「地動説の証明」なぜコペルニクスか、天動説だったか。科学最大の勝利の歴史

太陽系

天動説、地動説の起源と変化

地動説の方が先に提唱されたか

 地球という星はこの宇宙の中でも、とても特別の星なのだと考えられてきた。

 そこで、地球から見れる星の動きを説明するのに、古くは『天動説(Ptolemaic (geocentric) theory)』が信じられていて、今は『地動説(Copernican (heliocentric) theory)』が信じられるようになったというふうな歴史の流れが(中世以降のヨーロッパに)あったことはよく知られている。

 天動説というのは、唯一にして、不動なる(つまり公転も自転もしない)地球があって、その周囲を他の天体が巡回しているという説。
地動説は、地球は自転しながら太陽の周囲を回っている(公転している)という説。

 実際のところは、 発想的にはともかく、数学的に妥当とされたのは、地動説の方が先であったと思われる。

 基本的には地動説の方が、天動説よりも単純で、様々な天体現象に関して説明をつけやすい。

回転の回転構造という複雑さ

 例えば「見かけ上の逆行(Apparently retrograde motion)」と呼ばれる、 ある方向に進んでいるように見える星が、反対方向に向かう現象を説明する場合を考える。
地動説なら、単に地球が、その星を追い抜く、あるいは追い抜かされた形となり、見かけ上の逆行を引き起こしたのだと説明できる。
一方で天動説の場合は、少なくともクラウディオス・プトレマイオス(83~168)以降は、地球の周囲を回転運動しながら、さらにその軌道上で、細かい小回転を行っていると解釈するのが一般的であった(つまり見かけ上というよりは、実際に逆行している)。

 世界の構造というようなものについて、しっかりと考察した人たちの中には二通りの考えがあった。
この世界は単純な構造であるはずという思想と、この世界は複雑であるはずだという思想。
紀元前の古代ギリシャの時代においては、前の考えを持つ者が地動説を支持し、後の考えを持つ者が天動説を支持したとされている。

プトレマイオスのアルマゲストの影響

 やがてアレクサンドリアの大学者プトレマイオスが、幾何学で天体現象を説目した『アルマゲスト(Almagest)』なる本を書き、そこに書かれていた彼の天動説モデルが、1000年以上にも渡る長い期間、受け入れられることになった。

 おそらく19世紀くらいまで、キリスト教の権威がかなり大きかったヨーロッパにおいては、ろくな証拠がなかった状況で天動説が受けられるのは当然でもあった。
聖書には、一時的に天が動きを止めたり、太陽が登り沈むなど、天動説を採用しているらしき世界観が描かれているからだ。

 長居までは真実に近いとされる地動説は そのような状況においても再び提唱されることになった。
その再発見という名誉は、ニコラウス・コペルニクス(1473~1543)に与えられている。
だから地動説は、「コペルニクス理論」とも呼ばれる。

地球は特別な星であるか。古代ギリシャの地動説

 ここで紹介する人たちの、地動説に関する功績はコペルニクスの登場まで、長らく忘れ去られていた。
たいていの記録も不確かであるが、古代ギリシャと呼ばれる時代には、中世ヨーロッパほどには、地動説が嫌われていたなかったのは、ほぼ間違いないと思われる。

ピロラオスの思想はピタゴラス学派のものか

 天動説の知られている限りの最初期の支持者は、プラトン(紀元前427~紀元前347)や、彼の弟子のアリストテレス(紀元前384年~紀元前322)であるとされる。

 一方で、地動説の最初の支持者とされているのは、「ピタゴラス学派(Pythagorean school)」に所属していたピロラオス(紀元前470年~紀元前385)と言われる。
彼は、プラトンの師であるソクラテス(紀元前469~紀元前399)と同時代人とされている。

 ピロラオスは秘密にされていたピタゴラス教団の思想を、本に書いて世にだすことで暴露ばくろした人物ともされ、そのような行為に至った理由は、金に困っていたからだったようだ。
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だから、宇宙の中心には炎があって、その周囲を(地球や太陽も含む)様々な天体が回っているという彼の世界観は、元はピタゴラスのものだった可能性はある。

 今から考えると、ピロラオスの世界観は時代の先を行きすぎていた。
無限と有限に満たされた宇宙において、 正しい方向とか間違った向きとかはなく、ただ全てが中心を軸に回る。
その考えは太陽系どころか銀河系的であったとも言われる。

 昼と夜は、地球の自転により、(おそらく太陽か炎のような強い光に対する向きの変化で)起こるものとも、すでに彼は説いていたとされる。

 また、中心を回る地球の反対の位置には、 同じように回る「反地球(カウンターアース)があるのではないかという推測も、彼が最初にだしたアイデアとされる(注釈)。

(注釈)反地球、反宇宙のアイデア

 反地球は現在では、古いSFのアイデアとしかみなされないことも多いが、宇宙全体における回転運動があるとして、どこかの中心を軸とした反対側に、同じ星々が存在しているというアイデアは、今でも古くはない。

ヘラクレイデス。不規則な動き。太陽と金星と水星

 ポントスのヘラクレイデス(紀元前387~紀元前312)は、プラトンの学校アカデメイアに学んだ哲学者であるが、おそらくは地動説を支持していたか、そちらの考えに傾いていた。

 ただし彼の思想は、 それを記録する歴史家ごとにやや曖昧であり 実際に地動説の支持者であったかどうかも、時に疑われている。

 ヘラクレイデスは、地球を中心に考えていては説明しにくい惑星の不規則な動きを、時に太陽が停止し、その間に地球が動くことによって説明できると提案したという。
また、やはり彼も、地球の自転が昼と夜を作り出していると考えていたらしい。

 ヘラクレイデスは、金星と水星が太陽から一定角度以上離れないことを根拠に、それら二つの惑星は、(地球を回る)太陽の周りをさらに回っていると主張していたともされる。

アリスタルコス。途方もない世界の思想

 サモスのアリスタルコス(紀元前310~紀元前230)は、ピロラオスに大きな影響を受けていた。
そしてその地動説を学んだ彼は、中心の炎は太陽であると考えた。

 通説ではアリスタルコスは、 地球が不動でないというだけでなく、太陽こそが不動であるという、「太陽中心主義」の思想を唱えた最初の人物であった。
そこで、彼は「古代のコペルニクス」とたたえられる。

 アリスタルコスの著作は、『太陽と月の大きさと距離について(Περί μεγεθών και αποστημάτων Ηλίου και Σελήνης)』しか残っていない。
それはプトレマイオスにも参考にされたくらいに、天動説を前提とした文であった。
しかし彼以降の多くの哲学者や歴史家が、アリスタルコスは別の書にて、初めて太陽中心の地動説を提唱したと述べている。

 例えば少し後輩であるアルキメデス(紀元前287年~紀元前212)も「砂粒を数えるもの」という著作にて、アリスタルコスの説に言及している。

 後のコペルニクスも、地動説提唱者の栄誉は、アリスタルコスにあるとしていたという。

 アリスタルコスはまた、太陽が止まっていて、地球が動いているとして、太陽以外の星は相対的な動きが小さいものばかりだから、それら(太陽以外の恒星)はかなり離れた距離にあるとも考えた。
ようするに彼は、地動説の世界観において、当時考えられていたよりも、宇宙はかなり大きいだろうと推測した。
すでに彼は、いくつもの太陽系が存在している可能性すら導きだしていたという説もある。

セレウコス。宇宙を無限と理解した最初の人

 セレウキアのセレウコス(紀元前190~150)は、アリスタルコスの支持者であり、論理的に地動説の証明をした最初の人物ともされる。

 彼が、地球が太陽の周りを回っているということを、具体的にはどのように証明したのか、その記録は残っていない。
しかし彼は「潮汐ちょうせき(Tide)」の研究をしていたことも知られているため、証明にはその現象が関連していたのでないかと考える者もいる。

 また、やはり彼もアリスタルコスと同じように、宇宙はかなり広いのではないかと考えていた。
歴史家であり地理学者であったストラボ(紀元前64~紀元前24)などは、セレウコスは「宇宙を完全に無限と考えた最初の人」と書いた。

コペルニクスによる地動説の再発見

天体の回転について

 16世紀に、多くの人が忘れていた地動説を再発見したのはコペルニクスだったとされる。
彼が、地動説的な宇宙観を論じた「天体の回転について(De Revolutionibus Orbium Coelestium)」という書が公になったのは、彼の死の前後くらいの時期であり、彼がそれに関する論争の表舞台に立つことはなかった。

ポーランドかドイツか

 コペルニクスは、1473年2月19日に、ポーランド中北部ヴィスワ川のほとり辺りの工業都市トルンで生まれた。
家は裕福で、彼の生まれた時の名はミコワイ・コペルニクであったという。

 20世紀くらいまでは、彼がドイツ人であるのか、ポーランド人であるのかという論争があったようだが、現在は一応、ドイツ系ポーランド人ということで納得されている。

 ポーランド最古とされる、数学と天文学の名門「ヤギェウォ大学(クラクフ大学)」で学んだコペルニクスは、後にはイタリアのボローニャ大学に移る。
彼はそこでは教会や市民法を主に学んだが、天文学者のドメニコ・マリア・ノヴァラと知り合ったことで、天文学への情熱が再熱したらしい。

太陽中心モデル。水金地火木土

 コペルニクスは、天文学専門ではなかったが、 趣味人(アマチュア)としてはおそらく最高のレベルくらいで、愛読書にはプトレマイオスのアルマゲストもあった。
そして、それを読み込むうちに彼は、その本に些細な間違いがいくつかあるというだけでなく、そもそも決定的な大きな間違いが存在していることに気づいた。
そこに現れる宇宙モデル自体が間違っていると気づいてしまったのだ。

 彼は(おそらくはアリスタルコス、他さまざまな先人たちの考えを参考に)、太陽中心のモデルを仮定した。
太陽の周りを(当時知られていた)五つの惑星と共に、地球は円軌道で回っている。

 彼はまた、太陽を中心に、水星、金星、地球、火星、木星、金星の順番で並ぶということも述べている。
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新時代の地動説

ジョルダーノ・ブルーノ。火に焼かれても、自分をごまかさない

 ジョン・ディー(1527~1608)の保護を受けていたトーマス・ディッグス(1546~1595)。
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テュービンゲン大学のミヒャエル・メストリン(1550~1631年)。
ドイツの都市カッセルを天文学研究で有名にしたクリストフ・ロスマン(1550~1600)
それにジョルダーノ・ブルーノ(1548~1600)などが、コペルニクス理論の初期支持者として知られている。

 ブルーノに関しては、そもそも何かが中心であるという考えすら捨てて、 おそらくは無限か相当な広さのこの宇宙の中で、太陽と同じような星はいくつもあって、そのそれぞれの周りを、いくつも惑星が回っているかもしれないと考えていた。

 地動説を抜きにしても、彼がの学説は、その多くが教会から異端とされ、たとえ脅されようとも彼は自説を曲げなかったために、最後は火あぶりにされてしまった。

クリストフ・ロスマン。地動説の問題点

 ロスマンはティコ・ブラーエ(1546~1601)と手紙のやり取りをしていた。
そしてブラーエの「地球が動いているというのなら、例えば地球に向かって撃った大砲の弾は、地球よりも早く動くというのか?」というような問いかけに対し、ロスマンは「大砲もその弾も、地球の動きに参加しているのだ」と返したという。

 ブラーエの疑問は、重さというものに関する当時の認識からくる疑問であり、実際にアイザック・ニュートン(1642~1727)が「万有引力の定理」で、確認できるあらゆる物体が相互に与えあっている影響を説明するまで、地動説における大きな謎とされていた。

 地球上にいる我々も、地球の動きに参加しているというふうに考えるにあたっては、重力で発生している効果が、加速と実質同じと考えた方が理解しやすいかもしれない。
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ティコ・ブラーエ。高い精度の天文学的データコレクション

 天文学者、あるいは占星術師や錬金術師としても知られるデンマーク貴族のブラーエは、精密な機械を使い、当時としては非常に高い精度の天文学的データを、大量に収集した。
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 彼は1572年に、大質量の恒星の死とされる爆発現象「超新星(supernova)」を観測したことでもよく知られている。
地球からの観測では、 超新星はあたかも、新たに星が誕生したかのような強い輝きである。
この現象は、天は完璧なものであるというアリストテレス的な思想に疑問を投げかけるきっかけとしては、十分な出来事であった

 プラーエは賢明けんめいにも、教会との対立を避けたと言われる。
彼はあくまでも地球は宇宙の中心で静止していて、太陽と月がその周りを巡っているとした。
しかし、五つの惑星は、地球を回る太陽の周りを、さらに巡っているとは考えていた。

ヨハネス・ケプラー。楕円軌道の法則

 プラーエの晩年、優れた助手であったヨハネス・ケプラー(1571~1630)は、彼の膨大な観測データを引き継いだ。

 ケプラーはテュービンゲン大学で、ミヒャエル・メストリンから、プトレマイオスとコペルニクス両方の理論を学んだ。
そして、プラーエに助手として誘われる1599年までには、すでに彼は、完全なコペルニクス支持者となっていた。

 数学が得意なケプラーの大きな功績が、『ケプラーの法則』の提唱である。

 地動説でも、古代から主流であったのは、太陽の周りを円軌道で惑星が回るというもの。
ケプラーは、円軌道ではなく、楕円軌道で惑星は巡っていると考えた。
そして、具体的に惑星の軌道がどのような計算で算出されるかを、法則として導き出したのである。

 楕円とはそもそも、それを構成する全ての点と、「焦点(focus)」と呼ばれる二つの点との距離の和が一定となるような、閉じた曲線で作られた平面図形のこと。

 ただし、楕円が円の形に近づく時、焦点同士の距離は近くなり、完全に円となった時に重なる。
そこで、円は楕円の一種とも言える。

 ケプラーの法則とはすなわち、第一の法則として、惑星は太陽を1つの焦点とする楕円の軌道を巡るというもの。
続いて、第ニ法則は、惑星と太陽とを結ぶ線分が一定時間に描く面積は一定というもの(つまり、恒星から近い時ほど、惑星の速度は速い)。
第三法則は、惑星の公転周期Tの2乗は、軌道楕円における太陽と惑星の平均距離の3乗に比例するというもの。

 後に、ケプラーの法則は、アイザック・ニュートンの万有引力の定理から、必然的であると、ニュートン自身に示された。
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ガリレオ・ガリレイ。本当に証明する術を知らなかったのか

 ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)は、ケプラーの考えに感銘を受け、手紙を書いている。
その彼は、1609年に当時としてはかなりの精度を誇る望遠鏡を開発し、それによって多くの発見を成し遂げた。

 ガリレイは1910年には、明らかに木星の周囲を巡る衛星を発見し、これこそまさしく、地球が宇宙の中心などではないことの証拠であると考えた。
だがそれで十分ではなかった。
天文学的なデータだけでは、天動説における特殊な軌道でも、かなり説明できる。

 結局のところガリレイは、教会を説得することができずに、宗教裁判で、自説の撤回という屈辱を味わわされた。
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 ガリレイの偉業は、望遠鏡による観測結果だけでは決してない。

 彼は少年時代に教会にて、シャンデリアが揺れる光景を見て、振り子の揺れに強い興味を抱く。
そして「振り子の等時性の法則(Pendulum Isochronism Theory)」を発見した。
振り子の揺れの周期は、糸の長さ(と重力)のみが関係していて、重さも、揺れ幅も無関係であるという法則である。

 またガリレイは、ピサの斜塔なる建物の上層から、 重さの異なる二つの重りを落とす実験で、「物体の落下速度は、その物体の重さに関係なく一定」ということを証明したという。

 しかし、そのガリレオ・ガリレイが、地球の自転を証明できなかったのは、歴史の皮肉ともいえる。

 (本当だとしたら非常に)興味深いのは、1841年に、トスカーナ公の書斎から発見されたという文書で、引用されていたらしい、ガリレイの助手をしていたヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ (1622~1703)の、暗号で書かれていた論文である。
そこには「我々は、一本の糸で吊るされた振り子の振動が、最初の垂直面から少しずつ同じ方向へとずれていく現象を観測した」と書かれていたのだという。

地動説の証明への道

デカルトとメルセンヌ。大砲の実験

 ルネ・デカルト(1596~1650)は、コペルニクス理論を信じていたが、教会を敵にしたくはないと常に気をつけていた。
自分の研究結果は(地動説と関係している)たいていの場合は隠した。
1628年にオランダに移住したのも、当時のヨーロッパではこの国が最もカトリックの影響が少ない地域とされていたから、という説もある。
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 デカルトはカトリックの司祭でありながら、最大の味方であるマラン・メルセンヌ(1588~1648)への手紙にて、ガリレオ・ガリレイが有罪になってしまったことに言及し、「自分は穏便に生きていきたい」と告白している。

 しかし、(実のところ微妙だが)最新の注意を払っていた彼も、結局はその書が、コペルニクスを支持している内容が含まれているとして、教会に敵視されるようになってしまう。

 そのデカルトから、大砲を水平に発射し、 その軌道から地球の自転を証明できるというデカルトの考えを、彼から聞かされていたメルセンヌは、友人に代わり、自分がその実験を行うことを決意した。
しかし彼はデカルトが言う水平を垂直と勘違いしたのか、その実験の日、大砲を真上(空)にぶっぱなしたのであった。
結果はどうなったか。
発射された大砲の弾は、今に至るまで行方不明らしい。

アイザック・ニュートン。落下地点はズレる

 史上初めて、重力に関する法則を明確に示してみせたニュートンであるから、 落下する物体が地球の自転の影響によってずれることが、その証明になると考えたのは、当然といえば当然の流れである。

 地球の自転は地球内部の中心点を軸としている。
そして地上に転がったリンゴと、地上から10メートルくらい上に浮いているリンゴでは、 軸からの距離が異なっているため 感覚的にはごくわずかな差ではあるが、自転運動のための速度が異なっているはずなのだ。
それはつまり、10メートルの上空から落としたリンゴは、まっすぐな軌道ではなく、少しだけずれるということを意味する。
しかもこのズレの幅は計算して予測できる。

 ニュートンは王立協会に手紙を書き、会長であったロバート・フック(1635~1703)自らが、彼の提案する落下実験を行った。
フックは、「落下する物体の落下地点はズレたが、毎回同じ数値ではないために、確かなものかはわからない」と返事を書いている。

  物質落下による自転の証明のための理論は、カール・フリードリヒ・ガウス(1777~1855)や、ピエール・シモン・ラプラス(1749~1827)にも、ほぼ独自に構築されたが、具体的にそのような実験では、自転の確固たる証拠としては弱いと見なされていた。
物体の落下は必要な動きが大きい。
その大きな動きの中で、例えばわずかな風とかの影響が、結果に大きな誤差を与えないとは限らないのだ。 

 振り子を使った実験の方が、それも確かに難しくはあるが、高い精度は得やすい。
だが優れた科学者たちは落下実験ばかりで、振り子には注目していなかった。
そこに注目した最初の人は、(少なくとも当時は)正規の科学者ではなかった。

フーコーの振り子

自転を証明することの重要性

 ブルーノやガリレイの宗教裁判にも関わった枢機卿のロベルト・フランチェスコ・ロモロ・ベラルミーノ(1542~1621)は、1615年の、パオロ・アントニオ・フォスカリーニ(1588~1616)への手紙にて、「もし地球が自転している証拠が見つかったなら、教会も考えを変えざるをえない」と書いた。

 他の星がどのように動いているのかより、地球が自転しているということの方が、その証明は容易であろう。
人は、もっとも近くの月にすら手が届かなかった。
だが地球は足元にあるのだ。
デカルトやニュートンは、自転を証明する方法2 理解できてはいても それを決定的に 実演することができないことに苛立っていたに違いない。

 だからこそ、初めて決定的な形で、地球が自転していることを証明したジャン・ベルナール・レオン・フーコー(1819~1868)の実験は、地動説、それに科学と宗教の歴史において、非常に重要な意味を持っている。

科学者ではなかった、しかし発明家だった

 フーコーは、幼い頃から病弱で、要領が悪く、学校の成績も悪かった。
ただし十代の頃から、彼にはたった一つ、人に自慢できる特技があった。
それは道具の発明。
13歳の頃に突然目覚めた彼は、様々な玩具を自作するようになった。
その中では、当時のハイテク機器だった、「電信機」や「蒸気エンジン」の小型もあったという。

 そんな彼は、母親の情熱と、家庭教師たちの努力のおかげもあり大学へと進み、医学を学んだが、血や苦痛の叫びが苦手であることが判明したために、医師を目指すのは断念せざるを得なかった。
しかし、学生時代に知り合ったアルフレッド・ドネ教授(1801~1878)は、フーコーを顕微鏡学講座の助手として 雇ってくれた。
そうして彼は、専門ではないにしろ、ずっと科学と関わり、例の実験を行う頃には、すでにいくらか科学界に功績を打ち立てていた。

振り子の振動面の動き。その方程式

 ガリレオ・ガリレイがかつて発見したように、振り子というのは、その振り幅の面積に関して軸の影響は受けない(外部から加えられる力を除けば、影響しているのは糸の長さのみ)。
つまり振り子の揺れ幅は、軸の自転の影響による回転の影響を受けずにいられる。
例えば極点において振り子を揺らし続けた場合、 余計な力などが加わらなければ、その振動面は1日で360度、つまりちょうど一回転する。

 フーコーは、自身の発明家としての腕を活かし、実験のために必要な精密な振り子装置を作った。
さらに彼は、同時代の多くの学者たちからは「数学もできない」と言われながらも、振り子の動きに関する方程式まで独学で発見している。
つまり振り子の振動面が一周する時間Tは、振り子がある経度θを使った以下の式で表せれる。
T= 24sin⁡θ
直角三角形の三角比 sin、cos、tanは何を表すか?「三角比の基本」
 彼がこの実験を最初に成功させたのは、自宅の地下室であったらしい。
そして、1851年2月3日。
彼はパリ天文台にて、自分が呼べる限りの科学に携わる人たちを集めて、振り子の公開実験を行った。

 公開実験の招待状には「地球が自転する瞬間をその目で見られたし」と書かれていたという。
これはその通りだった。
「美しい実験(Beautiful experiment)」とされた、この「フーコーの振り子」の実験は、まさしく地球が自転していることの決定的な証拠になった。

 それは科学が、宗教に勝利した瞬間でもあった。

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