「ガリレオ・ガリレイ」望遠鏡と地動説の証明。科学界に誰よりも業績を残した男

ガリレオ

天動説と地動説。プトレマイオスの宇宙、コペルニクスの宇宙

 2世紀頃。
アレクサンドリアで活躍していたプトレマイオスなる男が、宇宙の星は地球を中心として回っているという『天動説(Ptolemaic theory)』を唱えた。
プトレマイオスの著書『アルマゲスト』には、「宇宙の中心には地球があり、その周囲を空気が取り囲み、さらにその空気の周囲を火が取り囲み、そしてその外側に月や太陽などの惑星がめぐり回っている」と書かれているという。
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 天動説はプトレマイオス以降、実に1400年もの間、ヨーロッパで主流な宇宙論だった。
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 しかし、昔の偉い人が何と言おうとも、真実が異なっている場合もあろう。
1473年にポーランドで生まれた、ニコラウス・コペルニクスは、 クラクフ大学、ボローニャ大学、パドヴァ大学で数学を学び、天の星々の動きに関して、太陽を中心として、地球もその周りをめぐる惑星の一つにすぎないと考える方が、簡単でわかりやすいと気づいた。

 天動説も、数学的にそこまで矛盾していたわけではない。
しかし、それでは明らかに無意味に計算が複雑になってしまうような感じがあった。

 二つの考え方がある。
 あまり複雑な法則だと、それは強引に解釈されているにすぎず、間違っているのではないか、という考え方。
 もう一つがこの世界がそんな単純な理由ではないのだから複雑な計算が必要なのは当然であろうという考え方。
 おそらくプトレマイオスの時代には、後者の考え方がほとんど基本だったのだろうと思われる。

 コペルニクスの時代になってくると、そもそもいくつもの法則が絡み合っているから複雑に見えるのであって、元の法則はシンプルなものではないか、というような考えの人も、増えていたのだろう。
だが、ここまで長く広く信じられてきた仮説を間違っているというのは、なかなかに勇気がいる。
当時、権力を持っていたキリスト教が、特別な存在である人類が生きている地球が、宇宙の中心であるのは当然ということで、天動説を支持していたことも問題であった。
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 コペルニクス自身、神に仕える身であったので、生前に「自分は地動説を支持している」と公表する勇気はなかったようである。
彼が地動説の説得力を説いた、「天球の回転について」を世間に晒したのは、彼の死とほぼ同時期だった。

音楽好きな父親。数学の先生

 ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)はイタリア、トスカーナのピサで生まれた。
彼の父は貧乏貴族ながら、音楽が好きな趣味人だったとされている。
ガリレオは、父がよく奏でてくれたリュートの音色が好きだったという。

 ガリレオはピサ大学で医学を学んでいたが、リッチという数学者の授業を受けた時に、自分が最も関心のある分野に気づいたそうだ

高精度な望遠鏡の開発

実験を重視していた変わり者

 ヴェネト(当時はヴェネツィア共和国)のパドヴァ大学は、ヨーロッパの中でも最古の大学の一つとされていて、この時代には珍しい、学問的自由が高い場所だった。
ガリレオ・ガリレイは28歳の時に、この大学の数学教授となった。

 ガリレオは明らかに、他の大学教授たちとは全く異なる領域に属していた。
彼は何よりも、実際に行なってみた結果、観察してみた結果、つまり実験を重視していた。
労働者の作業現場に、自分が観察したい原理に関連するものがあるのなら、喜んで出向いてきた。
それは当時としては異常なことだった(今の時代なら、研究熱心だと感心されるかもしれない)。

 当時の大学教授の仕事は、講義が主だった。
しかもその講義の内容ときたら、紀元前の人であるアリストテレスの著作を、わかりやすく解説しなおしたものにすぎなかったとされている。

 ガリレオはそんな古い著作よりも、実際に自分で確かめてみた実験結果を重視した。
アリストテレスの時代とは違う。
人間の知的水準は進化してなくても、人間の技術は進化していた。
実験できることはかなり増えていたわけだ。

 そしてガリレオは、本質的に生意気な自信家であった。
実験の結果がアリストテレスの間違いを示しているのなら、遠慮なく「じゃあアリストテレスが間違っていたのだ」と断言した。
そのせいで、すでに地動説云々の話を彼が主張しだす前から、彼はキリスト教会からある程度嫌われていたようである。

メガネ商人の新アイテム

 ガリレオが『望遠鏡(telescope)』によって、それまで知られていなかった夜空の天体に関する様々な事実を明らかにしたことは、今では有名である。
ただし望遠鏡を開発したのは彼ではない。
オランダの眼鏡商人が、2枚のレンズを両端につけた、望遠鏡という道具を作ったというニュースを、ガリレオが聞いたのは1609年5月のことだったとされている。

 少なくとも望遠鏡は、ガリレオが初めてその話を聞いた、5年以上前から存在していた。 
ただし、それらは大したものではなかった。
せいぜい物が2、3倍に見える程度で、しかもぼやけたり歪んだりがひどかった。

 それがどれほどの可能性を秘めた発明であるか、理解できた者は少なかった。
科学者たちの多くは、こともあろうに「それは真実を錯覚させる悪しき道具」だと言った。

 しかしガリレオにとっては、望遠鏡はまさしく望んでいたものだった。

実際に目で見て確かめるために

 ガリレオは優れた科学者というだけでなく、優れた技術者でもあった。
彼は、当時の望遠鏡が自分の望んでいるほどのスペックではないことを知って絶望したが、しかしそれで諦めはせず、自分でもっと精度の高い望遠鏡を作ることにした。

 彼はコペルニクスの地動説を支持していたが、当時それを公にはしていなかった。
学校の講義で天文学の話をする時も、伝統的な天動説の世界観を説明していた。

 ガリレオは、実験を重視していたから、証拠もなしに、地動説への確信を公にしようとは考えてなかった。
ただ確信はしていたのだ。
コペルニクスは必ず正しかったと確信していた。
だが問題は決定的な証拠がなかったこと。
そして、決定的な証拠をもたらしてくれるだろう道具が、望遠鏡であった。

求めていたのは金と時間

 彼の作った望遠鏡は、当時としては倍率も高く、非常にはっきりと見えるもので、彼にはそれを作る理由が、知的興味の他にもう一つあった。
金である。

 当時、数学の教授の給料というのは非常に安く、彼は家族を養うために、貴族の生徒に特別な授業をしたりとかしていた。
授業で使うテキストなども全て自作していたので、彼には自分の研究のために使う時間がほとんどなかった。
また何か重大な発見をしたとしても、それを発表するための著作を書く暇もなかった。

 そういうわけで彼は金を求めていたのだ。

計算通りの展開。想像もしてなかった真実

 ガリレオはレンズまで自作し、倍率9倍ほどの、当時としては相当に高性能な望遠鏡を作ることに成功する。
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そして、その高性能望遠鏡の噂を聞いたヴェネツィア共和国政府から実演を求められ、彼は即座に承諾する。

 1609年8月21日。
ヴェネツィアで、元老院議員たちにガリレオは、自身の望遠鏡をお披露目した。
その高い精度に議員たちは感激し、軍事目的に使えるかもしれないとかいう野心的な目的ではあったとされているが、それに大いに興味を抱いた。
ガリレオを褒めたたえて、彼に終身ポストが与えて、給料も大幅に増やしてくれた。

 ガリレオが望んでいた展開だった。

 そして、パドヴァに戻ったガリレオは、 今度は20倍の倍率の望遠鏡を作って、それを空へと向けたのだった。

 誰も想像してなかったような様々な事実が一気に明らかとなり ガリレオはそれらをすぐにまとめて発表した。
1610年3月に出版された「星界の報告」は、なるべく多くの人の目に留まるように、当時の共通語であるラテン語で書かれていた。

星界の報告。驚くべき発見の数々

 月はかつて、完全な球体と考えられていたこともあった。
山とか谷とかがあり、でこぼこな大地である地球とは違い、完全な球体であると考えられていた。
 ガリレオは望遠鏡で最初に月を見たと言われる。
彼が見たものは球体などではなかった。
起伏の激しい、デコボコな表面だった。

 肉眼で見える星というのは全体のごくごく一部でしかなかった。
 ガリレオはオリオン座を描こうとしたが、あまりにもそれを構成する星の数が多すぎて断念した。
 また、相当な昔から、空を横切る「天の川」と呼ばれる光の帯が、いったい何なのかということは謎だったが、望遠鏡で見てみたら、その正体が判明した。
それこそ数え切れないほどの、星の集団であった。

 そして1610年1月頃。
彼は、天動説を完全に終わらせる、驚愕的な発見をした。
木星の周囲を巡っている星が四つあった。

木星の惑星という衝撃

 ガリレオの時代には、『衛星(satellite)』という言葉はなく、木星の周囲をめぐる四つの衛星を、彼自身は「木星の惑星」と表現していた。

 地動説への反対意見の中には、「星々が太陽の周りをめぐっているというのなら、なぜ月は地球の周りをめぐっているのか」という反論があったが、それは無意味となった。
ガリレオ自身が述べているように、「ある惑星が別の惑星の周りを回っていて、そしてそれら全体の軌道が太陽を回っているという事例は、地球だけではなくなった」。

 木星の衛星の発見がどれほど衝撃的なものであったか、今日の我々には想像するしかない。
ただすべての星が地球を回っているという可能性は完全に否定された。
そして、すべての星が太陽を回っているという可能性すらも否定された。
宇宙は、その時までのほぼすべての人が考えていたよりも、ずっとスケールの大きい世界のようだった(注釈)。

(注釈)太陽も地球もひとつでないか

 地動説を支持し、撤回を求められてもしなかったために、火刑に処されたというジョルダーノ・ブルーノ(1548~1600)などは、ガリレオ以前からすでに「もしかしたらこの宇宙は無限で、どこかに太陽のような星もあって、そこには太陽をめぐる地球のような惑星だってあって、地球生命のような存在だって他にいるかもしれない」というような考えを述べているそうだ。
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自由な科学の場所

 ガリレオはピサの生まれだが、少年時代の多くはフィレンツェで過ごしている。
いずれにしろ彼はトスカーナの出身であり、パドヴァで20年近く働きながら、ずっと故郷への恋しさを捨てられずにいた。

 そして望遠鏡での大発見を機に、フィレンツェの宮廷内に地位を得て、里帰りすることに決めた。

 ヴェネツィアの友人たちは反対した。
彼らは何よりもガリレオを心配していた。
ガリレオはやがて教会と対立することになるだろう。
当時のイタリア国内で、ローマ教皇に対抗できる国など、ヴェネツィア共和国をおいて他になかった。

 ガリレオの友人サグレドは、 ヴェネツィアから去ったガリレオに手紙を書いた。
「ヴェネツィアでの自由は他のどこにもない。あなたは今故郷にいて幸せでしょう。しかし、自由に科学をやれた場所をあなたは去ってしまったのだ。何か恐ろしい予感がしています」
後のガリレオの運命を考えるに、その手紙はなかなか預言的だった。

ガリレオもコペルニクスも紛れもなくキリスト信者

 キリスト教会の修道士たちの誰もがコペルニクスやガリレオの宇宙感を受け入れなかったわけではない。
そもそもがコペルニクスもガリレオも、敬虔けいけんなキリストの信者であったのだ。

 ガリレオはそもそも、自説が聖書と矛盾するとは考えてなかった。
彼自身は、「聖書は確かに真実を書いている、しかしそれを解釈する人は間違うことがある」というスタンスだった。

アリストテレス派の罠

 むしろ、最初ガリレオを敵視したのは、人類史上稀に見る大発見に対して嫉妬する科学者だったのかもしれない。

 その議論は、アリストテレス派、あるいはプトレマイオス派(天動説支持者)とコペルニクス派(地動説支持者)の戦いと言われていた。

 しかし、天体現象に関するどのような議論においても、ガリレオの言葉の方が説得力があった。
アリストテレス派の中には、望遠鏡をのぞこうともしない者もいたが、それで実際にガリレオの言うような星々を確認してしまった人は、「そんなものは錯覚だ」と言った。
ガリレオはそれに対し、「なら、なぜどこでも錯覚が起こるのでなく、一部の領域だけで錯覚が起こるのか」と反論した。

 もう議論では勝てないと悟ったアリストテレス派の者たちは、ガリレオを罠にかけることにした。
宗教的な論争の舞台へと、彼を引きずり出そうとしたのである。

禁止令と、新しい教皇

 教会の誰もが愚かではなく、ガリレオの説を支持していた者もいた。

 しかし結局、1616年に、ガリレオは宗教裁判によって、コペルニクスの思想を公然と擁護ようごすることは禁じられた。

 ガリレオは落胆したが、2年ほど病気で苦しんだ後に、再び立ち上がったとされている。
1624年には、新しいローマ教皇が彼を歓迎し、プトレマイオスとコペルニクスの思想を、両方とも紹介する本ならば、書いてもよいという許可を得た。

 そして彼は、『天文対話』という本を書いた。
それはコペルニクス派のサルヴィアチとプトレマイオス派のシンプリチオが、論争を繰り広げるという内容であった。

天文対話と二度目の裁判

 真実がガリレオの方に近いのだろうから当然といえば当然なのだが、その天文対話において、サルヴィアチの方が、シンプリチオよりもずいぶん理性的みたいな印象が強かった。
 反コペルニクス一派であった、ローマ教皇の側近たちは、天文対話はコペルニクスを擁護するための本であり、間抜けに描かれているシンプリシオは、実は教皇がモデルなのだと、教皇自身に信じさせることに成功した。

 1632年に出版された天文対話は、翌年には発禁処分となり、またガリレオは、異端審問所に召喚されてしまった。
この時の裁判で、ガリレオはあのあまりにも有名なセリフ、「それでも動いてる(E pur si muove)」を呟いたとされているが、それが真実かはちょっと怪しいようだ。
 もう70歳近くであり、健康状態よくなく、拷問までほのめかされたガリレオは、「自分の考えは愚かで間違っていました」と宣言せざるをえなかった。
そういうことを言ったのだとしても、本当にただ呟いただけだったと思われる。

最後の著作、新科学対話

 しかし、屈辱的な宣言のおかげで、一応ガリレオは1年、牢獄で捕らえられた後、終身的な自宅軟禁だけで助かった。

 そういう状態の中で、ガリレオは最後の著作『新科学対話』を書いた。
やはり対話編の形をとっている、特に運動物理学に関する本だった。
 ずっと後にアインシュタインをして近代物理学の歴史的名著と表されるこの本が、ヨーロッパ中の科学者たちに歓迎されていることを、死の四年前に知ったガリレオは、未来での自分の勝利を確信したとも言われている。
実際、彼は勝利したと言える。

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