カペー朝の終わり
フランスという国の基盤は、10世紀末から14世紀ぐらいまで続いた「カペー朝」の頃に完成したとされている。
「フランスの成立」カトリックの王、フランク王国の分裂、騎士の登場
この王朝が安定して長く続いた理由に関しては、直系男子による王権継承がしっかり連続していたこととはよく言われる。
実際に当時は、大人になる前に死んでしまう子供の数が圧倒的に多かったわけだから、跡継ぎの男の子がしっかり連続して生まれ育ったことは、かなり幸運なことだった。
そうして長く続いたカペー朝の間には、「十字軍遠征(Crusaders expedition)」のような事件もあった。
「十字軍遠征」エルサレムを巡る戦い。国家の目的。世界史への影響
またこの時代からは文字による記録が重要視されるようになっていく。
それにより、政治の構造もより複雑に変わっていき、官僚の役割もより明確になったとされる。
つまり国を管理する政府という組織がしっかりと形成された。
しかし、1328年。
ついには男の子に恵まれなかった15代目の王シャルル4世(1294~1328)が死んで、カペー朝も終わった。
百年戦争とは何だったのか
シャルル4世の後を継いだのは、彼の従兄弟にあたる、ヴァロワ家のフィリップ6世(1293~1350)だった。
そうしてフランスではヴァロワ朝の時代が幕を開けた。
ところでシャルル四世は三男であったが、長男と次男が早死にしたために彼は王位について、しかし彼もまた早くに亡くなってしまっていた。
そのシャルル四世の姉にあたるイザベラ(1295~1358)は、イングランド王エドワード2世(1284~1327)に嫁いでいた。
そして、フィリップ6世が新たにフランス王となった頃には、イングランドの王位は、エドワード2世とイザベルの息子エドワード3世(1312~1377)のものになっていた。
「イギリスの歴史」王がまとめ、議会が強くしてきた帝国の物語
いわゆる英仏の「百年戦争(Hundred Years’ War)」は、簡単にはエドワード3世が、母方の血統を根拠に、「自分の方がフランス王によりふさわしい」と主張して、宣戦布告することで始まったとされている。
イングランド、フランスの両王家の間で奪ったり奪われたりを繰り返していたアキテーヌ地方のイングランド領に関して、フランス王が没収を宣言したのも、直接的な原因だったという説がある。
この事に関しては、イングランドが支配を目論んでいたスコットランドに対し、フランスが援助していた事から揉めていたという背景もあるようだ。
構図。歴史家たちの言い方。まだイングランド
構図的には、この100年戦争というのは、フランスを支配していたフランス系の王族と、イギリスを支配していたフランス系の王族との戦争であるから、実質的にフランスの内戦とされる場合もある。
あるいは近しい血縁関係の者たちの王位継承戦争とも言える。
それと一般的には百年戦争といえば、エドワード3世がウェストミンスターで宣戦布告した1337年から、フランス側が大陸側のイギリス人たちをほぼ完全に駆逐した1453年までの、フランスとイギリスの一連の争いの総称であるが、当然ながら、 両者がその期間ずっと戦いを続けていたわけではない。
それは、間にしっかり休戦期間も挟んだ争いだった。
そもそも100年の戦争という考え方自体が、後世の歴史家たちによる勝手な言い方であり、19世紀までそんな認識を持っている者はいなかったともされる。
さらにはこの戦争の時代は、まだグレートブリテンが統一されていない時代だから、現在のグレートブリテン及び北アイルランドをまとめた呼び名であるイギリスという名称はあまり適切ではない。
「イギリス」グレートブリテン及び北アイルランド連合王国について アイルランドがイギリスの植民地として支配された経緯「中世のアイレ」
これはどう上手く言おうと、イングランドとフランスの戦争であった。
そしてまたこの時代は、「飢饉(famine)」や「伝染病(Infectious disease)」の流行りもあり、ヨーロッパ社会全体が疲弊した時代でもあった。
戦いの始まり
そもそもまだまだ国家というような概念が弱かった時代ともされているが、それでもイングランドとフランスの戦いは、百年戦争の幕が開けた時には、もうすっかりおなじみというくらいのレベルだったという人もいる。
カペー朝の頃から、それぞれの領土を支配していた王族の間の確執は絶えなかったのだ。
この100年戦争は、現在のフランスとイギリスの国境を決めたという点では、かなり重要と言えよう。
エドワード3世とフィリップ6世
実のところ、カペー朝の時代くらいまで、イングランドはフランスより格下感があったともされる。
911年に、(後のフランスとされる)西フランク王国のシャルル3世(879~929)は、キリスト教徒への改宗を条件に、スカンジナビアの方からやってきたヴァイキングたちのいくらかをノルマンディに定住させた。
彼らはイングランドにも手を出していて、11世紀にはイングランドの支配もするようになっていた。
現代的な意味とは異なるとされるが、形式的にはノルマンディ公国はフランスの属国のようなものだった。
そのままイングランドもそうであり、百年戦争が始まる頃までそういう状態は続いていた。
カペー朝時代のイングランドとフランスのいざこざは、基本的には支配地域を広げたり影響力を高めようとするフランスに対する、イギリスの防衛戦のような場合が多かった。
だがエドワード3世の主張と宣戦布告は、明らかに攻めの構えだった。
自分の支配する領土を守るためだけではない。
フランス王の座を奪うということは、彼らが支配していた領土を奪うということでもある。
だからイングランド側には、侵略の必要があった。
ようするにエドワード3世としては、侵略によりフランス王フィリップ6世を苦しめ、 自分の主張がまかり通るような和平条約を結ばせる必要があった。
フランドルの反乱
宣戦布告の時に戦いを決意したわけではない。
すでに前年の1336年に、エドワード3世は攻撃のための明らかな布石を打っている。
フランスの北東の「フランドル伯領(フランダース)」は、ヨーロッパ世界で屈指の 商工地帯であった。
そして重要な商品の一つであった毛織物に関しては、イングランドから輸入していた羊毛にかなり依存していた。
1336年にエドワード3世は、フランドルへの羊毛の輸出を禁止した。
そしてフランドルを構成する諸都市の経済は大きな打撃を受けて、不満を高めた市民たちの反乱が次々と発生。
最終的にフランドル伯ルイ1世(1304~1346)は追放され、彼はフランス王の元に走って亡命したが、フランドルの各都市は、おそらくは単に商業的な理由で、イングランド王への支持を決定した。
『フランドルの反乱(Flemish revolt)』と呼ばれるこの出来事は、百年戦争の始まりのイベントともされる。
イングランドはこうして、戦いを始めるにあたり、大陸側への足場をしっかり確保したわけである。
スロイスの海戦
1338年にフランドルに上陸したイングランド軍は、1339年の9月頃にはフランス王領に侵攻したものの、フランス側があまりやる気を見せず、そこにおいては本格的な戦いは起こらなかった。
そして1940年。
軍資金の関係もあって、エドワード3世は一旦は退かざるをえなかった。
フランス側もただじっとしていたわけでもない。
海軍にイングランドの岸を攻撃させて、そもそもが敵軍に海を渡らせないように図っていた。
さらに1940年6月に、再びフランドルの海岸にやってきたイングランド軍に対し、フィリップ6世は、200の軍艦に乗せた2万の軍勢で迎え撃ったという。
そして(後のベルギーの)ブルッヘ近くのスロイス(あるいはエクリューズ)の港にて、両国の軍は激突した。
この戦いは『スロイスの海戦(Battle of Sluis)』と呼ばれ、 百年戦争における最初の大規模戦闘ともされる。
最初、兵力的にはフランス側が有利だったようだが、勝ったのは、ブルッヘの援軍と挟撃(はさみうち)する形で攻めたイギリス側であった。
この戦いでイギリスはまず、フランスとの間の海峡の最狭部とされる『ドーバー海峡(Strait of Dover)』、あるいは『カレー海峡(Pas de Calais)』の「制海権(Command of the Sea, Sea control)」を握ったとされる。
トゥールネの包囲。エスプルシャン条約
海戦フランス軍を見事打ち破ってフランドルに再上陸を果たしたイギリスのイングランドの軍勢は、さらにそこの各都市から人を集め、3万ほどの数の兵力を確保したとされる。
イギリスは、フランドルの反乱においても指導者的な役割であった、都市ヘントのヤコブ・ファン・アルテフェルデ(1290~1345)に、かなり無茶な(15000人とされる)数の兵を要求したともされる。
もしかしたらあまり戦力にならないような兵も結構いたかもしれない
フランス北部の「サン・トメールでの戦い」、それに続く「トゥールネの戦い」でも、イングランド軍は敗北を喫してしまう。
サン・トメールは再上陸後のイングランド軍の軍事行動により発生した戦いだが、攻めたイングランド側がこれで負けたことによって、戦線は膠着状態に陥ったとも言われる。
トゥールネの戦いは「トゥールネの包囲(Siege of Tournai)」という呼び方の方が適切ともされる。
トゥールネはフランドルの都市だったが、フランス王にしつこく忠義を誓っている地域であり、イングランド軍はすぐにここを包囲した。
この包囲戦は資金をついたイングランド側、食料を失ったフランス側とでの泥沼戦の模様になりそうだったという話がある。
結局、エドワード3世の義理の母で、フィリップ6世の妹にあたるジャンヌ(1294~1342)の両者への嘆願もあり、 2年ほどの休戦協定である「エスプルシャン条約(Truce of Espléchin)」が結ばれる結果となった。
ジャンヌは、ローマ教皇ベネディクトゥス12世(1285~1342)の差し金だったという話もある。
ブルターニュ継承戦争
百年戦争における最初の休戦となった2年の間に、イングランドとのいざこざからフランスに逃れていたスコットランド王デイヴィッド2世(1324~1371)が帰還し、エドワード3世はそちらの問題にも目を向けざるを得なくなった。
一方でフランスの北西ブルターニュでは、1341年の4月に公爵のジャン3世(1286~1341)が跡継ぎを残さず死んだために 継承問題が発生。
継承者候補の一方はジャン3世の異母弟であるモンフォール伯ジャン(1294~1345)で、もう一方はパンティエーヴル女伯ジャンヌ(1319~1384)。
しかしジャンヌの夫のブロワ伯が、フィリップ6世の甥であったということもあり、ジャンの方としては、 フランス王が介入してくる場合を考え、イングランド王に援助を求めるしかなかった。
そうして、イングランドの後ろ盾を得たモンフォール伯は、ブルターニュの主要都市であったナントを占拠。
これを受けて、フィリップ6世は息子であるノルマンディ公ジャン(1319~1364)に軍を使わせる。
結果ノルマンディー公はナントを奪還し、モンフォール伯を捕虜として、もうこれで決着はついたとばかりに兵を引き上げさせた。
だが決着は付いてなかった。
ノルマンディー公のナント奪還は、この「ブルターニュ継承戦争(Breton War of Succession)」の序章にすぎなかったのである。
炎の女と呼ばれた、モンフォール伯の妻のジャンヌ(1295~1374)は、鮮やかで大胆な戦略家。
その彼女が、夫が捕まってからも彼の軍隊を自分で指揮して、ブロワ伯側に対して徹底抗戦したのだった。
戦いは長びき、 ついにはエスプルシャン条約の期限もきれて、エドワード3世もまた上陸してきた。
結局1343年に、教皇クレメンス6世の仲介もあり、1946年までの休戦協定が結ばれる。
継承問題は棚上げの形となり、イングランドとしては得になった。
モンフォール伯を保護するという名目で、ブルターニュに堂々と軍を配備できたから。
クレシーの戦い
フランドルに加え、ブルターニュにも足場を得たイングランドは、1346年7月に、今度はノルマンディに上陸。
当時のイングランドは、「騎行(Chevauchée )」なる戦法を得意としたとされる。
これは騎兵隊に、道行く先々で略奪や放火を繰り返させ、敵軍をおびき出すという荒業である。
その騎行によって、イングランド軍はフランス側を挑発。
そして8月。
ポンテュー伯領の都市クレシーにて、 両軍はまたぶつかることとなった。
この「クレシーの戦い(Battle of Crécy)」において、フランス側の数万の騎馬兵に対して、イングランド側は全員が歩兵の構えだったとされる。
百年戦争の以前、フランスの属国にすぎなかったみたいな小さなイングランドだが、しかしだからこそ、ここでは王の権力がフランスよりもかなり強かったと思われる。
騎兵は基本的に貴族の出身であった。
馬に乗るということは一つのステータスだったわけだ。
それを、戦略のためとはいえ降りてもらうというのは、強い軍に対して強い影響力が必要だったとされる。
イングランドはさらに、支配下におく過程で苦戦させられたウェールズの弓矢戦法を取り入れ、縦はともかく横の動きが弱い騎兵たちに、遠距離攻撃で対抗した。
結果はどうか。
この戦いはイギリスの完勝であったとされる。
勝利を続けるイングランド
クレシーの戦いに勝利したイングランド軍はかなり波に乗ったとされる。
1347年にはドーバー海峡と結んでいた大陸側の港町カレーを攻め落とす。
さらにイングランドはアキテーヌでも勢力を拡大。
ブルターニュでは「ラ・ロシュ・デリアンの戦い」でブロワ伯を、それにスコットランドのデイヴィッド王も「ネヴィルズ・クロスの戦い」で捕らえることにも成功する。
また、1347年9月28日にはローマ教皇クレメンス6世(1291~1352)の仲介により、 あらたに休戦協定が結ばれていたが、小競り合いは果てしなく続いた。
フランドルにおいては1349年に、フランスについていた伯爵ルイ2世(1330~1384)が都市勢力を平定したことで、イギリスの勢力は排除された。
黒太子エドワードと賢王シャルル
フランス王フィリップ6世は、1850年8月26日にこの世を去った。
後を継いだのは長男であるノルマンディー公の(2世を名乗るようになる)ジャンである。
そして彼はそのままイングランドとの戦いも相続した。
しかし休戦は更新を続けていた。
領土争いどころではなかったというのがある。
1348年から、ヨーロッパでは恐るべき伝染病である『ペスト(Pest)」いわゆる「黒死病(Black Death)」が流行し、人口が激減してしまったのである。
それでも国同士の間に平和が訪れることはなかった。
1354年。
フランスの南東部アヴィニョンで、イングランド王はフランス王の座を諦める代わりに、アキテーヌの領土の保持と、ポワトゥー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌなどの領土を要求したが、フランス王はそれを拒否。
両国の雰囲気は再び悪くなる。
ポワティエの戦い。捕らえられたジョン2世
1355年には、イングランド軍がまた騎行を開始。
フランス側も戦いに備えて兵力を増強する。
そして1356年。
エドワード3世の長男、エドワード黒太子(1330~1376)率いるイングランド軍は、「ポワティエの戦い」にて、フランスに勝利した。
もともと黒太子はこの時に戦うつもりはなく、ポワティエの戦いは、その地に追い詰められての仕方ない戦いだったとされているが、 終わってみるとクレシーの戦い同様の結果となる。
つまり騎兵ばかりのフランス軍は、弓矢攻撃であっさりと崩されてしまう。
しかしクレシーの時よりも弓兵の数が少なかったこともあり、実はフランス軍の力押しがうまくいきそうになっていたという説もある。
いずれにしてもポワティエの戦いでは、イギリス側も騎馬兵をよく使って、結局フランス軍を打ち負かしたという。
イギリス軍は諦めの悪かったジャン2世を捕らえたが、フランス王は大胆にも、「私の身柄を巡ってケンカするのはやめたまえよ。どうせ私を捕らえた以上、そなたらは揃って大金持ちになれるだろうから」などと余裕を見せたとされる。
ジャン2世の余裕はこの時代としてはそう奇妙なものでもなかったようだ。
この時代、捕虜にされるのは基本的に高い身代金を用意できる大貴族ばかりで、金と引き換えに返す前提であるから、捕虜はずいぶん丁重に扱われたという。
監視されながらとはいえ、狩猟や舞踏会を楽しむことすらできたともされる。
皇太子シャルルと三部会
捕らえられたジャン2世の代理となったのは、まだ十代の皇太子シャルルであった。
彼は父を取り戻すための身代金を用意しようとするも、すぐには無理だった。
イングランドの攻撃に加え、休戦中のために給料のない自国の兵士たちの(当時はそれほど珍しいわけではない)略奪行為によって、国の資産はかなり少なくなってしまっていたのだ。
シャルルは、聖職者、貴族、平民の各代表を集め、話し合う「三部会(États généraux)」の場を設け、必要な援助金に関して議論した。
しかし、イングランド、フランスに関係なく、軍の兵士の蛮行に被害を受けていた平民の代表エティエンヌ・マルセル(1315~1358)は特に、王家に対して反発した。
援助金を出す立場の彼らとしては、戦いに負けられた場合、金をドブに捨てただけみたいになってしまう。
マルセルは、国政を三部会に任せるという提案までした。
いずれにせよ、援助金を獲得するのは今更無理そうな雰囲気だった。
マルセルは強気で、1358年2月には、パリの王宮に入ってきて、王太子の側近を撲殺する事件まで起きているという。
またこの同年。
大規模な農民の反乱である「ジャックリーの乱(Jacquerie)」も起こっている。
いつまでも平行線の議論を続けても意味がないので、シャルルは、最初のとは違う三部会を別に結成し、あらためて援助金を集めた。
ジャックリーの乱も鎮圧したが、同じような理念を持ちながら全く協力しようとしなかったマルセルに、民の不満は高まった。
その後、シャルルはパリを包囲し、それで生じた圧力がきっかけで起こったパリ内部の内戦で、マルセルは殺される。
そうして国内の争いはひとまず集結させたシャルルだったが、まだ和平条約を取り付けて、イングランドから父を取り戻す仕事が残っていた。
国家と君主の誕生
交渉において、イングランドは身代金はもちろん、かなり多くの土地も要求し、(一説によると女に振られて傷心状態だった)ジャン2世は同意したが、 今や国内の試練を越えて立派な賢王の器となっていたシャルルは一筋縄ではいかなかった。
シャルルは、また三部会を招集し、王の意思が賢明ではないと否定した。
このことは、それまでそこにはなかった明確な国家と、その君主の誕生だったとみる向きもある。
もはや王は国のためでない限り、絶対の存在ではなかった。
支配者はもちろんのこと、下々の者の気持ちまで汲み取らなければ、うまくいかない構造が成立しつつあったわけである。
なかなか妥協しないフランスに対してイギリス軍は、また騎行で 挑発したがシャルルは冷静に、戦士としてのプライドを抑えた。
今や大切なのは王のプライド以上に、国家の利益であったのだ。
シャルルは、イングランド軍が資金の枯渇で撤退したタイミングで、ローマ教皇インノケンティウス6世(1282~1362)も味方につけ、イングランド王に、「ブレティニー条約(Treaty of Brétigny)」を結ばせる。
それは最初にイングランド側がふっかけてきた要求に比べると、かなりスケールが小さくなったが、それでも フランスの領土の1/3ほどと、莫大な身代金をフランスが負担する和平条約で、本締結後は「カレー条約」と呼ばれることになった。
税金制度の発足
土地はともかくとして問題は莫大な身代金であった。
エドワード3世はその全額を支払う前にジャン2世を開放したが、代わりに40人ほどの貴族の人質を要求した。
しかしフランスが本当に身代金を払えるのかという不安があったのか、人質の一人であったアンジュー公ルイが逃亡してしまう。
ジャン2世は、それでどうしたかというと、責任を取って再び自分が捕虜となる。
そして彼は、1964年。
異国の地にさっさと帰ってきたその年に、さっさと死んでしまう。
そうして、人質が逃亡した時も、父がその責任を取って再び捕虜となった時も、それほど慌てなかったとされる皇太子は、シャルル5世として即位した。
シャルルは王になって、まず何よりも先に、フランスをそれまでずっと苦しめてきた財政難の問題に取り組んだ。
実のところ、財政難は戦争のために起こっていた。
理由は後になって見てみれば明らかで、実質的にはいくつかの領土の連合の形であったフランス王国が戦争するにあたり、そこに金をつぎ込む王家の資金源は、自分の領地の経営から得られたものに限定されていたからである。
どう考えても、持てる財力に対して、投資するもののスケールが大きすぎだった。
シャルル5世は、父が生きていた頃から、身代金を口実とした課税を設定し、そしてその必要がなくなってからも、ちゃっかりそれを恒常的なものとした。
さらに彼は三部会にも権限を大して残さず、王の権力を維持した。
必要な時だけ予算を集めていたそれまでと違い、国の防衛費とかの名目で、常に税が国に入るようにしたから、そのような有事の際の代表者会議というものが必要なくなったわけである。
そして彼が抱いた国家という感覚は、イングランドに渡した(奪われた)土地を、奪い返すという構図に、より説得力を持たせた。
賢王のやり方
すぐ来るだろう次なる戦いのために、シャルル5世は準備を整えていく。
例えば1363年。
フランドル伯の娘が、 エドワード3世の息子の一人エドマンド(1341~1402)に嫁ごうとした時、シャルルは教皇ウルバヌス5世に働きかけて、親戚関係としての血が近すぎるという理由で破談させた。
もちろんこのことの裏には、フランドルがイギリス側にならないように、という思惑があった。
ブルターニュに関しては、 長々と続いていた継承戦争において、1964年にブロワ伯が戦死すると、シャルルは彼の息子は立てずに、敵対関係にあるモンフォール伯をブルターニュ公として認めた。
もちろんこれにも裏があった。
シャルルはブルターニュ公に対して、自分の権力もある程度許容させ、イングランドと協力してフランスを攻撃することがあれば、領地を全て没収するというふうに取り決める。
つまり、下手にだらだらと戦うのはやめて、ブルターニュを中立の立場に置いたのである。
ベルトラン・デュ・ゲクラン。カスティーリャの代理戦争
シャルルはさらに戦力の補強のため、他国との同盟も考える。
ちょうどこのころ、イベリア半島のカスティーリャ王国の残酷王ことペドロ1世(1334~1369)の弾圧から逃れた王子エンリケ(1334~1379)が、フランスに亡命してきていた。
1366年。
ペドロを廃してエンリケを王とするため、ゲリラ戦を特に得意とする豪傑ベルトラン・デュ・ゲクラン(1320~1380)率いるフランス軍は、カスティーリャへと遠征する。
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この遠征はまた、平時に盗賊まがいの行為に走っていた荒れくれ者の兵達に仕事を与えるとともに、外国へ追いやるという意図もあったとされる。
ペドロがそもそも不人気だったからかもしれないが、カスティーリャはあっさり落ちて、無事にエンリケはエンリケ2世としてカスティーリャ王となった。
しかし逃げたペドロ一世が、今度はイングランドの黒太子が支配していた半独立状態の(しかしもちろんイングランド側の)アキテーヌに亡命してきて、同盟を結ぶ。
こうして、フランスとイングランドの戦いは、実質的にカスティーリャの内戦の代理戦争のようにもなる。
そして1367年の4月。
ペドロと黒太子のイングランド軍は、エンリケとゲクランのフランス軍を見事撃破した。
結果ゲクランは捕虜となってしまい、カスティーリャの王はまたペドロになった。
しかし黒太子の軍は衛生管理があまりよくなく、病気が蔓延して、しかもペドロ王が、遠征の費用を受け持つという約束を反故にしたため、大きな負債を被ってしまう。
黒皇太子は仕方なくアキテーヌ領に税金を課したが、これが相当に不評だった。
実のところフランスは、戦争に負けて、経済ゲームに勝っていた。
黒太子は確かに勝ったが、それはカスティーリャというアキテーヌの民には全く関係がないところでの戦いであった。
むしろ戦争に参加していない民からしたら、血の気の多い王子が勝手に戦いを起こして、勝手に負債を抱えて、そしてそれを何とかするためのお金を国民に要求しているというような構図になってしまっていたのだ。
関係ない外国の戦いは、負けたフランス側にとってもそうなのだが、しかしそもそもフランス軍のカスティーリャ遠征には、国内の野蛮な兵士の盗賊問題の解決という別の目的もあった。
そして結果、フランスは治安が回復し、国民たちからしてみれば感謝の気持ちも十分であった。
つまり税金を払うのにそれほど文句もなかったわけである。
再征服戦争
特にアキテーヌ公に臣従、ようするに下についていた諸侯たちの、黒太子への反発は大きく、 彼らはフランス王にそれを訴えた。
さらに1369年1月。
黒太子が、フランス側が呼びかけた、弁明のための出頭に応じなかったため、王はすぐに彼を告発。
こうしてフランス王シャルルは、アキテーヌを征服する正当な理由を得たのだった。
一方でイングランド王エドワードは、アキテーヌ公を告発する権利はフランス側にはないはずだとした。
そして先に約束を破ったのはそっちだと言わんばかりに、彼は再び、自分はやはりフランス王だと宣言する運びとなった。
ところでそうこうしてる間に、解放されたゲクラン将軍は、 再びカスティーリャ遠征をして、1969年3月に、またしてもペドロを廃し、エンリケを王にした。
そして1970年10月に帰国したゲクランは、 それまでの功績もあり フランス軍の大元帥となる。
イスラム勢力に対してスペインが使っていた「再征服戦争(Reconquest war)」という言葉を、フランスもこの時に使った。
「イスラム教」アッラーの最後の教え、最後の約束
またここでシャルルは、見事な発明をした。
フランスは休戦の度に、実質無職となった兵士たちが盗賊行為をしたりすることが問題となっていたわけだが、そこで彼は、そもそも休戦の度に兵士が職を失うという状態をなくすことにした。
ようするに彼は常備軍を置くことにしたわけである。
しかし常備軍となると 資金面での負担が大きくなる。
税金制度を確立したから以前よりはずっとマシだと言っても、軍の規模自体は縮小せざるをえなかった。
しかし運がいいというか、ぴったりというか、フランス軍をその時率いていたのは、数の不利を覆すゲリラ戦を得意とするゲクランだった。
百年戦争が始まってから、かなり負けっぱなしだったフランス軍だが、ここにきてうまく反撃を繰り返していく。
そして1375年7月に、再びフランスとイングランドは、2年の休戦協定を結ぶが、この休戦の間に、黒太子エドワードも、イングランド王エドワード3世も世を去った。
二人の少年王の時代
エドワード3世の子は1377年6月であった。
大陸のイングランド領土は、湾岸都市であるカレー、ボルドー、バイヨンヌくらいになったていたが、10歳のリチャード2世(1367~1400)が新たな王となったイングランドには、もう戦いを続行する体力はなかった。
ひとまずは恐れるもののなくなったフランス王シャルルだが、 彼もまだ1380年9月に、その生涯の幕を閉じた。
そして新たなフランス王シャルル6世(1368~1422)もまた、リチャード2世よりも1歳年上なだけの少年だった。
リチャード2世もシャルル6世も穏やかな性格で、多少の確執や小競り合いはあったものの、彼らの時代は争いの少ない平和な時代だったとされる。
百年戦争を前半と後半に分けるという考え方があるが、その場合この二人の王の期間は、間に設けられた、ある種の休憩時間のようなものだと言われもする。
実際には両国とも国内に常に問題を抱えていたともされる。
どちらの国でも少年王の周囲の者たちの権力争いは絶えなかったし、その統治もなかなかお粗末だったという説もある。
リチャード2世。プランタジネット朝の最後
少年王の場合は未熟な本人に代わり、代理で政治を行う後見人、いわゆる摂政がいるのが常だが、リチャード2世の場合はジョン・オブ・ゴーント(1340~1399)という人がそうだったが、彼は無能だと悪名高い。
状況に関係なく国民一人一人が必ず払わなければならない人頭税を課して、前王の時代までの、戦争による財政難をなんとかしようとしたのだ。
それは1381年の「ワット・タイラーの乱(Wat Tyler’s Rebellion)」という農民たちの反乱に繋がってしまう。
しかし、一応その乱を沈めたことで、リチャード2世は王としての自信を高めたかもしれない。
だがリチャード2世はややフランスによりかかった政治をしたために、多くの官僚の不満を招いた。
そして対立の末、ついに1399年、リチャード2世は王位から廃され、百年戦争以前より続いていたプランタジネット朝の時代は終わった。
新しくランカスター朝が誕生したのである。
シャルル6世。ブルゴーニュ、オルレアン、アルマニャック
前の時代の終盤に勝利を収めたのはフランスと言えたろうが、だからこそフランスの方は政治体制に余裕があった。
そしてだからこそ権力者の腐敗を招いていた。
シャルル6世の後見人となったアンジュー公ルイ1世、ベリー公ジャン1世、ブルゴーニュ公フィリップ2世、ブルボン公ルイ2世らは、財政を私物化したとされる。
そうした中1388年にシャルル6世は、弟のオルレアン公ルイや、信頼できた官僚たちとともに後見人たちを排除しようとする。
しかしシャルル6世は、1392年8月に発作を起こして以来、精神に異常をきたすようになってしまい、王としての仕事もままならなくなってしまう。
一応この年に彼は、リチャード2世と直接的な話し合いをして、1426年までの休戦協定を結んだりもしているが、それはイギリスはもちろん、フランス側の内部の問題も大きな原因だったろう。
フランスにおいては中心にいるシャルル6世が狂ったことによりオルレアン派閥とブルゴーニュ派閥の戦いの収集が、かなりつかなくなっていった。
1407年には、ブルゴーニュ派がオルレアン公を暗殺に成功するが、オルレアン側はアルマニャック伯ベルナール7世と結び、新たにアルマニャック派となってしつこく対抗した。
神の力をも借りた逆転劇
リチャード2世は1400年、シャルル6世は1422年に死んだ。
アジャンクールの戦い
1413年3月。
前王のヘンリー4世が亡くなったことから、新しくヘンリー5世がイングランド王となった。
このヘンリー5世はなかなか血の気が多い人物で、1414年12月には フランス王シャルル5世に征服された領地の返還に加えて、フランス王位も要求。
そして1415年。
国王が狂って以来、官僚たちの争いが泥沼化して混乱の極みにあったフランスに対し、休戦協定もあまり気にしないで、イングランド軍はまた攻撃をしようと、ノルマンディーの北に上陸した。
イギリスからするとまさしく好機であった。
10月に起こった「アジャンクールの戦い」では、勢力は勝っていたはずのフランスが大敗したとされる。
そしてこの敗戦で、(ブルゴーニュ派よりも積極的に戦闘に参加していたため)特にアルマニャック派は、大幅な弱体化を余儀なくされてしまう。
そしてそうなると当然のことだがブルゴーニュ派が権力を強めることになる。
アングロ・ブールギィニョン同盟
だが誰を権力を持とうと、全体的には弱ったフランスを攻めるイギリスの脅威は変わらなかった。
ブルゴーニュ公ジャンは最初、イングランドに歩み寄ろうとしていたようだ。
彼は1416年10月にヘンリー5世こそフランス王になるべき者という宣言まで出しているという。
しかし1419年に、ブルゴーニュ派が守っていたポントワーズがイギリス軍に徹底的に略奪された時に彼の考えも変わった。
ジャンは内部で内輪もめをしている場合ではないとばかりに、アルマニャック派に残っていた有力者、シャルル6世の子である皇太子シャルルと、アルマニャック伯ベルナールに和解を持ちかけた。
ところが二人はオルレアン公の仇とばかりに、ジャンを惨殺。
新しくブルゴーニュ公となったフィリップは、もうフランスに見切りをつけて、今度こそイングランドと本格的な交渉にのぞんだ。
そしてブルゴーニュとイングランドとの「アングロ・ブールギィニョン同盟」が結ばれた。
トロワ条約
もはやフランス側にはどうしようもなかった。
1420年5月。
シャルル6世の娘カトリーヌがイングランド王に嫁ぐこと。
シャルル6世が死んだ後は、 その婚姻関係を根拠として、ヘンリー5世がフランス王になるということを書いた「トロワ条約」が成立。
この条約は当時から有効性に疑問が唱えられていたともされる。
条約にはシャルル6世の名前が見られるのだが、彼の気が狂っていることはすでにかなり広く知られていた。
また弱体化したとはいえ、まだまだフランス全土に影響力を残していたアルマニャック派の勢力がこの条約を認めていなかったからだ。
歴史の妙だが、もしもこの条約通りの展開になっていたのなら、新しくフランス王にもなったイングランド王が最初にすることは、アルマニャック派の完全排除だったに違いない。
だがそもそもこの条約の通りに歴史は進まなかった。
早すぎた死と、遅かった死
この時はまさしく、天がフランスに味方した。
1422年の8月。
当時としては長生きな シャルル6世よりも先に、ヘンリー5世が死んだのである。
シャルル6世の子はわずかその2ヶ月後であった。
アルマニャック派は、すかさず皇太子シャルルを新たなフランス王シャルル7世とした。
イングランド側の対応が遅れてしまった理由は、ヘンリー5世を継ぐはずの王子が、まだ生まれたばかりだったということもあるとされる。
しかしながらイングランド側も、ベッドフォード公ジョンをフランス側、グロスター公ハンフリーをイングランド側の摂政として、ヘンリー6世こそイングランド王権フランス王だと称した。
ベッドフォード公ジャンの画策
ベッドフォード公ジョンは政治家としてやり手で、どちらかと言うとイギリス王の方が、フランス王としても正当だというような事実を徐々に形成しようとしていく。
ブルターニュ公の妹と婚姻関係を結んで繋がりを強化したり、アルマニャック派の勢力を少しずつ弱めていった。
一方でシャルル7世は、やや情けない王だった。
おそらくは彼自身、母とされるイザボーが浮気性の悪女とよく知っていたため、 そもそも自分が本当にフランス語系の正統な血筋であるのか不安を抱いていたためともされる。
そういうわけで、控えめな態度を続けていたシャルル7世だが、ベッドフォード公の画策は続いた。
しかし少しずつ少しずつという彼のやり方に不満を持つ好戦派たちもいた。
そういう者の代表格であったウォリック伯とソールズベリー伯の 半ば強引な進言によって、1428年のオルレアン包囲戦は始まったのだとされる。
ジャンヌダルクの伝説
オルレアンはフランスを南北に分けているロワール川の北側の岸の都市であった。
そして確かにここを押さえられたら、シャルル7世が 地味な抵抗を続けていたブールジュまで、ベッドフォード公側も一気に攻めやすい。
むしろオルレアンはシャルル7世にとっては最後の砦ともいえるような都市であった。
1428年の末頃。
シャルル7世は神に祈りを捧げたとされる。
「もし自分が本当にシャルル6世の息子であると言うならどうか勝利の栄光を与えてほしい」
上記の話が本当ならあまりにもできすぎている。
有名なジャンヌ・ダルク(1412~1431)がシャルル7世を訪ねてきたのはわずか3ヶ月後、1429年の3月のことであった。
この聖女、あるいは魔女が本当は何者だったのかは今日までの謎である。
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ドムレミという農家に生まれた少女は、神の声を聞いて、シャルル7世をフランス王とするために、彼のもとにつかわされた。
ほとんど伝説的なこの話が史実だとしても、このような田舎から来たどこにでもいそうな少女を、シャルル7世がなぜ信用したのかは不思議としか言いようがない。
確かなことは、シャルル7世はジャンヌに軍を与え、そして彼女らはイングランド軍に包囲されるオルレアンへと向かったこと。
そして凄まじい勢いで、フランス軍はイギリス側が配置した砦を打ち破っていき、オルレアンの危機を救ったこと。
ただ基本的にジャンヌは自らが剣を持って戦ったわけではないとされる。
彼女の何よりの役割は、神に選ばれた乙女として、兵士たちの式を 鼓舞することだった。
また、イングランド側は、全体の数では優位だったが、都市として一致団結したオルレアンに比べると、いくつもの砦に戦力を分散させていたため、それが実質的な敗因だったのでないかという説がある。
とにかくそうして、1429年5月にイングランド軍はオルレアンから撤退した。
そしてジャンヌの軍はその勢いのまま、シャルル7世を大司教の都市ランスまで連れてきて、彼の戴冠式を実現させた。
ただしシャルル7世が正式な王となって以降は、ジャンヌの功績はふるわず、 1430年の5月には コンピエーニュの戦いで、捕虜としてイギリス側に捕らえられてしまう。
そして彼女は宗教裁判にかけられ、1431年5月30日に魔女として処刑された。
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ジャンヌダルクに関して、実は当時の記録は非常に少ないという。
おそらく彼女は典型的な、後世に作られた英雄であった。
オルレアンの解放はまぎれもなく彼女の功績だったろう。
だから別に、ただの女だったわけではないだろうが、 しかしフランスを救った聖なる乙女騎士という現代的な認識は、ちょっと言い過ぎというわけである。
シャルル7世も彼女をそれほど重視していなかったのか、イギリスで処刑されそうになる彼女を助けようとした記録もないという。
彼女が神の乙女だという話は、彼女を異端審問にかけて、さっさと始末するためのイギリス側の捏造だったという説もある。
この説が正しいなら、彼女は単に優秀な軍人だったことになるか。
アラスの和約。フランスの勝利
1431年の末には、フランス王シャルル7世とブルゴーニュ公フィリップが休戦協定を結ぶが、これはフランス王が正式に決定してしまった影響ではないかとイングランド側は焦ったようだ。
シャルルのわずか10日後。
ヘンリー6世に対しても、フランス王としての戴冠式が行われたが、時すでに遅しと言えた。
シャルルはブルゴーニュにも政治的に近づいて、そちらも取り込む。
イングランド側の主張を聞かずに、フランスとブルゴーニュが勝手に結んだ休戦条約は、後には「アラスの和約(Treaty of Arras)」と呼ばれている。
このためにシャルルはブルゴーニュに対してかなりの譲歩をしたようだが、見返りは大きかった。
言うなればイギリスの同盟相手を奪い取った形なのだから、敵方の戦力の減少と、味方の戦力の増強を同時に行うに等しかった。
前にフランスがそうだったように、今度はイングランドかどうしようもなかった。
大陸のイングランド側の都市をフランスは次々と再征服して取り戻していく。
そして1453年10月にボルドーが落ちたことで、イングランドはフランス領土からほぼ排除されて、百年戦争は終わった。