「ナイチンゲール」人生と功績。数えきれない世界を救った偉大な看護師

ナイチンゲール

お嬢様のフローレンス・ナイチンゲール

 イタリア生まれ、イギリス育ちのフローレンス・ナイチンゲール(1820〜1910)は、裕福な家に生まれたお嬢様だった。
イングランド「イギリス」グレートブリテン及び北アイルランド連合王国について  一つ年上だった、姉のパルセノペは、フローレンスに劣等感を抱いていたとも言われる。
フローレンスは勉強家で、姉妹で習っていた、ギリシア語、ラテン語、ドイツ語、フランス語、歴史、哲学のどの科目においても、姉より優秀だったという。

 そんなフローレンスは、両親が望んでいるような淑女でいることが、退屈で仕方がなかった。
貴族の娘は、慎み深く、結婚する相手のためにひたすら尽くすというのが、当時の常識だったが、フローレンスはそんなのではなく、自分の力で人々のために働きたい、という野心を抱いていた。

 10代の頃。
フローレンスは、家族と一緒にヨーロッパを旅行した際に、いろいろなパーティーや芸術を楽しみ、しかし貧しい地域の人達の苦しむ姿も目に焼き付けていた。

 自分は、きれいな服を着て、美味しいものを食べて、楽しいダンスパーティーに参加する。
一方で、破れた服を着て、泥みたいな水をすすって、楽しいなんてどうでもよくて、まず生きなければならないような人達がいる。
自分がどれほど恵まれた世界にいるのかを、実感せずにはいられなかった

労働者女と学問

 退屈な日々が過ぎていった。
フローレンスは、神様に仕えて、苦しむ人を少しでも助けたいと願っていた。

 労働者階級の女性は安い給料で働いているのに、貴族の女であるフローレンスに求められていたのは、家柄の良いおぼっちゃまに尽くす事だけ。

 フローレンスは結婚をしようとしなかった。
数学のような、両親からは必要ないと判断されていた学問も、自分なりに学び続けた。

 そして1844年。
フローレンスは24歳の時に、病院で病人の世話をしようと決心した。

看護の仕事につきたくて

病院は恐ろしいところ。最底辺の仕事だった看護婦

 当時の病院は恐ろしいところだった。
病人が安静にする場所というよりも、むしろ、死人候補が管理される場所というような感じ。
衛生という概念が全然なかったのか、感染病の患者の隣に、単に怪我の患者が寝かされてたりする光景が普通だった。

 医者は手術の際、汚れてもいいようなどうでもいい上着を身につけた。
看護婦(看護師)というのは、女性のつく仕事の中でも最底辺のもので、ひたすら不潔で、まともな神経で出来るような仕事と考えられていなかった。
当時の看護婦は、基本的に一つの病棟に一人いて、適当に掃除したりするだけで、あまり病人の世話をせず、(包帯を変えたりとか)世話する患者の最優先はチップ(金)をくれる患者だった。

家族の反対。密かな決意

 1845年。
フローレンスは勇気を出して母に、診療所で働いて、看護について習いたいと告げた。
母は嘆き悲しみ、姉はヒステリーを起こしたという。

 だけどフローレンスの決意は固かった。
彼女は、友人や家族の反対を押し切って、前々から求婚されていたヘンリー・ニコルソンとの結婚を正式に断り、それから病院の事についてひたすらに調べ始める。

 とにかく手に取ることができた書類は全て読んだ。
病院の仕組みや、どのような問題があるかを調べた。
友人達にもとにかく病院については何でもいいから情報を教えてくれと頼んでまわった。

 フローレンスは知った。
看護婦というのは、自分では動けない患者を洗ってあげない。
患者の汚れたシーツやベッドを変えてあげない。
世の中のほとんどの人々から、最底辺の仕事だと見られている。

シドニー・ハーバートとの出会い

 1846年10月。
家族には内緒でひたすらに勉強を続けていたフローレンスは、友人から、ドイツのカイゼルスペルスの婦人奉仕団ふじんほうしだんの事を教えてもらう。
ドイツ「ドイツ」グリム童話と魔女、ゲーテとベートーベンの国 信仰心厚い女性達が、病人の看護に当たっているのだという。

 フローレンスは、是非その婦人奉仕団の施設に行きたかったが、また、そういう話を母にする勇気を持てなかった。

 1847年。
かなり神経が参っていて、鬱のようになっていたフローレンスを、気分転換にと、友人達はローマへと連れ出したという。

 フローレンスは、ローマで健康を取り戻しただけでなく、重要な出会いをはたした。
その出会った相手は、シドニー・ハーバートという男性である。
彼は後に、フローレンスの夢を叶えるのに大きく貢献する事になる。

カイゼルスペルスのクリスチャン女性達

 1850年7月頃。
カイゼルスペルスにやってきたフローレンスは、その村で、クリスチャンの女性達が、キリスト教精神に基づき、看護にあたっているのを見学する。
十字架「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束  フローレンスはとても勇気づけられた。
彼女がそれまでの人生で精神を病んだのは、一度や二度ではない。
たけど、自分はもう二度と落ち込んだりしないと、彼女はその時、決心した。

 それから彼女はパンフレットを作った。
それは、自分と同じような貴族の女性に、看護で、人々に奉仕する事をすすめるものだった。

 母からも姉からも、凄まじい怒りを向けられたという。

 フローレンスはカイゼルスペルスに戻りたいと願ったが、母は許してくれなかった。

 シドニー・ハーバートと、彼の奥さんは、看護婦になりたいというフローレンスを立派に思い、よく励ましてくれた。
また、フローレンスは、エリザベス・ブラックウェルという医師とも知り合う。
女性の医師なんて、本当に凄い。
エリザベスは、男の人がどんなに望んでも、時代がどんなに望んでも、逆らえる事を教えてくれた。

 彼女は、両親の反対を強く押しきって、またカイゼルスペルスに戻った。
それは31歳の時のこと。

 フローレンスは手紙を書いた。
「私を信じてください。信じて助けてください。私のしようとしていることを認めてください」
両親から返事はなかった。

 しかしこの頃、目の病気で苦しんでいたお父さんの看病をしたのがきっかけとなり、父はある程度の理解を示してくれるようになったという。

努力が実を結んだ時

 やがてフローレンスは、プロテスタントでありながら、カトリックのマニング枢機卿すうききょうに助言を求め、パリの愛徳会あいとくかい修道女がやっている病院で、看護婦の訓練を受けるのがよいだろう、と教えられる。

 フローレンスはパリで、愛徳会修道女の病院で滞在し、さらに多くを学んだ。

 それからフローレンスは、フランス、ドイツ、イギリスの様々な病院にアンケートを送って、その回答から、改善点をわかりやすく示すグラフを作った。
ずっと一人で続けていた勉強が、ここにきて実を結んだわけである。

病気の貧しい女性を世話する協会

 1853年。
フローレンスはロンドンの「病気の貧しい女性を世話する協会」という施設の指導監督者となる。
それは彼女が望んでいた、苦しむ人達を助けられる、それも自分の力を活かせる仕事だった。

 母と姉はまたヒステリーを起こして、フローレンスを攻めた。
しかし父だけは味方となってくれて、フローレンスが独立するために必要な生活費を与えてくれたという。

 フローレンスは、ロンドンに部屋を借り、完全にひとり立ちする事になった。

ミス・ナイチンゲールの実力

 フローレンスは、病気の貧しい女性お世話する教会、の病院を始めるにあたり、準備を始めたのだが、長い年月で蓄積された彼女の知識は、驚くべきほどの未来を与えてくれていた。

 どの階であろうと、お湯が出るように配管し、患者が看護婦をいつでも呼べるようにベルを設置した。
腐ったものは迷わずすべて処分した。
食料貯蔵室を調べ、そのひどい状態も変えた。

 フローレンスの要求は常識外れな事も多かった。
しかし彼女は、どのような質問にも答える深い知識を持っていたので、みんなを納得させる事も簡単だった。
そして、彼女が改善した管理方法は、ひとつ残らず上手くいった。

 誰もが、ミス・ナイチンゲールの聡明さに驚かされた。
そして彼女は、あっという間に、病院づくりの専門家として、広く認められるようになる。

クリミア戦争での戦い

 主にクリミア半島を舞台として、ヨーロッパの複数の国が争った、クリミア戦争の勃発は、1853年とされている。

 その島で軍人達は、敵よりも病気に苦しんだとされる。

 フローレンスの友人であり、陸軍大臣になっていたシドニー・ハーバートは、看護団を組織し、傷ついた兵士が次々と運ばれてきているという、スクタリの病院に送り込む事にする。
彼らの頭に、看護団を率いる人物として、真っ先に浮かんだ人物が、フローレンスだった。

 ハーバートから話を聞いて、フローレンスはすぐに決心した。
そして、これは偉大な仕事だとして、母と姉も初めて認めてくれた。

ランプを持った淑女の誕生

 フローレンス率いる看護団が、スクタリの兵舎病院に到着したのは、1854年11月5日。
あまりにひどい状態。
ゴミと泥ばかりの病棟の汚れたベッドで、兵士達は適当に寝かされていた。

 フローレンスは軍に雇われてる身なので規律を破ることは難しかったという。
だから酷い状況をすぐに改善することはできなかったが、慎重に徐々に状況を変えていった。
そして患者の数が増えてきて、とうとう軍の上層部も、フローレンスに助けを求めるしかなくなるが、彼女はまさにその時を待っていたのだった。

 フローレンスはだんだんと、「ランプを持った淑女」として、傷ついた兵士達に崇拝されるようになり、 医師たちから頼られるようになっていく。

 そしてイギリス本国でも、フローレンス・ナイチンゲールは、クリミアの光として、尊敬を集めるようになっていた。
あの母までもがどんなにフローレンスを誇らしく思っているか手紙に書いた。

その後。陸軍制度改革、看護学校設立、病院設計

 クリミア戦争で、ほとんど英雄になったフローレンス・ナイチンゲールだが、彼女自身は、有名になることを嫌っていた。
 それよりも、自分が目の当たりにした、戦場での病院のひどい有様が頭から離れなかった。

 彼女はそれから陸軍の制度の改革、看護学校の設立、病院の設計など、世界を変え続ける。
ナイチンゲール式の患者にとって快適な、花のある病院は世界中で作られるようになった(ただし現在は感染症などの問題で、花は禁止の病院が多い)。
ナイチンゲールが教えた看護学校の卒業生達は、世界中の病院から呼ばれ、ナイチンゲール式の看護を広めていった。

 彼女は、90歳まで生きた。
その頃にはもう、看護の仕事は最底辺どころか、尊敬される仕事になっていた。
そして病院は、病人が死を待つ場所から、生きるための場所に変わっていた。

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