ルドルフ1世。貧乏貴族から、ドイツ王に成り上がった人
(1218~1291)
「これが美味きもの」
そう言いながら、酒の入ったジョッキ片手に街道を歩き、民衆から喝采を浴びた事もあるという、なかなか豪快な人物。
ハプスブルク伯アルブレヒト4世の子として生まれた彼は、貧乏伯爵から、ドイツ王にまでなったという。
そして、彼の即位に難色を示したボヘミアとオーストリアを支配するオタカル2世を、打ち破り、領土を拡大。
ハプスブルク家躍進の礎となったのだった。
1240年よりハプスブルク伯。
1273年よりドイツ王。
1276年よりオーストリア公となっている。
ルドルフ4世。カエサルとネロに認められた大物(?)
(1339~1365)
1356年。
神聖ローマ皇帝のカール4世は、大きな特権を持つ七選帝侯(帝国皇帝の選挙権を持つ、7人の諸侯)を指名した、金印勅書(皇帝の命令を記した、黄金の印が添えられた公文書)を発布。
しかしその七選帝侯から、ハプスブルク家が省かれた事に、怒りを爆発させたのが、当時20歳くらいのルドルフ4世。
彼は、「余は七選帝侯などよりさらに上級たる存在、オーストリア大公である」と堂々と宣言。
そして、歴代5人の皇帝による(本物であるはずがないがかなり本物ぽかったという)特許状を用意。
これは後に『大特許状』と呼ばれるようになる。
そしてその大特許状を、ルドルフ4世は、ペトラルカなる大学者に鑑定依頼の名目で差し出す。
あろう事か、古代ローマの皇帝であるカエサルとネロの(当たり前だが確実に偽物な)手紙をつけて。
よく出来た大特許状に、バカらしいとすら言える古代の偉人の手紙に、カール皇帝は、ただならぬ何かを感じざるを得なかった。
そしてこの件はうやむやにされたが、100年ほど後に、大特許状は、正式に帝国法に取り入れられる事になったという。
フリードリッヒ3世。双頭の鷲の紋章を我が物に変えた、帝国の大愚図
(1415~1493)
悪意の塊のような何かであり、親しむ事など不可能な『帝国の大愚図』と称されるほどに、評判の悪い人。
決して誰かと正面から戦う事はせず、逃げ足だけが取り柄。
しかしこの愚図といわれるほどの間違いない愚図は、長生きする事で、ライバルを消し去る(つまりライバル関係にあった者達は勝手に死んでった)。
そして彼はハプスブルク家で最初の神聖ローマ皇帝となり、ルドルフ4世の大特許状を、まぎれもなく本物に変えたのであった。
またハプスブルクの家紋と言えば『双頭の鷲』だが、これはもともと神聖ローマ帝国の紋章であったようである。
だがフリードリッヒ以降、ハプスブルク家が長い間、神聖ローマ皇帝を独占していたので、その内にハプスブルクの紋章と同一視されるようになったのだという。
マクシミリアン1世。中世最後の騎士にして、神聖ローマ帝国を完全に乗っ取った野心家
(1459~1519)
フリードリッヒ3世と、かの航海王子エンリケの姪であるエレオノーレとの間に生まれた、あの父にして、とはならなかった、優秀な人だったという。
「エンリケ航海王子」世界史における、大航海時代を始めたポルトガルの王子
中世最後の騎士とも称される彼は、史上初めて、教皇らによる戴冠式を行わずに皇帝となった。
だが、それは1494年にフランスがイタリアを侵攻した事で始まった戦争のせいであり、彼の本意ではなかったとされる。
彼は、神聖ローマ帝国を、厚かましくも『ドイツ国民の神聖ローマ帝国』と改称。
これはドイツ系であるハプスブルク家の権力を高めようとする狙いがあったとされる。
それどころか、40年ほどの治世の内、25回も遠征し、戦場にばかり彼はいた。
その秘めた真の野望は、ヨーロッパ全土の支配であったとされている。
彼はまた近代的な郵便制度を確立した人としても知られているという。
ルドルフ2世。オカルト趣味ながら、ケプラーの法則の裏の功労者
(1552~1612)
芸術家肌で、政治的には全くの無能。
あるいはオカルトまみれの変人。
時々は、ルネサンス(様々な芸術や古典的文化の復興があっとという14世紀~16世紀くらいのヨーロッパ)にて最高の知性と称される。
そんな、いまいち掴み所がない、やはり変人。
障害独身だが、愛人は多く、子だくさんでもあった。
また、彼はハプスブルクの伝統的な拠点であったウィーンを嫌い、プラハに城を構えたという。
そして彼はプラハに、怪しげな錬金術師や占星術師を集め、プラハはその内に『魔法の街』とも呼ばれるようになったのだという。
「錬金術」化学の裏側の魔術。ヘルメス思想と賢者の石
「占星術」ホロスコープは何を映しているか?
そんな彼を無能だとする弟マチアスに、彼は次々と実権を奪われ、やがては名ばかりの皇帝として、情けなく引きこもる事になったのだという。
だが忘れてはならないのは、彼がプラハに集めた怪しげな連中の中には、プラーエやケプラーがいた事。
この二人は、ルドルフ2世の庇護の下で、有名な惑星の公転運動の法則、すなわち『ケプラーの法則』を打ち立てたのである。
それがやがてニュートンの万有引力の定理。
「ニュートン」世界システム、物理法則の数学的分析。神の秘密を知るための錬金術
そしてアインシュタインの相対性理論へと繋がっていったのだ。
「特殊相対性理論と一般相対性理論」違いあう感覚で成り立つ宇宙
マリア・テレジア。畏怖される戦争女帝
(1717~1780)
ハプスブルク帝国を最も広範囲に広めたというカール6世の長女、マリア・テレジア。
息子のいなかったカール6世から、皇帝の座を継承するはずだった彼女。
しかし女帝と呼ばれながら、彼女は結局神聖ローマ皇帝にはなれなかった。
女子の相続など馬鹿馬鹿しいと、フランス、スペイン、プロイセン、バイエルン、ザクセンなどが、戦争をふっかけてきたが、彼女は見事にそれを退ける。
この戦いは『オーストリア継承戦争』と言われている。
さらに夫であるフランツをローマ皇帝に即位させながら、自身の生前は、彼を表に出さず、実質的女帝として、自らが政治を行ったという。
さらには娘達を政略結婚の駒として用い、まさしく女帝であったという。
また、オーストリア継承戦争にて、プロイセンのフリードリッヒ大王に奪われた、シュレジエンという領地。
彼女はどうにかして、ここを取り戻そうと、敵対関係に近かったフランスのブルボン家と同盟を結びもした。
しかし、これは結局叶わなかったという。
マリー・アントワネット。パンがなければお菓子を食べればいいじゃない
(1755~1793)
マリア・テレジアの15番目の子にして、末の娘。
ポルトガルのリスボンを中心とした、数万人の犠牲を出したリスボン大地震が起きた翌日に彼女は生まれたという。
そして政略結婚により、フランスのブルボン家の王妃となる。
天変地異が起きる時こそ、上の立場にある者の真価が問われる。
大地震の子である彼女は、しかし、火山活動の活発化が原因と思われる寒冷化も、それによる凶作も、危機の自覚すらなかったとも言われる。
「火山とは何か」噴火の仕組み。恐ろしき水蒸気爆発
「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」
実際そんな事を言ったかどうかはともかく、苦しむ民をほって、贅沢な暮らしを続けるその姿は、フランス革命の引き金のひとつとなった。
フランツ・ヨーゼフ1世。オーストリア・ハンガリー帝国を誕生させた哀れな奴
(1830~1916)
18歳にして、皇帝に即位した彼の統治の前半は失敗の連続であったとされる。
主導権を握るプロイセンに、ドイツ帝国からは追い出されてしまう。
さらに、ハンガリー独立を強引に抑える為に『オーストリア・ハンガリー二重帝国』とかいう、よくわからない国家体制を敷き、民の不満を増幅させた。
後に自らの非を認めた彼は、ハプスブルク帝国の完全崩壊をせめて止めようと、ただただ静かに地味に業務をこなしていった。
不幸も敵であった。
メキシコにいた弟マクシミリアンの暗殺。
皇太子ルドルフの自害。
妻エリザベートまでも旅先で暗殺されてしまう。
エリザベートは、本来、フランツ・ヨーゼフの結婚相手になるはずだったヘレナの妹であった。
見合いの席に、ほとんど遠足気分で同席していた彼女に、若きヨーゼフは一目惚れしたと言われる。
典型的なマザコンであるヨーゼフが、唯一母ゾフィーに逆らった事象が、彼女との結婚であった
カール1世。ハプスブルク最後の皇帝と、しぶとき王妃
(1887~1922)
ルドルフ1世より700年ほど続いたハプスブルク帝国のラストエンペラーとなった人。
実質的に伯父であるヨーゼフ1世の代で、ハプスブルクは崩壊寸前であったのだが、彼にその現実を覆せるような才はなかった。
第一次世界対戦にて敗戦し、彼はオーストリア・ハンガリー帝国を放棄。
亡命先のスイスにて、復権を画策もしたようだが、結局叶わず、ハプスブルク帝国は終焉を迎えた。
夫カールを尻に敷き、焚き付け続けた妻ツィタは、1989年に永眠するその時まで、ハプスブルク王朝が滅び去った事実を認めなかったという。
退位宣言なしには、オーストリアの地を二度と踏めない事になっていた彼女。
しかし、折れない彼女に、ついにオーストリア政府は根負けし、1982年には、彼女はついにオーストリアに一時帰国までしたという。