「旧約聖書」創造神とイスラエルの民の記録、伝説

目次

あくまでイスラエルの神と、イスラエルの民の歴史を語ったものか

 聖書は、(おそらく)同じ話を別の人が記述した(語った?)話が、別章として設けられたりもしている。なので素直に、一般的な順番で読んでいくと、けっこう時系列が戻ったり、同じ話が繰り返されたりということもよくある。

 ここでは、特に興味深い記述をいくつかピックアップしているものの、そのほとんどは似たような他の記述がある。しかし、複数あることに意味があるようなものでもないので、基本的には適当なひとつを選んでいる。

 また、主に新共同訳版の聖書を参考にしている。

唯一の神は最も偉大で、世界を創ったか

 なるべく偏見なしに、旧約聖書全体を読んでみると、これはあくまでイスラエルの民族(ユダヤ人)の歴史書(というテイ)。そして、彼らを、いろいろ試したり、守護している唯一の神(主)も、 あくまでもイスラエルの民が信仰する神という印象を強く受けるかもしれない。
ユダヤの寺院「ユダヤ教」旧約聖書とは何か?神とは何か?  後のキリスト教、あるいはイスラム教は、このイスラエルの唯一の神を世界全ての神として、信仰を拡張する試みという見方も、おそらく可能。
だから他の宗教の神々に関して、キリスト教(新約聖書)やイスラム教(コーラン)においては、かなり「そんなの紛い物とか、偽物だ」というような方向性で非難しているような感じがある。
一方でこの旧約聖書、つまり元々のユダヤ教の書だけでは、イスラエルの唯一の神にいろいろ劣ってはいるものの、他の民族の神々も、他の民族の神々として、別に徹底的な否定はしていないようにも思える。
十字架「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束イスラム「イスラム教」アッラーの最後の教え、最後の約束  しかし、そのような観点で考えると、やはり問題は、旧約聖書の最も最初の章である『創世記』であろう。 ここの記述を素直に受け取るなら、明らかにすべての人類は、元々唯一のイスラエルの神が 創造したものということになる。
さらには、やはり創世紀における、有名なノアの方舟の物語。それによると、ある時に、地上に悪が溢れたことを悲しんだ神は、地上のすべての生物(人間でないことはまた、注目に値するかもしれない)を、ただ1人だけ正しかった人ノアとその一族を除いて、大洪水で抹殺しようとする。物語の最後では、はっきりと、「この出来事よりも後の人々はすべて、ノアとその一族の子孫」だと書いてある。

 その辺り(創世記の話)と、後々の描写などを踏まえて考えると、以下のようなパターンが考えられようか。
つまり、ある時に神様は世界を創った。そして、徐々に様々な民族が登場した。神様はそのうち1つの民族を選んで、特別な自分の民とすることにした(それがイスラエルの民)。その時点までで、いろいろな民族が、自分たちの神様をそれぞれ崇拝していた(おそらく単に妄想の場合もあれば、普通に存在している動物とかを崇拝したりしている場合もある)。しかし、元々すべてを作った唯一の神は、当然のように一番すごく、だからこそイスラエルの民は、世界の終わりの時にすら救われる。
現在はともかくとして、ユダヤ教とは、もともとそういう世界観の宗教だったのかもしれない。

創世記

創造の前はどのようなものだったか

──初めに神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」──

 通常、創世記の最初で描かれているのは、神様による世界の創造だとされている。しかし、物質がたくさんあって生物が生きているような世界ではないにせよ、すでに神様が創造の仕事を始める前から、明らかに世界はそこに存在している。
まず神様という存在がいるのだから、彼(?)がどこかしらにいると考えるのは、そうおかしなことではないと思う。

 しかし、創造の業が始まる前から、そこに存在した世界とはどのようなものだったのだろうか。その点に関するヒントと思われる部分はいくつかあるが、上記に抜き出したのはその一例。

 神が最初に用意した地は混沌で、神は水を動いているように思える。水は天地の付属品のような印象もあるが、どちらかというと、この世界にはなから(天地創造より前から)存在していたものと受け取るのが素直かもしれない。

神に似せて造られた、特別な存在、人間

──「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」

男と女とに創造された

第7の日に、神はご自分の仕事を完成され、神はご自分の仕事を離れ、安息なさった

主なる神が地上に雨をお送りにならなかったから。

主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった──

 もともとどういう形だったのかは不明だが、神は自らを我々というように複数形で称する場合がある。
また、第7の日という表現は、 これが我々が普通にイメージするようなものなら、この時点で神は、地球上における太陽の動きを基準とした1日を普通に認識していることになる。
太陽系「太陽と太陽系の惑星」特徴。現象。地球との関わり。生命体の可能性太陽系「地動説の証明」なぜコペルニクスか、天動説だったか。科学最大の勝利の歴史 他、地上に雨を送り、というようなところも、それが書かれた当時に、地上における気象現象がどれほど未知なものだったかということの参考になると思われる。
雲「雲と雨の仕組み」それはどこから来てるのか?  さらに、ここで神に似せて作られた人間は、明らかに、すでに特別な生物とされている。
野生動物と家畜の区別などもされているようだが、元は野生動物だったのを家畜化したという歴史可能性に関しては、仮説的にでも信憑性があるものでなかったのだろうか

女に与えられた罰。エデンへの道の謎

──神は女に向かって言われた。
「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する」

アダムを追放し、生命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた──

 ヘビの口車に乗ってしまった女が、禁止されていた知恵の実を食べ、さらにアダムにもそれを勧めてしまう。そうしたことのために、神に説教され、2人とも楽園から追放されてしまうことになった場面。
ヘビと餅「ヘビ」大嫌いとされる哀れな爬虫類の進化と生態  ここで女性の妊娠、出産時の苦しみは、最初(?)の女が犯した罪への罰ということになっている。さらに、女性は男性よりも愚かな存在というよう語っているが、その点に関しても罰のようである。

 また、楽園(エデン)の園の東に、炎の剣とともに置かれたケルビムというのは、天使(智天使)のことらしい。
しかし、ここでとても興味深いのはそんなことではないだろう。どう考えてもこの書き方だと、炎の剣と天使という番兵さえいなければ、普通にこの地上世界から、そこまで行ける道があるかのようである
大天使ガブリエル「天使」神の使いたちの種類、階級、役割。七大天使。四大天使。

ノア一族の描写。奴隷というものをどのように考えるか

──命あるものはすべてあなたたちの食料とするがよい。
ただし肉は、命である血を含んだまま食べてはならない

ノアの息子は、セム、ハム、ヤフェトであった。ハムはカナンの父である。この3人がノアの息子で、全世界の人々は、彼らから出て広がったのである

「カナンは呪われよ。奴隷の奴隷となり兄たちに仕えよ」──

 後にはいろいろと、食べていいもの、食べてはいけないものが指定されたりするが、ここではかんと、「~は食べてはいけない」とか言わず、「生き物は何でも食べてよし」と言っている。
また、吸血鬼伝説などで、やたらと血が重要視されがちなのは、古い伝説などで生命と血液が関連付けられてきた影響ともされるが、聖書にもそのような記述は見られる。
吸血鬼の夜「吸血鬼」能力に弱点、退治方法まで。闇の貴族のすべて  すでに述べたように、ノアの一族が、全世界の人々の子孫になったとも語られている。

 よくわからないが、ある時にノアは酔っぱらって裸になった。その時にハムは、父の裸を見てから、2人の兄弟に告げる。セムとヤフェトは後ろ向きに歩いて、裸をを見ないように父に服を着せた。
そして酔いから覚めたノアはハムに対して激怒し、その息子と子孫は呪われよと怒ったわけである。
怒る理由はともかくとして、何か悪いことをしたために、その子孫は奴隷になる運命を背負うというような描写。聖書が創作物よりだとしたら、この辺りは奴隷文化を正当化するためのものかもしれない。
しかし、仮に聖書が史実を書いた記憶書なのだとしたら、奴隷は血筋レベルで決定しているものなのだろうか。
ただしこの場面だけなら、ノアが勝手に、怒って適当なこと言っただけという可能性もある。

バベルの塔は、どんな程度な計算外だったのか

──世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。

「1つの民で、1つの言葉を話しているから。彼らが何を企てても、妨げることはできない」──

 有名なバベルの塔の話の場面である。たった1つの民族しかいなかった時代に、天まで届くかのような塔を作ろうとした人類に怒った神が、それを壊し、各民族の言葉をバラバラにしたというもの。

 状況を上手いこと設定しなければ、人間たちが勝手に引き起こすトラブルを防ぐことができないかもしれないと、神は恐れているかのようである。こういう描写から、少なくとも聖書に登場する神は、完全に万能ではないことは、はっきりわかる。
そもそもノアの話のように、予想外に、非常に悪が溢れてしまったから、すべて一旦滅ぼします、というのも、シュミレーションゲームで、気に入らない展開になってしまったからリセットボタンを押すような流れ、とも考えられるかもしれない。

女の扱い。ソドムとゴモラの滅びの描写

──私にはまだ嫁がせていない娘が2人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。でもあの人たちには何もしないでください。この家に身を寄せていただいたのですから

主は、ソドムとゴモラの上に、天から硫黄の火を降らせ、町一帯を滅ぼした。ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。
アブラハムは、ソドムとゴモラ、及び低地一帯を見下ろすと、炉の煙のように地面から煙が立ち上っていた

姉は妹に言った。
「父も年老いてきました。この辺りには男の人はいません。さあ、父にぶどう酒を飲ませ床を共にし、子種を受けましょう」──

姉はレア、妹はラケル。レアは優しい目だが、ラケルは容姿も優れていた

彼女が子供を産み、わたしがその子を膝の上に迎えれば、彼女によって私も子供を持つことができます。

「私が召使いを夫に与えたので、神はその報酬をくださった」──

 女性が物扱いされているかのような描写はけっこう多い。
女性はとにかく、子供を産むことに義務感を感じているようでもある。
他には、容姿が優れていることが、明確によい事ともされている。

 また、子供が生まれないために、召使いの女に夫と関係を持たせ、産ませた子供を自分の子として扱っていたりもする。
ここでも、召使いの女はまるで所有物のような扱いである。

 背信のために滅ぼされた町として有名なソドムとゴモラだが、天から硫黄の火、振り向いてみたために塩の柱になった、低地一帯を見下ろすと煙が立ち上っていた、など、その描写に関して、どうにかするとハイテクな古代兵器とかとの関連を見いだすことも、可能といえば可能かもしれない 。
もっと単純に考えるなら、火山の噴火とかだろうか。
火山噴火「火山とは何か」噴火の仕組み。恐ろしき水蒸気爆発

世界中とはどのくらいの規模でのことか

──エジプトの国に7年間の大豊作が終わると、ヨセフが言った通り、7年の飢饉が始まった。その飢饉はすべての国々を襲った
エジプト全国にも飢饉が広がり、民がファラオに食物を叫べ求めた。
飢饉は世界各地に及んだ。
また世界各地の人々も穀物を買いにエジプトのヨセフのもとにやって来るようになった──

 聖書に度々出てくる、「世界中」とか「世界各地」とかいうのは、本当の意味での世界中なのだろうか。
聖書にはエジプトなど、いくつか古代から存在している文明や国家の名前が出てくるが、しかしまったく出てこないものもある。新大陸(アメリカ大陸)に関しての描写がまったくないのは当然として、例えば中国に関連しているような描写などもまったく見られない。
古代エジプトの歴史「古代エジプトの歴史」王朝の一覧、文明の発展と変化、簡単な流れ夏王朝「夏王朝」開いた人物。史記の記述。実在したか。中国大陸最初の国家

出エジプト記

ヨセフはミイラにされたのか

──ヨセフはこうして100歳で死んだ。人々はエジプトで、彼の亡骸に薬を塗り、防腐処置をして、棺に収めた──

 エジプト文明がミイラ作りを始めたのは、 かなり古い時代からであるから、それが近隣の民族に知られているのは、おかしい話ではない。
「エジプトミイラの歴史」発展史、作り方、発見と研究  聖書の中では、結局、後には奴隷扱いのようになってしまうユダヤ民族を、飢饉から救うためもあって、エジプトに呼んだのは、ファラオに仕えたヨセフとされている。
彼は100歳まで生きたそう。100歳というと、かなり長生きのようだが、ここまでの聖書の登場人物の中では、驚くほどのものではない。
神はある時に、人間の年齢を120歳ほどと定めたようだが、それ以降にも、100歳以上生きたという人は結構いる

目には目を、歯には歯を

──命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない

エジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれ、雄牛の鋳像にひれ伏し、生贄を捧げ、「神々だ」と叫んでいる──

 エジプトで奴隷となってしまっていたユダヤ民族を、神の導きに従って救ったとされているモーセは、神から法律も授けられるが、これが、明らかにバビロニアの方の、ハンムラビ法典などに影響を受けている。
シュメール、アッシリア、バビロニア「メソポタミアの古代文明」  また、とにかくイスラエルの神は、自分が選んだ民が、自分以外、特に偶像を崇拝するのが気に入らないようである。

レビ記

汚れたものについての基準

──動物のうち、食べてよい生き物は、蹄が分かれ完全に割れて、反芻するもの。反芻するか、蹄が分かれているだけの生き物は食べてはならない。
ラクダ、イワダヌキ、ノウサギは反芻するが蹄が分かれていないから汚れたもの。イノシシは蹄が分かれ完全に割れているが、まったく反芻しないから汚れたもの。これらの動物の肉を食べてはならないし、死骸に触れてはならない。

水中の魚類のうち、ヒレやウロコのあるものは、食べてよい。しかしヒレやウロコのない水の中の生き物は、全て汚らわしいもの。

鳥類のうち、次のものは汚らわしいものとして扱え。
ハゲワシ、ヒゲワシ、クロハゲワシ、トビ、ハヤブサ類、カラス類、ワシミミズク、コミミズク、トラブスク、タカ類、モリフクロウ、ウオミミズク、オオコノハズク、コキメンフクロウ、コノハズク、ミサゴ、コウノトリ、アオサギ類、ヤツガシラチョウ、コウモリ。

羽があり、4本の足で動き、群れをなす昆虫はすべて汚らわしいもの。
ただし、地面を跳躍するのに適した後ろ足を持つものは食べてよい。すなわちイナゴ類、ハネナガイナゴ類、オオイナゴ類、コイナゴ類は食べてよい

地を這う爬虫類は汚れている。モグラネズミ、トビネズミ、トゲオトカゲ類、ヤモリ、オオトカゲ、トカゲ、クスリトカゲ、カメレオン。
以上は爬虫類の中で汚れたもの、その死骸に触れるものは夕方まで汚れる──

 いろいろと謎な決まりが設定されているところである。
とにかく、動物には汚らわしいものと、そうでないものがあって、汚らわしいものに関しては、食べたり、その死骸に触れたりすることも駄目らしい。

 ヒレやウロコというか、おそらく水中に生息する生物は基本的に魚扱いと思われる。
「魚類」進化合戦を勝ち抜いた脊椎動物の始祖様 また一部哺乳類が、爬虫類扱いされているようである。
並ぶ哺乳類哺乳類の分類だいたい一覧リスト砂漠のトカゲ「爬虫類」両生類からの進化、鳥類への進化。真ん中の大生物

生け贄と、災いを引き起こす野獣

──あなたたちは傷のあるものを捧げてはならない。それは主に受け入れられないからである。

ウシ、ヒツジ、ヤギが生まれた場合、7日の間はその母親の元に置きなさい。8日目以降は、主に燃やして捧げる捧げものとして受け入れられる

まだわたしに反抗し、言葉を聞こうとしないなら、あなたたちの罪に7倍の災いを加える。あなたたちの間に野獣を放つ。野獣はあなたたちの子供を奪い取り、家畜を滅ぼし、あなたたちの数を減らす──

 そもそも生け贄というのは何のために捧げるものなのだろうか。神様は生け贄を求めているのだろうか。
少なくとも聖書の神は、生け贄というものに反対はしていないと思われる。傷ついたものを生け贄に捧げるのはいけないなど、指定すらしている。

 また、神様の怒りは、災いとして我々に降りかかるようなのだが、特に、野獣を送って暴れさせる、というように述べているのは興味深い。

民数記

マナはどんな食べ物か。巨人は存在したか

──「誰か肉を食べさせてくれないものか。どこを見渡してもマナばかりで何もない」
マナはコエンドロの種のようで、一見、琥珀の類。歩き回って拾い集め、臼で粉にひくか、鉢ですりつぶし、鍋で煮て、菓子にした。コクのあるクリームのような味であった。
夜、宿営に露が降りると、マナも降った

「我々が見た民はみな巨人だった。そこで我々が見たのはネフィリムなのだ。アナク人はネフィリムの出なのだ」──

 マナは、神がイスラエルの民に与えたとされる謎の食物。
とりあえず空から降ってくるもののようである。民はそれらを拾い集めて、お菓子とかにして食べたわけだ。
ここでは、それがクリームのような味とされていて、また、マナばかり食べていた民が「肉が食べたい」と不満を言ってたりする。

 また、ネフィリムは、聖書に時々出てくる、巨人の民の中でももっとも古い者たちである。
「巨人伝説」巨大な人間は本当にいたのか。どのくらいならありえるのか

モーセと気まぐれな主とのやりとり

──「いつまでわたしを信じないのか。わたしは疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう」

「あなたの言葉のゆえにわたしは許そう。しかしわたしは生きており、主の栄光は全地に満ちている」

主は、炎のヘビを民に向かって送られた。ヘビは民をかみ、多くの死者が出た──

 神とモーセのやりとりの多くは、民が何か不満とかを言ったために神が怒って、災いをもたらし、しかしモーゼが説得し、神が考え直し、災いを止めてくれる、あるいは災いを止める方法を教えてくれる、というようなパターンとなっている。
その中でも、疫病をもたらす、私は生きており、炎のヘビなど、興味深い記述は多い。
しかし、聖書に描かれているような神様の気まぐれが、実際のものならば、やはり神様は万能でも何でもない存在なのかもしれない

ヨシュア記

神様はどこまでをコントロールしているのか。できるのか

──主はヨシュアに言われた。
「イスラエルは罪を犯し、
だからイスラエルの人々は、敵に立ち向かうことができず、滅ぼし尽くされるべきものとなってしまった。
もしあなたたちの中から滅ぼし尽くすべきものを一掃しないなら、わたしはもはやあなたたちと共にいない──

 実際に考察してみると、どこがどういうことになっているのかよくわからないことは多いが、神様が決めている範囲はまさにそうである。
つまり神様は、世界をどのくらい、イスラエルの民をどのくらい思い通りにできるのか。
予想外に自分に逆らうような民になってしまった場合に、「計算外だからお前たちは滅ぼす」というような話になっている場面はわりとある。しかし一方で、神様はその気なら、彼らを戦争に確実に勝たせたりする事とかもできるようである。どういう部分を操ることに決めて、どういう部分を自由にさせようと決めているのか、その辺りがちょっと曖昧なのだ。

地球は自転を止めたのか

──ヨシュアはギルガルから夜通し軍を進めて、彼らを急襲。主はイスラエルの前で彼らを混乱に陥れられた
彼らがイスラエルから敗走し、ベト・ホロンの下り坂にさしかかった時、主は天から大石を降らせた。
雹に打たれて死んだ者は、イスラエルの人々が剣で殺した者よりも多かった。
ヨシュアは、主をたたえ言った。
「日よ、とどまれ、ギブオンの上に。月よ、とどまれ、アヤロンの谷に」
日はとどまり、月は動きを止めた。民が敵を打ち破るまで。
主がこの日のように、人の訴えを聞き届けられたことは後にも先にもなかった。主はイスラエルのために闘われたのである──

 ここで神は、イスラエルの民を戦争に勝たせている訳だが、それは自然に勝ったとか、そういうものではなく、明らかに意図的な手助けをしているものである。
基本的に、こういう場合の神の手助けは、自然災害による攻撃とか であって、敵の感覚器官を無効化したりとか、そういうのはない。

 そして、おそらく聖書全体の中でも最も興味深い記述の1つ。主がイスラエルの民のために、太陽と月の動きを止めた瞬間。
こんなことは後にも先にもなかった、と書かれているように、そうした場面はこれだけである。
この場面に関して、実際にかつて、地球が自転を止めたか、あるいは遅くした一時があったのではないか、という仮説もある。

サムエル記上

ダゴンの祭司。神の気

──ペリシテ人は神の箱を奪い、
ペリシテ人は神の箱を取り、ダゴンの神殿に運び入れ、ダゴンのそばに置いた。
翌朝、主の箱の前の地面にダゴンがうつぶせに倒れていた。
翌朝、ダゴンはまたも主の箱の前の地面にうつ伏せに倒れていた。しかもダゴンの頭と両手は切り取られて敷居のところにあり、胴体だけが残されていた。そのため今日に至るまで、ダゴンの祭司や、ダゴンの神殿に行く者は、アシュドドのダゴンの敷居を踏まない。
主の御手はアシュドドの人々の上に重くのしかかり、災害をもたらした。
「イスラエルの神の箱を我々の内にとどめて置いてはならない。この神の手は我々と我々の神ダゴンの上に災難をもたらす」

「イスラエルの栄光である神は、偽ったり気が変わったりすることのない方だ。この方は人間のように気が変わることはない」──

 ダゴンは、聖書の中に登場する、イスラエル以外の民族の神の名前。
やはり旧約聖書においては、たいていそうなのだが、「他の神様などいない」というよりも、「イスラエルの神には劣る」というような感じに描かれている印象がある。
「クトゥルフ神話」異形の神、生物の伝記。宇宙的恐怖のための創作神話  他の神の祭司の他、聖書にいくらか書かれている、民を惑わす預言者や魔法使いなどは、実際にはどういう扱いだったのであろうか。

 そして、主に選ばれていたサムエルの、かなりはっきりしている、神に関する断定。
彼は、神が気が変わったりしない方と言っている。しかしこれに関しては、聖書の数多くの描写と矛盾しているとしか言いようがない。

ダビデとゴリアテ。ペリシテには巨人たちが本当にいたのか

──ペリシテの陣地から1人の戦士が進み出た。その名をゴリアトといい、ガト出身で、背丈は6アンマ(キュビト)半

サウルは、ダビデに自分の装束を着せた。彼の頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせた。
「こんなものを着たのでは歩くこともできません。慣れていませんから」
ダビデはそれらを脱ぎ去り、自分の杖を手に取ると、石を5つ選び、羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手に、ペリシテ人に向かって行った。

「わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。
全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう」

ダビデは石投げ紐と石1つで、このペリシテ人に勝ち、彼を撃ち殺した──

 また有名な、後にイスラエルの王となる羊飼いの少年ダビデと、対立していたペリシテ軍の巨人ゴリアテが対峙する場面。
ゴリアテの背丈は6アンマ半(約286メートル)と、確かに普通の人間と考えると、かなり大きい。
ただしダビデが、強力なイスラエルの神をバックにつけているためなのか、そのゴリアテもかなりあっさりとやられてしまう。

 サムエル記には下もあるが、ダビデが王となってからも、ペリシテ人との戦いは何度かあったそうで、その際に、やはりペリシテ側には巨人がいたという描写が見られる。

列王記上

ソロモンは偉大な知恵を与えられた

──「わたしは取るに足らない若者で、どのように振舞うべきかを知りません。
どうかあなたの民を正しく導き、善と悪を判断することができるように、このしもべに聞き分ける心を与えください」
主は、ソロモンのこの願いをお喜びになった。
「あなたは訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。
今あなたに、知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にも、あなたに並ぶ者はいない」──

 イスラエルの知恵の王として有名なソロモンだが、聖書に書かれた彼の伝説によると、彼の知恵は生まれつきのものではなく、彼の誠実さを気にいった神が、後から与えたものである。
そして、ここでは神自身が、そんなことはっきり(後にも先にも彼に並ぶものはいないとか)断言しちゃっていいのか、と思うようなことを言っている。

比べられた知恵者たち。神殿の建設

──ソロモンの知恵は、東方、エジプトのいかなる知恵にも勝った。彼はエズラ人エタン、マホルの子らであるへマン、カルコル、ダルダをしのぐ、最も知恵ある者、その名は周りのすべての国々に知れ渡った。

ソロモン王が主の神殿の建築に着手したのは、イスラエル人がエジプトの地を出てから480年目──

 この辺りもまた、当時の「世界中」というのが、どのくらいの範囲だったのか、考えさせられる描写が出てくる。
すべての国々とは、文字通すべての国々だったのだろうか。
それと、ソロモンと比べられている者たちは、当時のイスラエルの民の間で知られていた、歴代の知恵者たちなのであろう。

 ソロモンが悪魔を使役して造らせたという、後世の伝説も有名な、神殿に関する記述である。エジプト脱出から480年目とあり、年代の大きな手がかりにもなっている。
悪魔召喚「ソロモンの72柱の悪魔」一覧と鍵の基礎知識

ヨブ記

正しき人の描写

──彼は東の国一番の富豪だった
ヨブは息子たちを呼び寄せて聖別し、朝から、彼らの数に相当する生け贄を捧げた。「息子たちが罪を犯し、心の中で神を呪ったかもしれない」と思ったから──

 ヨブは正しき者であり、ヨブ記は主に、 彼自身の素晴らしい信仰心、それに彼を試そうとして、しかし失敗したサタンの話という感じである。

 しかし、ヨブがとても正しい人とされているのは、神への生け贄の重要度が高そうな印象も抱かせる

神とサタンの対決

──主はサタンに言われた。
「ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」
サタンは答えた。
「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。
ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません」
主はサタンに言われた。
「それでは彼のものを、お前のいいようにしてみるがよい。ただし彼には手を出すな」

彼の妻は、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬほうがマシでしょう」と言ったが、ヨブは答えた。
「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」──

 とりあえずここではサタンを、堕天使(悪魔)ではなく、ちょっと変わり者な天使の1人として解釈できそうでもある。
悪魔の炎「悪魔学」邪悪な霊の考察と一覧。サタン、使い魔、ゲニウス ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe。1749~1832)の『ファウスト』の、神と悪魔メフィストフェレスのやり取りなどは、おそらくこの話から強い影響を受けているのだろう。

 そしてヨブは、家畜を殺され、家族を殺され、自身もひどい病気にかかっても、神を疑わない。
最終的には元通りになった(ついでに財産は2倍になった)、というような描写も後にあるのだが、お試しのために殺されるその他大勢とかは、架空の物語だとすると、けっこう不憫なものかもしれない。
いったいどういう世界観が、ここで描かれているのだろう。
まだ素直に、この話では、死んだ者たちが復活していると考えていいのだろうか。

ベヘモットとレビヤタン

──見よ、ベヘモットを
お前を造ったわたしはこの獣をも造った
これはウシのように草を食べる
これこそ神の傑作
造り主をおいて剣をそれに突きつける者はいない
まともに捕らえたり
罠にかけて、その鼻を貫きうる者があろうか

お前はレビヤタンを鉤にかけて引き上げ
その舌を縄で捕らえて、屈服させることができるか
彼の上に手を置いてみよ
戦うなどとは二度と言わぬがよい
勝ち目があると思っても、落胆するだけだ
見ただけでも打ちのめされるほどなのだから
彼を挑発するほど勇猛な者はいまい
いるなら、わたしの前に立て
天の下にあるすべてのものは、わたしのものだ──

 恐ろしい野獣とか、海の怪物とか、巨大な~とか、そういう記述はあっても、はっきりと名称が出てくる怪物は、聖書の中でも意外と少ない。
ベヘモット(ベヒーモス)とレビヤタン(リヴァイアサン)は、むしろ例外的な存在といえるかもしれない。
ただし、これらの怪物に関して、実際に大暴れしていたりするような描写はあまりない。どういう生物なのかの特徴などはわりと詳しく書いてあるのだが、結局はこれらの生物は、そういう生物すらも造ったり、従わせたりできる神がすごい、というように、引き立て役にされている。

コヘレトの言葉

悪と正義、人間と動物

──わたしは見た
裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを
正義を行う人も、悪人も神は裁かれる
すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある

神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだと。人間に臨むことは、動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところへ。
人間の霊は上に昇り、動物の霊は地の下に降ると、誰が言えよう

太陽の下に行われる虐げのすべてを見た
見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない
見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰めるものはない
すでに死んだ人を幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから──

 このコヘレトの言葉は、おそらく無神論者の立場から、あるいは 聖書の信憑性を低く見ている者の立場からすると、最も興味深い章であろうと思われる。

 このコヘレトというのが何者なのか、どういう存在であるのかに関しては諸説あるようだが、とにかくここでは、この何者かの、ただ世界を自分の目で見極めよう、という意思が感じられもする。

コヘレトは実際、世界をどのように考えていたのか

──人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということもわかった。これまた空しく

ひとりよりもふたりが良い
倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のいない人は不幸だ
ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対抗する。三つよりの糸は切れにくい

昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない
知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見るものの役に立つ。

1000人に1人という男はいたが、1000人に1人として良い女は見いださなかった。ただし見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが、人間は複雑な考え方をしたがるということ──

 別にコヘレトが、神への信仰を捨てているわけではないことも、かなり明らかと思われる。
また、単に世界を悲観するだけでなく、良き所も見いだそうとしている感がある。

 神は偉大でも、神が造られる人間は、不完全でしかないのかもしれない

エゼキエル書

まるでUFOの搭乗員が演出したかのような神や天使

──北の方から激しい風が大いなる雲を巻き起こし、火を発し、周囲に光を放ちながら吹いてくるではないか。
また、その中には4つの生き物の姿があった。
彼らは人間のようなものであった。それぞれが4つの顔を持ち、4つの翼を持っていた。
火は光り輝き、火から稲妻が出ていた。そして生き物もまた、稲妻が光るように出たり戻ったりしていた

4つの顔を持つ生き物の傍の地に1つの車輪が見えた。
それらが移動する時、4つの方向のどちらにも進むことができ、移動する時、向きを変えることはなかった。
生き物が移動する時、傍らの車輪も進み、生き物が地上から引き上げられる時、車輪も引き上げられた
生き物の頭上には、恐れを呼び起こす、水晶のように輝く大空のようなものがあった。それは生き物の頭上に高く広がっていた──

 エゼキエル書もまた、描写的に非常に興味深いものが多い。ここでは主や天使の降臨が描かれているようにも思えるが、それはまるで高度なテクノロジーを持つ何者かが演出したかのように解釈しやすい。
チャールズ・フォート「チャールズ・フォート」UFO、超能力、オカルト研究のパイオニアの話  この辺りの描写を、古代人と、地球にやってきた宇宙生物とが遭遇した記録かもしれないと考える者すらいる。しかし全体的に読んでみると、そこまで極端に考えれるかは微妙な感じもある。

死ぬべきもの、生きるべきもの

──イスラエルの神の栄光は高くその上にあった。これがケバル川の河畔で、わたしがイスラエルの神のもとにいるのを見たあの生き物である。わたしはそれがケルビムであることを知った

お前たちは一握りの大麦と、ひとかけらのパンのために、我が民の前でわたしを汚し、欺きの言葉に聞き入る民を欺き、死ぬべきではない者を殺し、生きるべきでない者を生かしている──

 ケルビムとはやはり天使で、 見方によっては宇宙船の者たちに思えるような描写も、やはり普通に、天使たちという解釈が妥当であろうか。

 また、偽りの信仰などを民に植え付けようとする者たちに対する、よくある批判において、ここでは死ぬべき者や生きるべき者、というような記述が興味深いか