「人間社会の形成」サピエンス全史、重要な三つの革命

サピエンス全史に関して

 イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ(Yuval Noah Harari)の書いた『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福(Sapiens: A Brief History of Humankind)』は、世界的ベストセラーとなった、 タイトル通りにホモ・サピエンス(いわゆる現代の人類種)という種の通史本である。

 とても高い人気を獲得したという事実も含めて、なかなかに興味深い本ではあるので、これを軸にして、少しサピエンスなる生物に関して、いろいろ考えてみようと思う。

認知革命。虚構を信じることで発生する繋がり

 もちろん本の内容は、まずこのホモ属のサピエンスなる動物が、どのようにこの地球に発生したのか、という話から始まる。
現在は、サピエンスのみが生きているものとして知られているホモ属であるが、かつてはもっといろいろな種類のホモ属がいたというのは、今となってはそんなにマイナーな話ではない。
そしてそのほとんどの歴史において、この広い自然世界の中、サピエンスの占める生態的地位は、ごく一部だけでかろうじて生きている程度のものだったと考えられている。

なぜ他のホモ属は全て絶滅してしまったのか

 理由はともかくとして、ホモ・サピエンスが近代に近づくにつれて、飛躍的にその勢力を地球全体に伸ばして行ったことは紛れもない事実である。そしてそのような大征服が始まった時には、他のホモ属たちはもう存在していなかったとされている。
なぜサピエンスが勢力を大きくできたのか、ということも謎だが、もちろん他のホモ属たちがなぜ全て絶滅してしまったのか、ということもかなり大きな謎である。

 他のホモ属絶滅の関して、ハラリも説明しているように、代表的な説として、サピエンスと他のホモ属の者たちは遺伝的なつながりを持ち、徐々に同化していったという『交雑説』。サピエンスが他のホモ属のことを嫌い(あるいは恐れたりして)、例えば殺戮のような行為によって、彼らを絶滅へと追いやった『交代説』などがある。
そしてこれも紹介されているように、古くは交代説が有力だったのだが、DNA分析技術などの進歩によって、サピエンスの遺伝子の中には、かつて存在した他のホモ属の遺伝子が、(ほんの数パーセント程度ではあるが)入り込んでいることが普通に見られることが判明してきた。
細胞分裂イメージDNAと細胞分裂時のミスコピー「突然変異とは何か?」  結局のところ、具体的にどういう流れでサピエンスが、ホモ属唯一の存在となったのか、あるいはどれほど残酷であったのか、他のホモ属はなぜ絶滅してしまったのかなどは、どうしようもない謎のまま。
だが、一つかなり確かなことは、明らかにサピエンスが、他のホモ属よりも別の(例えば生態学的なニッチのような)何かを獲得し、そのために他のホモ属よりも有利になったということ。
いったい何があったのか。その原因こそ、サピエンスの歴史の中で起きた三つの大きな革命の一つ、すなわち『認知革命』だったのだろうと、ハラリは説く。

我々はいったい、何を信じているのか

 実際には存在しないものを存在していると定義することこそが、鍵であったかもしれないわけである。
サピエンスが強力な力を獲得できたのは、その団結力にあったとして、その団結力を生み出した源は何だったかと言うと、共通して信じる何かの概念であったというのが、上手い説明としてありえるわけである。

 例えば何らかの宗教において、共通の神を信じているという認識が、信者同士の強い団結力を生むわけである。協力している互いの名前すら知らないとしても、同じ神を信じているというだけで、そこには強い仲間関係が発生しうる。

 実はそのような信仰心を利用した繋がりは、今ではむしろ強力になっているという。
我々に信じられているものの典型例として、例えば法人と呼ばれる概念がある。
ある大企業に関して、その会社がいくつものヒット商品を生み出し、大金を積み上げていたとする。
だがその企業自体が存在していると実際のところ言えるであろうか。
商品は大量にある。それを経営している人たちもいる。だが実態としての会社とはいったい何なのか。
仮に従業員がすべて死んでしまい、商品がすべて同時に駄目になったとする。それどころか、商品工場や会社ビルが全て潰れてしまったとしても、その企業自体が消え去るわけではない。
会社は残り、また一から人を集め、建物を建て、商品を販売することすらできる。
だが一方で、人がいて工場があって、商品がまだ販売中であった場合ですら、その企業は簡単に消え去ることもできる。
ごく簡単な話だ。会社の偉い人がもう自分たちは解散すると命じるだけでいいわけである。
法律という、社会の中での取り決めに従って、手続きを行うだけでいいので、会社自体はいつでも消せるわけである。存在していると定義していたものを、もう存在していないと定義し直すだけですむ問題とも言える。
大企業が生み出す様々な商品は実在しているものだとしても、そしてその大企業のために働く人たちが実在の人たちなのだとしても、大企業自体はあくまでも虚構の存在なのである。
大規模な宗教における、いもしない神様と同じというわけだ。

 虚構を信じるという考え方はなかなかわかりやすい。むしろそれを信じられないとは、いったいどういうことなのか考えられるだろうか。
そのような虚構を利用した繋がり、関心などの例はサピエンス全史という本の全体を通しても、多いようにも思える。

 また、今はテクノロジーに多くの人が夢を見る時代であるが、SFの創作などで描かれる豊かな未来というフィクションも、そのような、多くの人が協力し、テクノロジー発展のために自分の様々なものを犠牲にする原動力になりえるだろうか。
現になっているとは思われる。
みんな、近い未来に豊かになっている(あるいはなっているかもしれない)と思うから、がんばるわけである。少なくとも、なるべく生きていようと考えるわけである。

農業革命。人類史上最大の詐欺だったのか

 ハラリは、かつて数多くの学者たちがそう宣言していたような、「『農業革命』は人類にとって大躍進だった。進化によって現れた知能の高い人々は、いよいよ自然の秘密を解読することすら覚え、羊を飼い慣らし、小麦を栽培しはじめた。つまり、危険な狩猟採集民しゅりょうさいしゅうみんの生活を捨てて、満ち足りた農耕民のうこうみんの暮らしを楽しみ始めた」 という サピエンスの成功物語は、夢想にすぎないと説明する。

我々は植物に家畜化されたのか

 すごく単純な話として、時間の経過によってサピエンスが知能をより高めたという証拠が皆無だからだ。

 まず、自然の解読能力に関しては、狩猟採集も優れたものを有していたのはほぼ間違いない。自分たちが狩る動物や採集する植物についての知識が、直接的に生存に関わってくるわけだから。
ハラリは、むしろ農業革命は、食料の総量の増加に伴い、人口増加と 強欲なエリート層の誕生を招いた。平均的な人々の生活の質はむしろ大きく下がってしまったとする。ようするに農業革命は大規模な詐欺だったと。
ここで興味深いのは、誰の責任かという話である。
もちろんそれは、王様とか聖職者のようなエリート層ではない。商人のような経済をコントロールする者たちでもない。農業革命の詐欺によってそういう人たちは強い権力を得たのかもしれないが、詐欺を最初に引き起こしたのは、つまり、小麦とか稲とかジャガイモのような植物種だった。とするのは、確かに妥当に思えもする。
つまり、サピエンスが、自分たちに都合のよい植物を選んだわけではなく、植物が人類を家畜化させたという発想である。
小麦の立場から農業革命を考える場合、1万年前は中東の狭い地域の野生の草にすぎなかったこの植物は、数千年のうちにサピエンスを利用して世界中に広まったとも言える。植物の中では文字通り素晴らしい成功を収めたと言えるわけである。繁栄という意味では。
数千年間、サピエンスは、世話のかかる小麦をよく世話した。石とか他の植物とか虫とか疫病とかから必死に守ってやり、水や肥料などの養分を与えてやった。本来は小麦が育たない場所までも、地面を肥やし、その成長の場を用意してあげた。

 重要なことの一つが、サピエンスの身体構造は小麦を育てるという行為にあまり適応していなかったこと。そのためにサピエンスは、(農業のために)ヘルニアや関節炎のような疾病を持つようになってしまった。
人々はある場所に定住するようになったというよりも、小麦畑から離れられなくなってしまった。永住せざるを得なくなったというほうが正しいかもしれない。
洪水のような大災害が起きた時なども、彼らは住む場所を一気に失うが、そういう危険も常に有することになってしまったのだ。

 小麦は、サピエンスに多くの苦しみや、不公平な社会を与えたとも言えるが、その見返りに用意したものは、生物種としての繁栄であった。
個々の人間の平均的な生活水準は低下したかもしれないが、それはともかく、農業の発達によって、単位面積当たりの食料は多く確保できるようになったから、数千人規模の村が発生するようにもなったわけである。

我々は計算をどう間違ったのか

 何はともあれ、人々は農業生活を少しずつ改良していったが、個人個人の負担はむしろ増えていった。
それも、ある虚構(というよりも理想)を信じた結果だったろう。
今は仕事はきついだろうが、それでたっぷり食料が蓄えられる。そうしたら後に不作の年とかが来ても、豊かな暮らしができるだろう。
ようするに未来が豊かになるかもしれないから、人々は頑張ったのかもしれない。定住生活民たちは、時が経った後、子供の数が増えることを計算に入れていなかった。
また、豊かになればなるほど、それを盗賊やら災害やらから守らなければならない必要性も増える。安定性はむしろ低くなっていく。いつまでも安定しないと言い換えてもいあた。
ハラリは、 おそらくはこの罠に気づいた時にはもう後戻りできなくなっていた。農耕の導入で、村の人口が100人から110人に増えた時、100人が古き良き時代に戻れるように自ら犠牲になろうとする10人はいなかったのだろうとしている。
それもなかなか説得力がある。このような状況が今に至るまで続いているということも含めて。

植物が人間を、そして人間が動物を?

 植物の人間の家畜化という話は、その後の話題となる、人間が行った動物たちの家畜化の話も含めて考えると、より興味深いと思われる。

 サピエンス全史には、現代社会の中で、家畜化された動物たちに押し付けられている苦しみについての記述もあるが、そこまで考慮すると、本当に全ての黒幕は、自らを広めることを第一の目的とする遺伝子なのではないか、と考えたくなる気持ちもわかる。
倫理学「人間と動物の哲学、倫理学」種族差別の思想。違いは何か、賢いとは何か小さな領域「利己的な遺伝子論」進化の要約、恋愛と浮気、生存機械の領域

宗教のさまざまな矛盾点

 文明というものを得てからのサピエンスの歴史には欠かせないことだろうが、サピエンス全史には宗教に関する話も多い。
やはりよく触れられてもいるが、一神教の台頭というのはとても興味深い出来事である。
ユダヤの寺院「ユダヤ教」旧約聖書とは何か?神とは何か? 例えば、一心教の信者が特に苦労する、なぜこの世界に悪が存在するのかの問題に関して、一見は明確な答えを提示しているように思える二元論宗教感。その二元論の立場で考える場合の、つまり善と悪が支配権をめぐって争いあうことになっているなら、彼らが裏側にいるのであろう宇宙の法則が、少なくとも秩序正しく一定しているように思われるのはなぜなのか、という疑問。
神はいるか「人はなぜ神を信じるのか」そもそも神とは何か、何を理解してるつもりなのか「グノーシス主義」不完全なソフィアの神と物質世界。異端の古代と近代  個人的にこれは相対的に解釈したらよいのではないだろうかとも思う。
つまり神様は、この世界に幸福な存在を作るために、幸福でない存在を作ることにした。
問題は、幸福でない人とはどういうものかということ。それは悪い人でないのに悪い目にあってしまったりする人とか、あるいは悪いことをしたいのにそれができないでいる人とかであろう。
しかしとにかく、自分が幸福だと感じるためには、自分よりも幸福でないものが必要なことは、経験的に確かっぽくも思える。
そうすると、神様が幸福な人を作るために、それと比べて幸福でない人が生まれる世界を作ったと考えることはできるのではなかろうか。
多分それは矛盾があまりない推測だろう。ただ、全員が幸福な世界というのは本当にありえないものなのだろうか。
それに、もしかしたら、実際に法則は次々と変わっているのかもしれない。ただ、我々が確認してきた程度の短いスパンでは、正義と悪の戦いによる変質が生じるには短すぎる時間であるだけだと。
文字通りに、神々が宇宙を作ったという世界観を信じるなら、そのスケールの大きさから見て、このちっぽけな地球のごく短い時間だけ生きる我々は、どれほど取るに足らない存在なのか。本当に取るに足らないと考えて問題ないということなのかもしれない。
だがそうすると、この知性というのはいったい何なのだろうか。偶然生まれたものか。それとも、大局的に見た時に、それもまた、取るに足らない賢さにすぎないのか。

科学革命。グローバル化する世界

 クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus。1451~1506)によるアメリカ大陸の発見が、サピエンス史における第3の大革命である、科学革命の基礎となったという推測は、ちょっと興味深い。
「クリストファー・コロンブス」アメリカの発見、地球の大きさ、出身地の謎  現代社会は、たいていどこでもヨーロッパ的な科学思想が浸透している。
もちろんこの科学革命を始めたのは、ヨーロッパの国々の人たちだったとされるが、それが始まった時代における科学水準は、別にヨーロッパが極端に進んでいたわけではなかった可能性が高い。にも関わらず、なぜこの地域の人々は、この革命を起こすことができたのだろうか。

 ハラリは、大切な一歩が、自分たちが無知を自覚することだったとしている。
アメリカ大陸の発見は、地理学者に自分たちの知らない世界がまだあるのだと知らせたが、その影響がヨーロッパの科学界全体に広まり、そしてそれが後に、世界中にネットワークを構築するまでに至り、いわゆるグローバルな帝国の礎となった。

 サピエンス全史という本自体は、今まさにここにあるグローバル帝国が、これからどのようになっていくのか、そのいくらかの推測で、幕を閉じる構成となっている。