中国料理の文化。中華料理とは何か
雑種の食文化。時代と民族の変化
中華料理は、雑種の食文化と例えられることがある。
古代は、夏(紀元前20世紀〜紀元前17世紀)より始まったとされる中国文明は、何度もその支配層の民族を変えて、文化を変化させてきた。
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そしてその長い歴史をかけて、中国の地の人達は、様々な民族の料理を受け入れ、さらにその中から美味しいものを追求してきた。
そうして、万人に好まれる中華料理が、今あるのである。
新しい現代の中華料理
今、「チャーハン」、「餃子」、「担々麺」、「チリソース」、「麻婆豆腐」と、様々な中華料理が知られているが、実はこれらのほとんど全てが、おそらくは4000年どころか、400年の歴史もないだろうと考えられている。
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古くから、様々な文献に、様々な料理が記録されてきたが、現代でも食べるような料理が登場しはじめるのは、ようやく宋(960~1279)の時代くらいからなのだという。
例えば四川料理は、辛い中華料理の代表のような存在で、唐辛子を調味料として使う料理も多い。
しかし、中国に唐辛子が伝わったのは明(1368~1644)の後期くらいとされている。
つまり、唐辛子の使われる全ての四川料理が、明の時代より以降なのだという事になる。
中国人にとっての中華料理。外国人にとっての中華料理
かつて、中国人は自分達の料理のことを、中華料理などとは呼ばなかったという。
四川料理とか、広東料理とか、あくまで地域ごとの料理という認識が強かった。
これは実際、あるようだが、中国人が日本など、外国に料理店を開く場合、例えば四川料理店を名乗っているのに、「北京ダック」を求めてやってくるお客さんがいたりとかするのだという。
ただ、中国外では、様々な地域料理が、中華料理と一緒くたにされてることも普通に知られているので、そういう注文にも対応できるようになっている店も多いという。
また、中国国内でも、20世紀末くらいから、メディアなどの影響で、地域ごとの壁が崩れてはきてるようである。
日本における中華料理の上中下
日本では、中華料理は、上、中、下に分類されることがあるという。
「フカヒレの姿煮」、「ツバメの巣」のような、高級とされる中華料理が「上」。
「エビチリソース」、「ピータン」などの、一品料理が注文出来る店で食べれる料理が「中」。
「シュウマイ」や餃子のような点心(菓子類)、麻婆豆腐のような、大衆食堂などで普通に見られるような料理が「下」となる。
中華料理の誕生。三皇五帝の時代
宿沙と塩。中国最初の調味料
中国で最高の調味料は塩だとされている。
どこまで実話の話かもわからないが、紀元前4000年頃。
中国各地の様々な部族の内、伏羲の部族と、神農の部族に挟まれた地にいた、宿沙なる人物、あるいは部族が、海水から、初めて塩を製造したのだという。
宿沙は死後、塩の神様として崇められ、安邑、後の山西省運城県に、「塩宗」という廟が建てられた。
火の発見。狩猟、漁、牧畜、農業の始まり
伏羲、神農と共に三皇に数えられる事もある燧人は、また火を発見したという。
伏羲は、狩猟や漁、牧畜を人々に教えた。
神農は、様々な薬草のエキスパートで、穀物を栽培する術を人々に教えた。
かまどの神、黄帝
炎帝(神農)を倒し、その土地を受け継いだ黄帝は、かまどを発明した。
それにより、火で集めた食材を炙ったり、煮込んだりする事が出来るようになったのだった。
かまどの神でもある黄帝は、つまり中華料理を始めた王であったのだ。
中国人は、自分達を「炎黄子弟」と称する時がある。
つまり炎帝、黄帝こそ、自分達の始祖という訳である。
中華料理は、中国人の手に最初からあった訳である。
夏殷周の厨房
夏。杜康、杜康、杜氏
三皇五帝の時代の後、禹によって開かれた夏王朝。
この夏の五代目(あるいは六代目)の王、少康は、酒の神様として知られる杜康その人であるという説がある。
少康はもともと、虞という国の王に仕えるコック長だった。
彼はコックではあるが、 勇敢で、統率力に優れている、と評判であったため、夏と敵対する、鬲なる国にスカウトされ、軍隊長を任せられる。
そして少康は、鬲の軍を率いて夏に攻め込み、侵略に成功して、そのまま王の座についた。(というか、当時の夏は侵略者に奪われていたので、その侵略者を追い出し、夏を復興したとも)
その後、 元コック長の王様は酒を開発したのだという。
日本では、酒の職人を、杜氏というが、これは杜康が由来という説もある。
殷。青銅の包丁、まな板、蒸し器。麹の発明
青銅器は、殷(紀元前17世紀頃〜紀元前1046)の頃に、普及したと考えられている。
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おそらく、銅製の包丁、まな板、蒸し器が、この時代にはあった。
象牙の箸も作られたという。
河南省殷墟婦好墓で見つかった、調理器具や食器は、当時の王の食卓が豊かであったことを物語る。
また、殷代から、酒の醸造に、「麹」が使われるようになった。
麹は、米や麦などの穀物に、コウジカビなどの、食品発酵に有効な微生物を繁殖させたもの。
この麹は、アジアとヨーロッパの食文化を大きく別れさせたとされる。
中華料理にとっても、麹は、味噌、醤油といった調味料の製造技術として重要である。
殷の宰相だった伊尹は、料理の達人だったようである。
彼は、食材選びから、 火加減、調味料の調整、料理の順序、食品の衛生管理まで、とにかく食に関するエキスパートだったとされる。
周。周八珍。地方料理文化の確立
周(紀元前1046年頃〜紀元前256年)の時代には、王朝が抱える厨房の規模もより贅沢になり、階級なども事細かになった。
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また、『周八珍』という名物料理が伝わっている。
淳熬、淳母、炮豚、炮羊、擣珍、漬、熬、肝膋の八つのメニューである。
淳熬は、白米と肉醤(塩漬けの肉)を混ぜたもの。
淳母は、黄米と肉醤を混ぜたもの。
炮豚は、豚肉を湯煎(容器越しに湯で熱する調理法)したもの。
炮羊は、羊肉を湯煎したもの
擣珍は、ひき肉の炒めもの。
漬は、酒に漬けた牛肉。
熬は、香料をまぶした干し肉。
肝膋は、火で炙った犬の肝臓。
南と北で、料理文化に違いが生じ始めたのも周の頃とされる。
中国はゲテモノ料理文化というイメージもあるが、これは主に南方料理のイメージだという。
一方、北の方の食文化は、儒教の開祖とされる孔子の影響が大きいとされる。
彼は、偏食家で、ゲテモノは好まなかった。
そうして、あらゆる食材に、あらゆる調理法で、変化に富んだ南方料理。
食肉は家畜のみで、調理法もあまり冒険をしない北方料理。
というような違いが生じたのだった。
中華料理、歴史との関わり
漢。仏教とともに持ち込まれた豆腐
漢(紀元前206〜紀元220)の時代には、様々な技術が発達し、外国との貿易も盛んとなった。
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そうしてこの時代に、スイカ、きゅうり、そら豆、大根、胡椒、ネギ、ほうれん草、にんにくなどの食材が、中華に輸入された。
おそらく最も重要な輸入品とされているのが、インドから、仏教とともに持ち込まれた豆腐であろう。
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豆腐は、加工食品という概念を中国各地に浸透させた。
そのような加工ものは、肉などの生ものを示す「葷」に対して、「素」と呼ばれた。
晋。安平食単、食珍録、食経
晋(265~420)の時代。
人々の知識も、貿易規模も、さらに向上し、様々な発明が、集大成される事になった。
そうして、「安平食単」、「食珍録」、「食経」といった、中華料理の神髄たる、偉大な古典調理本が、この時代に多く書かれた。
隋唐。食事療法の始まり。段文昌と膳祖
「食は治療なり」という概念は、隋(581~618)と唐(618~907)の時代に生まれ、広まったという。
漢方薬の名医として知られた孫思邈は、
「備急千金要方」なる書に、150種類の食材の治療効果を書いた。
この書は、中国で最古の食事療法の書として知られている。
さらに、孫思邈の弟子の孟詵の「食療本草」。
王燾の「外台秘要」。
咎殷の「食療心鑒」などにより、 食事療法は広まっていったのである。
また、自身も、食経をものとするほどの食通であった、段文昌は、屋敷の厨房に、膳祖と 呼ばれていた老女シェフを抱えていた。
あらゆる調理のエキスパートであった彼女だが、その彼女が実力を見込み、弟子と定めたのは、生涯でわずか9人だけだったという。
そして、唐は、茶道が開花した時代でもあった。
陸羽の「茶経」は、 それまでのお茶に関する記述の集大成として知られている。
茶経は、それまでは主として、僧が飲む物であった様々なお茶を、市民の食卓へと運ぶ役割も果たした。
宋。グルメブームの時代
宋は科学技術が大きく発展した時代。
印刷、羅針盤、火薬の発明される傍らで、人々は、グルメにも目覚めたとされる。
次々と新たな食材や調理法が確立され、街には多くの料理店が並んだという。
食材特化の専門料理店もこの頃からと考えられている。
各地方の人の趣向に合わせた料理を出す店 。
歩く食べ物屋さんもできて、とにかく一大グルメブームだった。
陣達叟の「本心齋疏食譜」のような、食に関する書も、数え切れないほど出版された。
羊のしゃぶしゃぶ。牛肉のしゃぶしゃぶ
そしてジンギスカンとその後継者達のモンゴル帝国に、宋の国も侵略された時。
イスラムの影響が中国にも広まる事になった。
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漢族が常食としていた豚肉を口にしなかった彼らは、代わりに羊のしゃぶしゃぶ、涮羊肉などの、新たな調理法を伝え、もたらした。
実は、日本料理として扱われる、牛肉のしゃぶしゃぶは、この羊のしゃぶしゃぶを、真似て改良したものとされている。
明。本草綱目の時代
航海技術の発達により、海を隔てる遠国とも、交易が盛んとなった明の時代。
パイナップル、トマト、じゃがいも、山芋、とうもろこし、ココアなど、新たな食材が、またいくつも持ち込まれた。
また、薬師の李時珍がまとめた、漢方薬百科事典「本草綱目」は、薬草学の史上最高の書であった。