよいよ壊れつつあったと考えられている。
軍人でもないのに軍服を着て、武装して、共和主義者たちの先頭に立ち、結果、9ヶ月の禁固刑になった。

 獄中の彼に、姉と弟は会いにきてくれたが、共和主義者になってから関係の悪化した母親は一度も会いに来なかった。

 そしてガロアはそこで、後に政治家にもなる植物学者フランソワ・ヴァンサン・ラスパイユ(1794~1878)と出会ったらしい。

 ラスパイユは、ガロアが専門誌に載せた論文を知っていて、その才能も見抜いていたようだった。
彼は後に手紙に書いたとされる。
「このやせ細った子は、たった3年しか科学の勉強をしていないにも関わらず、すでに60年学習したものと同じくらいに優れた知恵を有している。彼は生きるべきだ。あと2年もすれば偉大な大学者になるだろうから」

 だが、あと2年、なんとか生きたくらいで、彼はいなくなった。

却下された三度目の論文

 科学アカデミーの遅すぎる返信を、ガロアは獄中で受け取った。
エコール・ノルマルの先輩で、ガロアの親友であったオーギュスト・シュヴァリエ(1809~1868)が、 新聞に科学アカデミーが若き天才数学者をいかに無視してきたかを暴露する記事を載せたおかげだった。

「あなたの照明を理解しようと努力したが、その推論は不明瞭で、かつ、発展途上であると判断した。あなたは本論文が、豊かな応用を持つ一般理論の一部であると言われるが、あなたが完全な全貌を公表するまでは、こちらの意見は控える方がよいと判断した」

 つまり論文は却下されたのだった。
科学アカデミーにすら、時代の先を行き過ぎた彼の論文をすぐさま理解することはできなかったのである。

 ただ、実際にその論文は非常に難解である以上に、そもそも曖昧でわかりにくかったようで、このような返事になったのは妥当だったとする意見も多いようだ。

早すぎる結末

謎の女生との恋と、不可解な決闘による死

 彼は生涯の末期に、おそらくはただ一度だけの恋愛を経験した。
天使の恋愛人はなぜ恋をするのか?「恋愛の心理学」 医師の娘であったステファニー(あるいは謎の女性)に恋をしたのだ。

 彼はあっさりフラれたようだが、その後いったい何があったのか、彼は決闘することになった。
決闘前夜に彼が友人たち宛に書いた三通の手紙の内容から、おそらくはステファニーをめぐったものだったということが推測できる。

 そもそもステファニーは警察のスパイであり、ガロワを消すための陰謀だったという説もある。
民衆を扇動するための、ガロアの偽装決闘だったという説もある。

 ただ彼は、勝敗はわからないにもかかわらず、自分の死は確信していたようなので、決闘相手は知っていた人物か、あるいはやはり、初めから死ぬ為の演出だったという可能性は高い。

 確かのことは、彼はこの決闘で、見事に銃をくらって亡くなった。

親友への最後の手紙

 三通の手紙の内の一通は、オーギュスト・シュヴァリエに宛てたものだった。
 
 その手紙は「私は解析でいくつか新しい成果を上げました。いくつかは方程式、他は積分関数に関するものです」という言葉で始まる。
それは後に、ガロア理論と呼ばれることになる、確かに新しい成果だった。

 彼は書いた。
「これらの定理が間違っているかどうかより、重要かどうかを、ヤコービかガウスに聞いてみてほしい。そうすればいつか、このわかりにくい文章を読み解き、素晴らしい発見として公表する人が出てくると思います」

 シュヴァリエが公表したその定理は、ガロアの死後十数年してから、ジョゼフ・リウヴィル(1809~1882)により解読され、再度発表された。

「五次以上の一般的な代数方程式は代数的に解くことができない」という証明

 一般五次方程式の解法という問題に取り組む上で、ガロアは新たに、『群(groupe)』という概念を導入した。
どの代数方程式も、一つの群に置き換えることができ、置換群には、方程式の特性も再現されることを彼は示す。

 方程式を群に置き換えた時に、置換群が「可解」という状態であるなら、その方程式は代数的に解けるということに注目。
 そこから理論を発展させ、「五次以上の一般的な代数方程式は代数的に解くことができない」ということを証明したのだった。

 驚くべきは彼が導入したガロア群の応用性である。
ほぼ確実に、後にそれがどれほどに活用されてるかに関して、彼の妄想も追いついていなかった。

 例えば、後に量子力学に大いに利用されたマリウス・ソフス・リー(1842~1899)のリー群は、ガロア理論(ガロア群を利用した方法)の研究から発展し生み出されたとされているのだ。
量子「量子論」波動で揺らぐ現実

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