アルプス山岳地帯と、谷ごとの文化
オーストリアという国は、ヨーロッパの中では山国とされている。
国土の西部から中央部にかけて広がるアルプス山岳地帯からのイメージであろう。
山岳地は、スイスから連続し、かつてアルプスの大部分を覆っていたと考えられている氷河の影響が、鋭く尖った峰の列に垣間見れるという。
山の峰の間に、深い谷があったりもするが、それもやはりかつての氷河が削り取った跡とされている。
古い時代には、山に囲まれた形の谷で生活する各民族が、山を隔てて、別々の文化を育んでいたようだ。
各文化は、「エッツ・ターラー」や、「ツィラー・ターラー」というふうに「~・ターラー」という呼ばれかたをしていたが、ターラーとは「谷」の意味である。
また、オーストリアと隣接する他国との国境線は、ザルツブルクでのドイツとの国境線となっているザルツァハ川や、スイスとの国境になっているライン川など、水の流れであることも多い。
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それらはたいてい水路としても利用され、この国を中心とした各国を結びつけてきた。
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観光地として定着したアルプス山脈
19世紀以降。
鉄道や道路などの整備、発達により交通事情がよくなったことから、アルプス山脈は観光地として定着していく。
しかし古くは、この山々は人々を寄せ付けず、悪魔が住む不気味な場所とも考えられていたようだ。
18世紀くらいの産業革命の影響で、都市が発展するにつれ、自然からは遠のいていった人々が、アルプスの美しい風景に気づき、憧れるようになったのは、ある意味で当然の流れなのかもしれない。
医療施設として発展した温泉
かつてはドイツとともに、神聖ローマ帝国の一部であったオーストリアの公用語は、ドイツ語である。
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そのドイツ語で、お風呂のことを「Bad(バート)」という。
温泉地は基本的に「バート・~」という名称であるが、オーストリアは温泉大国とされるくらいに、その名の温泉地が多い。
温泉は、産業革命の時代に、医療施設として発達してきた歴史の流れもあるともされる。
体調を悪くした人の多くが、その原因は街の空気が汚くなったためだと考えた。
そこで、澄んだ空気の外がよいという思想が広まった。
「ウィーンの森」と呼ばれる、郊外の森林、というかアルプス山脈の一部などは、散歩の場として人気で、18世紀末にはすでに、ガイドブックもあった。
そうした時代にあって、温泉には医学的効能があるというのが確認、知られるようになると、その人気は一気にあがったという。
また、19世紀には、温泉と温泉周囲の領域は、社交場として利用されるようにもなっていった。
ちょっとした温泉街が作られ、劇場や遊技場なども楽しめるようになっていることも珍しくなかったようだ。
ウィーンのコーヒーのカフェ
東方に起源を持つという「コーヒー」が、ヨーロッパで最も早くに普及した都市がウィーンであった。
そのためか、ウィーンといえばコーヒーやカフェの都市だというイメージが、今でもあるという。
1683年。
オスマン帝国の軍がウィーンを包囲したが、オーストリア(という神聖ローマ帝国)の軍は、見事にこれを打ち負かす。
その時に、伝令、あるいはスパイとして活躍したコルチスキーという人が、トルコの野営地でくすねたコーヒー豆を使い、ウィーンで初のカフェを始めた。
というのは、数多く伝わっているウィーンのコーヒーの始まりの伝説のひとつであるが、少なくともコルチスキー以前から、東方からやってくる商人向けのコーヒーを出す店は存在していたようだ。
18世紀になる頃には、ウィーンのカフェは都市の名物的な存在となっていて、あちこちにあったようだ。
そして数が増えるにともない、ライバルに負けないための、様々な工夫もなされるようになった。
初期のカフェは薄暗く地味な雰囲気が普通だったようだが、だんだんとオシャレな雰囲気が作られるようになっていったわけである。
番号付とバカにされた辻馬車
今は基本的に観光ツアー用の乗り物でしかない「辻馬車(fiacre)」は、かつてはタクシー的な感じで使われていた馬車である。
自動車の普及以前は、辻馬車は都市生活に欠かせない、便利な公共交通機関であった。
ウィーンにおいて、辻馬車の導入は1670年くらいで、パリ、ロンドンに次いで早かったとされている。
しかし、19世紀くらいまでは、ウィーンでは辻馬車は最低ランクの馬車であった。
車部分に番号を打たれていたために「番号付」と呼ばれていたのだが、招待を受けた時に、番号付に乗ってやってくるのは失礼にあたるとされていたという。
それでもウィーンの辻馬車は、便利なだけでなく、しっかり掃除などもされていて、美しく快適だと、異邦人たちの評判もかなりよかったようだ。
クラシック、オペラ、音楽の都の国
オーストリアは芸術、特に音楽の国というイメージは強い。
ヨーロッパにおける、有名なクラシック音楽の作曲家たちにも、この国の出身者は多い。
特にウィーンは、ドイツ生まれのベートーベンを初め、多くの作曲家が愛した都である。
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クラシック音楽は、古くは貴族たちのものだったが、ウィーンではその貴族たちの音楽熱が相当なものであったようだ。
自ら作曲や指揮もこなしたカール六世。
バレエを踊ったマリア・テレジア。
ピアノとチェロをよく弾いたヨーゼフ二世。
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特にオペラ(歌劇)への政府の補助金は、不況だろうがなんだろうが、基本途絶えなかったという。
「この国では、オペラなしでは生きていけない」
とはマリア・テレジアの言葉とされている。