「古代エジプトの歴史」王朝の一覧、文明の発展と変化、簡単な流れ

古代エジプトの歴史

エジプトとはどんな国であったか

ヘロドトスの歴史の表現。ナイル川の賜物

 古く、紀元前5世紀くらいのギリシアの歴史家とされるヘロドトスは、その著者とされる「歴史(ἱστορίαι。historiai)」の中で、「エジプトはナイル川の賜物たまもの」と書いた。

 地理的にエジプトという国は細長い。
人の街を築いてきた地域に関してはそうだ。

 ヘロドトスの言葉は実に的を射ていた。
長いナイル川の横には緑すら茂る領域があり、ナイル川とともに長く伸びているが、その外側には見渡す限り砂漠が続く。

黒い大地、赤い大地

 人にとって、砂漠というのは利用価値が低い土地だ。
これが古代の時代ともなると、まったく何にも使いようがない、死んだ土地でしかなかった。
古代エジプト人は、ナイル川周辺の生命の土地を『ケメト(黒い大地)』、 その外側の死んだ土地を『デシェレト(赤い大地)』と呼んでいたという。

 ケメトというのは、そのままエジプトを指す言葉でもあった。
ひとつの長い川の周囲にしか人が住んでいないという状況は、船による交通網を確保しやすいということでもあり、統一国家形成に役立ったとされている。

 利用価値がないと言っても、ナイル川の西側の「リビア砂漠」はともかく、東側の「アラビア砂漠」は、金属や宝石をよく産出する、探検、採掘の対象として、古くから重要視されていたという。

 また、エジプトの北部、ナイル川が地中海に到達するその河口の地域は、肥沃ひよくな土地が大きく三角に広がっていて、『ナイルデルタ』と呼ばれる。

 エジプトという言葉自体は、エジプトの首都であった「ヘトカアプタハ」が訛った『アイギュプトス』というギリシア語由来と考えられている。

白ナイル川、青ナイル川

 ナイル川は、ケニア、ウガンダ、タンザニアに囲まれた「ヴィクトリア湖」から流れる「白ナイル川」と、エチオピアの「タナ湖」から流れる「青ナイル川」が、スーダンのハルツームで合流し、エジプトを流れ、地中海へと注がれている、世界最大級に壮大な川である。
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 数万年前くらいは、 ナイル川周辺だけでない、もっと広い森林がエジプトにも広がっていたと言われる。
しかしこの地は乾燥し、「ステップ地帯(乾燥気味な平原)」となり、砂漠となってしまった。

 もともと、豊かな土地から追放されたのか、新天地を自分たちから求めたのかは定かでないが、砂漠にやってきた人たちが、ナイル川周辺に集まらざるをえなかったのは間違いない。

農業で発展していった

 しかしナイル川周辺は、農業を営む場としては理想的でもあった。
気温が高めで、雨がほとんど降らない。
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一方で、水はすぐ近くに大量にある。
また、養分(肥料ひりょう)は遠い山地から川の流れで勝手に運ばれてくる。
ナイル川は、年に一度は氾濫はんらんし、養分を大地にやり、肥沃にした。

 そして継続的に続けられる農業活動は、農地を広める代償に、自然の森林をどんどんと破壊していった。
古代エジプトと呼ばれる時代にはすでに、材料としてよい木材を使うためには、輸入に頼らなければならなくなっていたそうだ。

エジプト王国の成立

上エジプト、下エジプト。二つの国家

 エジプト人が文字というものを利用し始めたのは、紀元前4000千年紀とされている。
おそらくその頃には、様々な小国家が乱立していた。
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 それから紀元前3500年くらいからは、エジプトには二つの大きな統一国家があったとされている。

 二つの国の片方は、主に北のデルタ地帯で栄えた。
もう片方は、デルタよりも南に栄えた。
普通、北の方を「しもエジプト(Lower Egypt)」。
南の方を「かみエジプト(Upper Egypt)」と区別する。

 おそらくは紀元前3100年くらいに、上エジプトが下エジプトを征服する形で、それらは統一国家になった。
まだこの時代ぐらいから『パピルス(紙)』が開発されたらしい。
ただし、当然であろうが、現在にはほとんど残ってなどいない。

 最初の統一国家より、紀元前2690年くらいまでを「初期王朝時代」と言う。
他にも、便宜的べんぎてきに古代エジプトと呼ばれている時代は、いくつかの区分に分けられることが多い。

白と赤の冠

 エジプト人たちは自分たちの国を「タアウィ(二つの国)」とも呼んでいたという。
統一国家となってからも 上と下、ふたつがあるという認識が根強く残っていたわけである。

 また、統一国家のファラオの冠は伝統的に、上エジプトの白冠と、下エジプトの赤冠を組み合わせたものであった。

古代エジプトの一般的な時代区分

 当然ながら年代は正確でない可能性が高い。

 エジプト原始王時代(紀元前4200年~紀元前3150年)

 エジプト初期王朝時代(紀元前3150年~紀元前2690年)
「第1王朝(紀元前3100~紀元前2890」
「第2王朝(紀元前2890~紀元前2690)」

 エジプト古王国(紀元前2690年~紀元前2180年)
「第3王朝(紀元前2690~紀元前2610)」
「第4王朝(紀元前2610~紀元前2500)」
「第5王朝(紀元前2500~紀元前2350)」
「第6王朝(紀元前2350~紀元前2180)」

 エジプト第1中間期(紀元前2180年~紀元前2040年)
「第7王朝(?)」
「第8王朝(?)」
「第9王朝(紀元前2160~紀元前2130)」
「第10王朝(紀元前2130~紀元前2040)」

 エジプト中王国(紀元前2040年~紀元前1660年)
「第11王朝(紀元前2130~紀元前1990)」
「第12王朝(紀元前1990~紀元前1780)」
「第13王朝(紀元前1780~紀元前1650)」
「第14王朝(紀元前1730、あるいは紀元前1810~紀元前1650)」

 エジプト第2中間期(紀元前1660年~紀元前1570年)
「第15王朝(紀元前1660~紀元前1560)」
「第16王朝(紀元前17世紀~紀元前16世紀)」
「第17王朝(紀元前1660~紀元前1570、あるいは紀元前1580~紀元前1550)」

 エジプト新王国(紀元前1570年~紀元前1070年)
「第18王朝(紀元前1570~紀元前1290)」
「第19王朝(紀元前1290~紀元前1190)」
「第20王朝(紀元前1185~紀元前1070)」

 エジプト第3中間期(紀元前1070年-紀元前530年)
「第21王朝(紀元前1070~紀元前950)」
「第22王朝(紀元前950~紀元前720)」
「第23王朝(紀元前820~紀元前720)」
「第24王朝(紀元前730~紀元前720)」
「第25王朝(紀元前747~紀元前656)」
「第26王朝(紀元前664~紀元前530)」

 エジプト末期王朝(紀元前530年-紀元前330年)
「第27王朝(紀元前530~紀元前400)」
「第28王朝(紀元前400年頃」
「第29王朝(紀元前400~紀元前380)」
「第30王朝(紀元前380~紀元前340)」
「第31王朝(紀元前340~紀元前330)」

 プトレマイオス朝(紀元前330年-紀元前30年)

 プトレマイオス朝からは、ギリシアの影響強い、いわゆるヘレニズムの時代に入る。
そしてプトレマイオス朝は、ローマに完全植民地化され、古代エジプト時代は終わったとされる。

 古代エジプトの上記のような時代区分は基本的には、プトレマイオス朝時代の歴史家とされるマネトや、ヘロドトスの時代区分に、現代の知見で修正を加えたもの。

 様々の王朝があるが、すべてが繋がっていたわけでも、統一王朝が栄えていたわけでもない。
例えば三度の中間期などは中央のなかった分裂期であったとされる。
第一王朝も、(これも怪しいようだが)最初の統一国家ではあったかもしれないが、最初の王朝ではない。

 実のところ、全ての王朝がエジプト人の王朝であったわけですらない。
また、26王朝は、末期時代の方に含めることもあるなど、なかなかややこしい。

エジプト語の消滅小史

 ギリシアの影響が入るようになってから、ローマの植民地時代にかけて、エジプト語は「コプト語」というのに姿を変えた。
キリスト教もこの地に入ってきて、エジプト本来の宗教も影が薄くなっていく。
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 それから7世紀くらい。
エジプトは今度は、勢力を拡大していたイスラム教徒たちに取り込まれる。
そこでアラビア語もはいってきた。
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 アラビア語は完全にエジプト世界の中に 定着し日常生活では 基本的にそちらが使われるようになる。
そうなってからもコプト語は、 キリスト教徒たちの間で地味に使われてはいたが、17世紀くらいからは、儀式用くらいしか役割がなくなり、普通に使う言葉としては消滅してしまったとされる。 

エジプト王朝の歴史の流れ

初代王メネスの謎

 第1と第2の王朝については謎が多いとされ、特に第二の王朝に関しては、ほとんど何もわかっていないという。

 第一王朝の初代王はメネスという人物らしいが、 この人が実在したかどうかも謎である。
後の歴史書にはこの名があるが、「石碑せきひ(Stele)」などの「遺物いぶつ(Relic)」の記録では、この名前が見つからないのだという。

 ヒエラコンポリス遺跡で見つかった化粧用パレットの遺物には、ナルメルという名の王と共に、戦争や侵略らしきものが描かれている。
これに関しては、上エジプトの下エジプトの征服、あるいは統一戦争の記録というのが、一般的な解釈である。
だとすると、ナルメルはもとは上エジプトの王だったということになるし、おそらくは統一国家では最初の王であったろう。

 「ヒエラコンポリス」は、「アビドス」と並び、第一王朝が成立する時代に、おそらくはエジプトにおいて最大であった都市である。

ジェセル王のピラミッド

 エジプト第3王朝の王の一人であるジェセル、あるいはネチェリケトは、紀元前2660くらいの人であったとされるが、この人はエジプト史の中でも重要とされる一人である。

 当時の首都だった「メンフィス」のネクロポリス(墓地都市)であった「サッカラ」にある、ジェセル王の墓は、おそらくは最初期の、石を積んで作ったピラミッドなのである。
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 そのピラミッドの設計者は、首相であったらしいイムホテップなる人物であったらしい。
彼は非常に多彩な人物で、後の世では医療を司る神としても崇拝されていたという。

 ジェセル王のピラミッドは、メキシコのそれと同じような階段状のものであった。
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 当時の技術水準で、大量の石を切り出して用意し、それらを建築現場まで運ぶには、多大な労働力がいるはず。
ジェセル王のピラミッドは、すでに彼の時代には、かなりしっかりとした官僚かんりょう組織と経済力があった、ということを示している。

 ジェセル王以前にも、「マスタバ」 と呼ばれる長方形の墓などがあった。

ギザの大ピラミッドの時代

 ピラミッド時代とも呼ばれる第四王朝の二人目の王であるクフ王は、おそらくは最も有名な「ギザの大ピラミッド」を建設させたことで有名である。
さらに、クフと、ケフレン王、メンカウレ王のピラミッドを合わせて、「三大ピラミッド」とも呼ばれる。

 第5王朝の時代にはピラミッドはかなり小さくなった。
また第5王朝は、地方の高官たちの墓が、それぞれの領地に作られるようになった時期であり、権力が中央から分散され始めた結果とされている。

最初の分裂期と再統一

 第6王朝は、衰退すいたい期と見るのが一般的。
第7から第10までは、半世紀くらいの間に次々と変わっているが、 これは中央の力が、ほぼ完全に失われてしまった結果であろうとされる。

 しかし、だんだんと、「ヘラクレオポリス」を首都とする北王国(第10王朝)と、「テーベ」を首都とする南王国(第11王朝)が二大として台頭してきて、南北それぞれの王朝は、アビドス辺りで何度も戦ったようである。
そしてこの争いで第11王朝が勝ったことで、エジプトは再び統一されたと考えられている。

二重の王。お飾りの王

 第12王朝は、11王朝の6代目の王であったメントヘテプの首相であったアメネムヘトが開いたとされている。

 アメネムヘトは、二重王制を設定したという。
これは王の生前に、皇太子にも同じ権限を与え、二人で国を統治するという方式。
王が死亡した際の混乱を防ぐことができる画期的なシステムであった。
実際にアメネムヘトは、皇太子センウェレストのリビアの方への遠征中に暗殺されてしまったようなのだが、王権交代はスムーズであったとされる。

 12王朝の5代目であるセンウェレスト三世は、ヌビア(スーダンの辺り)から、南の国境を広げ、国土をより拡大した。
彼はまた中央の力を強める政策を成功させた大王であったようだ。

 13王朝は基本的な平和な時代だったとされているが、 怒涛の勢いで王が変わっていった時代であったらしい。
その正確な数は諸説あるが、 150年ほどの時代の間に、35人から70人くらいまでの数の王がいたとされる。
どうもこの時代においては、「チャアティ(首相)」がかなりの力を持っていたようで、王はお飾りだったというのが、この大量の交代劇に関係しているのでないか、とは言われる。

 13王朝の末期には、 他の地方からの移民が 特にデルタ地方のあたりに多く移民してきて、そこで新たな独立国が生まれたことが、王朝崩壊のきっかけとなった。

 こうして、第14から第17までが並行して存在していた2度目の中間期に入っていく。

アマルナ宗教改革

 エジプトを再び統一して、第二の中間期を終わらせたのが、第18王朝の初代王イアフメスである。
彼はパレスチナやメディアにも進出。

 18王朝の時代、エジプトは領土拡大を続け、六代目王のトトメス3世の頃には、歴史上でも最大のエジプト帝国となった。

 18王朝の10代目王アメンホテプ4世は、それまで多神教が基本であったエジプトにおいて、アトン神なる唯一神を考え、それを広めようとした。
これは「アマルナ宗教改革」として、よく知られている。
アマルナとは、アメンホテプ4世が新たな首都とした地である。

 アマルナ宗教改革は、文化革命とも呼ばれるべきもので、それまでの伝統を打ち破ったとされる「アマルナ美術」もまた有名である。
それまで統一的だった王の彫刻のデザインはより個性的となる。
また、違いが大きかった書き言葉と話し言葉の統合がかなり進んだ。
新時代の、優秀な書記を育てるための学校が、いくつも建設されたとも考えられている。

 アメンホテプ4世の次代、あるいはアメンホテプ4世の第一夫人であり宗教改革のよきパートナーだったネフェルティティをはさんでいるのが、状態のよい墓の発見でかなり有名となったツタンカーメンである。
ネフェルティティは娘しか産まなかったそうで、ツタンカーメンは第二夫人キヤの子とされる。

 幼王だったツタンカーメンは、実権を持った周囲の官僚たちの入れ知恵で、アトン神信仰を早くも捨てたとされる。

幼王ツタンカーメン、老王ラメセス

 若くして王となり、若くして世を去ったツタンカーメンに続き、実権を握っていた分官のアヤや、武官のハレムヘブがその流れで王になり、彼らのさらに後は、ラメセスが第19王朝を開いた。

 90歳以上まで生きたというラメセスの治世は60年も続き、 長生きした彼の次世代の王は、すでに50を越えていたという。
しかしラメセスより以降はやはりだんだんと国は衰退。

 エジプト側の記録の中に「イスラエル」という名前が登場し始めるのは、この19王朝の時代である。

 19王朝から20王朝の時代にかけては、王朝というより、エジプト文明そのものの衰退の時代でもあった。
というより停滞だ。
鉄器時代に入るアジアに対し、エジプトは青銅器文化にとどまっていたのだという。

 そして21から25、あるいは26王朝まで、エジプトは最も長い第三の中間期に入った。

アッシリアとバビロニア

 第25王朝の時代は、ナイル川の水が理想的な状態に長く保たれたことで、経済的な繁栄がもたらされたという。
エジプトは再び勢力を増し、東方のアッシリアとパレスチナをはさんで対立することになった。

 両国は幾度もの勝っては負けたを繰り返した末に、アッシリアはエジプトを征服。
しかしすぐにアッシリアは近場の新興国バビロニアの脅威にさらされたために、エジプトは一時の余裕を得ると共に、エジプト管理を任されていたサイスの王家は独立を画策かくさく
そのまま第26王朝となった。

 国際戦争が長く続きすぎ、それまでは自給自足の独立的な経済政策をしていたエジプトも、積極的な外交を始めざるをえなくなる。

ペルシャ支配の時代と、エジプト王国の終わり

 第27王朝は、新たな勢力であったペルシャに征服された時代で、 完全に植民地扱いであったエジプトへの支配はかなり過酷だったそうだ。
あまりにも過酷すぎて、徐々に反乱が企てられるようになり、紀元前404年頃に、デルタ地方のアミルタイオスがペルシャに勝利する。

 しかしそうして始まった第28王朝は、かなりわずかな期間で幕を閉じる。
さらに、やはり短命な29と30王朝をこえ、再びペルシャ支配の第31王朝が始まる。

 しかし、その31王朝も、マケドニアのアレキサンダー大王にあっさりと敗れ、エジプトがエジプトであった時代までも終わりを告げたのである。

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