「エストニア」国旗の由来、民族の言語。独立に努めた人々

なぜバルト三国なのか

 ヨーロッパにおいて、スカンジナビア半島とバルト海を挟みあい、 ロシア、ベラルーシ、ポーランドなどに囲まれた3つの国。
「世界地図の海」各海域の名前の由来、位置関係、歴史雑学いろいろ
すなわち「リトアニア」、「ラトビア」、そして『エストニア(Estonia)』は、ひとまとめに、『バルト三国(Baltic States)』と呼ばれることが多い。

 バルト三国がひとまとめにされる理由としては、歴史的、地理的な背景が強い。

リトアニア大公国とリヴォニア戦争

 中世の時代には、エストニアとラトビアはなかった。
この辺りの地域は政治的になかなか安定せず、16世紀には、スウェーデンが支配するようになった。

 一方で同じ(16世紀)くらいの頃のリトアニアは、わりと広大な領域を支配する大公国だったが、1569年に実質的にポーランドに取り込まれるような形で合併。
この合併は「ルブリン合同(Lublin Joint)」と呼ばれる。
そうして「ポーランド・リトアニア共和国」が誕生した背景には、リヴォニア(ラトビアの東北から、エストニアの南部くらいの地域)を巡る、モスクワ大公国(ロシア)との「リヴォニア戦争(Livonian War)」があったらしい。

1918年の独立

 18世紀には「ポーランド分割(Polish division)」があった。
ようするに3度にわたって、3つの国、オーストリア、プロイセン、ロシアに土地を奪われ分割されて、ポーランド・リトアニア共和国は一旦地図から消え去った。
馬車 「オーストリア」アルプス、温泉、カフェ、辻馬車。音楽が習慣な貴族
 そして歴史に、バルト三国がはっきり現れるのは、20世紀に入ってからであった。
三国全て、1918年には独立宣言を行ったが、これらの地域をまた取り込もうとしたソビエト(ロシア)やドイツとの小競り合いもあり、他の国々から独立承認を受けれたのは1920年以降であった。
ドイツ 「ドイツ」グリム童話と魔女、ゲーテとベートーベンの国

バルト協商と、ソビエトの侵略

 ドイツやロシアと言った強国に対する対策の一環として、エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、フィンランドをバルト諸国として、軍事的な同盟を結ぼうとする、政治的な動きがあったが、これは幻に終わる。
ヴィリニュスという地域を巡るリトアニアとポーランドの対立や、フィンランドの警戒的な態度などが、特に原因とされる。
とにもかくにも、結局1934年に「バルト協商(Baltic Entente)」という、ある種の同盟関係が結ばれたが、これに参加していたのは結局バルト三国だけだったというわけである。

 しかし、1940年までに、あっさりソビエトに征服された三国は、翌年から1944年まではドイツに占領され、第二次世界対戦でドイツが敗北して以降は、ソビエト連邦が崩壊する1991年まで、それの構成国となっていた。

再びの独立。バルトの自由への道

 三国の中でも、リトアニアは少し早い1990年の3月に、すでに独立宣言を行っていたようだが、外国による承認はやはり1991年。

 主にバルト三国が一緒くたにされやすいのは、同盟を組んですぐに、ソ連に取り込まれて、ソ連崩壊後に再び独立したという経緯から、そのまとまりの強さがイメージしやすいからとされる。

 それと1980年代後半の、再独立に向けての共闘運動も大きい。

 1939年に成立したという、ドイツとソビエトの「独ソ不可侵条約(German-Soviet Nonaggression Pact)」は、バルト三国へソビエトが侵略する序章となった。
この条約には、当初は公表されていなかった秘密議定書があり、そこには、ドイツとソビエトそれぞれが、個々に侵略することに関して干渉しない地域の取り決めがあり、ソビエトの侵略予定地域にバルト三国があったわけである。

 1989年8月にバルト三国で起きた、いわゆる「人間の鎖(Human chain)」とか呼ばれる、人々が手を繋ぎあい長い連なりをつくるデモ運動は、 その独ソ不可侵条約の秘密議定書の解釈、帰結への抗議を示すためのものだったとされる。
『バルトの道(Baltic Way)』とか、『自由のための鎖(Chain of Freedom)』呼ばれたその繋がりは600キロ以上続いていたという。

 ただ、1940年のロシア連邦への編入に関しては、バルト側の方から望んでいたこと、というように、ロシア側は主張してきたらしい。

 しかし、バルトとまとめられるのはいいが、独立後の三国には、少し政治的な温度差があるようである。
ラトヴィアはバルトに強いこだわりを見せ、リトアニアは周囲の各ヨーロッパ地域をつなぐ中継国のような意識が強いらしい。
そしてエストニアは、北欧的アイデンティティを強調し、そちらへの帰属の意思を示す傾向にあるという。

自然豊かな国土

 一般的にエストニアの国土の大きさは、九州よりも少し大きいくらいとされる。
平坦な国で、最大の山である「スール・ムナマキ(Suur Munamägi。巨大卵の山)」でも310メートルくらい。

 国土は、ほぼ半分ほどは森林に覆われていて、湖が1400以上あるとされる。
その1400の内の、特に巨大な「ペイプシ湖(Peipsi-Pihkva järv)」はロシアとの国境となる。
3500平方キロメートルを超えるというペイプシ湖は、ヨーロッパ全体でも5番目の大きさの湖である。

 島の数は1500を超えるらしく、1つもないラトヴィアと対照的。
最大の島である「サーレマー島(Saaremaa)」は、それ自体が一つの県扱いとなっている。

カレヴィポエク。エストニアの民族的叙事詩

 特定の民族の本質や精神を上手く表現している叙事詩じょじしを「民族叙事詩(National epic)」という。

 そして、スール・ムナマキの由来に関しては、エストニアの民族叙事詩「カレヴィポエク(Kalevipoeg)」にて語られる伝説がある。
昔、巨人の英雄カレヴィポエクが、そこで眠ろうとしたのだが、土地が平坦すぎて寝にくかったので、枕代わりとばかりに土を掘り出して、小さな山を作った。
それが後のスール・ムナマキというわけである。

 カレヴィポエクはもともと、口頭で伝えられていた伝説的な昔話であった。
しかし19世紀に、医師で言語学者の「フリードリヒ・ロバート・フェアマン(Friedrich Robert Faehlmann。1798~1850)が集めまとめた資料を元に、フリードリヒ・ラインホルト・クロイツヴァルト(Friedrich Reinhold Kreutzwald。1803~1882)という作家が、文学作品の形でそれを発表した。

言語と民族意識

 一般的に~人という時、そこには2つの意味のどちらかがあると思われる。

 例えばエストニア人という時、エストニアと呼ばれる国や地域に生きている人を意味する場合がひとつ。
もうひとつは、共通の言語や文化を共有しているという、よりはっきりとした民族意識。

 世界を国家というもので分割するなら、上記の2つ。
つまり、ある国の生まれという社会的な国民意識と、民族意識が一致していなければ、ちょっとややこしいとされる。
現在は、基本的に地域社会優先と言えるような世界であり、 国民式の方が重視される傾向が強い。
例えば日本生まれ日本育ちの者は、どんな思想を抱いてようとも、親の方針などにより日本語が全く喋れないとしても、基本的に日本人とされる。

 歴史的に見ると、どこの国家に属しているという国民意識と、自分はどういう文化を持っているかという民族意識が、調和することはむしろ珍しい。
19世紀くらいまでのヨーロッパでも、例えば大きな土地を所有している王がいたとして、その土地に住むが、しかし別の文化を有する者が王に貢物をしたりするのは、どちらかというと、単に宿代のような感じで、国家に属しているというような意識は低かったとされる。

 そしてその民族の違いだが、伝統的にヨーロッパにおいては、言語よりも宗教の違いを重視していたらしい。

 ようするに18世紀ぐらいのエストニアは、現在の北半分ほどの「エストラント」と、「リヴォニア」に含まれる南半分に別れていた。
それらの大きな違いは、別々の教会の影響下にあったということ。
しかしそれらの地域で、言語は、少なくともドイツ人にエストニア語と呼ばれるくらいには近しかったという。

エストニアの目覚め。何人か重要人物の話

ヨハン・ヴォルデマール・ヤンセン

 19世紀中頃ぐらいからは、エストニア語を話す民族集団というような思想が出現してくる。
1857年6月5日に創刊されたという、エストニア語で書かれた初の週刊雑誌「ペルノ・ポスティメース(perno postimees)」は、エストニア語を話す民族集団に対して初めて、「エストニア人の皆さん」と呼びかけた例でもあるとされる。

 ペルノ・ポスティメースは詩人でもあったジャーナリストのヨハン・ヴォルデマール・ヤンセン(Johann Voldemar Jannsen。1819~1890)が始めたもの。
一般的には、その雑誌でヤンセンは、エストニア語の文学を勧め、エストニアの人たちの、同じ仲間としての意識を高めようとしたのだとされる。
そして、その創刊号の登場は、「エストニアの目覚め(Estonian national awakening)」と呼ばれる期間の始まりとされることも多い。

 普通、エストニアの目覚めと呼ばれる期間は、1850年代から 1918年の独立宣言までである。

 そして、ペルノ・ポスティメース以降、民族を意識した啓蒙けいもう運動の輪(ようするにエストニアの目覚め)はどんどん広がっていったとされる。

ヤコプ・フルト

 カレヴィポエク(というかエストニアの様々な民間伝承)を書いたクロイツヴァルトから影響を受けた者は多いが、その中でもヤコプ・フルト(Jakob Hurt。1839~1907)は、「 エストニア民間伝承の王(king of Estonian folklore)」などとも呼ばれる。
彼はエストニア民族のあらゆる伝統や言い伝えなどを研究しながら、自身もその普及に尽力した。

 「エストニア文学人協会(Society of Estonian Literati)」や「エストニア学生協会(Estonian Students’ Society)」の主要会員でもあった。

 エストニア文学人協会は、文学を通してエストニアの精神を広めようとしたコミュニティ。
活動期間は1873年~1890年で、1887年以降は、文学コンクールも開催していた。
フルトの指揮のもと、協会はエストニアの民俗詩その他、とにかく古い文書、硬貨などの遺物などを収集し、体系的にまとめていった。
そして図書館を開き、講義などもよく行った。

 エストニア学生協会は、エストニアで最古の学術男子学生会とされる。
協会設立は1870年のことで、フルト含む何人かの主要、創設メンバーが文学人協会と被っている。
そしてそのシンボルとして採用された青黒白の色は、独立時にエストニアの国旗として、そのまま採用された。

カール・ロバート・ヤコブソン

 エストニアの目覚めにおいては、カール・ロバート・ヤコブソン(Carl Robert Jakobson。1841~1882)もまた、最重要の人物とされる。
そして彼もまた、エストニア文学人協会の主要会員だったひとりである。

 1860~1880年くらいの時期。
リヴォニアの政府は、わりと穏健派な貴族に率いられていたが、ヤコブソンは改革を提唱する過激派のリーダーだったという。

 ヤコブソンは、エストニアの目覚めにおいて、経済や政治部門の責任者でもあった。
ヤコブソンは、エストニア人に、バルトに暮らすドイツ人との政治的権利の平等を主張。
ドイツ系バルト貴族が有していた特権的地位の廃止を要求し、エストニア人たちに同意を求めた。

 彼はまた1878年に、エストニア語の日刊紙「サカラ(Sakala)」を刊行。
それは初の、エストニア語の政治新聞とされ、すぐに目覚めの大きな推進力となった。

 1948年には、ヤコブソンの長女リンダが、カール・ロバート・ヤコブソン博物館を開いている。
博物館は、ヤコブソンの生活や活動を紹介する他に、彼の生きていた時代の、エストニアの田舎生活の理解のための説明などもあるという。

ヨハン・ケーラー

 画家のヨハン・ケーラー(Johann Köler。1826~1899)もまた、エストニアの目覚めにおいて先導者となったひとり。
彼はヤコブソンの友人でもあったらしい。

 ケーラーは、エストニアがエストニアになって以降、最初のプロの画家とされる。
彼は肖像画もよく描いたが、その真骨頂は風景画だった。
特に、 彼が生きていた時代のエストニアの田舎生活を描いたものはよく注目される。

 ケーラーは、エストニア南部、ビリャンディの農場の家の7人目の子供として生まれた。
家は貧乏だったが、小学校には何とか通うことができた。
とりあえず絵が好きだったのは幸いする。
彼は仕事のために旅行したロシアのサンクトペテルブルグで、その才能を見出され、「帝国芸術アカデミー(Imperial Academy of Arts)」にも通うことができた。

 そして異国でも高まる画家としての名声を武器に、エストニア人の大義を熱心に訴えたのだった。

コンスタンティン・パッツ

 コンスタンティン・パッツ(Konstantin Päts。1874~1956)もまた、政治の分野で大いに活躍したが、疑惑のある人物である。

 やはり彼も、「テタージャ(Teataja)」という新聞を通して、 エストニア人たちの民族意識の形成(あるいは再生)を促した。

 1905年におけたロシア革命に関与していたらしく、危うく処刑されるところだったが、スイスとフィンランドに亡命して、なんとか命を拾ったらしい。
その後、死刑に関しては恩赦おんしゃされた(許してもらえた)ので、1910年にエストニアに戻った。

 紆余曲折ありながらも政治の分野で活躍したパッツは、1938年の新憲法の設置とともに、初代大統領となった。
しかし第二次世界大戦が勃発し、ソ連からの圧力に耐えきれず、侵略を許すことになってしまう。
これに関して、ソ連とパッツには、裏に繋がりがあったのではないかという説もある。

ヤーン・トニッソン

 政治家としてもジャーナリストとしても、パッツの宿敵だったとされるヤーン・トニッソン(Jaan Tõnisson。1868~1941)は、しかし、同じところを目指していたとされる。

 ポスティメースの三代目編集者であった彼は、エストニア人の民族意識を啓蒙するための記事を存分に執筆。

 最初に、エストニア人政党を創設したのは彼だった。
またエストニア語による学校教育の実現にも尽力。
さらには、第1次世界対戦やロシア革命で周囲の情勢が揺れるのを好機ととらえ、1917年9月に、ついに独立を提唱した。
「今、独立するか、それとも諦めるか、そのどちらかしかない」と彼は熱心に述べたとされる。

 実際にエストニアが独立した後も、彼は政治家として活躍したが、ソ連の侵攻時に反逆者として逮捕されてしまう。
そしてその後、裁判にはかけられたようだが、実際どうなったのかは不明らしい。
1941年に射殺されたという記録があるようだが、それも有力とされているだけで、確実ではないという。

 トニッソンとパッツが対立していた理由は、底の思想の違いだろうとされる。
パッツが経済成長を最重要視していたのに対して、トニッソンはかなりはっきりとした民族主義者だったらしい。

ナチスに関する興味深い、エストニアの記憶

 ナチスドイツといえば第二次世界対戦期における最悪の悪者としてよく知られるところであろう
特にユダヤ人に対する大量虐殺や強制労働の他、非人道的な人体実験などは、決して忘れてはならない出来事として、現在でもよく語られる。
そんなナチスドイツだが、良い評判が全くないわけではない。

 第二次世界対戦の初期に、ソ連に合併されたエストニアだが、1941年6月、ドイツ軍の侵攻によって一時期ロシア軍は消える。
その後エストニアは3年ほどドイツの支配下に入るわけだが、実は エストニアの民間人にとっては、それは普通に開放された時期だったらしい。

 ソ連軍はただ殺すことしか能がなかったが、ドイツ兵たちはちゃんと礼儀正しく、人の家を訪ねる時もちゃんとドアをノックし、子供たちにはお菓子をくれたともいう。

 単にロシア軍がひどすぎただけかもしれない。

 それとドイツ軍は、エストニア人を徴兵したが、エストニア人たちにとっては、にっくきソ連と戦えるのは、願ったりというところでもあったらしい。

コメントを残す

初投稿時は承認されるまで数日かかる場合があります。
「※」の項目は必須項目となります。
記事内容の質問などについて、(残念ながら管理人の知識的に)お答えできない場合もあると思います。予めご了承ください。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)