「将棋の歴史」複雑化する戦い。極限の面白さへの渇望

将棋の盤面

インドのチャトランガ

 将棋の歴史の研究は、チェスに比べると浅いとされている。
ちゃんとした学問として、多くの人が将棋の歴史を研究するようになったのは、20世紀になってから。
しかしチェスの歴史の研究は、既に400年以上も続けられてきている。
チェス「チェスの歴史」将棋の起源、ルールの変化、戦争ゲームの研究物語  実のところ現在では、将棋とチェスは、その起源が共通の場所だと考えられている。
その場所とはインドであり、その起源は『チャトランガ』というゲームである。
 その事を最初に広く発表したのは、イギリスのインド学者ウィリアム・ジョーンズだった。

 時は18世紀末期。
当時は、古代ギリシア発祥説もそれなりに有力視されていたが、ジョーンズは、チェスの元になったチャトランガなるゲームが、4人対戦の盤上ゲームだとした。
使用される駒は、歩兵、象隊、騎兵、船の4種類。

 しかし19世紀になって、オランダ出身の研究者アントニウス・ヴァン・デア・リンデが、チェスの歴史の網羅的な研究に従事し、チャトランガはもともと2人対戦のゲームだったと突き止める。
さらに船だとされていた駒は実は、馬に牽かせた戦車の可能性が高いとした。
 そしてリンデは、自身の著書にて、チェスだけでなく、中国や日本の将棋の起源もまた、チャトランガだろうと述べたのだった。

 現在では、チャトランガは、5世紀頃のインド北部で考案された可能性がきわめて高いとされている。

いつどのように日本に伝わったか?

将棋と象棋

 かつては、中国の『象棋(シャンチー)』が日本に伝わり、マイナーチェンジしたものだと考えられていた。
だが現在では、普通に反論もある。

 とりあえず、象棋は中国将棋とも呼ばれていて、日本の将棋とはいくつか異なる点がある。

 まず基本的な事として、将棋は駒を盤上のマスに置くが、象棋は(囲碁のように)線上に置く。
 将棋の駒は漢字二文字、象棋は一文字。
 将棋の駒は五角形で、敵味方の駒の区別は向きで区別されるが、象将の駒は円形で、敵味方の区別は色でされる。
 開始時の駒の配置や、動きも違う。

 ルールにもわりと大きな違いがある。
 将棋と違って、象棋は取った相手の駒を再利用出来ない。
 それに象棋の盤には、特定の駒には越えられない「河界」や、特定の駒をそこから出せない「九宮」というエリアが存在する。
もちろん将棋にそんなものはない。

 というように将棋と象棋では、すぐ隣の国に伝わる上でのマイナーチェンジとしては、あまりに違いが多く、象棋が将棋になったという説は、実はけっこう怪しいのである。(注釈1)

東南アジアルートの可能性

 将棋も象棋も、原点がチャトランガなのは間違いない。(注釈1)
 もし将棋が象棋でないなら、それはチャトランガが、中国を介しさないルートで、日本に伝わっていた可能性を意味している。(コラム1)

 考えられる最も現実的なルートは、ミャンマーやタイやカンボジアなど(上手く中国を避ける事になる)東南アジアの陸路を経て、さらに海から船で日本へと渡るというものである。

 実際、タイやカンボジアには、11~12世紀頃のものらしき、チャトランガ型ゲームで遊んでるようなミニチュアが発見されているという。
 また、有名なカンボジアの遺跡アンコールワットには、チャトランガ型ゲームを表現していると思わしきレリーフが見つかっているという。
 東南アジアにも、しっかりチャトランガが伝わっていたのは間違いない。

(注釈1)荒唐無稽な武王考案の伝説

 象棋の起源に関しては、面白い伝説がある。
実は中国の多くの文献では、「象棋は周の武王が考案した」という事になっているらしい。
 この説は、10世紀に書かれた「太平御覧」という本の記述が発端のようだが、わりとありえない。
 周と言えば、紀元前1000年くらいに建国されたという国で、武王はその最初の王である。
 つまり武王説では、象棋の誕生は、元になっているとされるチャトランガよりも1500年も昔になってしまう。(コラム2)
西の城「周王朝」青銅器。漢字の広まり。春秋時代、戦国時代、後の記録

(コラム1)古代インドの秘密結社

 チェスや将棋のような、とにかく互いに駒を動かしあい、取り合うタイプの盤上ゲームの起源が、たったひとつのゲームからの系譜だというのは興味深い事実。
 もしかしたら古代インドには、ゲームや、あるいは戦術とかに関する秘密結社があって、世界中に散らばる結社メンバー達がチャトランガを広めたのかもしれない。

(コラム2)だとして、何しにインドに行ってたのか?

 周の起こり、武王の時代と言えば、有名な伝記小説「封神演義」の時代である。
 封神演義と言えば、仙人や妖怪が入り交じる一大活劇だが、まさしく周というのは、現実と伝説が入り交じるような時代だったのかもしれない。
 とすると権力者たる武王が、仙人の術により不老不死となっていてもあまり不思議はあるまい。
 という事は、象棋というか、チャトランガそのものが彼の考案であってもおかしくはなくなる。
仙人界原作「封神演義」全訳本、安納版、漫画版の比較しながらの感想

初期の将棋

最古の文献

 現存する中で、「将棋」(と思われるもの)が記述された最古の文献は、11世紀中頃か、あるいは末に書かれた『新猿楽記』だとされている。

 新猿楽記は、平安時代の学者、藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著作で、当時の世相や職業や芸能などについて総括的に取り上げた書物。
 これ以前の文献には、将棋に関する描写などが一切見られないので、少なくとも日本で将棋が一般的になったのは、11世紀以後だという説が有力である。

王でなく玉だった?

 11世紀に将棋があった事は、1993年に、奈良の遺跡から15点の将棋駒が、「天喜六年(1058年)七月二十六日」と書かれた木簡(文字を書くための木の板)と共に発見された事で、ほぼ確実とされている。

 発見された将棋駒の形は既に五角形であった。

 また、駒の漢字も既に二文字で、「玉将」3枚、「金将」4枚、「銀将」1枚、「桂馬」1枚、「歩兵」5枚に、不明な駒が1枚だったという。
 王将がなく、玉将が3枚というのは興味深い事実である。
 さらに桂馬と歩兵の1枚の裏側には「金」でなく「金也(金となる)」と書かれていて、ルールの浸透率がまだ低かったゆえの配慮の可能性がある。
「成る」という概念が既に存在していた事も、ほぼ間違いない。

将棋の変貌

飛車角も再利用もなしの将棋

 12世紀には、文献に将棋が登場する頻度も上がってくる。
 しかし当時の将棋がどのようなものであったのか、現在のものとはいくらか異なっていたのか?
 その答は、13世紀の書である『二中歴』に記されている。

 二中歴は13世紀の辞典だが、その内容は、12世紀頃に成立した「掌中歴」と「懐中歴」の内容を合わせたものらしいが、内容がある程度判明している掌中歴には、将棋の記述はないという。

 とにかく二中歴には、将棋というゲームのわりと詳細な記述が書かれている。
 それによると、駒の動きは現在の将棋と同じで、やはり「成る」という概念もあったらしい。
 また、飛車と角がないようだが、駒が金になるのは敵陣3マス以内に入った時という記述があり、おそらく既に初期配置には、現在、飛車角が置かれるスペースが開いていたと考えられる。
 王将に関しては、ここでも記述は玉将であり、さらに玉将のみになったら負けとある。
これは、この頃の将棋に、駒の再利用というルールがなかった事を示している。

大将棋

 二中歴にはさらに、『大将棋』なるゲームの説明も書かれているという。

 この大将棋は、マスの数が多い(二中歴では13×13)将棋で、駒の種類も多いという。
 普通の将棋の駒。
 斜めを除く上下左右に動ける「銅将」。
 後進が出来ない「鉄将」。
 左右か真っ直ぐ上に動ける「横行」。
 斜めにしか動けない「猛虎」。
 前後のどこにでも行ける「奔車」。
 前後に行ける「注人」。
 そして斜めならどこにでも行ける「飛龍」。
と、とにかく種類が豊富となっている。

 大将棋は、普通の将棋に飽きた人達が「駒を増やせば面白くなろう」という安易な発想の元、考案したものだと考えられる。

 その内に、普通の将棋は『小将棋』、大将棋は大将棋として、それぞれに発展していったようだ。

 江戸時代の、(当時から見て)昔の将棋の解説書である『象棋六種之図式(しょうぎろくしゅのずしき)』には、大将棋のマス目は15×15と書かれているという。

中将棋

 象棋六種之図式には、大将棋の発展系と思われる、さらに大きい規模の『大大将棋』や『摩訶大大将棋』や『泰将棋』なども書かれている。
 もうここまでくるとネタもいいとこだが、大将棋の時点でもそう思う者がいたのだろう。
 大将棋の簡略版とも言える、『中将棋』というのもある。

 中将棋は、単純に大将棋以下で小将棋以上の規模の、将棋と思いきや、玉将が取られても『太子』という駒があれば負けにならないなど、独自のルールもあるようである。
 太子同様に、中将棋と共に考えられたと思われる「獅子」という駒はなかなか面白い動きをする。
この駒は、動かす事は出来ないが、付近の駒を取る事が出来るのである。

将棋の完成

飛車と角

 初期の将棋に、飛車と角の駒。
それに駒の再利用というルールがなかったのはほぼ間違いない。

 ではこれらはいつから存在しているのか?

 実はほとんどわかっていないが、飛車と角の駒に関しては16世紀くらいには、文献に普通に現れるようになるという。
 また、後奈良天皇(1526~1557)が、小将棋の駒を現在のものに定めた、という伝説もある。

最も素晴らしいアイデア

 日本将棋は、世界中のチャトランガ型ゲームの中でも、「色分けされていない」という珍しい特徴がある。
そこで、再利用ルールの始まりは、誰かの間違いだった可能性がある。

 だがある時、間違った誰かか、その友人は気づいた。
「いや、これは面白い」

 最初は一部の人達の間だけのローカルルールだったかもしれない。
だが、大大将棋や摩訶大大将棋、太子や獅子駒なんてものまで考えて、とにかくゲームの面白さを追求してきた、この島国の人達が、そんな面白い新ルールを採用しないはずはなかった。

 このルールは主に退屈とされてたろう小将棋に採用されたらしい。
 十六世紀の絵画に、小将棋をしている人が、再利用する駒を手に何枚か持っているようなものが残っているようなので、その時代には、このルールが存在してたと思われる。
 
 再利用ルールの発明が16世紀である事の間接的な、しかしかなり有力な証拠がある。
 この頃くらいから、(少なくとも現存する)中以上で使われる将棋駒が全然なくなってくる事だ。
それは明らかに、この頃から、中以上の将棋が衰退しだした事を示している。

 中以上の将棋が衰退した理由はひとつしか考えられないだろう。
つまり再利用ルールの登場で、小将棋の面白さが、必要十分なレベルになったのだ。

 確かにこれは、(もしかするとチャトランガ成立以来最大の)素晴らしいアイデアである。

 駒を再利用できる。
それだけの追加ルールで、将棋というゲームは、無限時間を戦えるオバケゲームになったのであった。(注釈2)

(注釈2)一方、西洋は女王を召喚

 実は同じくらいの時代に、西洋世界では、チェスに「クイーン」の駒が追加されたという。

 この反則的な強さの(王+飛車+角の動きか最初から出来る)駒は、チェスのゲームスピードを早め、よりスリリングなゲーム展開を可能にした。

 「長期的な無限の楽しみ」を求めた日本人に対し、西洋の人達は「爆発的な瞬間の楽しみ」を求めた、とも言えるかもしれない。

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