乾麺事業を始めるまで
井田家と下田家
井田毅(いだたけし)は、群馬県の前橋市出身。
1930年の生まれ。
この時代は、ニューヨーク株式市場の大暴落が、全世界を不況へと貶めた、ちょっとした暗黒時代であった。
彼の生まれた井田家は、広い土地を所有し、1705年(宝永2年)頃から、造り酒屋の営んでいた。
造り酒屋とは、自分達で醸造した酒を売っている店である。
井田家は(7人兄弟の6番目であった)父方の家だが、母方の下田家も、それなりの名家であり、経済的にも一家は恵まれていたはずだが、それでも、その年(正確には1929年から)の世界恐慌の影響は小さくなかった。
安いものには人が集まる
1933年。
毅が3歳の頃。
彼の父、文夫(ふみお)は、繁華街で、新たに「泉居酒屋」という店を始める。
文夫は、当時は「けしからん行為」とみなされていた特売、つまり値引きなどを駆使して、売り上げを順調に伸ばしていった。
「甘いものにはアリがたかる。安いものには人が集まる」
それが文夫の口癖であった。
戦争をこえて
幼い頃の毅は算数は得意だったが、病弱で運動は大の苦手であった。
しかし小学校時代、彼は見事なフライングにより、かけっこで一位となった事があったという。
まさに、後の彼に通ずる、素早く先を制した勝利であった。
毅は小学校を卒業すると、父の後を継ぐためか、商業高校への進学を決める。
彼はしかし、わりと不真面目で、数学や美術など、好きな授業には熱心だったが、嫌いな、あるいは役立たないと考えた科目に関しては、よくサボった。
そして時代は、第二次の世界対戦の時代。
1945年に、終戦を迎えた時。
泉居酒屋は、空襲により焼失していた。
経済大学への進学
終戦後、文夫はすぐさま泉居酒屋の再建にとりかかった。
長男である毅も、とりあえず学業より父の手伝いを優先した。
しかし店を建て直しても、酒の原料となる米は、不足により、なかなか手に入らず、厳しい経営が続いた。
苦労したのはもちろん井田家だけではない。
多くの商売人の子が、進学を諦め、就職し、家を助けた。
しかし文夫は、毅に進学を進めた。
大学で学ぶ、本格的な経済学や経営学は、後には必ず役に立つと、彼は信じていた。
そういう訳で、毅は巣鴨経済専門学校(現、千葉商科大学)に進学した。
新たな事業
1952年。
大学を卒業してから、そこで学んだ知識を生かし、泉居酒屋で、父と共に経営側としての役割も担うようになった毅。
しかし売上アップに成功しやがら、毅は、酒屋の限界を感じ始めるようになった。
そしてある時、舞い込んで来たのが、実業家の義兄(姉、とよ子の夫)からの、廃業した乾麺事業の譲渡の申し出であった。
乾麺は当時、まさに盛り上がりつつあった事業で、まさしく新しい商売品として、毅らが求めていたものであったが、不安要素もあった。
当然だが、文夫も毅も、麺など全くの素人だったのだ。
しかし工場は既にあり、既にいる従業員達は、ノウハウもしっかり知っている。
さらに、同じような状況で、乾麺事業を始めた知人の後押しもあり、父子は、乾麺事業を始める事を決意したのだった。
そうして、1953年11月20日に、『富士乾麺』は設立されたのだった。
即席麺事業参入まで
富士乾麺は品質が高い
富士乾麺は、元々廃業寸前だった、前事業を引き継いだ形で始まったので、工場や従業員は確保できていても、取引先があまりなかった。
乾麺事業としては後発であるのもあり、営業には苦労したが、しかし、優れた商売人の父子は、徐々に経営を好転させていった。
ものづくりが好きな性分であった毅は、最初は素人だったものの、徐々に乾麺作りのノウハウを学び、研究も熱心であった。
そのような情熱は、実を結び、次第に、「富士乾麺の麺は品質が高い」と好評になっていく。
そして商売の成功と共に、この業界でやっていける、という自信を、文夫も毅も持つようになる。
兵庫県へ
彼らは1955年に、富士乾麺を株式会社化して、文夫が社長、毅が専務取締役となった。
1957年には、さらに新たな工場と本社を設立。
何もかも順調にも思えたが、この頃、戦後の食糧難もだんだんと改善されてきて、毅はまた不安を覚えるようになる。
そして、毅は、日本最大級の乾麺の産地である、兵庫県の播州地方を訪れた。
そこに広がっていたのは、規模こそ大きいが、設備的には富士乾麺と大差ない、たくさんの乾麺工場だった。
今のままでは駄目だ
毅は群馬に帰ってくると、営業を務めていた、同年代の竹村弘(たけむらひろし)に相談した。
「どうやらこの業界は、大量生産よりも少量品質主義だ。おそらくは今くらいが限界だろう。今のままでは我々はこれ以上は大きくなれないと思う」
業界トップの工場に、設備なら負けていない、という情報を聞いた時、竹村が想像したその先の話と、毅の実際の話は全く違っていた。
普通の経営者なら、「うちはトップに負けてない」という所だろうに、毅は市場状況を冷静に見極め、「今のままでは駄目だ」と判断したのである。
まさしく経営のプロ、商売の鬼である。
これしかない
そしてまた、新たな事業を模索していた毅の目に止まったのが、「関西でチキンラーメンという、お湯をかけるだけで食べれる即席麺がブーム」という新聞記事であった。
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「これだ」
毅はすぐさま、そう確信した。
即席麺、つまりインスタント食品は、まさに時代にマッチしていた。
日本は高度経済成長期に入っていき、仕事に時間はとられるが、金はあるという者が増えていた。
即席麺は当時、安いという訳ではなかったが、お湯をかけるだけという手軽さは、まさに時代が求めていたものであった。
しかし当時業界には、「あんなもの、ただの流行りものではないか」という風潮があった。
意を決して、毅が家族に「即席麺事業を始めようと思う」と話した時、家族の誰もが孟反対したという。
しかし毅の決意は固かった。
何より彼には、周りがなんと言おうと、自分の道を貫かんとする反骨精神もあった。
ベロメーターの女
毅が、柴崎家の長女、喜代子(きよこ)と見合い結婚したのは、1958年の事だった。
井田家と同じく、造り酒屋の名家であった柴崎家で厳しくされた喜代子は、家事全般に堪能であったが、特に料理に関しては確かな腕を持っていた。
舌の感覚にも優れ、味見をするだけで、足りないもの、余分なものを理解出来た。
そして、ほぼ年がら年中休みなく、駆けずり回りながら、社員達をしょっちゅう怒鳴る夫を目の当たりにして、喜代子は「とんでもないとこに嫁にきてしまった」と思ったという。
後に関係者から『ベロメーター』と称えられる事になる、喜代子の舌は、おいしい即席麺作りにおいて、大いに毅の助けとなった。
麺作り。スープ作り
即席麺に参入する企業の増加と、その市場拡大と共に、即席麺に対する、毅の家族の態度も徐々に軟化していった。
そして1960年頃、ついに文夫の許しを得て、毅は即席麺事業に着手し始める。
しかしもちろん、最初はなかなか上手くいかなかった。
上手く麺を作れなかった。
しかし工場長の森田が、とにかく考えられる限りの製法を試しに試し、やがてついに、納得いくような麺を作る事に成功する。
一方、即席麺に欠かせない、味付けのスープ作りを担当したのは喜代子だった。
1960年に長女を出産したばかりの彼女は、赤ちゃんを背負いながら、自宅の台所で、ひたすらに美味しいスープを研究した。
もちろん味見に関しては、毅も協力した。
やがて、ついに、市場で勝負出来るくらいの試作品が、台所にて完成したのだった。
3つの海を跨ぐ企業
毅はもちろん、完成した試作品の量産化を試み、本社工場内に、即席麺ラインを用意した。
そして、本格的な新業務参入に伴い、富士乾麺という社名も、『サンヨー食品株式会社』へと変えたのだった。
サンヨーという名前は「三洋」。
つまり太平洋、大西洋、インド洋の3つの海の事。
それらの海を股にかけるような、そんな大きな会社を目指そうという、毅の思いが込められた社名であった。
また、この頃に、毅の弟である信夫(のぶお)も事業に参加。
彼は特に、営業として、兄と共にサンヨーを支える事になった。
サンヨー食品。
即席麺第一弾は、社名からとった『サンヨーラーメン』であった。
サンヨー食品大躍進
大企業への道
しかし当時、即席麺で成功していた会社は、どれも大々的にテレビCMを行っている大手。
せっかく即席麺が出来たのに、営業はなかなか上手くいかなかった。
「美味しいから、テレビCMやってくれたなら、うちに置く」
そう言う取引先が多かったが、サンヨーにはCMなど作れるほどの金はなかった。
そこで、サンヨーは、大手メーカーの下請けという形で、商売を進める事にした。
そして、缶詰をメインとした日魯漁業(にちろりょぎょう)という企業の提携先となれたサンヨーは、『あけぼのラーメン』というのを売り出す。
しかしさすがに大手といえども、即席麺事業は後発。
最初こそ注文がそれなりにあったが、すぐに売上は落ちていった。
そして毅は、なんとか状況を打破しようと、次に明星食品へと、サンヨーを売り込もうとした。
しかしこの時、明星食品は、サンヨーを下請けにしなかった。
明星食品の社長は、毅にこう言ったという。
「即席麺をこれからやってくなら、いっそ自分達で売るのがよいのではないでしょうか」
毅は、ハンマーで頭を殴られたような気分だった。
そうだ、自分は勘違いしていた。
下請けじゃ駄目だ。
自分達はサンヨーだ。
下請けなんかじゃ、なれない。
サンヨーは世界の海を跨ぐような会社になるんだ。
ピヨピヨラーメン
当時の即席麺市場には1000社ほどが参加していた。
しかし市場全体において、チキンラーメンの日清、エースコックラーメンのエース食品、明星ラーメンの明星食品の3社が、半分以上を独占しているような状況だったという。
即席麺の流行りは、1962年に、明星食品が市場に投げた、味付け粉末という見事なアイデアによって、さらに勢いを増していた。
そうした状況の中で、サンヨーが最初に出した自社ブランドの即席麺は、子供をターゲットとした『ピヨピヨラーメン』というものであった。
テレビCMによる宣伝
「テレビCMやってるなら取引する」
かつて取引先に、そういう風に言われていた事を毅は忘れていなかった。
とにかくテレビCMしかないと、しっかりと自覚していた。
商品の味には自信がある。
値段も、30~35円(今で言う500円くらい)が主流な中で、20円と、安く設定した。
後は世間に、その存在を知ってもらうだけ。
CMにかける金はかつてないと思った。
それは失敗した場合を想定していた為であった。
毅は、さすがに悩んだが、しかし、社の未来を賭けて、最終的にはテレビCMによる宣伝を決意した。
ピヨピヨラーメン食べてみな
ピヨピヨラーメン販売から2ヶ月。
1963年9月1日。
「ピヨピヨラーメン食べてみな」というフレーズがインパクト大のCMが、ついにお茶の間に流れる事になった。
CMが流れたのは、関東と新潟のみ。
その効果は絶大であった。
「ピヨピヨラーメン食べてみな」というフレーズは、CMを見た子供達の心を見事に捉え、認知度は一気に高まっていったのである。
中小企業でCMまで行った即席麺企業はサンヨーが初だったので、それはまた業界でも、インパクト大だった。
長崎タンメン
ピヨピヨラーメンは見事に成功したが、それで満足して終わるような毅ではない。
今やサンヨーの他の社員達も同じ思いであった。
ピヨピヨラーメンは、つまりヒヨコラーメン。
安いチキンラーメンにすぎない。
二番煎じにすぎない。
毅は、目指すべきものをすぐに決めた。
それは新たな味付けのラーメンである。
当時、即席麺というのは、当たり前のように、みんな醤油味だったのである。
再び毅は、喜代子と共に台所にこもった。
そして1964年。
サンヨーは新作即席麺の『長崎タンメン』の販売を開始。
これは即席麺史上初の、塩味のラーメンであった。
幻のラーメン
ピヨピヨラーメンの成功を踏まえた、大規模な宣伝もあって、長崎タンメンは飛ぶように売れた。
売れすぎて生産が間に合わず、『幻のラーメン』と称されるほどだったという。
長崎タンメンの大成功は、すぐにサンヨー食品を、業界4位にまで押し上げた。
もう日清、エース、明星の三大大手の首にまで、刃をつき当てたような状況であった。
長崎タンメンで、サンヨーはそのブランドを関西にまで広め、関東では、最大シェアにまでなっていった。
サッポロ一番の時代
最強の即席麺シリーズの誕生
長崎タンメンの成功で、その格を大にしたサンヨー。
しかし塩味の即席麺もよいが、やはり即席麺と言えば醤油ラーメン。
毅は、今一度、醤油味の即席麺の制作を決意。
全国のラーメンを食べ歩きしてきた毅は、北海道は札幌ラーメンに目をつけた。
そうして、サンヨー食品を世界のサンヨーへと変えていく事になる『サッポロ一番』シリーズの第一弾、醤油味は生まれた。
「二番煎じは絶対にやってはいけない」
とは毅の口癖であった。
その通り、まさしくサッポロ一番は、二番煎じなどでなく、真の一番を目指したものであった。
サンヨーを支えた女性達
1966年1月10日。
『サッポロ一番しょうゆ味』は販売された。
実は当初は期待よりもずっと売れなかったが、東京に広まりつつあったスーパーへの営業を集中的に行い、商品を並べさせると、売上は急増。
長崎タンメンに続く大ヒットで、工場の規模も拡大。
製造部長の森田が、労働戦力として目をつけたのは、東京に比べれば、まだまだ社会進出の出来ていなかった、群馬の女性達であった。
安定した仕事を求めていた女性は多く、サンヨー食品の現場を支えた女性達は、またサンヨー食品のおかげで、家族を助ける事が出来た。
後に喜代子に、「サンヨーのおかげで、子供を大学に行かせてあげられた」という、感謝の手紙を送った女性もいたという。
最高傑作、美味すぎる、みそラーメン
サッポロ一番を真の一番とするべく、サンヨーがとった方法は、やはり、新たな味であった。
当時、既にみそ味の即席麺はあったが、人気のものはなかった。
そこで、例によって毅は、喜代子と共に、絶対においしい、みそ味を模索。
かつてのように台所ではなく、開発室での開発であったが、最終的な味の裁量を任されたのは、喜代子であった。
そして1968年9月。
『サッポロ一番みそラーメン』は販売された。
それは、ベロメーターとまで言われた、素晴らしい味覚を持つ喜代子にして、「最高傑作」と言わしめた、まさしく一番のラーメンであった。
塩ラーメンとカップスター
1971年にはさらに、『サッポロ一番塩ラーメン』が発売。
これにより、サンヨーはついに業界トップの座に躍り出る事になる。
しかしこの頃、日清から、ひとつの新商品を出した。
そう、カップヌードルである。
それはまさに革命で、凄まじい勢いで市場を荒らし回り、再びサンヨーは日清にトップを奪われる事となった。
まあこれは仕方ないだろう。
サンヨーはわりと慎重な方だったが、結局時代の波に逆らえず、1975年に、カップ麺商品の『カップスター』の販売を開始した。
そしてこの1975年という年は、文夫が亡くなった年でもあった。
サッポロ一番と私
最高の即席麺として、サッポロ一番という商品を愛する者は、今や世界中にいる。
ここで白状させてもらうと、筆者自身はかつてラーメンがあまり好きではなかった。
いつ頃かは覚えてない。
ただ小さい頃から、ラーメンはあまり美味しくないという認識であった。
しかし家族はみんなラーメン好きだし、特に兄が日頃から、そこらの店のラーメンより美味いと、褒め称えていた即席麺こそ、サッポロ一番みそラーメンであった。
いつ頃か忘れたけど、ある程度大きくなり、かつては嫌いだったいくつかの食べ物も食べるようになった筆者は、ある日、「そんなに美味いなら」とサッポロ一番みそラーメンを食べてみたのだった。
それから筆者は、ラーメンが嫌いでなくなったのである。
ちなみに、個人的には塩ラーメン派です。