忠犬ハチ公物語
教え子からの贈りもの
ハチの飼い主であった上野英三郎(1872~1925)は、日本における「農業土木学(Agricultural civil engineering)」のパイオニア(先駆者)的な人である。
「実用例で学ぶカタカナ語」57語の一覧表とかっこいい(?)使い方
農業土木学は、農業に応用出来る工学的技術について研究する学問。
東大教授の上野博士が、ハチ公として知られる秋田犬を飼い始めたのは、53歳で亡くなった日の、17ヶ月ほど前からと伝えられている。
秋田犬のハチは、秋田県の民家で1923年11月に誕生し、生後50日くらいで、鉄道により運ばれ、上野博士の元へとやってきた。
それは有名な大災害である関東大震災の翌年(1924年)1月の事。
元々犬好きの上野博士は、前々から秋田犬を飼いたいと思っていた。
そしてそれを知っていて、かつ秋田県で働く事になった彼の教え子のひとりが、送ってくれた秋田犬がハチだったそうである。
「犬」人間の友達(?)。もっとも我々と近しく、愛された動物
生まれつき体が弱かったハチ
ハチは生まれつき胃腸が弱く、病気がちな犬だった。
そんなハチを上野博士は、病気になるたびに自ら看病し、とにかく可愛がったとされる。
毎日毎日、博士はハチを自分のベッドで寝かせ、またハチをどこかに繋いだりはせず、家の敷地内で自由にさせた。
博士はハチ以外にも犬を飼っていたが、みな放し飼いだったという。
やがてハチは、それなりには元気になり、大学に通う博士の送り迎えをするようになっていく。
なぜハチ公はハチ公と呼ばれてるのか
公という敬称は本来、中国は周の時代(1046~紀元前256)に、王を除く貴族に授けられる爵位の最上位であったとされる。
「周王朝」青銅器。漢字の広まり。春秋時代、戦国時代、後の記録
日本においても、この公というのは、しばしば身分の特に高い人などに付けられるものである。
ハチは、今やハチ公としてあまりに有名であるが、なぜ公と呼ばれたのか。
実はこのハチ公という呼び名は、上野博士が家に招待した学生たちが考案したものだったらしい。
彼らは、先生が可愛がる犬を、ハチと呼び捨てにするわけにもいかず、ハチ公と、公をつけて呼ぶ事にしたのである。
八重子夫人との恋
上野博士には子がなかったため、奥さんである八重子夫人も、夫と共にハチを非常に可愛がったという。
上野博士と八重子夫人の恋は、両親に祝福されたものでなく、二人は正式な夫婦というわけではなかった。
上野博士には親の決めた結婚相手がいたのだが、彼は八重子との暮らしを望んだのである。
だから上野博士は(親の許しがえられなかったので)正式な結婚が出来ず、八重子夫人とは事実婚だった。
そのため、夫が急死した後、(当時の法律上)彼女は一切の財産を継ぐ事が出来ず、養女と、ハチ含む飼い犬たちと共に、家を出ていかなければならなかった。
博士が亡くなった日
上野博士が大学で倒れ、帰らぬ人となったのは1925年5月21日。
この日ハチは、大学まで博士を迎えに行って、しかし会えずに帰宅した。
それからハチは、博士の最後の着衣が置かれた物置にこもり、3日間、何も食べずに過ごしたという。
そして葬式の日である26日の朝。
ハチは博士の棺の下に潜って、出ようとしなかったと伝えられている。
上野博士の教え子たち
夫も家も失った八重子夫人が、自分のもとに残せた家財は、小道具屋で売りに出されてたのを買い戻した、ごく一部だけだった。
彼女はしばらくは知人の家で世話になったが、当然犬たちまでは一緒にとはいかず、ハチも別の知人に預かられる事になる。
しかしハチは、預かり先の家ではトラブル続きで、辛い思いをしたようだ。
一方で、当てもなく途方にくれた八重子夫人に、救いの手を差しのべたのは、上野博士の教え子たちだった。
彼らは金を出しあい、世田谷に家を建てて、八重子夫人にプレゼントした。
さらに、茶道の教授として生計を立てていた彼女の為に、茶室まで作り寄贈した。
さすがに涙を流し断られたが、彼らは、生涯の年金の提供まで申し出ていたそうである。
新しい生活。渋谷駅に通い始めたハチ
世田谷の新たな家で暮らしはじめた八重子夫人は、ハチも引き取ったが、かつての家に比べたら狭い敷地に、ハチは満足出来ず、近隣の畑を荒らしたりしてしまう。
それで苦情がきて、時には農家の人に棒で叩かれる事もあったという。
そんななか、時折ハチがどこかへと出かけている事に気づいた夫人。
ハチの消える先を知らせてくれたのは渋谷の知人であった。
なんと定期的にハチを渋谷で見かけるというのである。
どうやらハチは、亡き上野博士をしのんで渋谷駅に通っていたようであった。
生前の博士は、毎日を渋谷駅に通っていたわけではなく、出張の時などに利用していたという。
だからハチは、博士が、長く出かけているなら渋谷駅だというふうに覚えていたのかもしれない。
いじめられていた毎日
八重子夫人はハチの気持ちを考え、彼を渋谷に住む植木職人で、ハチがよくなついていた小林菊三郎に預ける事に決める。
彼は上野博士に恩があったこともあり、ハチを大切にし、かつてのように放し飼いにして、自由にさせてやった。
そうしてハチの渋谷駅に通う毎日が始まったのである。
ハチは、渋谷駅で一夜を明かす事もあったが、上野博士を知る者たちから大切にされ、野良犬にはならなかった。
しかし実は当初、味方は少なかった。
大きな秋田犬など、大半の人たちからすれば邪魔でしかなかったのだ。
客からは蹴られ、駅員からは水をかけられ、子供たちには墨で落書きされてしまったのだという。
ハチはおとなしい性格だったのもあり、イジメはエスカレートするばかりだった。
忠犬ハチ公として
毎日、いじめられながら、それでも亡き主人を待ち続けてるかのようなハチ公。
何年もの月日が経った。
ハチの境遇を知り、救おうと決心したのは、日本犬や、日本狼の研究者としてよく知られた斎藤弘吉だった。
「日本狼とオオカミ」犬に進化しなかった獣、あるいは神
彼は朝日新聞に、ハチを紹介する記事を投稿。
「毎日毎日、今は亡き主人を待ち続ける老犬」
この記事により、ハチは一躍、忠犬として有名になり、人々から可愛がられるようになった。
子供たちはハチの頭を撫でようと列を作り、渋谷駅にはハチに食べ物を買ってあげてほしいという手紙やお金が届くようになった。
そうしてハチがみんなに労ってもらえたのは、渋谷駅に通い続けた8年ほどの期間の内の、最後の方のわずかな期間だけだっとされる。
そして1935年3月8日。
ついにハチ公は、博士の後を追ったのだった。
この忠犬の死を悼み、実に3000人もの人が渋谷駅に集まったという。
忠義心強い秋田犬
ハチ公は秋田犬である。
秋田犬は、日本犬の中では、かなり大型な種であり、また忠義を強く持つ犬として知られている。
そういう意味で、ハチはまさに秋田犬の典型であった。
秋田犬は、おっとりとした性格でもあり、他の犬が飛びつくような場面でも、目や顔を動かしたりするだけの事も多いらしい。
また斎藤弘吉は、秋田犬は、亡くなった飼い主をいつまでも忘れない傾向が強いと述べている。
焼き鳥目当てだったという酷いデマ
ハチ公は好きだった焼き鳥ほしさに渋谷駅に通っていたという説があるが、ハチが可愛がられていたのが、わずかな期間という事を考えると、これはほぼありえない。
このような、ハチは上野博士と関係ない理由で渋谷駅に通っていたというような説は、晩年の有名になってからのハチしか知らない人たちが主に流した噂らしい。
少なくとも大半の期間、ハチにとって、渋谷駅に行って得するような事は全然なかった。
だから彼には、そうして辛い目にあおうとも、渋谷駅に通う事情があった。
それが大好きな上野博士に会いたかったから、と考えない理由はむしろない。
子供が夏休みの感想文の為にハチ公物語を読み、DVDも見た事で、事実を改めて知りたいと調べ始めたら、こちらにたどり着きました。児童書やDVDでは知り得なかった事を沢山知ることができました。ありがとうございます。
一応このページを書く時に、特に参考にした本、書いときます。
「東大ハチ公物語 上野博士とハチ、そして人と犬のつながり」
あまり知られてない、ハチと上野博士の周辺の事にけっこうページ使ってます。
渋谷のハチ公像の目線の先に上野博士の像が有れば、天国のハチ公も嬉しいだろうな。
天国で再会できてるといいですよね