算聖、関孝和
日本が生んだ最も偉大な数学者の一人とされる関孝和は、 江戸時代の数学者である。
後に『算聖』とまで呼ばれた彼は、関家の生まれではなく、養子として入ったので、生まれたときの姓は違う。
生まれた時は内山という姓で、生年月日に関する記録はほとんど残っていないようだが、明治以降、1635年から1643年の間のどこかというのが通説。
特に明治時代は1637年説と1642年説でよく議論されたらしいが、大した根拠もなかったとされている。
1642年の方など、偉大なニュートンに合わせただけ、という話もある。
「ニュートン」世界システム、物理法則の数学的分析。神の秘密を知るための錬金術
和算研究家の平山諦(1904~1998)は、1638、1639、1640年のいずれかでないかとしている。
上毛かるたの、和算の大家
彼は日本の誇りであり、そしてまた、群馬県の誇りであるようだ。
彼の父は、上野国藤岡(現在の群馬県藤岡市)から、1639年に江戸に移り住んだようだから、その年の以前の生まれでなければ、群馬県出身というわけではない。
それでも彼は、群馬県の郷土かるたであり、群馬の歴史を唄う「上毛かるた」の、「わ」の人なのである。
「和算の大家、関考和」だ。
日本の数学小史
日本において、奈良時代(8世紀くらい)には、租税や歴などのための数学が官吏の養成学校で教えられていたそうである。
基本的な四則演算が中心で、複雑な問題とかは、『算木』と呼ばれる細長い木片を組み合わせて、表したりしたそうだ。
「数字と数式の種類」数学の基礎の基礎。
算学啓蒙。算法統宗
16世紀末。
豊臣秀吉の朝鮮出兵で、中国から『算学啓蒙』などの書がもたらされる。
これはアラビアやインドの数学の影響下で書かれた代数学の本であり、当時の日本では非常にレベルが高いものだった。
「代数式は何のためか」変数と関数。二次方程式の解の公式
もう一冊、この時期に伝わっている『算法統宗』という書も有名であるが、こちらは、数世紀ほど後に書かれたはずの算学啓蒙よりも劣っているとされている。
こちらは主に、「珠算(算盤)を用いた計算」の本らしい。
とにもかくにも上記のニ冊は、軍事や築城術、商業などの発達があった当時の日本において、素晴らしく必要な知識として歓迎されたとされている。
宣教師スピノラが伝えた西洋数学基礎。塵劫記の成立
日本の数学の発展の歴史においては、イエズス会の宣教師たちの存在もなかなか大きいとされている。
有名なフランシスコ・ザビエルはじめ、日本人が知識に貪欲だと記録している宣教師はけっこういたようである。
また、スピノラという人は、1604年から7年間、 京都で天文学や数学を教えていたそうだ。
その内容には、比例や開平、開立(平方根や立方根の求め方)、ユークリッド幾何などが含まれていたとされる。
なぜ数学を学ぶのか?「エウクレイデスと原論の謎」
現存する最古の和算の書とも言われる『割算書』は、スピノラの教え子の一人であった毛利重能が書いたもののようである。
また、おそらくは最も有名な和算の書である『塵劫記』も、スピノラの教え子、吉田光吉の作である。
塵劫記は、それまでは「一、十、百、千、万、億……」が普通だった『命数法(numeral)』を「一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億、十億……」 という現在の形に再定義するなど、「和算の始まりの書」とも呼ばれている。
独学の神童。代数式の解法の会得
少年期の関孝和に、数学を伝授した師がいたのかどうかはわからない。
ただ彼の死後に書かれた『武林隠見録』のような伝記などではよく、彼は独学で学んだ神童だったと書いているという。
基礎は塵劫記で学び、算学啓蒙から『天元術』を会得したと伝えられている。
天元術とは算木を用いた中国式の代数問題の解法である。
驚くべきは、孝和の時代、代数式は日本ではほとんど、あるいはまったく知られていなかったことであろう。
彼は本当の意味で、一からそれを学び、理解したのである。
そして、彼が二十代前後くらいの頃に、その天才が、生類憐みの令で有名な五代将軍徳川綱吉の耳にも伝わり、彼は勘定奉行として、幕府に仕えることになった。
その業績。点鼠術。筆算。未知数の記号表記。円周率11桁。微積分すら?
おそらくは漢字に関する知識も深かった孝和は、 漢文で書かれた、さらに高度な中国の数学書を次々と読み、『点鼠術』というのを開発。
これは天元術を改善したものとされる、方程式の解法である。
そして、後にヨーロッパでウィリアム・ジョージ・ホーナー(1786~1837)という人が発表した、ホーナー法と同じ類のものとされる。
天元術は、未知数が複数ある場合には、あまり効果を発揮しない。
そこで孝和は、連立方程式を立てて、未知数を一つまで消去し、天元術で扱いやすい未知数一つの方程式にするという方法をとった。
最も重要なことは、彼がこれらのことを全て、道具を使わずに行うようにしたことがある
彼は、実在する道具を使って行うのが主流だった中国式(というかほぼ全世界式)の代数計算を、未知数を記号で表すという、『筆算』と呼ばれた発想で、わかりやすく、計算しやすくした。
ほんの数十年前に、フランソワ・ビエト(1540~1603)より始まったヨーロッパにおける代数学の革命を、たった一人、日本で起こしたわけである。
他にも、彼の業績は数え切れないほどあるとされる。
円に内接する131072角形を活用し、円周率を11桁まで求めたり、ベルヌーイ数をヤコブ・ベルヌーイ(1654~1705)よりも先に発見したりしているという。
さすがに疑わしいとされているが、孝和はすでに、微積分を開発するレベルに到達していたかもしれないと言う人すらいる。
「微積分とはどのような方法か?」瞬間を切り取る 「微分積分の関係」なぜ逆か。基本公式いくつか。指数対数関数とネイピア数
偉大なる弟子、建部賢弘。和算という奇跡
関孝和本人だけでなく、彼の弟子たちも、非常に優秀な人物が多かったことで有名である(もしかしたら有象無象いた中で、優秀な人物ばかり語り継がれているということかもしれないが)。
一番弟子であったともされる建部賢弘(1664~1739)は、自身の著作で師の業績を世に広めた人としても有名であるが、彼自身も紛れもなく、すばらしい数学者であった。
賢弘は、師の代数的な方法を、解析学的な方法へと進め、「円弧の長さを無限階数で表す」ということをしたが、ようするに「円の弧に関する関数を、無限の計算式の形に変換」というようなことをやってのけたのだった。
1900年に、東大教授が、賢弘の成果を 英語圏に紹介したが、最初まったく信用されなかったほどだったようだ。
数学はギリシア数学が世界に広まり、各地で発展していったものという説を提唱するファン・デル・ヴェルデン教授という人は、西洋数学をほとんど知らないままに、和算が賢弘のレベルに達したということを知った時、絶句したという。