コンピューターゲームの誕生「ゲーム機以前のゲーム機の歴史」

SFゲーム

史上最初のゲーム機。ゲーム・オートマトン

エル・アヘドレシスタ(チェスプレイヤー)

 歴史上、最初に計算機を機構に含んだゲームマシンの有力候補として、 レオナルド・トーレス・ケベードが 1912年に完成させた、オートマトン、つまり自動人形の『エル・アヘドレシスタ(チェスプレイヤー)』がある。
 それは、チェスの最終局面において、アームが白のルークとキングを扱い、人が盤面のどこに黒のキングを置こうと、電気センサーでその位置を感知し、詰ませる事ができるというものであった。

コンピューターの父、チャールズ・バベッジの夢

 スペイン出身のケベードは、マドリードの王立自然科学アカデミーの一員として、螺旋状歯車を用いたアナログ計算機やロープウェイ、飛行船、無線コントロール技術などに関して、業績を残し、名声を得ていた人物。
 彼のチェスマシンは、ヴィクトリア朝時代(1837〜1901)のイギリスの数学者、チャールズ・バベッジが果たせなかった夢でもあった。
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 コンピューターの父とも呼ばれるバベッジは、1819年に、当時、チェスを指すオートマトン『ターク(トルコ人)』と対戦しているという。
タークは、非常に高い人気をほこっていたものの、実は中に人間が入っていたインチキであった。
バベッジはしかし、このタークに触発されて、ゲームをする機械の研究を始めたとも言われる。

ターン制の思考ゲーム攻略のための数学的手法

 バベッジは、1844年に、ターン制の思考ゲーム全般の攻略手順を、数学的に分析する手法についての論文を発表した。
そしてその手法を基礎として、単純な三目並べ(マルバツゲーム)をプレイするオートマトンを構想したが、結局それは完成には至らなかったという。

 バベッジより数十年以上の後。
自身の時代に大いに発展した電気工学を利用して、偉大なコンピューターの父の夢を、自分が実現させてやろうと、ケベードは考えたのであった。

実現されたターク

 エル・アヘドレシスタは、フランスのリヨン万博に出展され、 1920年頃には、より外見が洗練された2号機も製作された。
しかしながら、第一次世界大戦(1914〜1918)が引き起こした、世界的混乱は、大衆の娯楽的な発明品への関心を薄れさせてしまった。

 100年前の人たちが見ていた夢は、100年後に現実となっても、そんなに流行ったりはしない事が多い。
ゲームするオートマトンも、その例にもれず、そんなに広まる事はなかった。

戦争とコンピューター技術

ボートンの自動ニムの原理。コンドンのNimotron

 バベッジの思考ゲーム攻略用の数学は、流行る事もなく、途中で途切れてしまったオートマトンとは、また別の脈絡を生み出していた。
 ターン制ゲームの手順を数学で導く、バベッジの手法は、20世紀以降、着実に進化していく。

 1901年頃。
ハーバード大学のチャールズ・ボートンが、中国発祥の数取りゲーム、ニム(山崩し)というゲームの必勝法が、ニ進数演算で導き出せることを解明した。
 そして、チャールズの考え出した原理を利用し、電気メーカー、ウェスティングハウス・エレクトリック社(WEC)で働いていた物理学者エドワード・ユーラー・コンドンは、ニムをプレイ可能な『Nimotron』を開発した。
彼はそれを、1939年のニューヨーク万博に出展している。

 Nimotronは、ゲームのプレイ過程自体を電光表示により、表現している点が、プレイは現実に行うオートマトンとは、まったく異なる発明と言えた。

電子コンピューターの誕生

 Nimotronが世に出てくるより2年前。
1937年に、プリンストン大学のアラン・チューリングが、論理計算を、完全自動で行える、『チューリングマシン』の概念を発表。
これが後に、実際に開発された電子コンピューターの、最初期の構想であった。
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 さらに1938年。
MITのクロード・シャノンがブール代数による二進数の記号論理を、スイッチング回路で表現できることを示した。

 ドイツでも、1938年に、土木技術者だったコンラート・ツーゼが、独力で、電気機械式計算機「Z 1」を開発。
 さらに1941年には、記録用の紙テープである、鑚孔(きんこう)テープで、プログラミングが可能だった、 世界初の自動電子計算機「Z3」も完成した。

 同じく1941年。
アメリカは、アイオワ州立大学の『アタナソフ&ベリー・コンピュータ(ABC)』を開発。

 そしてこのくらいの時期から、各国でコンピューターが次々と開発されていく事になったのだった。
 また、この時期にはまだ、コンピューターゲームとかデジタルゲームとかいう用語はなかったが、ゲーム自体は、計算機の性能を確かめるための試験台という役割を与えられていた。
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国防研究委員会

 オートマトンに比べたら、コンピューターというのはずいぶんと実用的だった。
レーダー技術、砲弾の弾道計算、複雑な暗号の解読。
この分野の開発が、登場してから驚くべきほど急激に進んだのは、戦争の役に立つから、ということはほぼ間違いない。

 1938年。
ワシントンのカーネギー研究所の所長に就任した、ヴァネヴァー・ブッシュ。
彼はルーズベルト大統領に進言し、1940年に、大統領直轄の国防研究委員会(NDRC)を創設させ、その委員長となった。
そうして彼は、民間の研究機関に、軍事研究のための予算を配布する 権利を得たのだった。

 WECで、マイクロ波レーダーの研究をしていた、Nimotronを開発するコンドンも、このNDRCのコンサルタント業務を請け負っていたという。

ミサイルとレーダー

 アメリカ、ペンシルバニア大学ムーア校の、ジョン・モークリーとプレスパー・エッカートが、世界初の汎用デジタル式電子コンピューター、『ENIAC』を完成させたのは1946年。
そしてその翌年の1947年 民間のテレビ機器メーカー、デュ・モン研究所のエンジニアだったトーマス・ゴールドスミス・ジュニアと、エストル・マンは、『Cathode Ray Tube Amusement Device』という特許を出願。
これは、レーダーの画面をイメージした円形のCRT(ブラウン管)上に、仮想ミサイルである光の点を表示、そのスピードと角度を、複数のノブやスイッチによって、電気的に変化させ、的に当てるという、ゲームが遊べるマシンだった。
 しかし、この機器は、ゲームに必要なすべての情報をCRT上には表示できず、的は、画面の上にかぶせるシートに描いていた。

ノイマンのプログラム内蔵方式電気計算機

 1945年。
フォン・ノイマンは、プログラムを、データと同じ記録装置に入れることで?演算速度と汎用性を高める、『プログラム内蔵方式コンピュータ』のアイデアを、1945年に発表。
 そして1949年には、イギリスのケンブリッジ大学が、実用的なプログラム内蔵式コンピューター『EDSAC』を開発。
さらにマンチェスター大学も、軍事用電子機器メーカー、フェランティ社と契約し、『Manchester Mark I』を作った。

 プログラム内蔵方式コンピューターは、ゲームのプラットフォームとしても、優れたものと言えた。
 クロード・シャノンは、1950年に、コンピューターにチェスをさせる思考プログラム手法に関する論文を発表したが、これは、Manchester Mark Iを母体とした商用機『フェランティMark I』のためのものだった。
 コンピュータチェスの研究において、この機種はかなり人気であったという。

Tennis for two。最初のコンピューターゲームか

純粋に遊ぶため、楽しむためのゲーム

 1958年。
ニューヨーク州ロングアイランドにある、ブルックヘブン国立研究所が、一般向けのオープンハウス(研究所公開イベント)にて、ある革命的な装置を展示した。
 それは『Tennis for two』という機器で、手のひらの上で操作できるコントローラーをアナログ演算器に接続し、表示画面に映されたテニスコートとボールを、光の線と点で表現したテニスゲームだった。

 Tennis for twoを開発したのは、 研究所の計測器部門の責任者だった、ウィリアム・ヒギンボーサム。
これはまた、世界初のコンピュータゲームとも言われることもあるが、全く斬新な要素がそんなにあるわけでもないので、世界初とする のは微妙、という意見も多い。

 だが、このゲームに関して、重要なのは、製作の動機かもしれない。
ヒギンボーサムは、毎年のオープンハウスが、あまりに退屈すぎると感じていて、 来場者を 楽しませようという意図をもってこのゲームを作ったのである
コンピューターの性能とか関係なく、誰かを楽しませようという意図 のみで制作されたゲームとしては、確かにこれは最初期のものと考えられるのだ。

マンハッタン計画。FAS。実用科学への抵抗

 ヒギンボーサムは、アメリカの原子爆弾開発計画である「マンハッタン計画」に参加し、そして警告もなしに、使う予定のなかった日本に、その恐ろしい新兵器を使う事に反対した、多くの科学者のひとりであった。
彼は核兵器の廃絶を目的とする非営利の科学者組織、「FAS(アメリカ科学者連盟)」を同僚達と設立し、その初代会長にもなっている。

 Tennis for twoは、実用的と呼ばれ、政治や戦争に利用される科学の現状への、ヒギンボーサムのささやかな抵抗だったかもしれないと言われる。
まさに非実用的だ。
それはただ、不特定多数の人を楽しませ、時間を無駄にさせることだけを目的としていたのだから。

ゲームはどれほど素晴らしいものか

 ヒギンボーサムは、自身の利益すら求めなかった。
彼は自身の開発したゲームに関して、一切の特許を取らなかったのである。

 面白いのが、ヒギンボーサムは晩年には、自身が核兵器廃絶運動を先導したひとりでなく、コンピューターゲームの先駆的発明者として記憶される事が多い事を、嘆いていたらしい事であろう。
しかし、それこそ、コンピューターゲームは、非実用的ではあっても、原子爆弾の何千倍も素晴らしい発明だった事の証明と言えるのかもしれない。

宇宙戦争。最初のシューティング。最初のフリー

冷戦。 宇宙開発競争と、ハッカーの時代

 核戦争の危機と呼ばれていた、冷戦(1945〜1989)の時代というのは、アメリカとソ連の宇宙技術開発競争の時代でもあった。
1957年に、ソ連はR7型ロケットにより、スプートニク1号を地球周回軌道に送った。
つまり、人類初の人工衛星打ち上げに成功したのである。
アメリカは、1958年、宇宙技術開発の遅れを取り戻そうと、「航空宇宙局(NASA)」 を設立した。
しかし、1961年、ガガーリン少佐を乗せたボストーク1号が、地球周回飛行に成功したことにより、初の有人宇宙飛行の栄光も、ソ連のものになってしまう。

 そうした状況の中、MITなどに存在していた、ゲリラ的な悪戯を愛好する「ハック」の気風の影響より、本来の真面目な用途の裏をかく愉快犯的な楽しみを目的としてコンピューターを使う、「ハッカー文化」が育まれていた。

 スティーブ・ラッセルは、そうしたハッカー達が集っていた、MITの学内サークル、「TMRC(テック模型機関車クラブ)」に所属していた。

SFをゲームに

 デジタル・イクイップメント社(DEC)が、 開発した、 従来のものよりも大幅にサイズダウンさせた「ミニコン」などと呼ばれる事になる汎用コンピューター「PDP1」。
そのPDP1のデモプログラム「Three Position Display」は、 相互作用する三つのドットが様々なパターンを生成するというものだった。
 E・E・スミスの書いたような古典的スペースオペラSFが好きだったラッセルは、Three Position Displayの相互作用するパターンを、 ミサイルを撃ち合う二機の宇宙船に置き換え、対戦型のゲームにしたら面白いのではないかと考えた。

 そうした着想から、ラッセルが仲間達と生み出したのが、SF的な宇宙戦争のイメージを、真っ黒のCRT画面上に投影させた、世界初のシューティングゲーム、『Spacewar』であった。
Spacewarは、 開発の過程で、重力井戸の太陽を置いたり、背景に星空のパターンを描いたりするなど、次々と新しいアイデアも加えられた。
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そして、ゲームの操作には不便とされた、PDP1付属のトグルスイッチに代わって、宇宙船の旋回、加速、ミサイル発射の操作を行う専用コントローラーも、ジャンクパーツを流用して作られた。
 そうして完成したそのゲームは、1962年5月の学内セミナーで披露された。

パブリックドメインソフトウェア

 Spacewarは、コンピューターゲームの歴史において、最も重要な発明の一つとされている。
それはこれが、それまでの単発のコンテンツにすぎなかった、コンピューターゲームと違い、多くのハッカーたちの間で共有される、 一種のメディアとしての機能を果たしたためである。

 Spacewarを開発したラッセルと仲間達は、 そのプログラムを自由に複製、改造してよいものとして、拡散したために、 各地のハッカーたちの手によって、様々なアレンジ版、アップデート版が開発されていったのだ。

 後にはよく問題になる、ソフトのコピーや共有だが、この頃は画期的な素晴らしい試みだった。
 またこれは、オープンソース形式のような、開発者とユーザーが協力してコンテンツを進化させていくようなソフトウェアの先駆的なものでもあった。

 そういう訳でSpacewarは、世界初のパブリックドメインソフトウェアとも言われる。

Spacewarがもたらしたもの

宇宙旅行とUNIX

 Spacewarに洗礼を受けたハッカーのひとりだった、ベル研究所のケネス・トンプソンは、ゼネラル・エレクトリック社(GE)社製のメインフレーム「GE-635」にて開発中だったMultics用に、オリジナルゲーム『Space travel』を作成。
これはタイトル通り、太陽系を構成する惑星や衛星群の大きさや、質量や公転運動などを、ディスプレイ上に簡易再現し、そうした擬似的な宇宙空間の航行シミュレーターであった。
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 天体の重力の影響などを、上手くかわしたり、利用したりしながら、宇宙船の挙動を調節し、目的の天体を目指すというこのゲームは、対戦式でなく、ひとり用のゲームという点で、かなり画期的であった。

 使用料の問題もあり、DEC社のミニコン、PDP7に、移植されたSpace travelが世に出たのは、奇しくも、アポロ11号が人類初の月面着陸に成功した、1969年であった。

 トンプソンはまた、Space travelの移植の経験を活かし、Multicsよりも、シンプルで軽快に動作する汎用OS「UNICS」を開発。
これは後に「UNIX」と改称され、オープンシステムの標準となっていった。

ノーラン・ブッシュネル。遊戯とビジネス

 1962年に、ユタ州立大学に進学したノーラン・ブッシュネルは、 賭けポーカーですってしまった学費を補うために、遊園地でアルバイトをした。
彼はそこで、射的や輪投げの呼び込みをしたり、コインゲームの修理やメンテナンスを経験するうちに、遊戯というのは、人に金を使わせる魅力がある事を実感した。
 そして1965年に工学部に転学したブッシュネルは、コンピューター室でSpacewarにも出会う。
彼はただ、コンピューターゲームという、新たな分野に魅了されただけでなく、それが大きなビジネスになりうることを察していた。

コンピュータースペース。最初のアーケードゲーム

 大学卒業後、アムペックス・エレクトリック社に就職したブッシュネルは、本業の傍らで、ある新しいマシンの製作を開始した。
それは、Spacewarに影響を受けた、ひとり遊び用のシューティングゲームを遊べる装置だった。
つまり、それまでは汎用コンピューターのソフトのひとつだったゲームの、専用の機器である。
 彼はそれを開発すると、アムペックス社を退社し、それを遊具メーカーのナッチング・アソシエーツ社に売り込み、製造販売にこぎつけた。

 そうして史上初とされる、業務用ビデオゲーム『computer space』は世に出たのだった。
流線形の筐体に納められたそのゲームマシンは、 各地の遊戯施設や飲食店向けに、1500台ほど製造されたが、 物珍しさがそれなりに人の目をひいただけで、興行的には失敗したとされている。
 しかしそれは間違いなく、後にアーケードゲームと呼ばれるものの走りであった。

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