「ペルーの歴史」クスコとリマ、二大都市から始まった新国家

砂漠の街

征服時代

インカ帝国

 15世紀から16世紀前半にかけて栄えた、南米大陸の大帝国インカ。
その規模は、当時の地球上に存在したどんな国よりも上であった。
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 しかし、驚くべき事に、『インカ帝国(Inca Empire)』は少数のスペイン人侵略者たちによって滅ぼされ、先住民たちは奴隷も同然の扱いを受けるようになる。

 ペルーは、チリ、ボリビア、ブラジル、コロンビアと隣接する国であり、スペイン人が到来した頃は、インカ帝国の支配が及ぶ領域のひとつであった。
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イスパニューラ島

 1492年10月に、コロンブス(1451~1506)が新大陸(アメリカ大陸)に到達してから、後に続いた多くのスペイン人たちは、まず『イスパニョーラ島(Hispaniola Island)』の支配に力を入れた。
現在はドミニカ共和国とハイチの2国が領土を分けあうこの島には、黄金の鉱山に加え、労働力になる先住民人口もそれなりにいたから、まさに植民地にするにはうってつけの島だったのである。
 
 しかし移住してくる者が増えてきて、イスパニューラ島の資源が分配され尽くしてしまったので、特に野心を抱く新参の目は、島の外へと向けられるようになった。

パナマ

 スペイン人たちは、ジャマイカ、キューバ、プエルトリコを次々と侵略。
さらにパナマ地峡を植民地化。
1519年には、新しくパナマという町も建築された。
また、エルナン・コルテス(1485~1547)による中米のアステカ征服は、この時期であった。
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 そのコルテスにあやかろうとして、パナマの総督ペドロ・ダビラ(1468~1531)は、西のニカラグアの征服を計画。
そして、このペドロ総督の計画に参加出来なかったフランシスコ・ピサロ(1470~1541)は、自らの力で未来を切り開こうと、パナマを出発し、『太平洋(Pacific Ocean)』を南下。

ペルーの発見

 どこまでも続くようなジャングルは、どこまでも続かず、海岸から見える景色は、だんだんと乾燥地になり、ついには砂漠となった。
砂漠の各オアシスには、それぞれ日干し煉瓦の都市もある。

 ビサロがこの時、到達していたのは、ペルーの北海岸、インカ帝国に支配された、チムーという領域であった。
とにもかくにも新たな文明の存在を確信したビサロは、スペインに一旦戻り、王に、この新たな文明領域ペルーの総督に任命してもらった。

 そして、ビサロが、遠征部隊を乗せた3隻の船で、再びペルーに向かったのは1531年1月の事であった。

カハマルカの戦い

 1532年11月に、ビサロがカハマルカの市街地で遭遇したのは、インカの王アタワルパ(1502~1533)率いる数千人規模の軍であった。

 数の差に怯んだ者もいたが、ビサロ含め、何人かは中米でのコルテスの戦いより知っていた。
自分達の鉄の武器と、騎馬技術が、それを知らぬ者達にどれほど有効かを。

 そしてたった168人だったというビサロ達は、アタワルパ軍を襲撃。
2000人ほど討ち取った末に、アタワルパを捕虜にする。

二大都市クスコとリマの成立

 ビサロは、アタワルパに身代金として、帝国中から貴金属を大量に集めさせた上で、王位継承をめぐって彼が争っていた兄ワスカルを暗殺したとして、彼を処刑。

 それから後続部隊を加え、500人ほどの規模となったビサロ軍は、続いてクスコの都市を制圧。
クスコのインカ人たちは、ワスカル(1503~1532)の支持者だったので、スペイン人たちを歓迎した。
ビサロはクスコ中から新たに金銀を集めた上で、遠征隊を解散した。

 解散後はスペインに帰る者もいれば、第二のインカを求め、後のチリに向かう者もいた。
ビサロは、それ以外の者達と共に、スペイン式の新たな都市クスコを発足。
1534年3月の事である。

 そして1535年1月には、海岸沿いにリマ市を発足。
後のペルーの首都となるリマである。

植民地時代

エンコミエンダと征服者達の一斉蜂起

 ペルーの植民地化を進めるスペイン人達。
最大の敵は内側であった。

 征服者が、征服地域の先住民を、実質的に自由に扱える、『エンコミエンダ(encomienda)』の権利をめぐって、征服者達は内輪揉め。
ビサロ自身もすぐに暗殺されてしまう。

 さらに1542年に、スペイン国王が、エンコミエンダは1代限りと定めた事が、更なる波紋を引き起こした。
せっかく苦労して手に入れた権力が、子孫に一切受け継がれないのは納得いかない。
ペルーの征服者たちは一斉蜂起し、一時この地は、実質的な独立状態にまでなった。

したたかなスペイン王

 征服者達の蜂起を知ったスペイン王は、冷静に一計を企てる。
そもそも、ここまでの事もシナリオ通りだったという説もある。

 パナマに新たに派遣されてきた新総督ペドロ・ガスカ(1485~1567)は、一代エンコミエンダ法令の撤回を餌に、ペルー征服者の支持者を集めると共に、切り崩しを図る。

 そして機を見て、ペルーに上陸したガスカは、あっという間にこの地を再征服。
国王の名の元に、エンコミエンダの権利も再分配される。
それが1549年の事。
そしてこれにより、正式にスペイン王権のペルー統治が始まったのだった。

先住民社会の変容

 ペルーの第5代総督、フランシスコ・トレド(1515~1582)は、1569~1581年までの統治期間にて、整備しなおしたエンコミエンダ制を植民地社会に広めた。
これは言うまでもなく、先にやりたい放題していた征服者たちに歯止めをかける為の改正である。
ただし、もちろんトレドが素晴らしい人格者だったというわけではなく、全ては余計な反乱の芽を事前に摘み取る為である。

 特に、土地の先住民の数に応じた搾取の制限は、伝染病などによる先住民人口の現象に伴い、エンコミエンダ制に大打撃を与えた。

 さらに、1545年に見つかった現在のボリビアに残る『ポトシ銀山(Potosi silver mine)』の開発の為に、トレドは先住民を労働力として酷使。
結果、大規模な先住民社会は完全に崩壊し、伝統を守る者達の個々の閉鎖的な先住民社会が確率されていく事になった。

トゥパク・アマル二世の反乱

 スペイン人たちは、勢いよくスペイン風の都市開発を進め、リマは本国の都市にも負けないくらいの規模になっていく。
また、伝来した司教たちにより、現地住民のキリスト教化も進んだ。

 しかし先住民たちの心に深く根ざすインカへの信仰心が完全に消される事はなかった。

 そして18世紀、ボリビアの貿易商人たちを、後にアルゼンチンの首都となるブエノス・アイレスに取られてしまうペルー。
しかもこの時期、海上戦におけるイギリスとの力関係の逆転を恐れるスペインは、本国の強化の為に、植民地の税を増加。
同時期の北米の独立戦争において、スペインが植民地側についた事も、更なる増税へと繋がった。
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 そこで各植民地で、増税に対する反対運動が次々と勃発。
クスコの南、ティンタ地方の部族の首長であったホセ・コンドルカルキ(1742~1781)の反乱も、始まりは単にスペイン本国の政策への反対運動にすぎなかったとされる。

 ビサロによる征服後にも、残党を率いてスペイン軍に抵抗した、実質的なインカ最後の皇帝トゥパク・アマルにあやかり、彼はトゥパク・アマル二世を名乗った。
そのトゥパク・アマル二世ことコンドルカルキは、先住民達を奮い立たせ、最終的には大規模な反乱となる。

 結局コンドルカルキは捕らえられ処刑されたが、この『トゥパク・アマル二世の反乱(Rebellion of Tupac Amaru II)』の影響は大きく、植民地への体制は多少改善される流れとなった。

南米の独立

 19世紀始めには、スペイン本国で発生した内戦を機として、南米各地で、独立運動が本格的になってきた。
だがトゥパク・アマル2世の失敗から30年くらいしか経っていないペルーでは、独立運動は消極的であった。

 そういうわけで、権力を失わずにすんだペルーの35代福王、フェルナンド・アバスカル(1743~1821)は、ボリビア、エクアドル、チリの自治政府を容赦なく潰していった。

 しかしアルゼンチンとベネズエラの独自政府は、しつこく福王に抵抗。
やがて南米独立派の軍は、ついに福王軍を壊滅に追い込む。
そうして、1821年に、ペルーも解放される形で、スペインから独立する事になったのだった。

独立してから

ペルーとボリビア

 南米独立の立役者となった大コロンビア(コロンビア、ベネズエラ、エクアドルなどの連合) の指導者シモン・ボリーバル(1783~1830)は、国家体制は意向に従うから、独立した国になりたいという、ボリビアの人々の願いを聞き入れる。
というわけで、1825年に、ボリビアはペルーから分離して、独立した国となった。

 しかし大コロンビアで起きた内戦の為に、ボリーバルが去るや、ペルーで権力を持った、福王軍から独立派に寝返った軍人たちは、再びボリビアをペルーに取り込もうとする。

 当初、ボリビアとペルーの大統領は、どちらも再合併を目論んでいたのに、いずれの大統領が合併後の最高権力者となるかで揉めてしまう。
そして結局、再合併は叶わず、ペルーとボリビアは別々の国として歩み始める事となった。

グアノ・ブーム

 混乱するペルーの政治が比較的安定した最初は、20代目と22代目の大統領であるラモン・ カスティーリャ(1797~1867)が権力を持った時代(1845~1862)だった。

 この時期に、ペルー沖合いのチンチャ諸島などで簡単にとれた『グアノ』が大ブームとなり、ペルーに大量の外貨をもたらしたのである。
グアノとは、ペリカン(Pelecanidae)やカツオドリ(Sula leucogaster)の糞が化石化したものであり、農業用の肥料として高い需要があったのだ。

 ペルーの財政は潤い、道路や橋、水道などインフラの開発も進んだ。

 また1854年には黒人奴隷の解放が宣言され、失われた労働力を取り戻す為に、同時期より中国人労働者が増える。
後、20世紀には日本人労働者も増えたという。

チリとの戦争

 ペルーだけでなく、南米の国々はいずれも独立当初は、なかなか政治的に安定できなかったが、チリだけはそれなりに上手くいっていた。

 19世紀後半には、『アンデス山脈(Andes mountains)』と太平洋に挟まれたアタカマ砂漠でよく取れるチリ硝石(Chilean saltpeter)が肥料や爆薬としてブームになり、財政も潤った。

 ボリビア領であったアントファガスタの硝石事業は、チリとイギリス共同の『アントファガスタ硝石会社(Antofagasta saltpeter company)』の支配下にあった。
そしてその内に彼らはペルー領のタラパカにも進出。

 ところが1878年に、ボリビアが硝石事業に新たな税金を課した。
完全に条約違反であったので、アントファガスタ硝石会社は当然のように納金を拒否。
ボリビアが会社の資産を押さえ採掘の権利を没収、続いてチリが軍にアントファガスタを占領させるという、国家レベルのいたちごっことなる。

 そして1879年。
ボリビアとチリの間でついに戦争が勃発。
ペルーはボリビアと攻守同盟(第三国に対する攻撃や防御に関して協力するという軍事同盟)を結んでいたので、ボリビア側として参戦した。

アンコン和平条約

 
 アタカマ砂漠のような現地の資源が乏しい場所での戦いは、補給経路の確保が重要となる。
その一番の補給経路は、太平洋を使う海上ルートであった。
だからこの戦いは南米の太平洋戦争とも言われる。

 結局、海の戦いでも、陸の戦いでも勝利したのはチリであり、一時はタラパカはもちろん、リマまで侵略される事になる。

 チリが和平の条件として、タラパカだけでなく、タクナとアリカまでわたすように言った為に、交渉はなかなか終わらなかった。
しかし1883年10月、ついに両国は『アンコン条約(Treaty of Ancon)』を締結を結んだ。
これはタクナとアリカの帰属先を住民の投票に任せるというものだったが、この投票はなかなか行われなかった。
そして1929年に、北米の介入により、投票なしにアリカはチリ、タクナはペルーに帰属する事となったのだった。

国境問題

 チリとの戦争が一段落してから、その影響もあってドン底の財政難に陥ったペルーだが、もともと広い国土に資源はたっぷりあるので、徐々に立ち直りに成功していく。
財政状況の回復と共に、工業事業も活発化。

 そうした状況の中、突入した20世紀。
南米の国々の小競り合いはなかなか終わらなかった。
1922年の条約に定められた国境に納得いかないという、コロンビアとの1933~1934年の紛争。
次に、国境がしっかり定まってなかった為に起きた、1941年のエクアドルとの紛争。

 エクアドルとの紛争に至っては、第二次世界対戦の時期であった事もあり、アメリカ大陸に一致団結してほしい北米の介入もあった。

 そうして北アメリカと他の南米諸国の圧力により、このペルー、エクアドルの国境問題は、ほとんど強引に解決された。
しかしそんなだから当然だろうが、1960年頃から、この国境問題は再熱する。
ついに両国の合意の元、国境が正式に確定したのは、ようやく1999年の事であった。

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