「オイラーの生涯」研究と計算ばかりの伝記。家庭的で、ユーモアがあって

数学史上、最も有名な方程式

 円周率πパイ
自然対数のていe
微積分とe 「微分積分の関係」なぜ逆か。基本公式いくつか。指数対数関数とネイピア数
虚数記号i。
虚数 「複素数とは何か」虚数はどれほど実在してないか。実数は本当にリアルか
 レオンハルド・オイラー(1707~1783)はある時、様々な計算によく使われる、上記3つの記号全てを含むシンプルな「方程式(equation)」を発見した。

ⅇⅈπ = 1

 これは数学史上最も有名な方程式とされていて、この短い式を「人類の至宝」と呼ぶ者もある。
数学者にも科学者にも哲学者にも、神秘家にすら強い印象を与え、なんらかの深い意図を感じさせるとも言われる。

確かに本当のこと

 ハーバード大学に長く勤めた数学者であるベンジャミン・パース(1809~1880)は、天体力学の分野においても名が知れている。

 彼は、まだ発見されてなかった謎の天体(冥王星)が及ぼす、海王星の摂動せつどう、つまり別天体の重力の影響による軌道の乱れに関して、初期に計算した一人ともされている。
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 そのベンジャミンは、よく学生たちにオイラーの方程式について、以下のように語っていたという。
「これは確かに本当のことです、かんっぜんに逆説的です。しかし私たちにはこれを理解することはできません、どういう意味かさえもわかりません。だけど私たちはこれを証明することができます、それが正しいに違いないということを確信しています」

数学の王か、神か

 ルネ・デカルト(1596~1650)、アイザック・ニュートン(1642~1727)、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646~1716)らが研ぎ澄ました「解析学(Analytics)」という剣を、もっともうまく使いこなし、その入念な使用マニュアルを残した人がオイラーという人であった。
「ニュートン」世界システム、物理法則の数学的分析。神の秘密を知るための錬金術
 彼は1735年に右目の視力を失い、1771年にはもう片方の目も見えなくなってしまったのだが、精神力はむしろ研ぎ澄まされたのかもしれない。
オイラーは900冊ほどもの本や論文を残したとされているが、その熱心な仕事ぶりは、光を完全に失ってしまった最後の12年まで、いっさい衰えなかった。
彼の熱意を奪えたのは死神だけだったわけである。

 実際にオイラーは右目が見えなくなった時に「これで気が散らなくなる」などと言ったらしいが、ただの強がりでなかろうか。

 何はともあれ、今は数学のどの分野にも「オイラーの~」という形で、その足跡が残されている。

 オイラーはよく、ほぼ同時代のヨハン・カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1855)と比べられたり、並べられたりしている。
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一般的に数学の王がガウスで、神がオイラーというように、オイラーの方が上に見られがちだが、数学者には「ガウスの方が凄い」としている人も多いようである。
この辺りの評価は関心のある分野などによっても変わるのかもしれないが、数学以外の領域での名声は、やはり例の方程式が大きく影響しているのでないだろうか。

光を完全に失うまでの日々

レオンハルト・オイラーは巨人であったのか

 その足跡だけを見た時、多くの人はこの人物について、文字通り精神的巨人のような超人を想像するかもしれない。
しかし同時代の人々が残している彼の印象は「陽気なユーモアを持ち、何気ない日々を楽しく過ごす普通の人」というような、わりとどこにでもいそうな感じだったらしい。
ただ彼は、子供たちと遊んだり、猫の世話をしたりと、いたって普通の日常を送りながら、一方でその頭の中で様々な計算をやっていたというわけだ。

ベルヌーイ一族との繋がり

 オイラーは1707年。
スイスのバーゼルで生まれた。
ガウスに比べると、幼少の頃から数学に優れていたというエピソードはあまりないという。

 ただ彼の父パウル・オイラーは、本業牧師のアマチュア数学者であり、 普通の家庭に比べたら数学という分野が身近であった。

 1720年頃。
バーゼル大学に入学した彼は、父のように牧師となるため、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語などの外国語をよく学んだ。

 彼は優秀な学生で、かつ勉強熱心だったため、本来の授業以外にも、余った時間を使って、物理学、天文学、医学、数学などを幅広く勉強した。

 オイラーは数学に関して特に、優れた数学者であるヨハン・ベルヌーイ(1667~1748)に師事したとされている。
ベルヌーイの方も、数学に関する彼のたぐいまれな才能を見抜き、ずいぶんと気にかけていたようである。

 ベルヌーイは、数学に関する名門一族で、オイラーの父も、ヨハンの兄ヤコブ・ベルヌーイ(1654~1705)のもとで一時期学んでいたという話もある。

 これはやや奇妙かもしれない。
オイラーの父は、息子が数学者より牧師になることを望んでいたとする伝記がある。
一方で、最も早く彼の数学の才能を見抜いたのはアマチュアではあったが数学者であった父であり、だからこそ父は息子を数学の先生であったベルヌーイに紹介したという説もある。
いずれにしろ、父にはある程度の心の葛藤かっとうがあったのかもしれない。

鉛筆が勝手に

 オイラーは、ヨハンの三人の息子。
ニコラス2世(1695~1726)、ダニエル(1700~1782)、ヨハン2世(1710~1790)と一生涯の友人となった。

 そして1727年。
ベルヌーイの者たち、特に先にそこで働いていたダニエルのコネもあり、オイラーはロシアのサンクトペテルブルクの科学アカデミーに就職した。

 ニコラスも同じアカデミーで働いていたのだが、オイラーがやってくる一年前に事故で亡くなった。

 また、サンクトペテルブルクのアカデミーは「帝都科学アカデミー評論(commentarii academiae scientiarum imperialis petropolitanae)」という科学雑誌をだしていたが、オイラーの生前は、載せる論文に困ったことはなかったそうである。

 オイラーが論文を書くペースはあまりにも早かった。
ある時など、雑誌の編集者が「なぜそんなにひっきりなしに論文が書けるのか? 研究のアイデアが発想できるのか?」と聞いてみたらしい。
オイラーはこう答えたとされる。
「どうも私より、私が持っているこの鉛筆の方が利口なようなんだ」

談笑すると処刑される国から

 1730年代くらいからロシアの政治情勢は不安定になってきたらしい。
オイラーが1741年に、プロイセンのフリードリヒ2世(1712~1786)の招きに応じる形でドイツに移住し、ベルリン・アカデミーに入ったのは、そのような社会的な問題が関係していたと、よく推測されている。

 ドイツに移ってきた時のオイラーは、すでにヨーロッパ中の数学者に尊敬される指導者となっていた。
宮廷でもかなり崇拝されていたようで、王族と食事の席を共にすることもあった。

 ある時の宴会の席での、彼と王の母とのやりとりは、オイラーが逃げざるをえなかった当時のロシアという国の社会の状況をよく表しているとも言われる。
なぜか積極的に話に参加しようとせず、「はい」とか「いいえ」とか最低限の返事だけをボソボソと述べる彼に、王の母は「何かあったのですか?」と聞いてみた。
するとオイラーは「すみません。ですが私は、談笑すると処刑されてしまうような国からやってきたのです」と答えたという。

数学者で普通な人

 25年ほど続いたドイツのアカデミーでの日々は、オイラーにとってあまり幸福なものではなかったとされる。
そこで求められたのは、実用的なことばかり。
オイラーは生活インフラや、軍事目的の研究ばかりやらされ、 彼自身が興味を抱く研究テーマに時間をかけることは難しかった。

 オイラーは生粋の数学者であり、純粋数学という分野は、実用性など全く気にされない領域。
ただ興味だけが研究の動機であり、証明だけがその目標なのだ。
「私たちにはこれを理解することはできません。だけど私たちはこれを証明することができます」などと言ったベンジャミン・パースも、そういうことを伝えたかったのでないだろうか。
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 ところで25年経ったロシアで、新たに権力を握ったエカチェリーナ2世(1729~1796)は、以前に自分の国のアカデミーで活躍していた大数学者を、なんとしてでも呼び戻すように大使に命令した。

 いつも計算ばかりしている以外は比較的普通の人であるオイラーは、どんな条件でも呑むつもりであったエカチェリーナ2世に、まったく遠慮しなかったという。
彼はアカデミーの会長の座をもらうのはもちろんとして、死ぬまでの高額の年金に、自分が死んだ場合の妻の年金、さらに息子たちの高い地位まで要求して、大使の笑顔をひきつらせたとされる。

 こうして彼は1766年にロシアに戻ってきたのだった。
まだ見えていた左目も見えなくなったのは、それから5年後のことだった。

呼吸をするように計算をした

 1771年に両目の視力を完全に失ったオイラーは、しかし子供たちや秘書に口述筆記こうじゅつひっきしてもらい、相変わらず、ひたすらに研究論文を書き続ける日々を送った。

 オイラーは盲目になってからでさえ、惑星の運動のような、現実に我々が視覚で知覚する世界の物理法則に関する論文なども書いている。
彼は異常と言えるほどの高い記憶力を持っていたという。
まるで彼の頭の中には、彼が知った現実の世界がまるまる再現されてるかのようであったとされる。
そして彼は、その世界に刻まれたあらゆる計算の法則を、いつでも即座に利用することができたのである。

 物理学にも通じた数学者であったフランソワ・ジャン・ドミニク・アラゴ(1786~1853)は、オイラーについて「彼は人が呼吸をするように、ワシが空を飛ぶように計算を行った」
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アラゴの言うように、オイラーにとって計算するということは、まさに当たり前のことであり、日常であったろうとされている。
だから目が見えなくなってからも、息をするのと同じくらい当たり前に、彼は計算していたのだろう。

 彼は家庭的な人でもあった。
半分くらいは彼より早く亡くなってしまったが、13人も子供がいて、彼らの相手をしながら、やはりずっと計算していたとされる。

 また、SF作家で数学史家のエリック・テンプル・ベル(1883~1960)は彼を並ぶ者すらいない最強のアルゴリスト( 特異な問題を解くための一般的なやり方を提案する人)と評価している。
ベルは、歴史家としては大げさな記述などがよく批判されている人であるが、上記の評価については大げさでもないと思われる。

ようやく彼は計算することをやめた

 1783年9月18日。
オイラーは夕方まで普段と変わらない様子で過ごしていたという。

 いつものように、学者仲間のアンダース・ヨハン・レクセル(1740~1784)と、新発見されたばかりの惑星であった天王星について議論していた。
そして突然に倒れ、数時間後に帰らぬ人となった。

 パリ科学アカデミーの書記であり哲学者だったニコラス・デ・コンドルセ(1743~1794)は、以下のような弔辞ちょうじ(弔いの言葉)を書いたという。
「そうして、ようやく彼は計算することをやめた」

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