「クリストファー・コロンブス」アメリカの発見、地球の大きさ、出身地の謎

西回りのインディアス到達計画

 15世紀のヨーロッパ。
まだそれを実際に見て確認した者など誰もいなかったはずだが、地球の大地が、何らかの三次元物体の表面上だという仮説を信じる者は多かった。
四次元 「四次元空間」イメージ不可能、認識不可能、でも近くにある
 なぜか球体だと考える者が多かったようだが、これに関しては、 地球一周した記録もろくになかった頃なので、特に大した根拠はなかったと思われる。

 クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus。1451~1506)も、地球は平べったい大地でなく、三次元物体の表面だと信じていた1人であった。
そして、彼はそれならと、「インディアス(Las Indias)」と呼ばれていた東のアジアに、西の海からの航海で目指そうと計画した。

 ようするに地球の表面を、西回りに回ろうと考えたわけである。

 しかしその計画は、実質的には失敗する。
それを阻んだのは広大な大陸。
コロンブス自身がそうだと気づかなかったとされているが、彼が西の海の航海でたどり着いたのは、それまでほとんどのヨーロッパ人に知られていなかった、アメリカ大陸なのだった。
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イタリア、ジェノヴァ時代

 クリストファー・コロンブスは、イタリアの古くからの港町である「ジェノヴァ(Genova)」の出身。

 出生の時期が曖昧。
しかし1451年の8~10月の間の時期とはされている。

 コロンブスは根っからの航海者だったという。
おそらくは父の仕事の手伝いなどのため、10代の頃から「地中海(Mare Mediterraneum)」に船を出していたようである。
「世界地図の海」各海域の名前の由来、位置関係、歴史雑学いろいろ
 自動車や電車なんてものがない時代。
水路が重要な交通ルートだった地域は多い。

 ちなみにクリストファー・コロンブスというのは英語風に直した名前で、イタリア人としての彼の本来の名前はクリストフォロ・コロンボ(Cristoforo Colombo)だという。

 姓名のコロンボだが、鳥類の「ハト」を意味するらしい。
風切り羽 「鳥類」絶滅しなかった恐竜の進化、大空への適応

職人の父と、職人の娘であった母

 コロンブスの父ドメニコ・コロンボ(Domenico Colombo。1418~1496)は、毛織物けおりものの、つまりは動物の毛を使った糸の織物の職人であり、商人でもあったというのが通説である。
また母スザンナ(Susanna of Fontanarossa。1435~1489)もまた、毛織物職人の家の娘だったという。

 職人と、職人の家の娘の夫婦。
典型的な中流階級の一家であった。

 人柄がよかったのか、あまり仕事ができないという話が残る一方で、ドメニコは織物職人のギルド(労働組合)の役員として、それなりに人望が厚い人物だったようである。
また、休日には魚釣りに連れてってくれたり、コロンブスにとってはよい父親だったという話もある。

 ドメニコはまた(どれもあまり成功しなかったようだが)チーズ作りに、ワイン商人、 居酒屋の店主など、本業以外のさまざまな事業にも手を出していたことが知られる。
彼はジェノヴァから数キロ以上は離れたことがないともされるが、息子と同じく、冒険的といえば冒険的な人物だったのかもしれない。

 実際に子は父をよく尊敬していたのだろう。
だからこそコロンブスは、後にアメリカ大陸の町のひとつに、父の守護聖人にちなんだ「サント・ドミンゴ」という名をつけたのだとされる。
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クリストフォロという名前

 1451年。
生まれた子供に、ドメニコとスザンナは、クリストフォロという名前を与えた。
由来は、旅人の守護聖人とされるクリストフォロスとされる。

 コロンブスは幼い頃から、信仰心厚いキリスト教徒であり、その自身の名前ゆえに、遠い異郷の地に、聖書の言葉を伝えることが、自身の使命だと考えていた、という説もある。
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 コロンブスは少なくとも、ドメニコらの、幼児期に死ななかった子の中では最年長。
下の子の中でも、バルトロメオ(Bartholomew Columbus。1461~1515)や(ディエゴというスペイン語名でもよく知られる)ジャコモ(Giacomo。1468~1513)など、弟の何人かは兄の協力者となって、後にアメリカへの航海に同行した。

船乗りになって

 コロンブスは正式な学校教育はほとんど受けなかったようである。
また、彼のジェノヴァ訛りのイタリア語は、他のイタリア地域では、ほとんど通じないものだったともされる。

 コロンブスの生前の肖像画は残っていない。
ただ多くの記録資料には、彼は赤毛だった、と書かれているという。

 初めて船で海に出たのは、10歳の時。
これはコロンブス自身が証言している。
しかし、いったいいつ頃から彼が、父の仕事を継がずに、船乗りになろうと決心したのかは不明。

 コロンブスが生まれ故郷のジェノヴァで暮らしていたのは、20代前半くらいまで。
彼はその時代は、船に乗り込むことはあっても、基本的には多くの時間を、父の仕事の手伝いに使っていた。
しかし、そもそも一家の経済状況は、失敗続きの父親の仕事のせいで、あまりよろしくもなかったともされる。

 1470年。
コロンブスは、アンジュー公ルネ(René d’Anjou。1409~1480)に仕えて、わずかな期間ではあるが、軍船に乗ったという話も伝わっている。

 1473年くらいからは、ジェノヴァの有力一家である、チェントリオーネ家やスピノラ家、ディ・ネグロ家などに雇われ、その商船にも乗るようになったという。

リスボンに流れ着いて

 1476年の5月。
ジェノヴァから、北欧に貴重な品々を運ぶために、武装した輸送船団が派遣されることになったが、コロンブスもこれに参加した。

 しかし8月。
ジブラルタル海峡を航海中に、フランスの武装集団の攻撃を受けて、互いにいくつかの船が沈んだが、その中にコロンブスが乗っていた船もあった。

 コロンブスは、なんとか命からがら、ポルトガルのラゴスという町近くの浜辺にたどり着く。
そしてそのまま、「リスボン(Lisboa)」で、「地図作成(Cartography)」の仕事をしていた弟バルトロメー(バルトロメオ)を訪ねた。
そして、すぐにコロンブス自身も、そのリスボンに腰を落ちつけることになったのだった。

ポルトガル、リスボン時代

 コロンブスの時代。
リスボンは、ヨーロッパにおける大洋航海の拠点のひとつだった。
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 コロンブスの暮らしも、1477~1485年まで、そのリスボンが中心となっていた。
彼が、西の海からの地球の一周という計画を抱いたのは、この街に来てから間もなくのことだったとされている。

 それは当時としてはかなり壮大な計画であった。
エンリケ航海王子(Dom Henrique。1394~1460)が航海事業を始めた時から半世紀くらい。
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理屈では地球が丸いと考えてはいても、実際にそれを巡って、西からアジアにたどり着いた者などいなかった。
エンリケの配下の船長たちも、当時たどり着けていたのは、ポルトガルから西に1000キロぐらいのアゾレス諸島までだった。

 リスボンはまた、学問の街としても有名で、スペイン語やラテン語といった言語。
それに、幾何学や天文学など、様々な科学知識を学びやすかった。

海図作成と船乗りたちとの繋がり

 リスボンに移ってからも、コロンブスはチェントリオーネ家との取引は続けていたようである。

 コロンブスは弟と共に地図作成をしたり、またポルトガル船で航海したりもした。
1477年の間、彼はイングランドのブリストルや、アイルランドのゴールウェイなどにも停泊。
イングランド 「イギリス」グレートブリテン及び北アイルランド連合王国について ハープ 「アイルランド」伝統的なパブの特徴、ジャガイモ、ハープ、競走馬
おそらく一時期はアイスランドにもいたとされるが、その時に、ヴァイキングが知らずたどり着いたアメリカ大陸ともされる、ヴィンランドの伝説を聞いたのでないかと、想像する歴史家もいる。
「アイスランド」海底火山の上に、ヴァイキングたちが作った国
 他に、アフリカの方のマデイラ島に、アゾレス諸島にも行ったらしい記録もあるという。

 また、海図を作る仕事は、 基本的な船乗りたちが持ち帰った情報が頼りである。
必然的に、遠洋を旅する船乗りとのコネも増えていった。

 1480年代以降は、彼自身が船長として、商船の指揮をとったりもするようになった。
別に贅沢な野望を抱かなくとも、アフリカ周りの交易ルートの航海で、一財産築く道もあったとされる。

結婚と愛人

 1479年。
コロンブスはマデイラ諸島のポルト・サント島の総督の娘である、フィリパ・モニス・ペレストレロ(Filipa Moniz Perestrelo)と結婚した。
息子であるディエゴ(Diego Columbus。1479~1526)も、同年に生まれている。

 ディエゴの生まれは1480年説もある。

 貴族の娘であるフィリパと結婚できたことで、 場所は上流階級に近づけたことは、コロンブスにとっては幸運なことであったろう。
彼はその頃くらいから、「インディアス事業」と名付けた西回り航海計画を立てて、その支援者を探していたとされているから。

 計画のためか、コロンブスはこの時期、地理や天文学の本を、貪るように読んでいたとされる。

 また、フィリパは1485年までに死亡したらしい。
コロンブスはその後、愛人となったベアトリス(Beatriz Enríquez de Arana。1465~1521) との間にも、子をもうけている。

地球はそんなに大きくないか

 計画を立てたのはいいが、支援者を確保するまでには時間がかかった。
西回りの地球一週は、地球が丸いとされていた以上は、あまりに空想的というようなレベルではない(注釈)
問題は、距離だった。

 ヨーロッパの西の海から、インディアスまでの距離が正確にわからないというのは、そこを渡りきるのにどれくらいの時間がかかるのか、どれくらいの食料がいるのかというコストの見積もりが、まったくできないということが大きな問題としてあった。

 コロンブスは支援者を説得するため、そしておそらくは自分自身の不安を払拭するためにも、とにかく、その計画が無謀でないという根拠を集めまくった。

 1474年に地球球体説を主張したトスカネッリ(Paolo dal Pozzo Toscanelli。1397~1482)という地図学者に手紙を書いて、計画の妥当性を保証してもらうと共に、彼の海図も送ってもらった。

 また、ギリシャの哲学者の著作や、聖書の中の、海に関する記述を次々チェックしていった。
コロンブスはその独自研究によって、海は世界の1/7にすぎないというかなり間違った確信も持った。

 それに、まず間違いなく勘違いと思われるが、コロンブスはアイルランドの浜辺にて、流れてついてきた、中国人のあまり腐敗していない遺体を確認した事があったらしい。
それは中国という国が、それほど遠くない距離にあることを示しているように思われた。

貿易風という発見

 ヨーロッパとインディアスとの距離に関して、 コロンブスは大いに誤解していたとされる。

 ただ彼は、貿易風と偏西風という地球規模の風に関しての確かな知識を持っていたようである。
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というか貿易風というものはコロンブスが発見したという説もある。

 コロンブス以前に西回りを目指した者の多くは、イベリア半島からほぼ真西に、アゾレス諸島を間に置いた直線ルートを使っていたが、これは偏西風が邪魔となるルートだった。

 そけでコロンブスは、カナリア諸島から出発する、貿易風をよく利用しやすいルートを使った。
これが結果的にうまくいき、望んでいたような形ではなかったが、彼の航海の成功につながったわけである。

(注釈)なぜ地球が丸いとわかっていたのか

 地球が丸いと考えられていたのはなぜなのだろうか。
広大な大陸はひとつしかないと考えていた人も多かった。
ならば、その大陸の周囲が半球のような形になっていただけかもしれないわけである。
それなら大陸にいる人たちが、全体としては丸くない地球を、丸いと勘違いしてしまう可能性はあるだろう。

 他の星が丸っぽいからだろうか。
ならそれに関しても、当時はそこまで大した根拠はなかったはずである。
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あるいは月食の際の影が丸っぽいからかもしれないが、これは真の地球の形が円盤だったりする場合でもありうる。

 いずれにしろ、地球が球体だという発想はおそらく、幾何学を大いに発展させた、古代のギリシャ人たちがそうだと考えていたことの影響も、大きいと思われる。

 学識ある人たちの間でも、実際には球体ではないかもしれないという考えもあって、だからこそ西回りの航海を恐れた人も大勢いたろう。

 また、結局地球の一週が先になったわけだが、万有引力の定理など、先に発見されていたら、地球球体説の大きな根拠となったと思われることもわりとある。
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新世界への航海

 布や香辛料や薬草や香水など、東洋の品物は人気が高かったが、非常に高値だった。
陸の交易路を使った場合、ヨーロッパにやってくる頃には大量の仲介が発生してるせいである。
そこで15世紀のポルトガルは、ただアフリカ周りでインドに行くための、水路の交易ルートを模索した。
実のところ、ただ広大な海ばかりに、時々小さな島があるくらいと考えられていた、西を進むルートは、実用的かもしれないという考えもあった。

 ただ本来アメリカ大陸がある部分がすべて海だったとしたならば、そちらのルートは確かに、当時の航海技術で渡りきるには長すぎるだろう。

 ところで15世紀のインディアスには東アジア全域が含まれる。
ようするに中国とか日本とかも含まれている。
当時のヨーロッパ人が、それらの地域について知っていることはほとんどなかった。

 そのインディアスのどこかには、「プレスター・ジョン(Prester John)」なる、キリストの普及した大国があるなどという伝説を信じてる人も多かった。
そしてそのプレスター・ジョンは、11~13世紀くらいの十字軍の度重なる失敗に失望していた、キリスト教徒たちの希望でもあった。
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 また13世紀にその辺りも訪れたという、マルコ・ポーロの(東方見聞録(Devisement du monde)」には、カタイ(中国)の皇帝は財宝に囲まれて暮らしているが、その中国の沿岸から2400キロほど離れた地点にあるジパング(日本)という王国は、さらに黄金豊かな国であるなどという、大げさな記述がある。

 コロンブスも、上記のようなインディアス伝説に、大きく魅了されていたと考える人は多い。

イザベラ女王の支持

 コロンブスが、自分の計画を最初に王室に持ち込んだのは、1884年のことだったとされる。
しかしポルトガル王ジョアン2世(João II。1455~1495)は、援助の話を断った。
これの理由に関しては諸説あるが、とりあえずコロンブスの要求があまりにも大きすぎたというのは、よく言われる。

 コロンブスは同時期に、 ポルトガル貴族である妻と死別したこともあり、ポルトガルという国自体に見切りをつけ、スペインへ向かった。
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 1486年の5月。
コロンブスは、計画をスペインのイザベラ女王(Isabel I de Castilla。1451~1504)にも提案。
彼女の夫であるフェルナンド2世(1452~1516)は、あまり興味を示さなかったが、イザベラ女王は違っていた。

 しかし、コロンブスの計画を検討する委員会の話し合いは長引き、待つのに飽き飽きしたコロンブスは、イギリスのヘンリー7世(1457~1509)や、フランスのシャルル8世(1470~1498)にも、自分を売り込んでいるが、やはり断られている。
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 そして、紆余曲折はあったものの、結局1492年に、スペイン王室はコロンブスの計画の援助を決定した。
女王が終始、コロンブスを支持していたことも、けっこう大きかったとされる。

サンタ・マリア、ピンタ、ニーニャ

 航海が決定し、それから当初は、10日間で準備を行うはずだったが、結局3ヶ月かかったとされている。

 船は3隻用意されたが、その中でも、『サンタ・マリア号(Santa María)』はまたは「ガリェーガ(Gallega)」は、その名前がよく知られている。
他の2隻の名は、『ピンタ号(Pinta)』に、『サンタ・クララ号(Santa Clara)』である。
サンタ・クララ号はまた、「ニーニャ(Niña)」という名でも知られる。

アンティーリャ島伝説

 スペインからは、1492年の8月に出発し、 9月にはカナリア諸島からも離れた。

 コロンブスはまず、 当時はイベリア半島の西、アゾレス諸島よりもさらに、インディアスと近い距離に存在すると考えられていた「アンティーリャ島(Antillia)」なる幻の島を中継点として目指したとされている。

 「七つの都市の島(Isle of Seven Cities)」などという名前でも知られるアンティーリャは、プレスター・ジョンと同じような伝説にすぎない。
どうもイベリア半島がイスラム勢力の侵略にあった時に、海に逃げた者たちがたどり着いた島だと考えられていたらしい。
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プラトンのアトランティス伝説も、このアンティーリャ島と関係があるという説もある。
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 ヴァイキングが言及していたヴィンランドがこのアンティーリャだとか、実は古い時代のアイスランドかグリーンランドのことという説などもある。
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バハマ諸島の発見

 最初のその航海にかかった期間は、1ヶ月ほどだったとされる。
コロンブスの言うような、アンティーリャらしき島など、まったく見えてこないことに不安を覚えた船員たちの反乱計画もあったようだが、それが実行される前に、陸地は見えてきた。

 それはカリブ海に浮かぶ、現在のバハマ諸島に属する小島だったとされる。
コロンブスは船員たちとともに神への感謝の祈りを捧げた後、その島に『サンサルバドル(San Salvador)』という名前をつけた。

 ただ、その島にはすでに先住民である「タイノ族」の「ルカヤ人(Lucayan)」によって「グアナハニ(Guanahani)」とかいう名前がつけられていた。
また最初に島を発見したのは、ピンタ号に乗っていた、ロドリゴ(Rodrigo de Triana)とかいう船員だったが、後にコロンブスは 自分の方が先に見つけていたと主張し、まんまと報償金を頂いている。

 実際、前日の日に、何か光らしきものを見たなどという記述が、航海日誌に見られるらしい。

先住民たちとの接触

 ルカヤ人は、コロンブスとの遭遇から数年以内には、何人も奴隷としてスペインに連れさられているという。
彼らは、コロンブスが遭遇した最初のアメリカ大陸先住民であり、 おそらくはその中で、キリスト教徒の西洋人たちにひどい迫害を受けた最初の者たちにもなった。

 3隻の船が島に近づいてきた時。
ルカヤ人たちは、それらを怪物だと思って、すぐにジャングルの中に隠れたが、見慣れない服を着た人間たちが、その中から姿を見せると、すぐに友情の印に贈り物を送ってくれたという。
彼らは比較的友好的で、コロンブスはそこがインディアスだと考えていたから、その住人ということで、彼らをインディオと呼んだ。

 コロンブスたちは、特に先住民たちが、ほとんど裸に近い姿であることに驚き、彼らは、伝説的な黄金時代の生き残りではないか、とまで考えたらしい。

 一方で、彼ら無知な人々は、最も優れた人類である西洋人を、労働から解放するために、神が与えたもうた、奴隷となるべき者たちでないか、というふうにも解釈したろうとされる。
実際、後には、そういうふうに信じたヨーロッパ人は非常に多かったようである。

 ちなみに、船に乗っていた通訳係の専門はアラビア語だったので、ちゃんとした意思疎通などできるはずもなかった。

 仮にたどり着いたのが、本当に日本や中国だったとしても、多分通じなかったろう。
しかし、なぜか当時は、日本や中国ではアラビア語が通じるかもしれないと考えられていたらしい。

ジパングはなかった

 サンサルバドルに続いて、コロンブスらは、「キューバ島」や「エスパニョーラ島(ハイチとドミニカ)」を次々発見していった。
それらが今日も『西インド諸島(West Indies)』と呼ばれているのはコロンブスの勘違いゆえである。

 先住民にかんしてもタイノや、「アラワク族(Arawak)」の様々なグループと接触した。
ただ彼らはコロンブスから見ると古くさい野蛮人で、計算外なことではあった。
彼としては、話のわかる文明人を求めていたし、日本や中国の王に会えることも、楽しみにしていたのだ。
何より彼は、船を覆いつくさんばかりの量の黄金を求めていたが、そこにはジャングルと川ばかりだった。

 ただ先住民たちは欲しがればなんでもくれるし、かなり思い通りにできたらしい。
黄金に関しても、今となってはそれは、コロンブスたちの勘違いだったのかもしれないし、適当なことを言っていた可能性もあるのだが、「あっちにある」、「向こうにある」などと、身ぶり手振りで教えてくれたという。
コロンブスはその、あっちや向こうにこそ、黄金の国ジパングがあるのだろうと想像した。

 しかし結局コロンブスは、ジパングどころか、アステカやインカのような国家自体を探し当てることもなかった。
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アメリカ植民地化の歴史の始まり

 1492年から1503までの間。
コロンブスは、インディアス(と思い込んでいた大陸)への航海を4回行っている。

 そして最初の航海の発見は、ヨーロッパ人のアメリカ大陸の開拓や、植民地化の始まりであり、西洋の歴史において非常に重要とされている。

 コロンブスは死ぬまで勘違いしていた。
いくらか怪しい面もあったものの、彼は自分がたどり着いた土地が、アジア大陸の一部であるいう主張を死ぬまで変えなかった。

 コロンブスはその後、特に4回目の最後の航海では、史上初の世界一周という快挙を目指したようだが、残念ながら船の通り道になるよう海峡などを見つけることはできなかった。

アメリカの名前はどこからか

 アジア、アフリカ、ヨーロッパで構成されている大陸世界と、それを囲む海に、その他の島々と内海というのが、コロンブスの時代の、主流の世界観であった。

 南米大陸を旅して、そこが、それまで知られていなかった新しい大陸世界かもしれないと主張した最初期の人は、アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci。1454~1512)という地理学者の探検家だったらしい。
彼はその大陸を「新世界(New World)」と呼んだ。
また彼自身の名前から、やがて新世界は「アメリカ大陸」とも呼ばれるようになった。

 アメリカという名前に関しては、ニカラグアのアメリスク山脈に由来する説。
マヤ語で「永久の風の国」を意味するという「AMERICA」または「AMERRIQUE」という言葉から説。
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1497年に、北米の沿岸を旅したことが知られるジョン・キャボット(John Cabot。1450~1500)の航海の主要な資金提供者であったという商人のリチャード・アメリケ(Richard Amerike
。1440~1503)の名前から説なども、時々主張される。

コロンブスの出身と、真の目的の謎

 コロンブスの出身や、インディアスへの航海の目的の記録には、やや曖昧なところが多いようで、これまでに様々な説が唱えられてきた。

 一般的な通説である、ジェノヴァの生まれであり、インディアスへの航海はただ名誉を富を求めていた、というものより、たいていどれも創作的な感じはあるが、だからこそか興味深いものが多い。

 航海の目的はともかく、出身に関しては、コロンブス自身が、「Siendo yo nacido en Genova… de ella salí y en ella naci…(私はジェノヴァで生まれ…そこで生まれ、そこから来た…)」などと、わりと信用できる文書に書いてたりするらしい。
実際はどうであれ、コロンブス出身は、自分はジェノヴァの生まれなのだと主張していたようである。

 それと、もしコロンブスがジェノヴァ以外の出身だとするなら、そうだと書いている(公式とされる)多くの文書や、数えきれない歴史家たちの共通認識が、すべて間違いだということになる。

 また、一般的にコロンボは商人の家系だったとされているが、実は貴族だった説がある。
この説の出典文書はおそらく、コロンブスの息子フェルディナンドが書いた父の伝記「Historie del S. D. Fernando Colombo; nelle quali s’ha particolare, et vera relatione della vita, et de’ fatti dell’Ammiraglio D. Christoforo Colombo(息子のフェルディナンドによる、クリストファー・コロンブスの生涯の真実)」である。

 フェルディナンドの伝記では、コロンブスはイタリアの貴族の家系ということになっている。
そしてその先祖は、コロニアス(Colonius)とかいう古代ローマの将軍らしい。
通常この話は、フェルディナントが父の大したことない家柄を隠すために、適当にでっち上げた話とされている。

 重要なこととして、普通、ジェノヴァのクリストフォロ・コロンボが実在しなかったとは言われない。
ただ毛織物職人でチーズの商人であったクリストフォロ・コロンボと、新世界への偉大な航海を成し遂げたクリストファー・コロンブスは別人なのだとされる。
航海の訓練を受けた記録が怪しいだの、年齢と一致しないだの、 人違いの根拠が挙げられることもある。

 それと、ジェノヴァ以外の説は、基本的に20世紀以降の研究者が提唱したものが多い。

カタロニアのユダヤ人(スペイン)説

 コロンブスは生涯を通じて、自分の名前をスペイン的な、クリストバル・コロン(Christobal Colom)だとし、彼の同時代の人や家族も、彼をそう呼んでいたという話がある。

 ただしコロンというのは、単にコロンボの短縮形の可能性もある。

 また、コロンブスの書いたスペイン語(カスティーリャ語)の手書き文章には、いかにもカタロニア語のネイティブが起こしそうな間違いが多いともされる。
そもそも出典がはっきりしている彼自身の文章の多くが、スペイン語ばかりであるという指摘もある。

 コロンブスはカタロニア出身であり、さらにユダヤ人であったという説もある。
どうもコロンブスのスペイン語の文章には、暗号により隠された文が多々あり、たいてい隠されているのは、ヘブライ語で書かれた(例えば祝日のこととか)ユダヤ関連の話らしい。

 コロンブスのインディアスへの航海に関しても、実はその目的は、ヨーロッパで差別される仲間のユダヤ人たちの避難場所を探すことだったという説がある。

カバリストのスパイ(ポルトガル)説

 クリストファー・コロンブスの署名や文書には、彼がポルトガル人のスパイであることを示す、カバラ的な暗号が隠されているなどという話がある。
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 スパイとしてのコロンブスの使命は、 アフリカ回りのインドへの貿易ルートへの興味をスペイン(イギリスとかフランスも?)から遠ざけることだったらしい。

 実はカバリストの貴族でもあった彼の、クリストファー・コロンブスという名前もすでに「聖なるキリストの使者」という意味の偽名であるという。

 彼の本名に関しては、マデイラ諸島の発見者であるジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコ(João Gonçalves Zarco。1390~1471)の親戚らしい、サルバドール・フェルナンデス・ザルコ(Salvador Fernandes Zarco)とか。
海賊のペロ・デ・アタイーデ(Pêro de Ataíde。1450~1504)だったとかの説がある。

 他に、コロンブスがポルトガルについて、「私の祖国」という言葉を使用している裁判所の文書があるらしい。

ビザンティンの貴族(ギリシャ)説

 どうも、コロンブスには長年航海を共にする、同じくコロンボという若い何者かがいたことが、フェルディナンドの文章などから読み取れるらしい。
この若いコロンボはコロンブスの親戚で、かつフランスに亡命していたギリシャ貴族であるジョルジュ・パレローグ・デ・ビシパト(Georges Paléologue de Bissipat)の可能性が高いことが示されているという。

 ビザンティン帝国に端を発するらしいその貴族の家系は、ジェノヴァの有力一族とのコネがあったようで、コロンブスの若い頃のキャリアと、彼がジェノヴァ出身と勘違いされた理由も説明できるそうである。

秘密の王子(ポーランド)説

 これは特に奇妙な仮説と言われることが多い。
実はコロンブスは、ポーランド王ヴワディスワフ3世(1424~1444)の息子だったという説。
根拠は不明だが、ジェノバ以外のものではわりと古くから知られている説で、18世紀には語られていたらしい。

 ヴワディスワ3世自身も、若くして死んだと見せかけて、実は生きていて、マデイラ島にて、ポルトガルのエンリケ航海王子の保護を受けていたという噂がある。

 ポルトガルのスパイ説にも繋がりそうな話ではある。

テンプル騎士団説

 コロンブスがどこの国籍の人にせよ、彼の航海の真の目的はインディアスなどではなく、はなからアメリカ大陸だったという説もある。

 かつて十字軍が占拠したエルサレムで、巡礼者を守るための組織として活躍した「テンプル騎士団」は、結局その地から追い出されることになり、ヨーロッパでも異端の汚名を着せられて、解散させられた。
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しかし実は、一部ひそかにアメリカ大陸に逃れた者もいて、さらにヨーロッパにおいても、秘密結社として暗躍していた騎士団は、自分たちの理想の国を新たに作るための準備を整えていた。
そしてついにアメリカ大陸を、ヨーロッパに知らせる時が来たということで、その役目を任されたエージェントがコロンブスその人だった。

 これに関しての根拠は、サンタ・マリア号の旗が、テンプル騎士団のものらしき赤い十字架の模様を採用していたとされていることくらいだが、秘密結社がなんでそんな堂々と自分のたちの紋章をさらけ出すのか。
もう時はきていたので、バレようがどうでもよかったということなのだろうか。

 また、秘密結社のフリーメーソンが、アメリカという国を作ったという陰謀説と、そのフリーメーソンの起源がテンプル騎士団であるという説は、わりと有名。
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卵の逸話

 コロンブスの数多くある逸話の中で、「コロンブスの卵(Egg of Columbus)」は非常によく知られている。

 インディアス発見を祝うパーティーの席での話とされるこの物語は創作とされているが、その起源はかなり古いようである。

「あなたの発見なんて、ただ西へ行けばよかっただけ」などと指摘されたコロンブスは、卵を1つ用意した。
「この卵を机に立てることができますか?」
コロンブスは挑戦的に言ったが、誰も立てることができない。
コロンブスは得意になって、軽く卵を割ってから机に立てた。
「そんなことをしていいなら、誰でもできるだろう」
と他の者はまた指摘するが、コロンブスは以下のように返した。
「誰かがした後に、自分だってできると言うことなら確かに誰でもできるが、最初にすることができるのは、大きな勇気を持った者だけだ」

 このエピソードより転じて、コロンブスの卵という言葉には「 簡単なことであっても、誰もしたことがないことを行うためには、見事な発想力がいる」というような意味が与えられている。

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