「金枝篇」類感呪術と感染呪術。森の祭祀と。金の枝の謎の探求

ジェームズ・フレイザーによる民俗学研究の集大成

 ジェームズ・フレイザー(Sir James George Frazer。1854~1941)の『金枝篇きんしへん(The Golden Bough)』という書は、様々な古代の神話世界などにおける描写などの謎を解明する試みでもあるように思う。
いったいなぜ、そのような神々の伝説や不思議な現象などが普遍的に信じられたのか、あるいは信じられたかのように思われるのか。
単純にファンタジーの世界観というものが、どのような流れで生まれたのか、生まれたと考えられるのかということを論じている書として読むのも、面白いかもしれない。

共感、類感、感染呪術

人間神は、自然と超自然の区別が曖昧だったための産物か

 古代の王というのは、一般的に祭司でもあった。王は神性をまとい、それは空虚な言葉だけのものではなく、信仰の表現であった。王たちは多くの場面で崇められた、単に人間と神を仲介する祭司というよりも、時には神自身として。

 このような、人間神という思想の背景には、古代の野蛮人特有の物の見方があるという。
つまりは、自然と超自然の間の区別が曖昧だったから、理解していなかったから。
そのような世界観においては、自然もその代理人によって動かされることがあるのだ。自分と同じような衝動や動機によって行動している個人的存在として考えることもできるのだ。そしてそのような世界では、野蛮人たちは、自然の移り変わりに対し、都合のいいように影響を与える力が自分にもありうると信じやすい。
祈祷(お願い)を聞いてくれるかも。契約(交換条件による取引)ができるかも。あるいは威嚇いかく(脅し)によって好きに操ることができるのかも、という発想である。
そしてそれらを信じて受け入れるとするなら、天候の恵みや豊富な穀物を、神から得られることもできるはず。

 神は人間と同じ姿を取ることもある。そして、そうするともはや、それ以上高次の力に訴える必要もなくなる。野蛮人たちは人間の姿を取っている神王に訴えればよい訳である。

真似ることで同じ効果を生み出せる

 また、古来より人々の信仰世界には、もう1つあったとも。
つまり、世界に霊的な力が浸透しているというよりも、自然が人とは隔絶されている領域。個人的な媒介者が立ち入る隙などない、不変の秩序の中で発生している一連の出来事という思想。
これは、近代以降の科学文明の中で普及していった、自然法則という概念の萌芽ほうがとみなせるかもしれない概念。

 そのような自然法則思想の萌芽と、『共感呪術きょうかんじゅじゅつ(Sympathetic magic)』と呼ばれるものとの関連が示唆されている。
それはまた、『類感呪術るいかんじゅじゅつ(Imitative magic)』とも呼ばれ、さらに『感染呪術かんせんじゅじゅつ (contagious magic)』という派生的なものもある。
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 迷信の世界のほとんどで多大な役割を演じているという共感呪術の原理は、どのような効果であっても、それを真似れば同じ効果を生み出せるというもの。
例えば、ある者を殺そうと思った時にその者の像を作って破壊するとか、器にたっぷりの水を周囲に巻いて雨を降らせたりという、わかりやすい例。さらには、ある人に向けられた護符を鳥の足に結びつけ、そしてその鳥が常に護符を動き回らせるために、不断絶が対象の人にも発生しうる。というような、応用技みたいなのも、例として挙げられている。

 似ているというのは見かけだけの話でもない。獣を落とし穴に落とすのに、木の葉っぱを利用したりとかとある。1頭の獣が落とし穴にはまった場合、その獣に擦り付けた葉っぱを、任意の数落とすことで、さらにそれだけの数の同じ獣を落とし穴に落とすことができるのだという。
しかし、その場合、葉っぱに授与された獣に似た要素とは、匂いとかであろうか。

 とにかく、対象となる物と、それに似せた物の間には、ある種の物理的共感が発生する。そして、似せた物に加えられた影響は、モデルとなった対象の物自体にも影響を及ぼす訳である。

絆さえあれば離れていても

 呪術的共感関係は、ある物から引き離された部分と、本体の間にも 生じうる。そういうふうに考える迷信も世界中にあるのだという。
例えば人間から取れた爪とか髪の毛とかである。

 絆で結ばれている場合に、おそらく共同体としての固として扱われる場合も普通にありうるようである。
例えば猟に出かける男の妻や姉妹などの家族が、ただ家で待っているだけじゃなく、髪を切ったり、体に油を塗るのを禁止したりするとか。彼女らが髪を切ってしまうと、猟師の網は千切れ、彼女らが体に油を塗ると、やはり猟師の網は滑りやすくなり、獲物を逃しかねないというわけだ。

 そして、そのような繋がりあったことがあるもの同士が、遠く離れたとしてもまだ影響を与え合うというものが、感染呪術という訳である。

アリキア、金の枝の祭司の伝承

 金枝篇は、その最初にある問いかけを提示して、そしてさらに様々な具体例という小道具を用意し、それらを使って、最初の問いに答えようという試み。というようなものでもある。
そしてその問いかけは「『アリキア(Aricia)』」という地に伝わってきたという、『金枝(The Golden Bough)』に関する伝承」から取り出されたもの。

アリキアという地

 アリキアは、イタリアはラツィオ州(Regione Lazio)のローマ県(Città metropolitana di Roma Capitale)にある『コムーネ(comune)』で、現代的な呼び名としては『アリッチャ(Ariccia)』がある。
アリキアというのはラテン語名。
また、コムーネ(共同体)とは、イタリアの自治体の最小単位(基礎自治体)の名称。

 ラティオの『ローマ県メトロポリタンシティ(Metropolitan City of Rome Capital。Città metropolitana di Roma Capitale)』は、ローマ市と、その経済的影響を強く受けている、いわゆる後背地こうはいちである100以上のコムーネで構成されている。アリッチャはその1つである。

 アリッチャは『アルバンヒルズ(Alban Hills)』という、死火山帯にあり、その辺りは、『カステッリロマーニ(Castelli Romani)』と呼ばれる、古くから農業が盛んな地域でもある。
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 アリッチャにはまた、地中海(Mediterranean Sea)の一部である『ティレニア海(Tyrrhenian Sea)』を見下ろせる丘や、豊かな果樹園などが、ローマの喧騒けんそうから逃れてきた芸術家たちを歓迎してきたという歴史もあるようだ。
そしてこの地は、ローマ神話のみならず、それ以前の様々な神話や宗教においても非常に重要だった地域の中心ともされている。
アリッチャは古代ラツィオで最も古い都市の1つでもある。

ディアナ・ネモレンシスと、逃亡してきたオレステスの伝説

 ラツィオにある、小さな円形の火山湖の『ネミ湖(Lake Nemi)』を、古代の人々は『ディアナの鏡(Diana’s Mirror。Speculum Dianae)』とも呼んでいた。
ジョゼフ・ターナー(Joseph Mallord William Turner。1775~1851)の絵画作品『金枝(The Golden Bough)』に描かれている情景は、その湖の、夢のようなビジョンでもあるのだという。

 そして湖の北岸には、ディアナ・ネモレンシス(森のディアナ)の聖なる木立こだち(立ち並ぶ木群)があり、それは神聖な場所でもあった。
そこでは毎日のように、剣を手にした男がうろついていて、おそらく、いつその命が奪われるかもしれないという恐怖に、心を震わせていもいた。
男は祭司であり、同時に、前任の祭司を殺した殺人者でもある。
つまり、そこでは祭司職を志願した者は、現在の祭司を殺すことによって、その職につくことができる訳である。逆に祭司である者は、自分を殺そうとする者から身を守り続ければ、祭祀でいつづけることができる訳である。

 ある物語によると、ネミにおけるディアナへの崇拝は、オレステスなる人物が始めたもの。彼はタウリカ半島(クリミア半島)の王トアスを殺した後、姉と一緒にイタリアに逃れてきた。そして、この時にタウリカのディアナの像を携えていた。
このディアナという女神は、タウリカにおいては血に飢えた女神であり、半島に上陸した者は、祭壇で生贄に捧げられたりもしたという。
しかし、イタリアにおいて、その性格はいくらか柔らかくなった。
ネミの聖所には、枝を折ってはならない木が生えていて、しかし逃亡奴隷だけは、そこで1本の枝を折ることが許されていた。そしてそれに成功した者は、祭司と決闘する権利を与えられる。さらにその決闘で祭司を殺すことができたなら、代わりにその者はレクス・ネモレンシス(森の王)の称号を得られるのだ。
そして、この一連の儀式において、折られる運命の枝こそ、アエネアスが黄泉の国への危険の旅に出る際に、巫女の命により折った黄金の枝であるのだという。
逃亡はオレステスの逃亡、決闘はタウリカの生贄文化の名残とも。

前任者の命が奪われた理由

 金枝篇という書は、「なぜアリキアの祭司は前任者を殺さなければならなかったのか」、「なぜそれを実行するにあたり、黄金の枝を折らなければならなかったのか」という疑問に答えようとする試みでもあるようである。

 これに関して、まず第一の疑問には、共感魔術を使った解釈がなされる。
つまり祭司は、第一に森の、第二に植物一般の霊を、具現化したような存在、人間神であり、自然の代行者だった。そのために様々な植物は、彼の健康や精神と連動。彼が衰えるならそれらも衰えるし、彼が元気ならそれらも豊かとなる。だからこそ祭司は、若く健康なうちに 殺されて、新しいものに取って代わる必要があった訳だ。

 第二の疑問に関しては、オークの木に寄生したヤドリギを神聖なものとする、ヨーロッパにおいてはわりと馴染み深い伝説との関連が推測される。
つまり金枝とはヤドリギだったのでないか、という発想。ヤドリギは命を預ける領域にもなりうる。森の祭司を殺したいならば、まずはその命を預けているヤドリギを折らなければならないという訳である。
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特別に神聖なる存在について

 第二の疑問。つまりなぜ黄金の枝を折る必要があったのか、に関して、それの説明にあたり、多くの古代文化でタブーとされてきたものに着目しているというのも面白いか。

 日本のミカドや、メキシコのサポテカ族の大神官が守っていたという掟。「聖なる人間は、大地に足を踏み入れてはならない」と「聖なる人に太陽が降り注いではならない」

 まずいかに神聖なる魂を持った人間であれ、汚れに満ちた大地に足をつけてしまうと、自らを汚すことになってしまうという発想。あるいは逆に、神聖なる者たちが踏んだ大地は、神聖なものとなってしまい、それはむしろ普通の人間にとっては危険なものだからというような発想がある。
そして、空も大地も超越しているような神聖なる者は、大地はもちろん、太陽の光ですら役不足であり、その体を晒すことはない、というような発想すらも。

 上記のようなくらいのことまでは言わなくても、大地や太陽の光が俗的なものというように考える発想は結構興味深い。確かにそれらは、どのような者にも平等に与えられているような類いのものな気はする。そして平等なものなど、確かに特別な者にはいらないものなのかもしれない。

 さらに多くの民族文化において、年頃の娘が上記の2つのタブーのどちらかは守るようになっているのだという。

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