タツノオトシゴが産み落としてきた伝説
タツノオトシゴだと思われる最古の記録は、オーストラリアのアーネムランドの洞窟に、紀元前5000年頃くらいに描かれたとされる壁画である。
オーストラリアの先住民は、自分達の神話に出てくる虹蛇として、このタツノオトシゴを描いたとされている。
また古代ギリシャの神話に登場する馬と魚が半身ずつくっついたみたいなヒッポカンポスという生物のモデルも、タツノオトシゴという説がある。
ブリテン諸島に古くから伝わる妖精の一種ケルピーも、下半身が魚のような水生の馬であり、タツノオトシゴから着想を得たのかもしれない。
中国大陸でも、タツノオトシゴは竜の一種とされ、漢方薬の材料などにも、よく使われたという。
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ちゃんと生物としてのタツノオトシゴ
口と吸引性食事
タツノオトシゴはヨウジウオ科に属する、独特な形態の魚である。
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魚としては本当に奇妙な事に、その顔は、体の軸に対して垂直に傾き、タツノオトシゴはいわば直立姿勢となっている。
また顔から伸びたパイプのような吻も独特の特徴である。
このパイプは顎が伸びたものではなく、さらにその周囲の部分が伸びたもので、顎の骨は、吻の先に備わっているという。
タツノオトシゴは甲殻類(エビやカニ)などの餌を、パイプの口に吸引する事で摂餌(せつじ)する。
このような食事方法は、『吸引摂餌(Suction feeding)』と呼ばれていて、多くの魚類が行うのだが、ヨウジウオ科は特にその吸引速度が速いとされている。
ヨウジウオは摂餌時、頭骨などの絶妙な動きにより、吻先と口腔に高い水圧差を発生させ、それによって餌を吸引する。
しかしこの機構は、鰓(エラ)を収納した鰓腔(さいこう)と、口腔の間にも水圧差を生じさせてしまい、水の流出を誘発するかもしれないリスクもある。
そこで、ヨウジウオの鰓腔はかなり小さい。
また、鰓を保護する骨質の板である鰓蓋が、頑丈かつ凸型になっていて、高い圧力自体にも強くなっている。
冠と高精度光学センサー
たいていタツノオトシゴの頭の上にある突出部を、『頂冠(crown)』と言う。
摂食時に、頭部の骨が動く際に、クリックのような音を出すが、同じような音を、(新しい水槽に移された時など)ストレスに見舞われた時にも発するという。
また、吻の付け根辺りにある目は、左右独立に動かす事ができ、周囲の様子を素早く知る事が出来る。
周囲に擬態するなどして、捕食者の目を避ける一方で、獲物をじっと待ち伏せる。
そのようなタツノオトシゴの基本スタイルにおいて、広い視覚は、攻めにも守りにも非常に相性がいい訳である。
タツノオトシゴの網膜には『中心窩(Fovea)』という漏斗状の形をした領域がある。
中心窩には、光を感知する光受容器が、高い密度で並んでいて、その働きが、タツノオトシゴに高い視力を与えていると考えられている。
鎧と妙な緊急行動
タツノオトシゴは魚だが、鱗がなく、代わりに(鱗が変化した)骨盤が連結した外部装甲により守られている。
この骨盤装甲は、鱗よりも目立ちにくく、かつ物理的防御力も高いとされるが、体を動かしにくくなってしまう。
タツノオトシゴは進化の過程で、身軽さを捨て、防御を固めたという訳だ。
連結する骨盤装甲は、輪状なので『体輪(Body ring)』とも呼ばれている。
そして体輪の中心には脊椎が走り、連結部の数は、種を特定する手がかりになったりするという。
また胴体はともかく、尾は(しっかり骨盤で覆われてるのに)なかなか柔軟であり、先を渦巻き状に曲げて、物を掴んだりも出来る。
この柔軟さは、タツノオトシゴ特有の筋肉の動かしかたや、スライドしたり出来る骨盤連結部の機構などによって実現されてるようである。
そしてどういう訳か、危機的状況に陥ったタツノオトシゴは、逃げるのではなく、何かを掴みたがるらしい。
40ヘルツ(1秒40回)の振動
一般的な魚は胸鰭(むなびれ)、腹鰭、背鰭、尾鰭、尻鰭を持つが、タツノオトシゴは胸鰭、背鰭、尻鰭しか持たない。
尻鰭以外は折り畳む事が出来る。
これは海藻生い茂る道を泳ぎ進むのに適応した結果とされている。
また背鰭が長く柔軟で、前方に向かい泳ぐのが得意である。
タツノオトシゴは骨盤装甲のせいで、体が硬いので、泳ぐ推進力は、かなり鰭頼りである。
鰭は1秒に40回くらい振動出来るとされ、人の目には動いてるのがわからないほどに速い。
ちなみに普通の魚の鰭は、1秒に2回ほどしか振動しない。
しかしそれほど鰭は早く動かせるのに、体をあまり動かさない為か、結局のところ、開けた場所でのタツノオトシゴの速度は遅い。
しかしタツノオトシゴは、入り組んでいる場所でも、そんなに速さを落とさないので、そういう場では、相対的にまあまあ速い。
しかも移動時にあまり体を動かさない(動く部位も早すぎて感知しずらい)という事は、目立ちにくく、外敵に見つけられにくいという事でもあるはずだ。
それと泳ぐ推進力は主に背鰭が生み、胸鰭のメインの役割は舵とりのようである。
問題は小さな尻鰭で、何の役に立つのかがよくわかっておらず、単に痕跡的な物だとも考えられる。
また、タツノオトシゴでも種によっては、稚魚の時に尾鰭がある事が確認されている。
ただし数日ほどで、尾鰭は消失するという。
育児嚢と雄の妊娠
驚くべき事に、たいていのタツノオトシゴの雄の尾部には、有袋類のそれのような、皮膚が伸縮した袋である『育児嚢(marsupium)』がある。
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そしてさらに驚くべき事に、タツノオトシゴは、卵の世話から子育てまでを全て、雄が担うのだ。
雌の役割は、雄の育児嚢に、卵を産み落とすだけである。
育児嚢に卵が入ると、その内部は体液に近い化学物質でまず満たされる。
そして卵の成長に合わせ、最初の化学物質は、徐々に海水に似たものに変化していく。
育児嚢内部の液体の性質の変化は、育児嚢内側表面の細胞が担っていて、栄養供給の為に、卵を包む膜などの崩壊を促したりもする。
卵内には初めからそれなりに卵黄、つまり栄養分があるようで、雄はその供給の微調整を行っている訳である。
雄が直接的に栄養を卵に供給する場合があるかどうかはわかっていない。
寿命
育児嚢に入れられる卵の数は数百ほどで、多い種は1000を越えるようだが、育児嚢内で30%くらいは死んでしまう。
育児嚢から出てくる頃にはすでに、子共達はある程度成長しており、小さいながらもその姿はすでにちゃんとタツノオトシゴである。
また、通常、生後1年以内には完全に成魚となる。
寿命は多くの種が3、4年くらいだとされているが、種や個体によっては10年以上生きる場合もあるという。
とりあえず大きな種ほど長生きなようである。
飼育下より、自然環境下の方が長生きする傾向にある種もけっこういるらしい。
変装暮らし
タツノオトシゴは、擬態して身を守る生物である。
多くの種が、カメレオンのように、周囲に合わせた体色変化を会得している。
ただ、体色変化には数時間ほどかかるので、急に風景が変わってしまうとまずい。
また、形や体色だけではない。
なんと種によっては、体表から粘液を分泌し、藻類やコケムシをくっつける事で、変装をさらに強化したりもする。
命懸けの恋愛
一度パートナーとなった雄と雌の関係は長続きするのが基本だという。
雌雄のパートナー同士のタツノオトシゴは、毎日会って、クルクル回るという求愛のダンスを行いあう。
この求愛ダンス時の体色は、擬態など気にしてない鮮やかな色合いが普通なようで、どう考えても愛がふたりを危険にしている。