「バッハの生涯」何より音楽に貪欲に。音楽家一族出身の大作曲家

バッハのオルガン

 「小川(バッハ)でなく、大海(メール)だ」
by.ベートーヴェン。

大音楽家一族、バッハ家

ファイト・バッハとツィトリンゲン

 バッハの一族は、そもそも音楽一族だった。
バッハ自身が記述した記録によると、音楽一族としての源流は、1577年に死んだファイト・バッハという、ハンガリー地方のパン職人に行きつくという。

 ルター派だったファイトは、 その信仰の問題でハンガリーから去ることとなり、財産を持てるだけ持って、ドイツに移住した。
彼の趣味はツィターという弦楽器の一種、ツィトリンゲンだった。
テューリンゲンのゴータ近郊のヴェヒマールで、彼はパン屋を続けながら、よく水車小屋に楽器を持ち込み、粉をひくかたわら演奏したのだという。

広がる音楽への情熱

 ファイトの息子ヨハネスは、父からパン屋を継ぐと共に、音楽への情熱もしっかり継いだ。
彼はパン屋であると同時に楽師(演奏家)であった。
そして彼の3人の息子から、バッハ一族の四家系が生じたとされている。
 長男のヨハン(1604〜1673)からは、エアフルト家系。
次男のクリストフ(1613〜1661)からは主要家系。
末子のハインリヒ( 1615〜1692)からは、アルンシュタット家系が出た。

 ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685〜1750)は、クリストフの息子、ヨハン・アンブロジウス(1645〜1695)の末息子である。
 アンブロジウスの兄ゲオルク・クリストフは(1642〜1697)は、フランケン地方のシュヴァインフルトに招かれ、カントル(合唱長)となったので、その家系はフランケン家系と呼ばれる。

クォドリベットを愛した一族

 バッハ一族の名は、フランケン地方を除けば、チューリンゲン地方の都市名であり、彼らはそれらの地域それぞれで、楽師、オルガニスト、カントルなどといった職業音楽家となっていった。

 音楽一族としてバッハ一族は栄え、テューリンゲン地方などでは、16世紀末の頃、バッハと音楽家は、ほとんど同義語として使われていたという。
 同族結婚もよく行われ、ヴィルケ、レンマーヒルト、ホフマンといった家系と、深い関係を保っていたとされる。

 一族は毎年一回、エアフルト、アイゼナハ、アルンシュタットのいずれかで会合した。
職業上の情報を交換したり、人事的な問題の討議もなされたとされる。
 しかし、後はとりあえずみんなで音楽を楽しんだという。
まず、コラール(賛美歌)が歌われ、それが段々と、娯楽的な音楽へと移行していったとされる。
 色々な民謡の旋律を即興的に、歌い合い、面白おかしく多声音楽(ポリフォニー)を響かせた。
そんな遊びを「クォドリベット(ごちゃ混ぜ)」とも言うが、バッハ一族は、このクォドリベットが大好きな人達だった。

 音楽家という職種は、17世紀までは、市民階級よりも低いと考えられていた。
そのため、彼らはある種アウトサイダー集団的な性格を持ち、なればこそ、強い結束力を持てたのだという。
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バイオリン奏者、アンブロジウス

 アンブロジウスは、エアフルトに生まれ、アルンシュタットの町楽師を経て、1667年、エアフルトのバイオリン奏者となった。
1668年にマリア・エリーザベト・レンマーヒルトと結婚し、1671年に、アイゼナハの宮廷楽師兼町楽師となった。
 
 ルターが、ドイツ語訳聖書を完成させた場所としても名高い、ワルトブルク城が近くにある、テューリンゲンの森の都アイゼナハ。
ドイツ「ドイツ」グリム童話と魔女、ゲーテとベートーベンの国 この町の楽師として、アンブロジウスは、毎日午前10時から午後5時まで町の塔の上で吹奏した。
また、日曜日と祝日には、教会の礼拝音楽に、バイオリン奏者として参加した。
その演奏は素晴らしく、人々に絶賛されたとされる。

少年時代の冒険。音楽への憧れ

聖ゲオルク教会にて

 父アンブロジウスが活躍するアイゼナハにて、ヨハン・セバスチャン・バッハは、1685年3月21日、 8人兄弟の末っ子として生まれた。
生まれて2日後の23日には、聖ゲオルク教会にて、洗礼を受けたという。
十字架「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束  1962年。
セバスチャンは七歳で、聖ゲオルク教会に付属するラテン語学校に入学した。
おそらくは、通常の基礎科目を学ぶ一方で、聖歌隊でも歌ったろうと考えられている。

パッヘルベルとクラヴィーア

 1694年5月。
母エリーザベトが他界。
そして翌年の1695年2月に、父アンブロジウスも世を去ってしまう。

 バッハ家は離散し、10歳のセバスチャンは、 3歳年上の兄ヨハン・ヤーコプ(1682〜1722)と共に、オールドルフの教会オルガニストだった長兄ヨハン・クリストフ(1671〜1721)に引き取られる事になった。
 クリストフは、エアフルトにて、ヨハン・パッヘルベル(1653〜1706)に師事していた事もある、優秀な音楽家だった。
セバスチャンはこの兄から、クラヴィーア(鍵盤楽器)演奏を学んだとされている。

 セバスチャンは非常に勉強熱心で、野心家でもあった。
クリストフは、パッヘルベルのほか、フローベルガー、ケルルなど、南ドイツの巨匠達のクラヴィーア曲集を所有していたのだが、いくら頼もうとも、彼はそれを、セバスチャンに見せてはくれなかった。
そこでセバスチャンは、毎晩、家の者が寝静まった頃を見計らい、戸棚にしまわれた、その曲集を取り出し、月の光をたよりに、半年ほどかけて書き写したのだった。
 しかし結局、この写譜はすぐに、クリストフにバレて、没収されてしまったようである。
それがセバスチャンの手元に戻ったのは、兄がこの世を去った、1721年のことだったという。

ミカエル教会とヨハネ教会

 1700年3月15日、15歳目前のセバスチャンは、親友のゲオルク・エルトマン(1682〜1736)と共に、オールドルフを去った。
ふたりは300キロほどを旅して、北ドイツの都市リューネブルクへとやってきた。

 バッハとエルトマンは、町中の聖ミカエル教会の、合唱隊の隊員として採用された。
僅かではあったが給与も支給され、さらに名高いミカエル学校で学ぶこともできた。

 ミカエル教会の合唱隊は、15名から構成され、採用条件は、貧しく、そして高い音楽的素養を備えていること。
採用されれば待遇が良いから、応募者は多く、入団は難しかったとされる。

 バッハは合唱隊入団当時、美しいボーイソプラノだったが、ほどなく変声期を迎えてしまった。
しかし彼は、歌手としては使われなくなっても、オーケストラに不足した楽器を演奏したり、時には副指揮者を務めたりして、合唱隊内に居場所を確保したとされる。

 また、リューネブルクにおいても、相変わらず貪欲なバッハは、ミカエル協会と、行進の縄張りを巡ってライバル関係にあった、ヨハネ協会のゲオルク・ベーム(1661〜1733)を尊敬し、よく学んだという。

ラインケンとの出会い

 バッハは、より音楽を学びたいと、小旅行をすることもあった。

 リューネブルクから50kmほどの距離には、北ドイツの都市同盟ハンザにおける最大の都市ハンブルクがあり、そこはバッハにとって、学びの宝庫だった。
 従兄の、ヨハン・エルンスト・バッハ(1683〜1739)が学んでいて、聖カタリナ教会には、北ドイツオルガン学派の巨匠ヤン・アダムス・ラインケン(1623〜1722)が、80歳近くでありながら、活躍していた。
ガチョウ市場のオペラ劇場では、歌劇の巨匠ラインハルト・カイザー(1674〜1739)も活躍していた。
 特にラインケンに関しては、彼の「トリオソナタ集(ホルトゥス・ムジクス(音楽の園))」から三曲を、バッハは後に、クラヴィーア曲に編曲している。

フランス風宮廷音楽に触れて

 バッハはまた、リューネブルクから80kmほど離れた、小都市ツェレで、しばしば、宮廷楽団を聞く機会に恵まれたという。
ツェレは、フランス文化に染まった地であり、宮廷楽団もほとんどがフランス人で、演奏する曲も、フランスから輸入したものだったとされる。
 どうもバッハがそのような素晴らしいフランス風宮廷音楽に触れる事が出来たのは、トーマ・ド・ラ・セルというフランス人の紹介があったからのようである。
ド・ラ・セルは、リューネブルクの騎士学院の舞踏教師であり、ツェレの宮廷楽師でもあった。
当時から既にクラヴィーアやバイオリンに関して、優れた演奏技術を持っていたバッハは、騎士学院の貴族のダンスの伴奏を担当していた事もあり、そこから、ド・ラ・セルと知り合ったのだとされる。

落ちた採用試験

 ミカエル学校をバッハが卒業した時期は記録に残っていない。
しかし、おそらくは1702年頃だろうというのが通説。

 確かなことは、彼はリューネブルクで学業を終えた後、リューネブルクでそのまま活動していく道は選ばなかった。
 1702年7月バッハは、ドイツ中北部のザンガーハウゼンで、オルガニストに応募した。
採用試験にて、バッハは優秀な成績だったようだが、残念ながら採用はされなかった。
 そして、翌年の1703年3月。
バッハはワイマール公ヨハン・エルンストの宮廷楽士となった。
 だが結局、領主の弟であるエルンスト公の、小さな宮廷での地位は、半年ほどで終了した。

オルガニスト、作曲家、宮廷楽師、カントルのバッハ

オルガニストデビュー。山羊のファゴットとの喧嘩

 ワイマールから南に30kmほどのアルンシュタットは、 バッハ一族の拠点の一つでもあった城下町である。
1703年7月3日。
このアルンシュタットに、6月に新しく建設された(正確には1581年に全焼したボニファツィウス教会を再建した)新教会の、オルガンの鑑定を、18歳のバッハは任された。
そして、8月9日に、バッハは新教会のオルガニストの地位を提示され、14日に、契約を正式に結んだ。
 
 新教会のオルガニストとして、バッハに与えられた仕事は、日曜と木曜の朝の礼拝に、それぞれ2時間ずつ。
そして月曜日の臨時礼拝にも、コラールの伴奏をすることだった。

 また、新教会には、専任のカントルがいなかったので、 少年聖歌隊の訓練も、大事な仕事であった。
また、聖歌隊の水準は、バッハからしてみたら低く、なかなか揃わない規律が、彼を苛立たせた。
 1705年8月4日の夜には、ついに事件が起きてしまう。
バッハに、「山羊のファゴット」などと馬鹿にされた聖歌隊員のガイエルスバッハが、バッハを呼び止め、殴ったのである。
バッハも怒りに任せ剣を抜き、結局は周囲に止められたものの、まさに一触即発だったようである。

ブクステフーデの影響

 ガイエルスバッハの件からしばらくしてから。バッハは休暇をもらい、また北ドイツへと向かった。
リューベックの聖母マリア教会のオルガニスト、ディートリヒ・ブクステフーデ(1637〜1707)の演奏が主な目的であった。

 そして、北ドイツ学派最高の巨匠とされていたブクステフーデのオルガン演奏に、バッハは予想以上に魅了されたという。
半音階や不協和音の多用。
大胆な転調。
豪快なペダル奏法。
とにかく形にとらわれない演奏が、バッハに強い影響を与えた。

 それから、アルンシュタットに帰ってきたバッハが、久々に聞かせた演奏は、以前の彼のものとは全く違っていて、会衆はひどく驚いたとされる。

 また、有名な「トッカータとフーガ ニ短調」は、ブクステフーデの直接影響的な作品だという。

新しい契約。結婚式

 しかしとにもかくにも、聖歌隊との関係は改善されず、バッハは、1707年5月15日に、ミュールハウゼンの聖ブラジウス教会のオルガニストとして契約をかわし、アルンシュタットの新教会から去った。

 彼の結婚もこの時期とされる。
妻となるマリア・バルバラとの結婚式は、アルンシュタット近くの村ドルンハイムで行われた。

宮廷オルガニストとして

 ミュールハウゼンでの仕事は1年程度で終わった。
1708年6月25日。
バッハは、ミュールハウゼンの市参事会に辞表を提出。
ザクセン・ワイマールの宮廷楽団に移籍する事となった。

 バッハがワイマール公に雇われたのは二度目。
前は、領主の弟の小さな宮廷に所属したが、今回は、領主ヴィルヘルムの宮廷オルガニスト兼宮廷楽師として、まったく申し分ない地位であった。

 ワイマールにおいて、休暇も多かったバッハは、他の地にも赴き、演奏家としての名声を高めたとされる。
また、彼自身が後に、自身のオルガン曲のほとんどは、この地で作曲したと述べているという話もある。

 また私生活でも、バッハはこのワイマールで、6人もの子に恵まれ、幸せな日々を送っていたとされる。

楽師長となって。ワイマール公との対立

 1715年3月2日
バッハは楽師長に就任した。
これは宮廷楽長、副楽長に次ぐ地位であった。
そういう責任ある地位となり、バッハには月一回、教会音楽としてのカンタータの作曲と上演が義務付けられた。

 バッハはしかし、年老いていた宮廷楽長の後釜を狙っていたようで、後任がワイマール公の息子ドレーゼに決まった時に、月一のカンタータ作曲などやめてしまった。

 しかしワイマール公は、バッハを手放そうとせず、解任を求める彼を、ついに収監すらしてしまう。
しかし結局、彼の強い意志は揺るがず、バッハはひと月もたたないうちに、釈放され、同時に解任された。
こうして、1717年12月2日、彼はまた自由の身となった。

理解ある主君との出会い。妻マリアの死

 1717年。
32歳のバッハは、家族と共に、今度はケーテン侯レオポルドに、宮廷楽長として、雇われた。

 レオポルド侯は、大の音楽好きであり、バッハも理解ある主君のもとで、大いに仕事を楽しんだという。

 だが、ここでも、楽しいことばかりではなかった。
1720年5月〜7月くらい。
2ヶ月ほど留守にしていた間に、 急病に倒れ、妻マリアは他界してしまったのだ。
バッハは、その最後を看取る事も出来なかったのである。

バビロンの川のほとりにて

 1720年9月12日。
バッハはハンブルクへと向かった。
若かりし頃に訪れた事もある聖ヤコビ教会の新オルガニストの採用試験に応募したのである。
 しかし、レオポルド侯の誕生日の準備のために、試験当日にハンブルクにいる事が出来ないバッハは、先だって聖カタリナ教会にて、演奏会を行う事になった。

 聴衆の中には、かつて憧れたラインケンもいた。
彼は聖カタリナ教会のオルガニストだったのである。
もうすでに100歳近い彼だが、音楽に関して、ボケてたりはしない。

 バッハは、与えられた主題、「バビロンの川のほとりにて」を、 様々な手法を駆使し、まるで、かつてこの地で聞いた。ラインケンが奏でてたような、まさにそのもののような演奏を行い、人々を熱狂させた。

 嫉妬深いと評判であったラインケンだが、彼がこの時に発した言葉は絶賛だった。
「私はもう、この芸術は死に絶えたのだと思っていましたが、どうやら、あなたの中に生きていたようですね」

 しかし絶賛され、彼の採用に審査員たちは傾いたが、バッハは結局、断り、代わりに採用されたハイトマンという人は、バッハに感謝して、多額の寄付をしたとされている。

再婚。カントル職。その最期

 1721年に、バッハは再婚している。
彼はそのまま、ケーテンで生涯を終える気すらあったようだが、 結局1723年に、ライプツィヒの聖トマス教会の、合唱団や礼拝の音楽を取り仕切るカントル職に就く事に決まり、ケーテンも去った。

 ライプツィヒ市の音楽監督的な仕事も兼任であったバッハは、この町で、激務に苦しめられたという。

 そしてこのライプツィヒが、そのまま、バッハの最後に暮らした町となった。
彼の死は、1750年7月28日午後8時15分頃。
晩年には、体は弱り、目は見えなくなっていたという。