「超巨大生物、未確認巨大生物」実在の動物の大きなもの。伝説的なもの

巨大生物には脊椎動物が多いか

 顕微鏡を使わなくても、我々が簡単に確認できる世界の中で圧倒的に多い生物といえば節足動物、つまり虫である。しかし現実の生物をいくらかは参考にしていると思われる伝説上の生物は、大半が脊椎動物と思われる(参考にしていると思われる)。

 人間は人間以外の生物に関して、魅力や畏怖の念を発見しようとする時、その対象が大きい生物であるほど、そういうことが容易いようだ。多くの人が経験的にわかることだろうか。我々は小さなものより、大きなものの方が(それが真理かどうかはともかくとして)複雑で高度だと思いやすい傾向がある。
ただ、大きさと複雑性の思い込みに関しては逆のパターンもありえる。我々は同じ機能で小さな機械と大きな機械なら、小さな機械の方が複雑で高度なものだと思いやすいかもしれない。

 大きな生物の方が何かしらの感情を持ちやすいのは、もしかしたら人の歴史の中で、人が直接的に恐れたものとかの影響ではなかろうか。例えば病原菌とかも知られていなかったような時代に、カ(蚊)に刺されることを、オオカミ(狼)に噛まれることよりも恐れるような理由はそれほどなかったと思われる。だとすると、虫よりオオカミのような生物が、空想の中で怪物化されやすいのは、まあわかるだろう。
だがハチなどはどうだろうか。つまり毒のある虫に関しては。
ただとにかく、獣に比べると虫は少ない。

 もっと単純な理由は考えられるだろうか。
多くの架空生物は、本来よりも全体、あるいは部分的に巨大化しているか、または複数の生物の特徴が組み合わせられてるように思える。
どちらもということは、実は珍しいように思える。つまり、巨大化と合体が同時に適用されてる架空生物はあまり多くないように思う。典型的イメージだけで言うと、そういう生物の代表はリュウ(龍)やドラゴン(竜)だろうが、それらの生物は、非常に古くから人々に親しまれ、あるいは恐れられ、長い間語り継がれ、そうした歴史の流れの中で様々な改良を加えられてきたろうことは、興味深いことかもしれない。
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架空生物の創造において、巨大化と合体という作用が、同時に適用されることがあまりないようなものなら、ある程度以上の、つまり脊椎動物程度の大きさが架空生物の素材として適していると判断されやすい理由はほぼわかる。多くの虫を、虫のスケールのままで組み合わせたもの、つまり虫のキメラがキメラであることを確認することは、脊椎動物のキメラを認識することに比べたら、明らかに困難と考えられよう。
しかしそんなふうに考えるとしても、問題が1つ残る。なぜ巨大化した虫が少ないのだろうか。
ただ、そもそも巨大化という作用は、合体に比べてあまり使われない(創造)テクニックなのかもしれない。

 他にも重要なことは、少なくともいつ誰が考えたかよくわかっていないような生物に関しては、今は架空とされていようが、伝説とされていようが、基本的に、どこかの時代のどこかの地域においては、実在する可能性のある生物として普通に考えられていただろうこと。
巨大昆虫というのは、未開の地域に存在するかもしれない生物として考えるにしても、あまりにもありえないような存在だったのかも。
初めから完全に創作の世界における架空生物としては、巨大昆虫はわりとスタンダードな感じもあるから、やはりそういうことだったのだろうか。
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幾何学的性質のための制約

 ある生物を、その生物のまま、地球環境上において巨大化させることが難しいことは普通に考えやすい。
幾何学的なある前提を避けるのが難しいためだ。
簡単には、つまりある物質が同じ形のまま巨大化した場合、表面積よりも体積の方が、増加率が大きくなるのだ。

 普通、幾何学において、ある物体をその形を変えないままに拡大する場合、相対的には二次元である面積部はある数の2乗、三次元の体積は3乗で増えていくと考えられる。いわゆる「2乗3乗の法則」である。両方の要素を含む物体が巨大化した場合、量的な表現としては、面積に関する物理量の変化と、体積に関する物理量の変化割合はやはり2乗と3乗くらいと考えれる。
例えば縦の長さx、横の長さy、奥行きの長さzである直方体の物質があるとして、その物質がさらに包んでいる三次元物質に関しては、直方体に対し、内部物質と重なっていない空き部分の体積を(マイナスの数字になる)c、表面積の変化をCとしたら、体積を「x × y × z + c」、表面積を「x × y × 2 + y × z × 2 + z × x × 2 + C」と表現できよう。
Cに関してはマイナスになるとは限らない。体積の場合、ある体積Xに入ってる時点で、「X – c」はXより小さい(ゆえに、通常はcがXに対しプラスの数字になることはない)はずだが、Cに関しては、単に包んでいる物質との表面積の違いを表すための数というだけである。例えば、一辺を限りなく薄くしてから、別の一辺を限りなく伸ばして折りたたんだものとかは、それを包んでいる直方体よりもはるかに大きな表面積を持つことになる(身近なところでは、小さな細胞の中に、数メートルとかになるDNA分子が入ってたりもする)
cに関しても、例えばそれが1辺aの立方体なら「a^3」というような数式で表せれる数であることに注意。言わばこれは関数f(c)と表現出来るようなものである。
仮に物質を、形をそのまま全体に2倍にしたら、体積は「2x × 2y × 2z + 2c」、表面積は「2x × 2y × 2 + 2y × 2z × 2 + 2z × 2x × 2 + 2C」となるだろうが、この場合に、体積は表面積に比べて増大する変数を掛け合わせる数が1つ多いために、相対的な増加数量が大きくなる訳である。

 もう少し直接的に考えてもいい。ある物体の表面積の大きさがどのくらいかを視覚的に体感するには、その物体全体の型をとった布とかを2次元上の場に広げればよいだろう。もちろん、その物体が大きくなった時にもう一度型をとったなら、最初の布と比べ、後の方の布は大きくなっているはず。
では体積はどうかと言うと、その型布を最も外側の部分として、内部にさらに、厚みという次元が加わることになる。つまり大きさを測る時に利用しなければならない余計な要素(数字)があるも同然なので、そのぶんの増加量も合わせて、全体的な増加量が結果的に多くなる。

巨大昆虫は非現実的か

 例えば内部器官をほとんど発達させていない、いわばシステム構造的に単純といえるような、小さな寄生虫とかは、ある程度以上の巨大化はできないと思われる。食物や酸素などの栄養分を体表面から直接に体の各部位に浸透させたりする仕組みは、体表面が内部に比べて小さくなってしまうと、上手く機能するのが難しくなるだろうから。
昆虫も、体表面にある多くの陥入部(器官)を通し呼吸するが、うちらに対して表面積が小さくなっていくことから、巨大化する場合は、どうしても陥入部の数などが問題になる。ある程度以上の大きさに達した昆虫は、体全体が陥入部みたいになり、内部器官を入れる余地もないだろうという見方もある。

 やはりもっと単純に考えることもできよう。体を支える足の裏の表面積も、体積、つまりは素材も同じままで大きくなった場合の実質的な質量と比べると、増加量が少ないため、そのままの形体で大きくなった場合、やがて足は体重を支えきれなくなると考えられる。
表面積に比べて体重が大きい生物要するに小さい生物は重力の影響が小さく、大型動物に比べると簡単に飛んだり跳ねたりできる。普通の昆虫サイズでは、重力よりも物体表面ごとの表面付着力が重要になりがちである。だから昆虫は、壁や天井や、水上を普通に歩いたりとかしやすい。昆虫が、「もし大型化したならば、今のあらゆる大型動物が脅かされるような」と言われるくらいの恐ろしい性能を持てるのも、そもそもこの生物群が小さいからと考えられる。
昆虫はまた、成長の過程で、自らの外骨格を脱いで(脱皮して)、さらに大きくなった外骨格を収容するための新しい外骨格を分泌するが、その途中の、柔らかい体でかつ、内骨格という支持構造を持たない状態で潰れないでいれるのも、重力の影響が小さいからだ。

 重力が総体的に弱いと、大型動物ではとることのできない成長の模式も可能になる。昆虫たちは外骨格を持っているので、それを脱いで大きくなった体を収容できる新しい外骨格を分泌するのでなければ成長できない。脱皮と再生長との間、体は柔らかいままでいなければならない。支持構造(内骨格)を持たない大きな哺乳類がいたとすれば、それは重力の影響を受けてつぶれ、形のない塊になってしまうだろう。

 しかし昆虫が巨大化した場合には、失われてしまうであろういくらかの特性だが、逆に人間のような大きな生物が小型化した場合に獲得できるとも考えられる。
古いSF映画とかでは、よく巨大昆虫が大きいだけで昆虫のままだが、小型化した人間もまた小さいだけで人間のままだったりするのは、妙なところだろう。

 そもそも極端なふうに考えなくても、人間の大きさは人間の行動模式に合っている。仮に人間の大きさ(背丈)が今の倍あるなら、体重が重くなりすぎて、しっかり立って自分の体を足だけで支えるのが難しいだろう。もしも大きさが半分だったら、運動する物体の重さに関係している力学的な数量が小さくなるから、例えば直接的な打撃武器で増加できる力もかなり小さくなってしまうだろう。
この地球上において、人間は、人間の大きさだったから、道具を使って、木を切ったり、穴を掘ったりできて、文明を作っていくことができたのかもしれない。
人間が長い間、今と変わらないような脳を持っていたにも関わらず、文明をなかなか作らなかった説も、そうした事実を示唆するだろう。

アリの大きさの人

 生物学者のF・W・ウェント(Frits Warmolt Went。1903~1990)は、もしもアリの大きさの男がいたらどうなるかを見事に描写していた。
仮に彼が、小型化する時に服を着ていたとしたら、再び元のサイズに戻らない限りは、つまり小さいままでは服を脱ぐことができない。表面付着力が強力すぎるためだ。
さらに、水滴の大きさというものには下限があるために、彼はシャワーを浴びることができない。彼にとって降り注いでくる1つ1つの水滴は、巨大な岩石群のようなものだ。そしてどうにかして、彼が体を水に濡らすことができたとしても、タオルもへばりついてくるために、それで体を拭くことはできない。
炎というのは、長さがある程度はなければ安定しないから、彼は火をつけることもできない。
彼が自分のための本を用意しようと思ったら、各ページはものすごく薄くなるだろうが、やはり表面力が強力すぎるために、彼はページをめくることができない。

巨大脳の超知的生物

小型生物も賢くなれるのか

 生物の最小単位は、普通細胞と考えられている。そして確認されている最も小型の生物は単細胞生物であり、ある程度以上の大きさはすべて多細胞生物である。このことからわかりやすいように、細胞の大きさの大小の範囲は、細胞で構成される体の大きさの大小に比べると、かなりその幅は狭い。ここからまた1つの事実が容易に推測できる。つまり複雑さを必要とする様々な機能は、少なくともある程度以上の大きさを必要とする。おそらく高度な知能を有する単細胞生物はもちろん、昆虫サイズの生物でも、人間のような知的存在になることは難しい。

 人間の脳は何十億という神経細胞(ニューロン)によって機能している、ネットワーク知能である。おそらくは数万、数十万とかくらいの細胞でそれと同じ性能の脳を用意することは可能だろうか。可能だとしても、例えば10とかではさすがに無理でなかろうか。
しかし、脳、神経系が、細胞だけでなく他の要素でも、その性能を高めることができるのだとしたら、何らかの特殊構造が、小さく数の少ない細胞群でも、もっと大きな生物にしか普通は見られないと考えられている知能を実現できるかもしれない。
いわば、小さな、知の巨大生物である。

人間は人間のまま小さくなれるか

 やはり、人間が小型化した場合のことも気になるか。小型化して、しかし知能に関する機能は何も変えないでいる時、いったいその小型化は、どのようなパターンと言えるのだろうか。
小さくなっているのが、人を構成する各細胞それぞれだとするならば、細胞の数自体は減っていないことになるが、しかしそうなると、真核細胞としては非常に小さな細胞群となったそれらは、そもそも元の大きさの状態の時ほど上手く機能するのだろうか。
小型化に際し、何が小型化しているのだろう。細胞自体が小型化しているとしても、それらをさらに構成していると言える原子群もやはり小さくなっていると考えるのは、さすがにちょっと物理的に無理が出てくるのでなろうか。
細かい要素に還元していった場合、そのどれかの段階では、小さくなるのではなく数を減らすと考えないと、小要素の集まりが物質を作ると考えられている現代的な物理世界観からして、少し奇妙な感じになってきてしまうだろう。
例えば(素粒子とか最小要素で成り立ってるとされる物理世界では)人間を小型化するとして、細胞数を減らすか、または各細胞の要素量減らすしかないと思われるが、どちらにしても小型化の程度に応じた(数を少なくした細胞、あるいは、多くの要素を失い、やはり本来の機能を保てないであろう各細胞群が、それでも元の大きさの時と変わらない神経システムを維持しているという)特殊状態とかを用意できないと、意識とかそのままはダメと考えられよう。

複雑すぎる複雑性

 大きさに関しては、大型化した場合はどうだろう。細胞の数の少なさからいって、あまり複雑性を持つことができなさそうな生物がとても巨大化したとしたら、その時に各細胞が(機能そのままで?)大きくなっているのでなく、細胞の数が増えていると考えるなら、細胞が相当な数の大きさになった時、その生物は元の単純な性能のままでいれるのだろうか。だが、あえて複雑性を持たないというのは、複雑性を失わないでいることよりは簡単そうな気もする。ただ実際問題、ある程度以上の大型動物は、ある程度以下の小型生物よりも明らかにそのシステム的に複雑であるのが基本である。現実には、あえて単純な生物や、無理やり複雑な生物というのは、いるとしても相当に珍しいと思われる。

 自己意識を持てるような知能にある程度以上の大きさが必要条件としてあるなら、宇宙の知的生物を探す場合にも、いろいろ都合がよいかもしれない。

 もしも、ある知能システムが物理的に巨大化した場合、要素の数が増えて、全体の構造としてより複雑化が進んだなら、ただそのシステムから生まれる意識を持てるような知能が、優れたものになるだけでなく、もっと奇妙な進化を遂げることがありうるだろうか。例えば、全体のシステムの中での小システムが生まれるとか。つまりいくつもの知能が1つの巨大脳の中に発生するというような。
十分に巨大な脳の中で発生したそのような知能群、意識群が、それこそ全体として、物理的な大きさが十分にあるなら、そこにはまるで生態系のようなものが発生したりすることすらあるだろうか。
だがそういうことを考えるなら、人間の脳というのはすでにかなり複雑なものである。そして実際に人間の脳は、いくらかの小機能の共同体とも考えられることが多い。
脳の特定の部分の欠損とかが、実質的に多重人格的な状態を発生させることもある。例えば、笑っているつもりで顔の半分が笑っていないとか、動かしているつもりがないのに体が動く人とか、そういうのは複数の知能機能が同じ脳から発生しているための現象と考えられるかもしれない。
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小さい生物の時間。大きな生物の時間

 知られている動物の寿命は、数日とかから1世紀以上と幅広い。少なくとも傾向的に、小さな動物よりも大きな動物の方が寿命が長いようである。
しかし、各自の動物の時間を、物質代謝とか発育速度を基準に総体的に測定した場合、結局のところは、系統的にいくらか近い動物群は、似たような寿命を持っているという説もある。
内部機構による体温調節を行える哺乳類(混血動物)は、小型の種ほど心臓の鼓動が早く、つまりは物質代謝が速い。そのために、小型種は寿命が短いが、生涯のうちに呼吸する回数は大型種とそれほど変わらないも。
全哺乳類は、感覚的には同じくらいの時間を生きているのかもしれない訳である。

知能が扱う物理構造のための限界

 この世界が物理的に還元的に捉えることができる、つまりもっとも最小の要素が存在していてそれが組み合わさることで成り立っている世界と考えることができるなら、知能を実現できるような複雑なネットワークは、大きな脳ほど作りやすいだろう。少なくとも大きな脳の方が最大の複雑さは上となろう。

 霊長類(サル)は他の哺乳類に比べると大きな脳を有するとされるが、人間はさらに大きな脳を持っている。それゆえにこの生物は頭がでかいとされている。
直立姿勢は子供を産む時のメスの負担を大きくしてしまったとされているが、大きな頭に関しても、『産道』を通るにあたって邪魔になる可能性がある。それだから人間は、系統的に近い霊長類に比べて、妊娠期間が短縮されたという説がある。もちろんその「短縮された」というのは、人の発育期間に比べての妊娠期間の長さである。
妊娠期間、メスの骨盤デザインなど物理的な条件は、脳の可能な大きさを定めているように思えなくもない。

 人間よりもさらに知能を高くする巨大脳生物が存在できるとして、その生物のデザインはどのようなものになるだろうか。
ここでまず浮かぶのは、(例えば人間の手のように)物理的に外部に干渉したり、外部のものを利用したりするような構造要素がない場合、巨大な脳のすごい知能というのは、そのポテンシャル(潜在力)を十分に発揮できるのだろうか、という疑問だろうか。
そんな疑問は、絶対的に優れた知能というより、外部からの評価を高くすることができる知能の方が、実質的には知能的に上なのかもしれないということを前提としているだろう。ようするに、利用できない高機能を、(所詮役立たずのために)高機能と判断しないなら、コントロールのための知能というシステムと、それらがリンクする物質構成のそれぞれの影響の混ぜ合わせこそが、つまりその生物の真なる知能、というふうに定義できるかもしれないと。
ならまったく同じ物質構成を、まったく同じレベルで利用できるとしたら、もちろん大きな脳の方が小さな脳よりも賢くいれるはず。そうでないなんてことありえるだろうか、ありえないなら、巨大な脳のとても賢い生物には、可能な物質構造という制限を考えることもできよう。
おそらく、あるサイズのある形体の脳は、いつでもある(その脳を知能システムの原理として利用する)形体の物質構造(知的生物)のために、限界が決まってしまっている。

情報伝達速度のための限界

 もう1つ、情報というものの伝達速度がこの宇宙の中ではどうしても有限であり、かつその速度に限界があるのか(これは、光速が宇宙の最高速度と考えられている現在の物理世界において、かなり説得力のある説である)。あるのなら、その限界のためにも、巨大な脳が有効に機能できる大きさに制約が発生するのではなかろうか。ということも、重要な疑問であろう。
優れた知能というものを定義する場合に、その基準に「思考速度」を含めないならば、あるいは情報速度のための限界も緩和、もしかしたらなくすことすら可能かもしれない。
だが、スピードに制限がある世界で発生した、世界を遅い速度で認識する巨大知能には、それが知能ネットワークとしていかにうまく機能しようと、そもそもその速度の遅さという問題が、やはり目につくか。つまり、生物とは関わりがないだろう変化速度よりも遅すぎる認識が、本当に十分早い認識の知能より役に立つことがあるかと。

 ただ知能というのは自分たちが普通に認識するものだけでなく、認識ができない難しいような領域のことでもしっかりと理解することができるのは、すでに我々自身がよい例と思われる。我々は、この世界に存在するいくつもの、(例えば原子や光速度といった)目に見えないもの、耳に聞こえないものなどを、見事なアイデアで捉え、自分たちなり理解してきた。
我々は、例えばシュミレーションとか予測といった方法で、自分たちの認識速度で普通は対応できないだろう様々なことに関しても、対応できる、と考えられている。そうすると、我々よりもとても賢いが、認識速度がとても遅い巨大知能の生物も同じように、例えばそれの破壊を企む我々のことを、見事な事前対策によって無力化することとかもできるだろうか。

どの生物が自身のことを、どんな生物と認識するか

 しかし、自らのことを気持ち悪いと考える生物はありえるだろうか。

 多くの人は、例えばクモを見かけ的に気色悪いと感じてる人がいるとして、もし目が覚めた時に自分がクモになってしまっていたら、その人は自らその姿を確認する度に、気持ち悪いと感じるかもしれない。
では初めから、クモのような体に巨大な頭がついた知的生物が存在したとしよう。人間と同じような感覚を有する生物で、生理的に気持ち悪いものも似ているとする。そのような生物が進化の連鎖の中で発生することはあるだろうか。 自分の姿を認識していない知的生物が存在するとしたら。

 実のところ人間でも、少しそういうところがあるかもしれない。自分の手足をとてもよく見てみたら、大量の毛穴が気持ち悪いと感じたりする人もいるだろう。だがそれを、普通に過ごしている時に感じたりすることは普通ない。
よく見たら気持ち悪いのに、その「よく見る」ということをあまり意識していないという場合は多い。
意識、認識は、 その知的存在にとって、普通の世界を演出するものなのだろうか。そうでないとしたら、自分たちの世界が、少なくとも普通に生きているだけではそれほど気持ち悪いと感じない人間は幸運だったのかもしれない。

巨大群生物

 この地球には、動物という種が誕生するよりもかなり以前から、大量のバクテリア(微生物)が存在してきた。 長い長い時間、大量のバクテリアを一気に食べるような多細胞動物が存在していなかった環境であったから現在ではかなり難しい大増殖も普通に有り得たそのような古いバクテリアの集積コロニーの痕跡が現在にもいくらか残っている。それは『ストロマトライト(stromatolite)』と呼ばれるもので、普通は同心円状に層が重なった構造物である。
多くのストロマトライトは、潮汐、つまりは月や太陽の引力を原因とする海面の昇降現象が、まさにその影響を直接的に与えるような海岸付近とかに形成されていたとされる。つまり潮の満ち引きに応じ、層を積み重ね、生長と乾燥を繰り返すことでストロマトライトは形成された訳である。
微生物がそんなふうに、人間にもはっきり見えるくらいの大きさにまで積み重なった塊。動物がいなかった時代、それはこの地球上でどのくらい普通に見られたものだったろうか

 微生物を基準にするなら、ストロマトライトは超巨大物体である。これは微生物の共同体というよりも、微生物の死体の山だが、そんな感じに、多くの小さな生物の共同体が1個の生物みたいに振る舞えるなら、それもまた巨大生物と言えるだろうか。
少なくとも同じ遺伝情報を共有しているならそうとも言えるだろう。ただし迷いなくこの定義だけを用意してしまったら、明らかに別個体と考えられるはずの双子とかも、1個体だと考えなければ妙な話になるかもしれないが。

クローン個体か。特殊器官か

 マヨイアイオイクラゲ(迷相生海月、Praya dubia)とかカツオノエボシ(鰹の烏帽子。Physalia physalis)とかいった刺胞動物門(Cnidaria)のヒドロ虫(Hydrozoa)という種
、つまりはクラゲ(クダクラゲ)は、40メートルだの、50メートルだの、時には100メートルあるかもしれないくらい、かなり長いことで知られている。が、実はこの生物は構成的には、遺伝的に同一であるクローン個体群の群体(コロニー)である。
しかし群でありながら、それでもやはりこの生物は1体の生物であり、浮遊、獲物の捕獲、摂食、繁殖などのために、各特殊部分の個体は、その部分に合わせた特殊化を行っているという。

 動物だけではない。植物でもタケ(Bambuseae)などは、地下に伸ばした茎から、クローン個体であるタケノコを出して、それらが成長してタケ林を作るらしい。

 しかし個体群にせよ一個にせよ、連続体たる群生物の各部分は、その生物の発生過程的には個体とも言えるだろうが、実際的な機能は完全に器官のそれとなってたりする。このような生物について、個体なのか、実は集団なのかを、はっきりと分けて断言することなど、いったい誰にできようか。
だが区別というのは、我々人間が勝手にしてるだけのことであって、自然はもっと様々な方向に対して連続的であり、物事の境界なんてすごく曖昧なのかもしれない。であるとしても、はっきり区別することを望む人は多いだろうし、それにその方が、我々が考える上ではたいていの場合便利であろう。 それがクダクラゲでないにしてもそのような群個体の生物を想定するのは、今のところ大した問題ではないだろう。

 そもそもクローン群生物と(そうした群生物の各個体も含めて)普通の多細胞生物を比較した場合、要素として(同じ遺伝情報を持っている)クローン個体と各細胞群とに、どれほどの違いを考えられるというのか。

小生物を生み出す巨大生物の一部

カークパトリックの貨幣石圏

 カイメン類の分類学者であり、1886~1927年の期間に、大英博物館の(下等とされていた)無脊椎動物の次席管理官(アシスタントキーパー)を務めていたランドルフ・カークパトリック(Randolph Kirkpatrick。1863~1950)は、しかし第一次大戦後は、普通の学術雑誌に寄稿できるような、いわゆる正統的な研究をすっかりやめてしまう。この点については、親切な性格のために、他人の研究をつい手伝ってしまうがために、自分の研究が疎かになってしまっていた、というような説もある。
だが少なくとも彼には、(当時も今においても)おそらくばかばかしいと普通の人には思われるような、そんな研究をする時間はあって、彼はその成果報告を自費で出版すらしたとされる。

 いずれにしろこのカークパトリックとかいう人は、変わり者だったかもしれないが、おそらく凶人ではなかった。彼はカイメンの専門家として、当時はサンゴのような刺胞動物が由来と考えられてたが、今ではカイメン説が有力とされている『層孔虫(stromatoporoid。ストロマトポロイド)』という化石に関して、カイメンとの構造的な類似を見つけ、時代を先取りしていたようだから。
このカークパトリックが、生涯を賭けるに値すると考えた研究対象、それは『貨幣石圏(ヌンムロスフィア。Nummulosphere)』なる仮説。
ただし年取った晩年の彼は「原形質の構造(architecture of protoplasm)」に惑わされたためらしい自分の間違いにしっかり気づいていたともされる。とはいえ彼の仮説自体は、なかなか面白く興味深いものではある。

 原形質というのは、細胞構造が今ほどしっかり知られていなかった時代に、細胞内の「生きている」部分を指した言葉。

ヌンムロスフィアのエオゾオン

 有孔虫類(Foraminifera)という、扁平(平ら)な円盤状の殻を持ったアメーバ的な単細胞生物がある。その有孔虫の中でも特に最大級の種として、ヌムリテス(Numlites)というのが知られている。ラテン語の「鋳貨(numisma)」に由来するその名は、貨幣(コイン)に似ているため。その内部には、階層的に配列している渦巻き状の構造がある。
ヌムリテスは、新生代(Cenozoic era。6500万年前~現代)の最初の時代、すなわち古第三紀(Paleogene period。6600万年前~2303万年前)の地層によく見つかる。特に5000万年くらい前には豊富に存在していたとされ、ほぼこの生物の化石殻だけでできている岩石すらもあり、『貨幣石灰岩(Nummulites。貨幣石)』などと呼ばれているという。古くはエジプト、カイロの付近にたくさん見られた貨幣石を拾った地理学者ストラボン(Strabo。紀元前63~紀元後24)は、それはビラミッドを建設した奴隷たちに配給されていた食料の豆が石化したものだろうと推測していたとも。

 とにもかくにも1912年のある日。モロッコ西方のマデイラ諸島のなかのポルト・サント島の沖合でカイメンを採集していたカークパトリックは、友人が山でひろった火山岩のかけらを 『拡大鏡(magnifying glass。ルーペ)』で観察し、あることに気づいた。つまり、それらの火山岩のいずれにも貨幣石の円盤状の跡が認められたのである。
だがそんなこと普通はありえるはずがない。火成岩というのは、火山の噴火とか、地球内部で溶けたマグマが冷却してできる岩石なのだから。つまり、生物由来の化石が含まれているわけがない。
カークバトリックはさらに、発見場所に自ら来て、そこの他の火成岩も調べてみたが、結果的に彼はそこの火成岩は全て(一部含まれているとかでもなく)貨幣石で構成されているものと結論したのだった。彼はそもそもポルト・サント島のほぼ全体が、もう単に貨幣石でなく『エオゾオン(暁動物)』と呼んでいたそれを含んでいるとし、さらにイギリスに帰国後、他の地域の火成岩、最終的には隕石にまでエオゾオンを見いだしたのだった。
当然のごとく彼は、地球表面のすべての岩石は、宇宙からの飛来物すらも含めて、全て化石でできているという仮説を提唱した。

 カークパトリックは、まだ、表面全てが海であった地球の生命史のごく初期に、貨幣石殻を持った生物がいて、しかしそれらを消し去る捕食者がいなかったために、それは大洋底に溢れたと仮定した。
普通の貨幣石は成分として炭酸カルシウムが多いが、火成岩は硫酸塩が多いという問題もあったが、カークパトリックは、地球の内部からくる熱がそれらを融合させる際に、殻の中に『ケイ酸(珪酸。silicic acid)』を注入するという説を出した。さらには、圧縮される貨幣石の中には、勢いよく上方へ押し上げられて宇宙空間へ放たれたものもあり、 それが後の時代に、再び地球へと落ちてきたのが隕石なのだとした。地球の大地と降り注ぐ隕石は、岩石圏でなく、貨幣石圏だった訳である。

 エオゾオンという名称は、1850年代にJ・W・ドーソン(John William Dawson。1820~1899)という地質学者が、彼としては地球最古の化石生物を含む岩石と結論した、後には白い『方解石(calcite)』と緑の『蛇紋石(serpentine)』の互層で、つまり層が重なってできた無機的構造物と判明したものに、すでに使っていたらしい。

それぞれ独自進化した小生物群

 貨幣石圏に全生命の起源すら想定したカークパトリックは、その内部構造に見れる渦巻きこそが、生命物質の基本的構造たる螺旋形態の現れなのだ、などという主張もしていたという。

 我々の遺伝情報を暗号コードとして保存する、物理的なDNAとかRNAといった分子が、二重らせん構造を採用していることは非常に有名。しかしカークパトリックが、それを連想させるような発見を自らの大きな妄想話の中で見いだしていたとしても、それはただの偶然だろうと思われる。

 だがヌンムロスフィアのような仮説は、 現在一般的である、「共通祖先が進化によって多様に分岐して、各生物を発生させた」というような世界観からやや外れた、「全体として用意された誕生のための 巨大な場から次々発生してきた各生物」というような世界観を連想させたりするかもしれない。そうなるとそれは、まるで超巨大なタケ林みたいでなかろうか。
各生物の遺伝情報が異なっていることすらも、各生物ではなく、巨大生物の各部分が独自に進化しているのだと考えれるかもしれない。つまり地球の生態系は、巨大な生物の小部分ごとが個々に独立的機能を持ったものだと。だが今の状況はともかく、そうだとすると最初のヌンムロスフィアは、小生物を生む巨大生物だったのかも。

巨大生態系生物

 葉緑体とかミトコンドリアとか、真核細胞の中の細胞小器官の中には、独自の遺伝情報を保持している、おそらくはもともと共生微生物だったのだろうものがある。だがそれらも1つの生物の要素として考えれるなら、生物の各要素は遺伝情報を必ずしも共有していなくてもよいということにならないだろうか。
1つの細胞の中に一緒に入って、1個体を生かすための機能のために働いているから、というような理由なら、それもまた定義された境界線の問題とも言えよう。ある生物において、細胞のような1つの部品要素として重要視されるものの内部で、その全体を機能させるために必要な、しかし異なる遺伝情報を持っている生物群がいたとして、我々の考え方では、やはりそれらは1つの生物の要素と考えてよいのでなかろうか。
そのようにして考えると、そもそもこの地球全体の生態系が1つの個体どころか、宇宙全体すら1つの生物して考えることも可能かもしれない。
もし、この宇宙自体もまた、1つの細胞のようなものだったらなら……

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