「水晶ドクロ」偽物はどれくらい偽物か。メソアメリカの遺物という伝説

クリスタルスカル

 文字通り、「水晶(rock crystal)」で作られたかのような、透明な頭蓋骨模型、いわゆる『水晶ドクロ(Crystal skull)』は、現在までにいくつも発見されている。

まず水晶とは何か

 水晶とは、無色透明か、でなくとも乳白色にゅうはくしょく(ミルク色)の「石英せきえい(quartz)」のこと。

 石英とは、結晶化した二酸化ケイ素を主成分とした、つやのある鉱物で、ガラスの原料になったりする。
水晶はその純粋なものとも言える。
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マヤ・アステカの遺物か

 有名な水晶ドクロは、だいたいマヤかアステカ、それでなくとも、コロンブス以前のメソアメリカの遺跡などから見つかったとされる場合が多い。
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しかし、電子顕微鏡などを使った精密な調査の対象となった標本に関しては、基本的にほぼ19世紀以降に作られたものだということが判明している。

 多くのドクロが製作されたのは、19世紀以降というか、19世紀のヨーロッパである場合が多い。
ちょうど教会の圧力も弱まりはじめ、忘れ去られていたような古い文明への関心が、高まっていた頃のことである。

 しかし、むしろこの水晶ドクロと、アメリカ大陸の古代文明とにどんな関係があるのか。
メソアメリカの古い神話や伝承などに、水晶ドクロに関する説明などまったく見当たらない。

 ただ頭蓋骨に対して、神秘的なイメージは持たれていたらしい。
特にスペイン人たちが征服した当時のアステカ人たちにとっては、頭蓋骨は、死、あるいは再生の象徴だったという説もある。
それに実際にアステカ人は、小型のドクロを作ることがあったらしい。
ただし石英(水晶)を使う遺物は、コロンブス以前のメソアメリカでは珍しかったとされる。

 また、水晶ドクロには、何らかの神秘的な力が秘められているとか、役割があるとかいう噂もあるが、そのような話は20世紀後半以降に囁かれ始めたものとされる。

ヘッジス・スカル

 数ある水晶ドクロの中でも、おそらくは最も有名なのが『ヘッジス・スカル(Mitchell-Hedges skull)』である。

 それは透明な石英で作られた典型的なタイプで、正面から見て、高さ約13cm、長さ18cm、幅13cmだという。
頭蓋骨としては実物大といっていいサイズである。

 また、下あごが外れるようになっているらしい。

フレデリック・ミッチェル・ヘッジス

 フレデリック・ミッチェル・ヘッジス(Frederick Albert Mitchell-Hedges。1882~1959)は、イギリスの冒険家で作家だった。
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1882年にロンドンで生まれたミッチェルは、16歳まで学校に通い、それからしばらくは、父親の証券会社で働いていた。

 父は、息子の冒険心を抑えつけようとしたようだが、そうはいかなかったらしい。
ミッチェルは、1959年に亡くなる時まで、旅をすることを引退しなかったとされている。

 妻のリリアン・クラーク(Lillian Clarke)とは1907年に結婚した。
ミッチェルの冒険好きのせいで、2人は一緒にいる時間も少なかったようである。

アトランティスの痕跡を求めて

 リリアンと結婚した後、ミッチェルはカナダを旅行し、そこでアンナ・マリー・ギヨン(Anne Marie Le Guillon。1907~2007)という女の子を養子にした。
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 ミッチェルは特に、北アメリカと中央アメリカに魅かれていたようだった。
彼はそれらの地域を何度も旅行した。
時には先住民族や野性動物の攻撃を受けたりもしたらしい。
また、メキシコ革命に巻き込まれてしまい、スパイとして活動した時期もあったという。
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 失われた大陸アトランティスへの関心も強かった。
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ミッチェルは時に、先住民族と、失われた大陸との繋がりを発見したと主張したりもした。
ニカラグアの海岸(モスキート・コースト)で「文明のゆりかご(the cradle of civilisation)」を発見したとか。
ホンジュラスのベイ島には、アトランティス文明の名残があるとか。

アンナは本当にルバンタンに来ていたか

 ヘッジススカルと呼ばれる水晶ドクロは、ミッチェルでなく、彼が連れていた、当時17歳だった義娘アンナによって発見されたものとされている。
発見場所はベリーズ(当時はホンジュラス)の古典期(200~900)のマヤ遺跡「ルバンタン(Lubaantun)」の寺院らしい。

 発見当時のアンナの年齢は14歳説もある。
年代に関しては、アンナ自身、ちょっと曖昧なところがあるようだ。

 ミッチェル・ヘッジス自身は、ルバンタンを扱っている彼の著作の中で、この発見に関して言及していないという。
そもそも、その遺跡の調査時に、アンナがついてきていたことを示す記録も存在していないとされる。
探検中に撮られた写真もけっこうあるのだが、アンナが写っているものは1枚もない。

 むしろ、1943年の兄への手紙で、アンナはその頭蓋骨をロンドンのオークションで、古美術品コレクター兼ディーラーのシドニー・バーニー(Sydney Bernard Burney。1878~1951)から購入したと述べているらしい。

 実際には、オークションに出品する予定であった水晶ドクロを、出品前にアンナが購入したともされる。

 アンナ自身は、借金のカタに貸していたところ、勝手に売られそうだったから慌てて買い戻した、と述べてたりするという。
一方でバーニィは、それの以前の持ち主はイギリス人のコレクターだが、さらにそれ以前に関してはわからないとしていたようだ。
また、ヘッジススカルかどうかはともかくとして、バーニィが1936年の時点で水晶ドクロを所有していたのは、学術雑誌で紹介されてるので、かなり間違いない。

フランク・ドーランドの調査

 ヘッジススカルは1960年代半ばくらいから、一時期(おそらく7年くらい)、芸術修復家のフランク・ドーランド(Frank Dorland)に貸されていたらしい。

 ドーランドはそれを独自に調べ、 金属工具を使った形跡はなく、歯に機械的な痕跡がある以外は、人工物だという痕跡もないと主張したという。
ただし彼は、そのくらいの細工のドクロ、現代の技術ならば3年もあれば作れるとしている。

 古代の人たちの製作方法に関しては、おそらくはダイヤモンドを使用し、最初に粗い形状に彫刻されたそれを、150~300年くらいの時間をかけて、砂などで微調整したのでないかとした。

 ドーランドはまた、素材の水晶は天然のものと比べてそんなに特別なものではなく、「温度が常に一定に保たれてる」とか、「どうやっても変質しない」とかいった、それまで囁かれていたいくつかの噂をはっきり否定したともされる。

ヒューレット・パッカード社の調査

 作家のリチャード・ガービン(Richard Garvin)が、それに強い興味を抱いたのは、ドーランドの手元にまだそれがある時期だった。
ガービンは、カリフォルニア州サンタクララのヒューレット・パッカード社(電子機器開発で有名な会社)の研究所での、ヘッジススカル研究を手配した。

 ドーランドは、それに関して複合材料を想定したが、研究所は、それが単独の水晶から作られている可能性が高いとした。
製造年代や制作方法に関しては、しっかりと調査していないらしい。
ただ、おそらく頭蓋骨はモンゴロイド(黄色人種)のものとも結論している。
メソアメリカの先住民はモンゴロイドなので、当然と言えば当然である。

 ただし後には、法医学の明るいグロリア・ヌッセ(Gloria Nusse)という人が、ヨーロッパ系の頭蓋骨という結論を下してもいる。

スミソニアン研究所の調査

 2008年には、スミソニアン国立自然史博物館の研究所で、高性能光学顕微鏡やコンピューター断層撮影を駆使しての、詳細な分析調査がヘッジススカルに対して行われている。

 結果、ダイヤモンドのような硬い物質の研磨材けんまざいでコーティングされた跡がはっきり発見された。
そして明らかにそのことは、ヘッジススカルが近代の技術によって作られたことを示唆していた。

人を呪う破滅のドクロ

 ミッチェル・ヘッジスは、1954年の著書で、その水晶ドクロを「破滅のドクロ(skull of doom)」と呼んでいるという。
曰く、そのドクロには、人に呪いをかけて病気にする機能が備わっているらしい。

 興味深いのは、ドクロの発見の経緯に関して「訳あって言えない」などと書いていることであろう。

大英博物館のブリティッシュスカル

 ヘッジススカルは、大英博物館が所有している『ブリティッシュスカル(British Museum skull)』と似ているともされる。

 精巧さではヘッジススカルの方が上とされている。
またあちらと違って、顎を取り外せる仕様ではない。

 ブリティッシュスカルは、1881年、パリの古物商ウジェーヌ・ボバン(Eugène Boban。1834~1908)の店にて、最初に確認されたとされる。
彼はその起源に関しては明らかにしていないが、とりあえずアステカの工芸品だとしていたらしい。

 ボバンは最初それを、メキシコの国立博物館に売り込もうとしたようだが、失敗した。
そして結局それは、起業家のジョージ・シソン(George H. Sisson)に買われる。
その後は、ニューヨークのオークションで、宝石商ブランドのティファニー(Tiffany & Co)に購入され、1897年には、大英博物館がそれを買い取ったわけだった。

 ブリティッシュスカルに関する調査は何度も行わているようで、少なくともいくつか部分的に、19世紀以降の工具を使用した形跡も見つかっている。
また、それの素材となっている結晶は、化学組成的には、マダガスカルかブラジル産である可能性も高く、アステカどころか、メソアメリカで作られたという話すらやや怪しいという。

ケ・ブランリ美術館のパリススカル

 フランスのケ・ブランリ美術館(Musée du quai Branly)が所有する『パリススカル(Paris skull)』も、元はボバンが持っていたものだという。
フランス 「フランス」芸術、映画のファッションの都パリ。漫画、音楽、星
 ちょうど頭のてっぺんから、貫くような穴が開いている。

 やはり精密な分析調査により、近代の工具を使って作られた形跡が発見されている。
調査したのは「フランス美術館の研究および修復のためのセンター(Center for Research and Restoration of Museums of France。C2RMF)」とかいう国家組織。
このC2RMFは、フランス全土の美術館のコレクションに保管されている美術品の明確な保存、復元、科学的研究を主目的としていて、文化遺産の保護と分析においては、国外でも活躍しているそうである。

 この水晶ドクロの起源はよほど気にされてるのか、「粒子加速器(particle accelerator)」や「走査型電子顕微鏡そうさがたでんしけんびきょう(Scanning Electron Microscope、SEM)」といったハイテク機器による分析も行われていて、細かい加工跡などが見つかっている。
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それらの分析によると、少なくとも18世紀以降、おそらくは19世紀に作られたものとのこと。

伝説の起源はどこにあるか

 大英博物館や、パリの美術館に所蔵されている水晶ドクロは、このアイテムの権威性を高めているといえるかもしれない。
それらはよく調査もされている。

 他にも「~スカル」と呼ばれている水晶ドクロはたくさんあるが、本物は13個しかないというような噂があったりする。
13個のドクロは再会の時を待っていて、それが再び一同に会した時に、世界の危機は去るだの、記録された真の叡智が明らかになるだのという、常識的には創作としか思えないような話もある。
このような伝説において、なぜ13個なのか(というより13個だと確信できるのか)語られることは少ない。

 おそらく13の水晶ドクロ伝説の起源は、どっかの予言者のお告げとかと思われる。
この手の話にはよくあることである。

エセマヤビジネスの時代

 よく調査され、(マヤとかアステカとかが関係ないという意味で)偽物と判明している2つの水晶ドクロ、ブリティッシュスカルとパリススカルは、どちらもウジェーヌ・ボバンが売っていたものという共通点がある。

 ボバンはメキシコの考古学者で、メキシコにおけるフランス科学委員会のメンバーでもあったという。
彼はまた古物商でもあったわけだが、冒険家というわけではなく、水晶ドクロのような骨董品は、基本的に人づてに手に入れていたらしい。

なぜ19世紀だったのか

 しっかりと調査され水晶ドクロの、推定された製作年代はたいてい19世紀である。
おそらく現代まで残っているドクロは、出来のいい一部だろうと思われるから、実際はたくさんの数のエセドクロ(というかエセマヤドクロ)が、19世紀に作られたに違いない。
だが、なぜこの時代に、水晶ドクロはそんなによく作られたのだろうか。

 単純に金になったからだろうと思われる。
19世紀は、コロンブス以前のアメリカ大陸の文化に関して、多くの人が興味を抱いた時期でもあった。
聖書に書かれていることが全ての真実というわけでもなく、自分たちとは関係のないところで高度な文明を築いた者たちも存在したという事実が、ようやくヨーロッパで広く受け入れられ始めたくらいの時期だったわけである。

 しかし、メキシコで科学的な発掘調査がまだまだ行われておらず、情報は不足していた。
そこで、 失われたマヤやアステカ文明の遺物を、偽造するビジネスが誕生したわけである。

労力に見合う対価はあったか

 実際問題、製作者が昔のアメリカ人だろうが、19世紀のヨーロッパ人だろうが、ヘッジススカルのような、少なくともいくつかの水晶ドクロは、大した出来栄えの芸術品である。

 決して簡単に作れたわけではないだろう。
19世紀の工具といっても、現在のものに比べればずいぶんと扱いにくいはず。
水晶ドクロには、思っていたように売れなかった、というようなエピソードもちょくちょくある。

 例えばボバンは、最初メキシコの博物館にスカルを売ろうとしたが、買ってはくれなかった。

 アンナ・ヘッジスも、オークションで売れなかったヘッジススカルを個人的に購入したというような説もある。

 これは、ものすごい価値が出ると思ったけど、全然大して評価されなかったというパターンなのだろうか。
それとも、ただ芸術的な凄さにこだわったアートバカでもいたのだろうか。

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