主にバトルスクールを舞台にしたエイリアンもの
近未来を舞台に、人類と敵対する宇宙人に対抗する軍の指揮官を育成するための特別な学校(バトルスクール)での、天才児たちの友情。
同じだけ特別な才能を持っているが、性格の問題で一般人として生きていた兄や姉の、政治の戦い。
通常、人類とはわかりあえない意識を有する地球外生物との侵略戦などを描いたSF。
戦闘描写はぜんぜんない
主人公のエンダーは最初から、人類の救世主である、 宇宙戦闘軍の指揮官として特別に育てられる子供。
この作品は登場する宇宙生物なの戦闘とかよりも、その戦闘で地球軍の指揮を任されることになる彼の、バトルスクールでの人間関係や、心理描写が主に描かれている。
というか戦闘描写に関しては、バトルルームのシュミレーションから実際の戦いに関してまで、なかなか省かれている。
極端に言えば、「今回の戦闘でも、エンダーはまた天才的発想を持って、敵を倒した」というような説明ですまされるパターンがかなり多い。
ようするにこの小説は、基本的に戦いを描いたものではない。
戦いに身を投じる子供たちの心理描写と、彼らを戦いに利用する大人たちの駆け引きばかりを描いている。
社会に翻弄され、翻弄する、3人の天才児
作中ではおそらく資源不足問題が世界中で本格化しているような感じである。
少なくともアメリカ政府は、1つの家庭に、子供は2人までと定めていて、3番目以降の子は、様々な社会的援助を受けられず、 その子自身も、一家も、周囲から白い目で見られている。
作中通して見て、上記の設定はおそらく、主人公を、選ばれた特別な第3子(サード)と呼びたいがためだけに作られた設定じゃないかと思われる。
ただ、同じだけの才能をもった天才ではあるが、性格に問題があるという兄と姉が、物語の重要なファクター(要素)となっている。
兄ピーターは冷酷で暴力的なタイプで、 単純に戦闘の指揮官としてはおそらく最も向いているとも言えるが、しかし単純に大きな役割を与えるにはリスクが大きい(実際に、彼は自主的に世界を征服しようとする)
一方で姉のヴァレンタインは、情愛が大きすぎるタイプとされている。
エンダーは上2人の中間的で、 利用できる程度には自分の感情を殺せるが、決して冷酷な人間ではないというような感じに描かれている。
ここにある程度以上の知恵を持っている生物特有のジレンマも描かれているように思われる。
つまり、仲間をコマとして扱えるような者でないと、戦闘において最良の結果を出せる指揮官にはなれない。
しかし、あまりにも自分以外の存在に対して冷酷な者が力を持ってしまった場合、戦いのない時代がひどいことになりかねないというもの。
力ある者が優位な社会においては、平和は暴力的な性質を有する者によってこそ最も得られやすいというのに、しかし同時にそのような存在は、平和を最も乱しやすい者でもあるわけである。
ここでさらに、異なる社会性を築いている宇宙生物との戦いの要素を混ぜることで、問題をさらに浮き彫りにしているような感じもする。
つまり、人間が築ける社会は、結局は力が優位の社会でしかない。
少なくともそういう社会以外を築けた前例がない。
だがそうなると、上のジレンマが出てくる。
昆虫というよりも軟体動物をイメージさせるバガー
この物語に出てくる地球外生物のバガーは、地球生物というか、人間とは(少なくとも容易には)わかりあえない存在として描かれている。
バガーは言葉を持たず、意思疎通というようなことを行わない、全体が1つの意識というような、そういう存在である。
作中の説明からして、この生物は社会性昆虫を参考にしてると考えられるが、どちらかと言うとその意識の解釈は、タコのような全身神経構造的イメージを思わせる。
「昆虫」最強の生物。最初の陸上動物。飛行の始まり。この惑星の真の支配者たち 「タコ」高い知能と、特殊能力。生態、進化。なぜ寿命が短いか
SFに登場する地球外生物が、けっこう地球生物と似ているというのはよくある話だが(というか多分そうでない話の方が少ないが)、これは作中で普通に指摘されている。
その上で、生物のパターンというのは固定的でこういうものだというような話が少ないので、このバガーという生物の起源は地球にあるか、あるいは地球生物と同じ起源を有するのではないか、という印象が結構強い。
「地球外生物の探査研究」環境依存か、奇跡の技か。生命体の最大の謎
コンピューター的賢さ
バトルスクールでは、模擬戦闘のゲームを利用したトレーニングがひたすらに行われているという設定。
もちろんエンダー含め、そこの生徒達はみんな 普通よりも かなり天才とされる少年少女たちである(男の方が多いという設定)。
彼らが、基本的に人間同士だってプレイする時でさえも、それぞれコンピューターの真似をしようとするほど、コンピューターによって徹底的に訓練されている。
人間よりも機械のように考える者たち、というような記述はちょっと興味深い。
上記のような描写に加えて、バトルスクールの子供たちに関して、ある程度のコントロールが行われているというような感じもある。
エンダー自身、自分は結局奴らの操り人形にすぎないというように悩むシーンが結構ある。
エンダー、ピーター、ヴァレンタインの描写も合わせて考えると、作者はどうも、性格が本質的なものだというふうに考えている節がある。
終盤に、結局エンダーたちはまだまだ子供で、精神はこれから大人になるというようなヴァレンタインのセリフもあるが、このあたりなかなか作者の進化論感が表れているかもしれない。
「ダーウィン進化論」自然淘汰と生物多様性の謎。創造論との矛盾はあるか
ようするに、重要なのはより本質的なもの、遺伝子であって、環境によって変化するのは、初めから決まっている領域のことでしかない、というような考え方が見える(だからエンダー、ヴァレンタイン、ピーター全員、環境によって表面的な変化はあっても、本質的にはそれほど変わっていないような印象を受ける)
進化論に関してもわりと言及されているが、(微妙なところではあるが)ドーキンスとかに影響を受けてる印象を受ける。
「利己的な遺伝子論」進化の要約、恋愛と浮気、生存機械の領域
ただし、その辺りあまり深く考えると、エンダーたちの両親が、明らかに少し愚かな感じに描かれているのが、違和感になるかもしれない。
兄妹3人とも同じ才能という点が、突然変異でなく、意図的な操作を感じさせる。
だが、意図的に才能を作れるなら、意図的に性格を構築することもできるのではないか、とはちょっと思ってしまう。
陰謀論とプログラム仮説
作中で、実はバガーは嘘の存在で、すべてはそれに対抗するためとされる組織が権力を持っておくため、というような陰謀論が少し出てくる。
これに合わせて終盤の展開も考えると、作者はもしかしたら、世界シミュレーション仮説の話も考えていたのかも。
「宇宙プログラム説」量子コンピュータのシミュレーションの可能性
別に実際にそういう設定がないとしても、裏にそういう設定があるのかもしれない、というふうに思ってしまう読者もわりといると思う。
相対性理論が間違っていないというパターン
(作中でそう表現されている)相対論的速度を使った未来へのタイムトラベル効果の描写がある。
「特殊相対性理論と一般相対性理論」違いあう感覚で成り立つ宇宙 「タイムトラベルの物理学」理論的には可能か。哲学的未来と過去
また、バガーたちの超光速情報交換は、原理の説明はまったくないが、人間でも使えるようなものだという(というか使っている)描写もある。
何が言いたいかというと、例によってこの話でも相対性理論というのは本質的に正しいというように設定されているに違いない。
しかし、現実にも(一般的にはトンデモ説ばかりとはいえ)相対性理論は間違っている、という説は普通にある。
SFであまりそれが描かれることがないというのは、ちょっと妙な感じがしないでもない。
「闇の権力者集団の都市伝説」我々に対して何が隠されているのか?
よく考えてみると問題は、SFに描かれている相対性理論的なたいていのものが、基本的に、時空間に対する我々の視点の1つの解釈的なものにすぎない、ということかもしれない。
実際、マクロな物体のタイムスリップに成功した前例もないので、典型的な相対論的効果というのは、効果というよりも、時空間に関連する多くの物理現象の解釈と言いきってしまう方が正しいまである。
フィクションだったら、もっと自由に、他の解釈を想定していいんじゃないかとは思う。