「アフリカ大陸の神話基礎」四つの力、天空神、大地の精霊、秘密結社

自然環境との長い戦いの中で生まれた世界観

 人類発祥の地とされるアフリカ大陸。おそらくは200万年くらい前より始まる旧石器時代も、その大部分においてアフリカは先進的な地域だったことを、多くの古代遺跡や遺物が示唆しているという。

 人類全体においてもかなり長く続いている方である旧石器時代が終わり、西南アジア(中東)の人々が農耕や牧畜を始めたのは9000年くらい前と考えられている。
しかしアフリカは、採集狩猟を基盤とした暮らしをなかなか止められず、農耕と牧畜の開始は紀元前6000年以降のことのようだ。
ただ、紀元前4000年くらいからは、沃野よくやだったサハラが乾燥し始めたので、その砂漠のために、特に南アフリカは、他の文明世界からの孤立を深めていく。そうした事情もあり、サハラより南のアフリカは農耕牧畜を取り入れる過程を飛ばし、ナイル河上流を経た鉄器文化が入ってくる2000年くらい前まで、略奪社会(食糧採集経済)より生産社会(定着農耕生産。食糧生産経済)への移行、いわゆる『生産革命(Production revolution)』はほぼなかったろうと考えられてもいる。ちょうどこの頃に、東南アジアからの航海者たちが、東アフリカにヤマノイモとバナナをもたらし、これらの作物はすぐに部族から部族へ伝搬した。
また鉄器と農耕という、アフリカにおいて最新だった技術は、この地への移住者も増やした。様々な政治組織、国家すらも成立するようになった。
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 アフリカ大陸の自然環境は著しい多様性を示していると言われる。陰湿いんしつな密林、酷熱こくねつの砂漠、熱帯植物群、広大な草原。
そうした多様な自然環境は、様々な個性豊かな文化を生む一方、それぞれの文化の交流の妨げにもなったろう。

 西アフリカのギニア湾沿岸地帯から東アフリカの大湖地方の辺りまでに、規則正しいスコール(雨)が、生命の恵みにも、時には悪夢にもなる熱帯雨林が広がる。絡み合う巨樹きょじゅに天の大部分が覆われた、この薄明うすあかりの領域に、人々は隠れ潜む精霊たちを見つけてきた。だからこそ、密林地帯の農夫や狩人たちは、役に立つ精霊を手なづけたり、危険な精霊の悪意から身を護るための呪術を学ぶ必要があった。

 広大なサバンナ(草原地帯)においては、太陽と雨、河や泉が人の命運を握る。明確な乾季と雨季に分かれる一年。乾季は情なき太陽が草を焦がし、河や泉から水を奪う、あらゆる生命にとって試練の時である。夜の闇の時には、精霊以上に、恐ろしい野獣が直接的な脅威となったかもしれない。

 アフリカ史そのものが、多様な環境への適応の物語という見方もある。

四つの力の哲学

 人間の文明の時代の中で、特に南アフリカは長く孤立していたと考えられているが、そこに見られる文化や思想に、他の地域からの 影響が全く見えないわけではない。しかしより重要なのは、内側の様々な部族たちの、それぞれへの影響かもしれない。

 アフリカの多種多様な文化の思想において、よく『生命力(Vitality)』と言われるような概念。それに祖先と、その生命力の結びつきという発想が、いずれも類似しているとする向きは有力。

ムントゥ、キントゥ、クントゥ、ハントゥ

 つまり多くのアフリカの部族が、基本的には、人智の及ばない何らかの力(あるいはその一部)が、人にも認識できる形として現れたものが、この世界というような思想を有するという。
生命力とも呼ばれるソレは、時には人格を与えられたような創造神として、古の物語(神話)に登場することもある。

 しかし『力(power)』とは何であろうか。
生命力は、この世界という実体における根源的、普遍的な基礎要素であるが、それ自体のみで存在することはできない。それが具体的な個の物として存在する時、それは物として現れているのだが、(おそらく)その物として現れている状態自体は、その物(として現れている力)自体が作り出したものではない。

 元は、ルアンダ人研究者が言語の分析から明らかにした思想らしいが、存在する力は、四つのカテゴリーのいずれかに属する。という説がある。
すなわち、知性、意識と呼ばれるようなもの、神々や人間が属するものである『ムントゥ(Muntu)』。
普通のあらゆる物、しかしそれ自体では活動できず、ムントゥの働きかけに共鳴した時に、目覚める力。(機械的な?)動植物や鉱物も含むとも。「眠れる力」、「凍った力」と呼ばれたりもする『キントゥ(Kintu)』
模式や観念の有する力、つまりは言葉や芸術、音楽のリズムなど。やはりムントゥのみがこの力を操作できるとされ。ムントゥはこれを介してキントゥに働きかけるとも言われる『クントゥ(Kuntu)』
そしてあらゆる物事の現れる舞台となる時間と空間、方角とか、未来や過去である『ハントゥ(Hantu)』。
これら4カテゴリーはアフリカ哲学において、全ての存在、本質を表現するために使われるものだが、共通の語幹であるNtuは、ルアンダ語で「力」を意味する。つまり4カテゴリーは、Ntu(力)がとる形体とも考えられる。
またはNtuは、別の領域の存在と存在を合成する力と解釈されることもあるという。
そして共存し、相互に影響を及ぼし合う無数の力は、単に混沌だけでなく、聖なる秩序を演出してもいる。全ての存在(力)には、個の強さによって一定の序列もあるとされ、その頂点にあるのが、万物の創造主、あるいは至高神とも。

現地人の口伝と、外国人の文字記録

 アフリカの多くの説話に、明らかに説明不足なところがあるが、これは、単純に記録が失われてきたとかだけでなく、そもそも、口伝で語り継がれてきた多くの昔話が、そもそも活字になることを前提としていないためもあると考えられる。
話の進行に関しても、説明より対話に重点が置かれているとも。

 また、現在、文字の記録として残る多くの話は、最初アフリカ人たちが書いたものでなく、現地で調査して、直接に彼らに話を聞いた外国人研究者たちが記録したものばかりである。

万物の創造者、至高神

 多くのアフリカの部族神話の中で、万物の創造者、至高神というキャラクターの存在は、かなり普遍的であるように思える。
最高の神という存在は、1650年頃に編纂された、現存する最古のバントゥー語(Bantu languages)の辞書にも見られるという。
バントゥー語というのは、アフリカの広い地域の多くの(バントゥー系とか呼ばれる)部族群の、共通性の多くの言語の総称。

 アフリカ神話における、たいてい最高の存在、創造者たる至高神が存在するというのは、アフリカ人独自の発想。少なくとも、この地にキリスト教やイスラム教の伝道機関が設立されるよりもずっと前から、一般に普及していた思想のようである。
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創造神は何と呼ばれているか

 至高神の呼称は、もちろんアフリカ諸部族の言語ごとに違っているが、広い地域で共通の名もいくつかはある。聖書の「神」の訳語として使われる『ムルング(Mulungu)』という呼称は東アフリカ(あるいは主にバントゥー系の民族間)で共通的なもの。
アフリカ中央部では、『レザ(Leza)』という呼称が多くの部族に使われているという話がある。またボツワナからコンゴ辺りの、西部熱帯地域で、おそらく『ニャンベ(Nyambe)』という呼称を基とする様々な変形が見られるようだ。
西アフリカでは特に目立つものはないが、『ンゲオ(Ngewo)』、『マウ・リサ(Mawu-Lisa)』、『アンマ(Amma)』、『オロルン(Olorun)』、『チュクウ(Chuku)』、『カヌ(Kanu)』などは至高神の呼称として、相対的には有名。

天は神、自然現象は精霊

 物語の中ではなく、今ある現実として神の存在を理解したい場合、まずは空を見上げれるとよいとも言われる。その時は、神は天の世界に存在する何者かというよりも、どこまでも広がっている天そのものというように解釈されるとも。

 神は至高神だけではない、あるいは万物における最高の存在である神には劣るが、人間よりは強い力である(有すると書いてもよいのだろうか?)精霊たちもいて、多くの部族が、そうした精霊たち、特に自分たちの環境に関連する精霊を崇拝する。神が空(天)であるように、大地、森、水、それに雨や嵐のような自然現象自体が、個々の精霊なのだという説もある。
また、死者の霊、死後の生命と関連する信仰は、アフリカ全土でほとんど普遍的であり、その思想の源流は相当に古いと考えられている。
幽霊、特に正しく埋葬されなかった者の幽霊は、藪のなかに住み、不用意な旅人たちを悩ますという説もある。また、人間と同じように、動物も木も魂をもち、多くは幽霊になると信じられる。

 信仰の対象となる精霊に関して、西アフリカでは、いわば聖所、礼拝所が用意されることが多いが、他の地域では、そうした場は(相対的には)少なめらしい。
どこでも至高神の聖所は少ないという。しかし下位の神々(精霊)や祖先を祭る聖所は多いことは、何を意味しているか。至高神は、今では忘れられてしまい、もうまれにしかその名を呼ばれない、というような思想もあるそうだ。
単に、至高神は、人が家におくには大きすぎるとも。

アフリカの創世記

 創造者としての至高神が登場する神話は、当然のことながら世界とそこに生きる生物の起源を説明するものだが、特に人間は、生物の中で特別扱いで、そこは全世界の他の多くの神話と同じ。
至高神は、一般的には超越的存在のように考えられるのが普通だが、神話の中においては、人格どころか妻や子供といった家族を持っていることも多い。性別のある場合は基本的に男だが、男女両方の性別を持っている者というパターンもかなり多い。
性別を持たないか、二つの性別を同時に持っている創造者の神話においては、人間が男女に分かれてしまった経緯を含む場合もある。
至高神、あるいは神々は、天の国にいて、人間たちは地上の世界のものである。元々は一つだったものが二つに分離してしまったと言う話が好まれているのか、元々は繋がっていたあるいはすぐ近くにあった天地が、人間や特定の動物の失敗のため、あるいは罪の罰として、 遠く離れてしまったというパターンもよくある。

すぐ近くだった天と地の分離

 西海岸沿いの、コートジボワール、ガーナ、トーゴ、ベナン、ナイジェリアなどにおいては、昔、天地が近かった頃の世界観の描写に共通性が見られるという。つまり、神が住む空は、地上からすぐ近くであり、人々は水に濡れた手を空に伸ばして拭くこともできたし、空からもぎ取った食料を食べることもできた。
しかしある時、食料を得るために、女が木の棒で空を叩いた時、神の目に当たってしまい、怒った神は、地上から遠くへと去ってしまったというもの。

 さらに続きが語られることもある。
女はまた空に触れようと、子供たちに、木の臼などを集めさせ、積み重ねていったが、あとひとつというところでそれが足りなかった。そこで年寄りの女、あるいは魔女が現れて、困っている子供たちに解決策を授けた。つまり、積み重ねられた臼の一番下のものを抜いて、それを上に新たに積めばいいと。しかし、一番下の臼を抜いた結果、その時点ですべてが崩れてしまって、多くの人が死んでしまった。

 天国へ昇ろうとして、物を積み重ねたが、結局失敗してしまったという話は、アフリカのあちこちで語られる典型的な昔話の1パターンらしい。
また、どこからやってきたのか不明な魔女(または謎の老婆)が、アドバイスをくれる(それで失敗することもあるが、うまくいくこともある)という流れも、神話の中でよく見られるという。

誰のために世界はこうなったのか

 天地分離の神話は、元々は人間と同じ所に住んでいた神が、人間の愚かな行為に怒って離れていって、あるいは追放されてしまうというような、(いわば聖書の)人類のエデン追放のような話と近いものだと考える向きもある。
結果的に神を去った原因は女、失敗したのは女のみだが、連帯責任というのも、聖書と似ている。
しかし聖書の場合と違って、女と男はより運命共同体的で、誰かが失敗したための現象だとしても、地上に残された人間たちの扱い自体は(男は~、女は~といった区別なしで)変わらない。むしろ、食料の採集は女の仕事だったとかいうように、最初から役割分担している場合が普通。
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 もうひとつ重要なこと。天地が分離した後、つまり神と人が別れた後についても、人間たち側は少し楽観的な感じがある。というより、天地が分かれたというのは、文字通りに人と神との喧嘩別れのような雰囲気があり、神が人間に与えた罰、というようなイメージもあまりないとも。
天は人間たちから離れてしまったが、しかし人間たちは地上において、ある意味では自由となった、とすら言えるのかもしれない。

 また、アフリカ全土で、死というものが最初は人間界になかったというような昔話があるという。たいていそれは、イヌやカメレオンと言った、神の使いの動物の失敗のためとされる。
バントゥー系部族の間では、よくカメレオンが死と結びつけられているという。

密林を削って創る

 時に、熱帯雨林の部族神話に見られる創世神話のパターンとして、最初、世界の全て密林に覆われていたが、創造者がそれを切り開き、人間や動物たちが暮らせるような空き地を用意した、というようなものがある。いわば何もない状態、あるいは闇だけが、混沌だけが、水だけがあったりする世界に、光や秩序や島を創り出すとかでなく、余計なものを削り取って、世界を形成したというパターン。
神話の物語に、語り手たちの生活環境を考慮するならば、こうした話は、古くから密林の中で生きていた者たちならではなのだろうか。

 そもそも、創造者は最初の存在という訳でもなく、さらにそれを生んだ古い時代の創造者がいる。つまり世界は、どこからか始まったか、無限に続いてきた創造の連鎖の最新、というような思想も伝統的にあるようだ。世界観的には、削る創造は、失敗した前の創造者の世界跡地の再利用的なイメージなのかもしれない。

太陽と月は物か

 アフリカにおいて、太陽や月の神話はそれほど多くないとされる。多くの多神教的世界において、太陽と月は、それら自体が何らかの神として語られることも多いが、それらは単にもの(神の持ち物)的に扱われていることも多い。
時には2柱の神が、太陽や月を巡って争うという話もある。

 しかし例えばベニンで語られるマウ・リサ(Mawu-Lisa)、またはマウとリサ(Mawu and Lisa)は、太陽と月に関係する神としてそこそこ有名。通常は、太陽のリサが凶暴で粗野で、月のマウは優しく、人々に愛される。
また、ガーナの神ニャメ(Nyame)は月として人格化され、女王、母と呼ばれる場合もあるが、もうひとつの、または真なるニャメの人格化であるニヤンコポン(Nyankopon)は太陽で王という説もある。もっとも、ニャメとニヤンコポンは単なる別名で、どちらにしても男神という見方もけっこう普通らしい。
マウ・リサも、ニヤンコポンも、扱い的に創造者、至高神で、天体として、やはり太陽と月は特別ではある。

自然界の精霊たち

 大地の精霊という力への信仰は、アフリカ全土でかなり普遍的なようだが、大地に人格が与えられる場合は、女性の場合が多いという。それは、至高神(天)と近しい関係(妻、妹など)という説もよくある。時には大地と天の神々の対立が語られることもある。

森の半分人間

 あまり人気のない森、灌木林かんぼくりん、平野などは、危険な精霊の巣として警戒される場合がある。危険な精霊は獣人的なこともあるし、片手、片足、片目、片耳だけの半人とかだったりも。
ケニヤのギクユ族(Gikuyu)の伝説には、体の半分が石である人が登場する。他の地域でも、そのような半分人間の話はよく語られてきたという。マラウィでは、森に出没する半分人間は、相撲を好み、彼を押さえ込むほどに強い者には、呪符を授けてくれるとも。

妖精、あるいは邪悪な小人

 小人(妖精。フェアリー)伝説の成立には、小柄な森の狩猟民族として知られるピグミー族(Pygmy)が関わっていると推測する向きもある。

 アフリカのケニア、タンザニア、モザンビークの海岸地域などで、母語を共有するスワヒリの説話には、普通にヨーロッパ的な雰囲気のフェアリーを思わせる話もある。
ある少女が、浜辺で友達と遊んでいた時、美しい貝殻を見つけたが、彼女は一旦それを岩の上に置いておいた。少女は、帰る頃には貝殻のことを忘れてしまっていたが、もう少しで家というところで思い出す。
友達とももう別れていた彼女は、夜の闇が深まっていく中で、一人、貝殻を置いた岩のところへと戻っていった。 闇が怖かった彼女は少しでも恐怖を紛らわせるため、道中とりあえず歌った。
岩のところには、明るい時にはいなかった妖精がいた。妖精は彼女の歌を聞いて、「もっと近くで聞きたいな」と言って、彼女を樽に閉じ込めてしまった。
妖精はいろいろな村を旅して、いつでも、おいしい食事と引換えによき音楽を奏でた。よき音楽とは少女の歌だった。妖精が樽を叩くと、中の彼女が歌う。
そのうち、妖精は少女の村にやって来たのだが、少女の歌に両親は気づいた。その後は、妖精に酒を飲ませて眠らせた両親は、こっそり娘を樽から出してやり、代わりにハチとヘイタイアリを入れてやった。そして、目覚めた妖精が樽を叩いた時、彼は酷く刺された。
南部アフリカにも、コーザ族(Xhosa)やレソト族(Lesotho)が同じ類の話を語り、最終的に両親が樽のなかに入れるのが毒ヘビになっているという。ヘビに噛まれた妖精は死んでしまうのだが、別に、妖精はヘビを恐れて池に逃げた、というパターンも知られる。そして、妖精が逃げた場所にカボチャが生えた。後に少年たちが持ち帰ったそのカボチャの正体を知っていた老人たちは、とりあえずそれを切り刻んだ。

魔女、呪術師の秘密の技

 雨を降らすもの、逆に雨を止ませるものは、アフリカ全土でよく知られている。たいていは、自然の秘密を知る賢者、または預言者であり、空の雲が水をもたらすかどうかを知っているとも。
レインメイカー(雨乞い師)は、魔術師というより、科学者に近いような印象もあるか。

 魔術師、シャーマンは、何らかの術か、特別な才能によって神や精霊と繋がりを持てることもある。
アフリカの多くの文明が、ずいぶん長く文字を持たなかったが、神託の儀式に関しては、ある種の文字暗号による意思疎通手段などが利用される場合もあったとされる。
アフリカにおいて特に有名な神託システムと言えば、ナイジェリアのヨルバ族(Yoruba)の、イファ(Ifá)の占いで、近隣諸国にも借用されている他、カナリア諸島やアメリカに移住した黒人たちの宗教にも影響を与えているという。
「ブードゥー教」ロアと神の儀式。ヴォドゥンとアメリカの精霊の交わり
司祭(呪術師)は、精霊の領域にアクセスすることで、その教えを直接的に受けることができる。
イファの精霊はよく、オルンミラ(Orunmila)という神と同一視される。神の秩序に従って創造を指導したのがイファ(オルンミラ)という説もある。

カニバリズムのイメージ

 それが本人の才能にせよ、別の存在の力を借りている場合にせよ、特殊な能力を持つ者が善であるとは限らない。

 魔女や、邪悪な呪術師、そうした者たちの使う妖術という伝説も、アフリカ中でよく知られる。
いわゆるカニバリズム、つまりは人間が人間を食べる行為はタブーとされ、多くの物語の中で、特に魔女は人を食らうパターンがよくある。典型的な話としては、例えば一夫多妻制の文化の中で、複数の妻の内の何人かが魔女であり、秘密を知った普通の人間である妻の報告のおかげで、先手を打って助かるという話がある。
また、呪術師の、動物への変身能力について語った話も多くある。それでなくとも動物は呪術師に使われることがある。
例えば、夜に肉体を離れ、コウモリやフクロウに乗り、人肉を食う饗宴に出かける者たちの話などは広く語られている。

 魔法は、生物とは別に、自然界に存在するもので、それをコントロールする誰かが関わっていなくても、不幸な人が魔法(呪い)にかかってしまうことがある。
共同体の中で呪術師は、そうした(魔法にかかった)人を治療する、医者の役割を持つこともある。しかし呪術師は、人を傷つける力も持つために、時にはあらぬ疑いを持たれることもあるし、これを怖がったり恐れたりする人もいる。そういうわけで、普通彼らは日陰の存在である。

人間に変身する動物

 逆に人間に変身する動物もいて、そうした人間もどきはたいてい危険だとされる。

 例えば、ケニヤ、ザンビア、マラウィなど、多くの地域に、容姿の優れた男のふりをして、娘を誘惑する動物の話が伝わる。
あるところに、どんな求婚者も拒絶する、頑固な娘がいたが、両親は怒り、望むなら誰にだって娘をやろうと言った。
そしてある日の舞踏会、よその村からきた一人の青年は、その非常に優れた容姿のために、人々の注目を集めた、彼の頭には光輪のような輪が巻かれていたともされる。
例の娘も、ついには恋に落ちてしまった。
ところが、娘の兄は、その青年が後頭部に隠し持つ第二の口に気づく。兄は母に警告するも、そんな話信じてもらえない。そして娘と青年は結婚。
兄は、自分たちの元から出発した新婚夫婦にこっそりついていった。そして人気のないところで、動物の(ライオン、あるいはハイエナとされる)姿を見せた青年は娘を食おうとしたが、間一髪、兄が放った毒矢によって退治される。
獣を殺しはせず逃げるパターンもある。結婚する姉について来ていた弟が、夜に正体をあらわにした青年が出かけている間に、他のライオンを連れて戻ってきた彼を避けるために、いばらの垣根を強化。それで時間を稼いでいる間に、弟は太鼓、または小型の船のようなものを作り、魔法で空中に浮かばせる。姉弟はそれにつかまって逃げたと。

トリックスターは文化英雄か

 アフリカ州の多くの昔話において、いたずら者のキャラクター、いわゆるトリックスターが活躍する。トリックスターは動物の名前であることが多いが、物語の中でその名が登場する場合、そのままその動物というわけではなく、あくまでもその名の動物のような性質を有する精霊、または人、というようなイメージも強いようだ。特に多くの地域で、ウサギ、クモ、カメなどが人気らしい。
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 トリックスターは、物語をかき乱す厄介な存在として語られる場合もある。しかし一方で、古い時代の神話などにおいては、火や鉄などのテクノロジーをもたらした文化英雄(いわゆるプロメテウス)的に描写されることもある。
トリックスターは、人間に対してだけでなく、神々に対してもしばしばあまのじゃくで、人間に与えてはならないとされていたはずのものを勝手に与えたりもする訳である。

部族単位の神話、個人単位の神話

 神話というのは、物事の起源をどうにか説明しようとする。多くの部族にとって、自分たちの実質的な始まりは、(たいてい、創造者と呼ばれる存在よりも先に、実は創造されていたこの世界よりも)自分たちの部族の登場。それこそが物語のプロローグである。

 しかし部族とはそもそも何なのであろうか。それはどのくらいのスケールの集団のことを意味しているのか。単に親族集団と定義したとしても、どこまでの血の繋がりを重要視するかは、基準が曖昧であろう。
非常に極端な例として、シエラ・レオーネのメンデ族(Mende)の成員は、個人ごとの起源神話(的な短い説話)を持っているという。そのような個人的な物語はアイデンティティ(自己同一性)の形成に重要なのかもしれない。
東北ナイジェリアのジュクン族も、若い男女1人1人が、自分に属することわざを持っているとも。恋愛にまつわるものなど、重要な会話場面では、そうした個人的な言葉が利用されたりするという。

 その自由で幅広い使われ方を見るに、物語を利用する精神技術の
起源もアフリカにあるのかもしれない。

天然素材が溢れた宇宙

 世界中のほとんどどの神話でもそうであるようにアフリカにおいても、両親をもたない最初の人間は1人だけではない。
神の業か、あるいは魔術以外で、人の子を新しく生むには、少なくとも、1人ずつの男と女が必要だと、普通は考えられてきた。

 もし、個人個人の起源神話という世界観に違和感を感じるとしたら、それはすでに今の時代、人間たちが世界中に大勢いるからと考えられる。
言ってしまえば、有名なアダムとイブにしたって、アダムは神がその奇跡で造ったもの、イブはアダムの部分素材から作ったものというように、最初の頃に作られた人間たちは、誰もが個人ごとの起源の物語を持つのが当たり前のはず。しかしやがて「~で生まれた人が~という部族の祖先となった」というように、全体の総数の増加とともに、個々の単位のスケールは上がっていく。そうしないと、物語は全体としてどこまでも冗長になってしまうからだろう。

 特にキリスト教的な世界観は、創造主が世界の全てを作った時が明確に決まっていて、そこから、人間が世界中に広がる時間があった、というようなもの。しかしアフリカの典型的、伝統的な神話においては、真の創造の時というのは(そんな瞬間が実際にあったのだとしても)記録に残っているのははるか前という世界観が普通である。
そして創造主というのは、世界を作った、いわば世界と別に存在するようなレベルではなく、あくまでもこの世界全体の最も始源的な要素である力が形を成したもので、最も強力な存在というだけだ。ようするに、これは天然素材が溢れている宇宙で、時に世界の形が作られるというような世界観と考えることもできる。そこの生き物に関しても、あくまでもそうした形をとっているだけの宇宙素材。
こうした世界観なら、長い時間があったとしても、常に新しく現れたばかりの存在がたくさんいておかしくない。集合したいくらかの部分素材群が、過去の全ての記憶を持っているというような考え方でもしない限りは、この宇宙で次々現れているであろう形態は、その作られるごとに新しいものとも言えるだろう。
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秘密結社の目的

 アフリカの多くの地で、俗に『秘密結社(Secret societies)』と呼ばれている、閉鎖的な団体がある。結社に属する者たちが共有する目的は様々だが、たいてい特に重要とされるのは、新人の加入の儀式と、死んだ祖先を再現する祭りらしい。
もちろん秘密結社と呼ばれているイメージそのまま、その内部の多くの教義が外部の者には秘密であるので、外の研究者が調べられた事も、おそらくそれほど多くはない。
しかし例えば、メンデ族の『ポロ(Poro)』などは、よく知られている。シエラレオネ、リベリア、ギニア、コートジボワールなど、その存在は複数の地域で確認されているが、実際に一元的な存在かは不明。基本的に男だけの秘密結社である。

ポロの精霊の声のいくつもの起源

 ポロの起源は数百年以上前に遡ると言われるが、具体的な始まりについては、異なるいくつかの説があって謎が多い。

 ある者は言う。
昔、大きな土地に大家族を住まわせているために、実質酋長しゅうちょう(一般に未開とされる地域の部族の長)と見なされる老人がいた。しかし、ある時に彼は、妙な鼻の病気にかかって、声がおかしくなってしまった。それは全く未知の病気であったために、老人はとりあえず村外れの森に隔離される。彼の本妻と、一番歳の若い娘だけが彼の世話係となった。小集団の長老たちも、彼と話をするのは、その知恵がどうしても必要になった時だけ。
やがて男たちが、隔離中の酋長を殺して、その莫大な財産を奪おうと計画。ところが男たちがそんな計画を実行に移すよりも前に、すでに老人は姿を消してしまっていた。残っていたものは彼のかすれ声だけ。彼ら(真実を知っていた長老たちか、あるいは計画失敗した男たちか)は、そのかすれ声を再現する器具を制作、それは、片方の端に皮をつけた空洞の棒だったとも。そのうちに村の者たちも酋長が精霊になったことを聞かされたという。
時に老人精霊は、残した家族を見に村を訪れる。しかし誰しもに歓迎されるものではないのかもしれない。先触れがあったなら、女と子供たちは急いで家に隠れる。また酋長は、米や家畜など、様々なものを要求してくるらしい。

 またある者は言う。
最初の酋長の持っていた力はあまりに強大であったから、彼がついに死んでしまった時に、長老たちは、そのことが共同体全体の崩壊に繋がることを恐れ、結局彼の死を秘密にしようと決めた。長老たちはものまね上手な男を見つけて、生前の酋長の鼻声を演じさせた。
それ以降、代々に渡って、酋長の演者は、必ず秘密を守るという時間に縛られている。

 外部からの圧力が、この結社の成立に関係しているという説もある。
例えば、奴隷狩りを避けて森に潜んだ者たちの協力が起源とか。
あるいは、時には邪魔者になる女たちや、敵対する部族のスパイを遠ざけるため、森のなかで会合を開いたことが始まりとか。
隔離された病人たちの死後、女や子供たちを驚かし、おとなしくさせるために作った器具で、死者の声を真似たのがきっかけとか。

 どういうパターンにせよ、普通、最初に精霊となった酋長の財産を相続したのは長老たちとされることが多いが、酋長の直接的な血筋の子供たちもいる。その子供たちは成長してから、結社の者が演じる父と引き合わされ、仮面仮装した精霊のところに連れて行かれたらしい。

男たちの集まり、女たちの集まり

 例えばギニアにて語られるポロの起源に、以下のようなものがある。
かつて大飢饉があった時に、市場の女たちは僅かな食物に高い値段をつけて、男たちの怒りを買った。男たちは角を生やした人間の顔を木に刻んで、その恐怖を感じさせる仮面越しの奇怪な金切り声で、女たちを驚かせた。仮面の男たちの中には通訳者もいて、女たちは彼の要求に従うままだった。
仮面をつけた者たちは、仲間となる男たちの体を叩いて傷つける。それは聖霊による加護を与えるためらしい。そして女たちは、体の傷ついた仮面の男には逆らえなくなってしまった。

 そういうわけで、この組織はどこか、女の敵のようなイメージもある。だからなのか、ポロが強い影響力を持ついくらかの社会においては、それに対抗するような、いわゆるカウンターパート(counterpart)である、女だけの秘密結社(または共同体)が存在するという。
そうした女の秘密結社の中でも有名なのが『サンデ(Sande)』で、性器切除を含む儀式により、少女を成人にするという教義が知られている。その重要な目的は、適切な性的調和の概念の普及とも。

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