「アルゼンチンの歴史」ブエノスアイレスと移民たち

アンデス横断

侵略者たちが築いたもの

マゼランとパタゴニア

 16世紀にスペインからやってきた『コンキエスタドール(侵略者)』たちが、大勢を虐殺したアルゼンチンの先住民たちのルーツは、アルゼンチンとチリにまたがる『パタゴニア地方』の人々だと考えられている。
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 パタゴニアという地名は、世界一周中のフェルディナンド・マゼラン(1480~1521)がつけたという。
この地に住んでいた先住民と接触した際、その足が、あるいは履いてる靴があまりに大きいので、パタ(足)ゴニアと名付けたらしい。
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ブエノスアイレスの建設

 後にアルゼンチンの首都となる『ブエノスアイレス』は、元々はベースキャンプだったという。
1536年にそれを建設したのはペドロ・デ・メンドサという探検部隊の隊長。
彼としては、パラグアイにあったらしい、銀山を攻める為の拠点であったようである。

 しかし激しさを増す先住民との戦いの末に、結局、一度放棄される事になった。

 1580年2月にブエノスアイレスを再建設したのはファン・デ・ガライ率いる探検隊。
かつてのような要塞としてでなく、住宅に病院に教会、それに『カビルド』という名の行政機関までしっかりと建った、都市としての再建であった。

 しかし有力者たちが、何より密貿易などによって、金へと繋がる港を独占、開発する事を優先した為に、カビルドなどの建設は予定よりずっと遅れてしまう。

 そういう事情で、都市としてブエノス・アイレスがしっかりと機能するまでには、再建からさらに1世紀ほどを必要としたという。

先住民の抵抗

恐ろしい白人たち

 ブエノスアイレスは貿易で栄える一方で、先住民たちの侵略者たちへの抵抗は続いた。
しかし17世紀になる頃には、スペイン人とそれなりに良好な関係を持つ先住民部族も現れ始める。

 先住民部族同士の対立もあったのと、何よりヨーロッパ製の強力な武器を恐れる者が多かった為であろう。
また、抵抗意識の低い先住民たちは、スペイン人たちに労働力として歓迎もされた。

 ただしもちろん先住民は、出世したりは出来ず、白人の社会に潜り込んだ所で、階級は下に置かれるしかなかった。

砂漠の開拓作戦

 ブエノスアイレスは1776年より、政治的な重要度が増す。
ブエノスアイレスは、この年にペルーから独立し、新たに誕生した『リオ・デ・ラ・プラタ副王領(Virreinato del Río de la Plata)』の中心都市となったのである。
この副王領には、ウルグアイ、ブラジル南部、パラグアイ、ボリビア、ペルー南部、チリ南部などが含まれる。

 しかし経済発展の影で、ブエノスアイレスの、特に南西部は、よく先住民に攻撃される地域だった。
そして抵抗をやめない事が、彼らの命運を決めた。

 1870年くらいから、近代国家形成の為に、『砂漠の開拓作戦』なるものが行われた。
後に大統領となるフリオ・アルヘンティーノ・ロカ将軍が指揮したこの大規模な軍事作戦は、アルゼンチンという国から、先住民をかなり消し去ったという。

独立戦争

独立心の芽生え

 副王領自体、やはり植民地に過ぎない。
確かに先住民に比べ、白人のエリートたちはよい暮らしをしていたものの、多くの利益が、遠いスペイン本国に奪われていた。
特に、18世紀頃から、ヨーロッパの政治思想の変化が、南米の地のインテリ層にも、独立心を目覚めさせ始めた。

 そして貿易拡大の為に、1806年と1807年の2度にわたって、ブエノスアイレスを襲撃したイギリス軍を退けた事が、植民地政府に自信をもたらした。
さらに、フランスのナポレオンが、イギリスにプレッシャーを与え、肝心のスペインは、政治があまり上手くいってなかった。

 まさに独立するなら、絶好の機会であった。

アンデス山脈横断作戦

 南米の様々な地で、独立派の者たちは、鎮圧されながらも、動きをより活発にしていった。
副王らの統治能力も弱体化を余儀なくされ、1810年には、ブエノスアイレスの有力者たちが、アルゼンチン最初の自治政府を成立させる。

 しかしそれは、結局は副王の許しを得た上での自治で、完全な独立ではなかった。
政治の安定も実現できず、各地に内戦の火種があった。

 完全独立を目指す革命軍の規模も、だんだんと大きくなっていった。
ペルーやボリビアを拠点としたスペイン軍との戦いは、激しさを増し、最初は敗北の連続だった革命軍も、1812年頃からは勝利する事も増えてきた。

 だがスペイン軍の抵抗はしつこい。
そこで1814年頃から革命軍の指揮をする事となったサン・マルティン将軍は、海からペルーのスペイン軍本拠地を攻撃するという、大胆な攻撃作戦を実行。
後に『アンデス山脈横断作戦』として知られる事となった、この作戦は成功し、1817年にチリが、1821年にはペルーも解放された。
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そして1824年には、スペイン軍は南米から、完全に追い出されたのである。

独立革命

 スペインの支配からは解放されたものの、残された南米各地の政治的な思想の争いは、大問題だった。
また凄い事に、独立革命中であるにも関わらず、1820年頃からは、アルゼンチン全土が内戦中でもあった。

 とにかく独立という目的は同じなのに、南米各地は団結できず、いくつか別々の国として、それぞれ独立する。
次々と起こった内戦にも関わらず、アルゼンチンの政治はある程度早期に安定した。
また、ブエノスアイレスもより発展し、アルゼンチンはヨーロッパから多くの移民を受け入れる事で、南米にありながら白人国家への道を歩んでいく事になる。

 ブラジルはウルグアイを自らの領土に取り込もうとするが、
支援を要請されたアルゼンチンに邪魔をされる。
しかしブラジルも、アルゼンチンの領土を増やすことは許さず、ウルグアイは独立。
1828年の事。

ブエノスアイレスの勝利

 植民地時代から、貿易事業で大いに発展したブエノス・アイレスは、独立直後からアルゼンチンの首都だったわけではない。
それどころか、ブエノス・アイレスはアルゼンチン連邦国に取り込まれる事を拒否し、ブエノスアイレス単独の独立国状態となる。

 連邦側は、何度もブエノスアイレスを武力で制圧しようとしたが、なかなか上手くいかない。
そして1861年9月。
ブエノス・アイレス側が、アルゼンチン連邦を吸収する形で、ブエノスアイレス含む新アルゼンチンが発足。

 ただ1861年当時、アルゼンチン連邦はブエノスアイレスに対して、武力で負けてたわけではなく、むしろ優勢だったという。
連邦とブエノス・アイレスの間に何があったのかは謎である。
  

パラグアイとの戦争

 1865~1870年にかけて、アルゼンチンはパラグアイとも戦争。
理由としては、パラグアイ軍が、アルゼンチンの領土であるコリエンテス州を無許可で通過したから。
というのは表向きで、真実はイギリスの市場拡大作戦説、アルゼンチンの国力を強める為の自国陰謀説などか囁かれている。

 アルゼンチンは、ブラジル、ウルグアイと同盟を結び、パラグアイと激しい戦争を5年も繰り広げた。
結果、パラグアイの男性人口の半分ほどが犠牲になったという。
一方で、ブラジルはこの戦争を上手く利用し、外交的な利を得たとされる。

一極集中問題

 1880年頃までに、アルゼンチンは移民受け入れの為に、無政府状態だった地域にも、開発の手を伸ばしていく。
また、ブエノスアイレスをやや強引にではあるが、正式に首都として決定し、反乱を起こさせない為に、ブエノスアイレス軍も解体。
アルゼンチンは完全に平定される。

 その後も、ブエノスアイレスの外交ビジネスは成功を続け、さらに栄えていく。
しかしそれが、アルゼンチンの一極集中をさらに重度にしていった。

 また、経済の発展と共に、移民の数はさらに増していく。
イタリア人とスペイン人が多かった。
ただしイタリア人は、かなりの人数が結局本国に帰ったという。
言葉や文化の問題もあったのかもしれない。
もともとアルゼンチンはスペイン人が作った国のひとつなのだから。

 移民の多くは、当初は農作業、牧畜作業などに従事したが、結局すぐに都市に移った。

世界対戦の回避

 2度の世界対戦で、アルゼンチンは、参戦の圧力を上手くかわし、中立を維持した。

 第二次世界対戦時には、イギリスと戦略的な関係もあって、特に「参戦するべき」という内側の声も大きかったようだが、当時のカスティージョ大統領は頑なに中立を守った。
ただ、民族主義的である枢軸国(日本、ドイツ、イタリア)に好感を抱いていたともされる。
また、アメリカがブラジルやチリに武器を送っていた事を驚異とみなし、国力を強めようとしていたとも考えられているという。

 理由はどうあれ、世界対戦を避けたアルゼンチンは、さらに発展し、1950年代に入った頃には、南米で最も国民の生活水準が高い国になっていたと言われる。

 そしてアルゼンチンは21世紀に経済が破綻するまでは、少なくとも裕福な国という体面を維持出来た。

ペロンとエビータ

 アルゼンチンの第29(1895~1974)と41代(1973~1974)大統領フアン・ドミンゴ・ペロン(1895~1974)は、再選も含めれば、3度も大統領に当選した、本国では非常に有名な政治家である。

 強引な政治政策がマイナスの結果を招く事も多く、嫌う者も多かったが、インフラ整備や、労働者の保護制度の強化などにより、アルゼンチンの所得格差を低くしたという。

 また彼の奥さんであったマリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン(1919~1952)は、今でも多くの人からエビータと親しみを込めて呼ばれ、愛されている。
貧民層出身で、その美貌により、女優、将軍の愛人、そして大統領のファーストレディとして成り上がった彼女は、ちゃんとした教育を受けていなかったにも関わらず、積極的に政治に参加した。

 エビータは強制的な寄付などで、国の財政難をひどくした。
しかし、その資金により行われた、貧しい人たちへの援助を、労働者階級の人たちは忘れてなかった。
学校、病院、高齢者用施設、シングルマザーを援助する為の機関を、彼女は貧しい人たちに与えたのである。

 またエビータは、女性の選挙活動を推進、1947年には、その投票権利の獲得にも成功。
ペロンが連続再選された1951年、女性たちの半数以上が、ペロン党に投票したという。

 エビータは貧しい人たちの為に、身を捧げたが、政治家としては三流にすぎず、だんだんと傲慢さもエスカレートして、エリート層にはかなり嫌われてしまう。
エビータの活動は、立場を利用した、エリート層への攻撃であっという解釈もされる。

 ただ1952年に、エビータが亡くなった時、多くの労働者が涙し、「こんないい時代はもう二度と来ないだろう」と嘆いた事は事実である。
 
 政治というのは難しい。

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