「インカ帝国の征服」滅亡の理由は本当に神の奇跡だったのか

黄金帝国の噂

バルボアが聞いた話

 16世紀の初頭。
広大なアメリカ大陸へと渡ってきたヨーロッパ人たちの多くは、黄金を求めていた。
そんな中、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボア(Vasco Núñez de Balboa。1475~1519)の指揮のもと、パナマに身を落ち着けていたスペイン人たちは、先住民たちがもたらした南の方にあるという王国の噂を聞いた。
(パナマは地図上においては、中米と南米の間の地帯にある。
南米のコロンビアやベネズエラと共に、カリブ海とも隣接する地域である)
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 スペイン人たちは、多大な富を有するというその王国に大きな期待を持った。
聞けば、その国には黄金が溢れているため、ごく日常の用品の素材にも黄金が使われているのだという。

ラクダのような不思議な動物

 先住民たちは、その王国の地域にいるという、不思議な動物の話もしてくれた。
その動物を描いた先住民たちの絵を見たバルボアは、それをアラビア世界のラクダと考えたが、実際はリャマであった。

 リャマはラクダ科の動物ではあるから、バルボアが勘違いしたのも無理はない。

 バルボアはしかし、幻の黄金の国に出会うことはできずに生涯を終える。
彼は、自らがその建設を指摘した植民都市ダリエンの、新たな総督として本国が送ってきたペドラリアス・ダビラ(Pedro Arias de Ávila(1440~1531)と対立。
最終的には、元々部下の一人であったフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro。1470~1541)に捕らえられ、挙げ句は処刑されてしまう。

大帝国の住人か

 パナマ騎兵隊長であったパスカル・デ・アンダゴヤ(Pascual de Andagoya。1495~1548)が、大陸の南側への第1回探検を企てたのは、バルボアの死から3年後(1522年)くらい。

 アンダゴヤは先住民の証人から、南に数百レグアほどにあるという 大帝国の噂を聞いた(1レグアで4キロメートルほどとされる)
そして彼は、『ピルー』という川のほとりで、帝国の住人だという先住民と出会ったが、その川の名前は、スペイン人たちがまだ噂でしか知らない、謎の大帝国の名前として使われるようにもなった。
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 アンダゴヤの話は、フランシスコ・ピサロにも伝わっていた。
彼は仲間であったディエゴ・デ・アルマグロ(Diego de Almagro。1479~1538)と共に、探検にかかるだろう莫大な費用を求めて、パナマ司祭のエルナンド・デ・ルーケ(Hernando de Luque。~1533)を頼る。
そしてルーケは、ペドラリアス総督の反対にもかかわらず、ピサロたちの援助を決めてくれた。

探索と遭遇

人食い人種

 普通、淡水と海水が混ざっているような水を「汽水きすい」。
そして、熱帯、亜熱帯地域の、汽水が多く見られるような河口の、湿地などに見られる、緑の森林群を形成する樹木じゅもく、植物群などを総称して、『マングローブ(mangrove)』という。
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 そして、ピサロたちのチャーターした2せきの船が、海岸沿いの探検に出発したのは1524年。
だが基本的に、この最初の探検は見事失敗に終わったとされている。

 確かに南へ向かうと、黄金のアクセサリーを身につけているような 先住民たちが、さらに南の強大な王国の噂を語ったりもしたが、行けども行けども見えてくる海岸は、マングローブに覆われ、虫が飛び交う、理想郷にはとても見えない領域ばかりだった。

 少し興味深いのが、探検の続行を断念した直接的な理由である。
コロンビアの沿岸を、「プンタ・ケマダ(コロンビアのカウカ辺り)」というところまで航海したピサロ隊は、その辺りで人食い人種に出会い、さすがに恐怖を感じたのだという。

水上での遭遇

 第2回探検は、1526年から1527年にかけて。
ピサロは、やはりコロンビアのサン・フワン(プエナベントゥラ)に上陸したが、船長のバルトロメ・ルイスは、さらに南へと進み、後のトゥマコ市の沖合で、少し飾ったいかだという程度の小船に乗った先住民たちと遭遇した。
船に乗っていた先住民たちは、明らかに動物の毛で作った衣服をまとっていたが、それは確かに文明の証のように思えたかもしれない(国の支配下から外れた地域の先住民たちは、あまり服を着る習慣を持っていなかったとされている)

 当時のスペイン人は、カリブ海から中南米全域を「インディアス」と呼んでいたが、(メキシコの方の先住民が航海をしない文化だったこともあり)そのインディアスの海で、先住民の船に遭遇したのは、それが初めての事だったとされている。
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 パナマから連れてきていた通訳のおかげで、その小舟が、現在のペルーとエクアドルの国境の辺りにあるトゥンベスの港からやってきたこともわかった。

 彼らはさらに、自分たちの国にはリャマという動物が群れをなしていて、自分たちの服に利用されている毛は、そのリャマのもの。
国の支配者の名前はワイナ・カパック。
そして、その国は黄金に溢れているとも語った。

 そして、そこで得られそうな情報は全て得た後、ルイスは、スペイン語を教えて通訳とするために、何人かの先住民を自分たちの船に連れ込んで、一旦ピサロのもとに戻った。

ガリョ島の13人

 しかし普通に考えて、広大な王国を相手にするには兵力が少なすぎるだろうし、 それまでの幾多の苦しい航海によって、スペイン人たちはずいぶん疲れを見せていた。

 ピサロは、ガリョ島において、仲間たちの前で、 地面に一本の線を引き、力強く語った。
「同志たちよ。 こちら側には滝のような雨、飢餓、他に様々な困難があるだろう。一方であちら側にあるのは快楽だ。さあ選ぶがいい。こちら側に残り、パナマに戻って貧しい思いをするか。あちらへと進み、ピルーに行って富を得るのか」

 そして、線をまたいで決意を示したピサロに、12人の部下たちが続いた。
この時の彼らは、『ガリョ島の13人(Los trece de Gallo)』として、後に語り継がれることとなる。

 この、ピサロが地面に線を引いたエピソードはかなり有名であるが、後世の創作が混じっているという見方も多い。
この時、「さすがに辛い」という兵たちの多くの手紙を受けて、パナマから迎えの船が来ていたが、ピサロが帰還を拒否したこと。
そして、彼が行った演説を聞き、島に残ることを決めた仲間たちが13人くらいいたことは、本当の可能性がかなり高いらしい。
ただピサロが演説の際に線を引いたという記録は、16世紀以前の記録にはあまり見られないそうだ。

トゥンベスへの到達

 ピサロたちは、海外沿いに、さらに船を進ませ、やがて壮大なアンデスの山脈が確認できるようにもなった。
そして、ついには彼らは、港トゥンベスにたどり着く。
意を決して最初に船から降りた乗組員のモリーナは、先住民の女性たちの美しさに魅せられていたという。
そして彼が、実際に見て回って、仲間たちに語った国の様子は、ちょっと大げさそうな感じだったので、あまり真剣には受け止められず、ピサロは別の使者も放った。

 ピサロが派遣した使者は、万が一の防衛のためにしっかりと鎧を身にまとっていて、先住民からすると、それはかなり異様な格好だったろうと考えられている。
そもそもその素材に使われている鉄からして、アメリカ大陸では知られていなかった代物である。

 もちろんヨーロッパでは普通な真っ白な肌も、先住民たちにとってはかなり異質なものであったろう。
また、使者は銃も持っていて、先住民にせがまれたために彼はその引き金を引いたという。

 当然ながら、銃の起こした大きな音に先住民たちは大きく驚いたわけだが、雷を崇める文化を持っていた彼らは、その音を自分たちの迷信と結びつけたという説もある。

オレホンとの出会い

 トゥンベスにおいては、基本的にピサロたちは、先住民に歓迎され、すぐに楽しげな雰囲気が、港を包むこととなった。
そしてその場には、例の黄金帝国インカの皇帝その人の代理人がいた。

 その皇帝の代理人たる先住民は、重たい耳飾りによって耳たぶが巨大化していたために、スペイン人たちからはオレホン(大きな耳)と呼ばれた。
楽しげな雰囲気の中にあって、しかし緊張感を持ってオレホンは尋ねた。
「おまえたち、こんなところまで、いったい何を求めて来たのか?」

 ピサロは、 まずは自分たちのことを紹介するとばかりに、自分たちの国、つまりスペインの皇帝カルロス一世(1500~1558)の話をした。
彼はまた、神聖ローマ帝国のローマ皇帝、カール五世でもある。
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 そして、オレホンは鉄の斧を贈り物として受け取り、ひとまずは満足した様子を見せた。
しかし、この時にオレホンはひそかに、謎の男たちの到来をインカ皇帝へと伝えるために、使者を送っていたとされている。

支配体制は脆かったか

 さらにトゥンベスを発つと、ピサロたちは、現在のペルー南部、チンチャの辺りまで船をさらに進めたが、そこで広大な砂漠の墓地を確認した後に、一旦はトゥンベスへと戻る。
そして、また通訳係に仕立てるために、3人の少年を船に連れ去った。

 徐々に情報は集まってきた。
どうもインカ族は、他の様々な民族を支配していたが、しかしどの民族も、それほど大昔から支配されてきたわけではないらしい。
(実際、インカ帝国の成立自体からも、まだ1世紀ほどだったとされている)
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 重要な情報として、インカ帝国に支配されることに不満を持つ民族たちも結構いるようだった。
特に帝国に組み込まれる以前に、それなりに大きな勢力を誇っていた者たちには、その傾向が強かった。
実はピサロがトゥンベスで出会った先住民たちからして、元々強大な国であったチムーに属していた者たちで、インカに不満を抱いていたそうである。

 インカ帝国は広大な範囲の様々な部族を確実に支配するため、ある地域を支配した場合に、そこの人々を集団単位で別の地域に移動させ、連帯を崩すという政策を取っていた。
しかしそれにもかかわらず、『ミティマエス』と呼ばれたそれらの移住者たちは、一族や出身地域の絆を忘れないでいて、スペイン人が手を出すまでもなく、すでに多くの地域で反乱計画が進められていた。

インカ帝国内部の混乱

 ピサロは紛れもなく黄金帝国の存在を確信し、一旦スペインに戻って、征服のための資金援助を求めた。
説得には5年ほどかかったが、この計画の遅れは、むしろピサロの幸運といえた。

 ちなみにピサロは、この説得のための帰国時に、先にメキシコのアステカ帝国を征服しているエルナン・コルテスとも会って、新世界の先住民との戦いに関して、アドバイスを受けたそうである。

ワイナ・カパックの死

 トゥンベスのオレホンの使者から、海の向こうからやってきた白い人たちのことをインカ皇帝が聞いた場所は、キートという都市であったとされる。
まさにそこは、征服からまだ間もなく、反乱が何度も勃発していた地域で、11代インカであるワイナ・カパックは、自ら反乱鎮圧の最前線にいたのだそうである。

 反乱収束後に、巨大な地震が発生したのは凶兆と思われた。
続いて皇帝にもたらされたのが、白い人たちの情報である。
その白い人たちは侵略するまでもなく、大きな悪夢を帝国にもたらした。

 キートでは、まず間違いなく白人たちがもたらした(天然痘とされる)伝染病が流行り、ワイナ・カパックもそれによって、戦いの前にこの世を去ることになった。

2人の後継者の対立

 ワイナ・カパックの遺体は、防腐処理を施された後、クスコに運ばれたとされる。

 次世代の王位継承戦もすぐに始まった。
嫡子ちゃくし(正室の長男)のワスカルはクスコで君主宣言をした。
一方で、庶子しょし(側室の子)であるアタワルパは、キートで自らを君主とした。

 1532年にピサロが戻ってきた時、まさしくインカ帝国はこの王位継承をめぐった内戦中であり、ピサロはその状況を利用できた。
おまけに度重なる戦争に加え、伝染病によって、帝国全体の国力も大幅に低下していたとされる。

 ただ実のところ、正妻、嫡子、庶子とかの概念がインカ帝国にあったのかどうかは、かなり謎なところともされる。
記録によっては、死に際のワイナ・カパックが、曖昧な意識の中で告げた後継者名はワスカルだったが、家臣たちの多くは、元々アタワルパをかっていたというような話もある。

征服。神への愛か、欲望ゆえか

 正式にペルー総督に任命され、帝国の征服に乗り出したピサロの軍は、騎兵63名、歩兵200名だったとされる。

 彼らは伝染病によって変わり果てたトゥンベスを抜けて山へと進み、争いあう王位継承者の1人アタワルパがいるという『カハマルカ』へと歩を進めた。

整備された道を進む

 おそらくはワイナ・カパックの親世代の頃に、帝国内の広い範囲に整備された道路は見事なもので、ピサロたちとしてもずいぶん助かったようである。
一行は海岸沿いの道を進み、村を見つけては カトリックの信仰を説き、スペイン国王の支配下に置いていった。

 やがて一行はカハスという町にたどり着いたが、そこでは住民たちがアタワルパの残忍さに怒りを見せていた。
インカは、彼らにかなり高い率の税を課し、さらに毎年、生贄のための子供を差し出すことも要求していた。

 スペイン人たちはさらにカハスで、逆さ吊りにされた3人の男の死体を見かけたが、彼らの罪は、特別にインカに仕えることが決まっている「アクリャ」と呼ばれる少女たちの家に侵入したことだったそうだ。

街での駆け引き

 カハスも抜けて、一行はさらにアンデスの道を進んだ。
途中、先住民の作ったいろいろな施設があったが、特に織物と食料でいっぱいになっている倉庫は、物資の補給場所として非常に重宝した。

 また、「タンボ」という、老人が管理する、円形の宿屋のような施設では、しっかり休息もできた。

 一行がカハマルカに着いた頃には、先住民たちについて彼らは多くのことを学んでいたが、それは先住民側も同じことであった。
インカ側の者たちも、白い肌の人たちは、結局自分たちと同じように、その気になれば簡単に殺せる程度の者たちだとよく知っていた。

 白人たちと先住民たちの、互いの軍の間には確かにすでに緊張があったろうが、アタワルパはそれほど大きな心配はしていなかったろうとされる。
彼はおそらく、わりと軽い気持ちで、ワスカル相手の戦いに、白い異国人たちを利用してやろうと考えていた。

 そして、それぞれ使者を送り合う駆け引きがしばらく続いた後に、ピサロの弟エルナンド(Hernando Pizarro。1501~1578)が、いよいよアタワルパと会合することになった。

太陽の子の素顔

 エルナンドが出会ったインカは、おそらく30歳くらいで、優美な服を身にまとい、金属と毛を組み合わせた、豪華な飾り付けの王冠をかぶっていた。
また、大勢の神官や、実の妹を含む妻たちを周囲に従えてもいた。
その顔はヴェールに隠れていたが、その理由として、太陽の子であるインカの存在はあまりに強烈であり、その目を見た者に病を与えてしまうのだと、説明も受けた。

 しかしちゃんと顔を見せるように迫ったエルナンドに対し、アタワルパは望みどおりにヴェールを取ってやると、「ここまででお前たちが盗んだ、我々のものを全て返せ」と告げる。

 その会見に友好的な感じは全然なかったとされているが、しかし結局アタワルパは、広場でピサロに会うことを約束した。

せまる運命の時

 騎乗できるような動物がいないインカ帝国において、偉い人が移動するための乗り物と言えば、小さな屋形やかたみたいなものに人を乗せ、その下に取り付いた2本の長柄ながえ(持つための部分)を別の人たちが持って運ぶというもの。
いわゆる「輿こし(palanquin)」であった。

 ところで、しっかり話し合いが決まったところで、インカ側は宴会でスペイン人たちをもてなした。
彼らには、交渉をする際にはまず、強い者の方が飲食を振る舞うというしきたりがあったのである。
つまりここにあってアタワルパにはまだ、自分の方が明確に上の立場であるという自信があったのかもしれない。
だがそんなものは、もはや幻想にすぎなかった。

 ピサロは会見にあたり、事前に部下に、祖国の守護聖人であった聖ヤコブ(キリストの12の弟子の1人)の名前が、行動の合図だと伝えておいた。
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わずかな時間の大殺戮

 ついにピサロの前に現れたインカ、アタワルパは、屋根なしの輿に乗って、オウムの羽根に覆われた姿であった。
その周囲を豪華な衣装の兵士たちが固め、さらに周りには、ホラ貝や笛の音に合わせて歩く、若者中心な取り巻きたちもいた。

 ピサロたちに同行していた、ドミニコ会修道士のビセンテ・デ・バルベルデ(Vincente de Valverde。1495~1541)は、片手に十字架、片手に聖書を振りかざしながら、アタワルパに対して告げた。
「私たちはあなたに神の言葉を伝えに来たのです」

 アタワルパは修道士に、その聖書とやらを貸してくれないかと頼み、修道士は承諾。
しかし聖書を受け取ったアタワルパは、それを耳に当てた後に投げ捨てて、言葉を返した。
「自分たちが崇拝する聖なる祖先たちは、神官を介して自分たちに語りかけてくるが、これからは何の音も聞こえてこないではないか」
さらに彼は続ける。
「お前たちがここに来るまでに、何をしてきたかは知っている。私の民たちに与えた仕打ちも、 家々を荒らしてきたこともな」
そして「キリスト教徒はそのようなことはしない」と弁解したバルベルデに対し、「お前たちが奪ったものを返すまで私はここを動かない」と告げた。

 白人たちからすれば、神への冒涜と取れたその言動が、アタワルパの運命を決した。

 ピサロは怒りのままにインカの手を掴んで、輿から無理やり下ろそうとした。
話し合いの場であったはずの広場は、一気に大混乱となる。
叫び声や銃声が響いた後、静寂の時に戻る頃には、広場は死体だらけになっていた。
そして今や哀れなインカは、服をボロボロにされ、手は縛られていた。

史上稀に見る大略奪劇

 囚われの身となったアタワルパは、屋敷の一部屋いっぱいの宝で、命だけは助けてほしいと、取引を持ちかけた。

 帝国中のあちこちから様々な宝物が届くまでの時間に、アタワルパはエルナンドと、 ちょっとした信頼関係を築く事にも成功していたもされる。
2人は結構な長い時間を、サイコロ賭博で費やしたらしい。
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 集められた多量の金の内、ピサロは1/5をスペイン王に献上することに決めたという。

 それは史上稀に見る略奪劇だったとされる。
人類の歴史の中で、ピサロほど短期間に大金持ちとなった者はおらず、エルナンドほど莫大な金額を短期間のサイコロ賭博で得た者はいないと言う人もいる。

征服者側の言い分

 ピサロの秘書官であったフランシスコ・デ・ヘレス(Francisco de Jerez。1495~1565)の記録によると、囚われたアタワルパに対して、ピサロは以下のように慰めの言葉をかけたらしい。
「我々に負けて囚われの身になったからといって恥じることはないだろう。なぜなら私たちはキリスト教徒の仲間達と共に、もっと巨大な国家だって制服してきたのだ。そして我々は今回、我々の偉大な皇帝陛下の命によって、すべての者がカトリックの聖なる教えを受けることができるようにと、この国を征服しに来た。我々には悪意はないのだ。ただ、今まであなたたちがしてきたような、野蛮な悪の生き方を捨ててもらいたいだけなのだ。我々がわずかな数の兵士たちだけで大勢の敵を相手に勝利することができたのは、主の加護のおかげなのだ。あなたたちはむしろ喜ぶべきだろう、あなたたちの国のように、1人の敵も生かしておかないような残酷な国に征服されなかったことを。我々は敵であろうとも情けをかける。あなたの部下を殺したのは、友人として接してほしかったのに、あなたたちが大勢の軍隊を引き連れてやってきたからだ。その上、神の言葉が納められた聖書までも地面に投げつけた。その瞬間に、我々の主は、私たちがあなたに対し牙をむくことをお許しになったのだ」

 アタワルパは「私は臣下に騙されただけだ。私はもちろん友としてあなたがたを迎えに来ようと思っていた。しかし臣下がそうさせてくれなかったのだ。嘘をついた者たちはみな、さっき殺された。あなたたちの勇気や好意もよくわかった」と反省の言葉を述べたともされる。

 しかし、何にせよピサロたちの第一の目的が、神の教えの布教でなく、黄金であったことだけはまず間違いないだろう。

アタワルパの処刑

 ピサロは、実は最初はアタワルパの宿敵であるワスカルの肩を持っていた。
少なくてもそういうふうに装っていたという説がある。
しかし、彼はアタワルパよりも先に死ぬことになった。

 クスコにスペイン軍が迫る中、すでに、アタワルパ派に捕らえられていたワスカルは、 スペイン人との競合を疑われて暗殺されたのだ。

 さらに続いてピサロの元に、インカの忠実な将軍の1人が、カハマルカで捕らえられた主君の1人を救い出そうと画策しているという 情報がもたらされた。
死因は不明だが、とにかくこれが新たなきっかけとなってしまう。
ピサロは、アタワルパを国家反逆罪とし、火あぶりの刑を宣告した。

 この時に、火にやられてしまうと、肉体も魂も完全に世界から消え失せてしまう、ということを恐れたアタワルパは、キリスト教への改宗を交換条件にしてまで、処刑方法を斬首に変えてもらったとされている。
しかしおかげで彼は復讐のために戻ってくることを誓うことができたらしい。
これを起源とする、地下から生まれてくる新しい救世主インカリの伝説が、ペルーの山岳地帯に伝え残ることにもなった。

通訳の陰謀説

 アタワルパの死に関しては、ピサロの元で通訳として働いていた、先住民のフェリピーリョの陰謀だったという説もある。
フェリピーリョは、以前にトゥンベスで連れ去られた3人の少年の1人で、自分の元々の国チムーを征服したインカへの憎しみを忘れていなかったのである。
彼はチムー時代には、首長の忠実な臣下の1人だったのだそうだ。
その上に彼は、アタワルパの妻の1人と恋仲にもなっていたらしい。
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 そして通訳の立場を利用して、フェリピーリョは、スペイン人たちがアタワルパを殺すように仕向けたのだとか。

 ただしこの説の提唱者は、ピサロの甥であるペドロらしい。

最後のインカ(?)

 アタワルパの死後、ピサロは、アタワルパの弟の1人を次の皇帝としたが、彼もまたすぐに暗殺された。
続いて皇帝とされたのは、また別の弟マンコであった。

 しかし名ばかりのインカ・マンコは、スペイン人たちの辱めに耐えられず、後に逃げ出して、森のはずれのピトコスの砦に立てこもり、抵抗運動を始めることになる。
彼の死後には、2人の息子ティトゥ・クシとトゥパック・アマルーが後を継いで抵抗を続けたが、結局最終的にはトゥパック・アマルーが処刑され、戦いは終わった。

 そしてインカを名乗れたのは彼らが最後であった。
トゥパック・アマルーが 処刑された後200年ほど、広大なアンデス山脈世界は、スペイン人たちが支配することとなったのだった。

征服者たちの内戦と、ピサロの死

 実のところ植民地政府の抱える問題は先住民たちの抵抗運動だけではなかった。
征服した土地や、先住民たちの扱い、彼らから奪った財産などを発端とする争いが、征服者同士の間でも次々と起こったのである。

 そして、そのようなスペイン人同士の内戦によって、結局はピサロも、 元々彼の仲間であったが、いつからか敵対する関係にもなっていたアルマグロも、その命を散らすこととなってしまったのだった。

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