天台宗と法華経のこと
最澄の天台法華宗、天台密教
中国浙江省の東部にある、『天台山』の山麓に、『国清寺』という寺院があった。
国清寺は、中国において、『天台宗』という仏教の一宗派が誕生した場所とされる。
8世紀頃。
中国を訪れた最澄(767〜822)は国清寺にて、学んだ。
そして日本に帰国した後に、彼は天台法華宗を開いたのだった。
日本において、天台宗といえば、この、最澄の天台法華宗の事である。
仏教には、法華、密教、禅、戒などの、様々な方法理論があるが、最澄は、自らが到達した『法華一乗』思想のためには、その全てが有益である、と考えていたという。
そういう訳で、天台宗とは、仏教のあらゆる側面を網羅した仏教、と称されることもある。
また、最澄の考えは、本来の天台宗のものと、それほど違いはないが、本来は異なる思想である密教を取り入れているとされ、『天台密教』と言われる。
中国天台宗の開祖。経典、法華経
中国天台宗の開祖は、六世紀頃の、チギという人と伝えられる(ただし天台という名を考えたのは、ケイケイタンネンという人とされる)。
チギは、彼の時代までに、中国にて翻訳されてきた膨大な量の経典の、それぞれの教えに明確な区別を付けた後、矛盾をなるべく排除しながら、それらを組み合わせた。
そして、天台において、至高とされる経典、法華経を見出したのだという。
法華経は天台宗において重要な経典だが、これ自体は最澄より以前、聖徳太子の頃に日本に伝わってきたとされている。
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むしろ、最澄は中国に行く前に、すでにこの経典から、強い影響を受けていたそうである。
法華経の思想
教観二門。天台の教え
天台の教えは、簡潔に『教観二門』という言葉で表現される。
「教」は教え、学。
そして「観」は、実践的な修行を指す言葉とされている。
つまり、教観二門とは、学問も、実践修行も等しく重要視する思想。
最澄は、それまでの仏教の多くの宗派は、基本的に学問を重要視する傾向にあると考えていたそうである。
そこで、学のみならず、実践を大事とした、新たな宗派を起こしたという訳であった。
大乗仏教。法華経の教え
法華経は、典型的な『大乗仏教』の思想を説いたものとされる。
大乗仏教とは、適切な修行さえ積めば、誰であろうと関係なくブッタの境地に至れるとする立場の仏教。
「乗」とは乗り物のことであり、大乗仏教とは、ブッタに至る偉大なる乗り物の意味。
現在の日本の仏教は基本的に大乗仏教である。
台密。久遠実成、釈迦牟尼仏の密教
空海の真言密教が東密と呼ばれるのに対して、天台密教は『台密』と呼ばれる。
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東密と台密の教えはよく似ているとされる。
しかしながら、東密は、法身仏(ブッダという真理そのもの)としての大日如来の教え。
台密は、久遠実成(すでに過去において仏であったが、 あえて釈迦という人間に生まれて、仏になる一連の道を示されたこと)の仏である釈迦牟尼仏の教えに基づいているという。
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空海に比べると、最澄は密教をそこまで重要視していなかったようで、どちらかというと台密の完成は、東密より遅れているとされる。
ただそのために、教義はより洗練され、多様になっているも言われる。
最澄。比叡山の仏の母山にした大僧
日本に天台宗の教えをもたらした最澄は、かつて東大寺で修行を積んでいた。
しかし785年頃に、突如それまでの地位を捨てて、古来から神聖視されていたという、比叡山に入っていった。
彼は、周囲の僧達の堕落ぶりを嘆いていた。
また、自らの心を根本的に鍛えなおそうとして、山ごもりを始めたのだという。
そして12年間、ひたすらに経典を研究した最澄は、中国(唐)の天台こそ仏の真髄であると確信したのだった。
真言密教の影響。延暦寺にて天台宗を開く
804年頃。
日本ですでに、天皇の目にもかなうほど、高く評価されていた僧だった最澄は、自らの力で、日本にも天台宗を開こうと、教えを受けるために中国へと渡った。
この時、当時は無名であった空海が一緒だったとされている。
最澄は、当時の中国の最先端仏教であった真言密教に、強い関心を抱いていたが、空海はそれ以上だったようである。
帰国後に最澄は、比叡山の延暦寺にて天台宗を開いたが、 あくまで、法華と真言を同じ位のものと見ていた。
一方で空海は、真言密教こそ至高と考え、最澄と道を違えたのだった。
中国への密教伝来
チギが、天台の教えを始めた頃、真言密教の二大経典、大日経と、金剛頂経は、まだ中国に伝来していなかった。
最澄は、法華経をよき教えとしながら、真言密教も、それに匹敵するものとして捉えていた。
彼もいろいろ苦心したのかもしれない。
おそらく法華経は、もう時代おくれだったのである。
奇跡も、法力もあまりなかったのか
最澄はまた、空海だけでなく、後の活躍した弟子達と比べても、あまり超常的な能力を有していたとか、奇跡に見舞われたといった逸話が少ないようである。
彼の死後も、弟子達は、師を崇拝こそすれ、神格化をしなかった。
ただ、後の日本仏教の多くの宗派の開祖達が、比叡山にて学んだ事が、ひとつの事実を示している。
最澄は、ただの山だった比叡山を、日本仏教の母山へと変えた。
それだけは確かに、後の誰にも真似できなかった偉業であった。
また、彼亡き後の天台宗のトップは、彼を初代として、『天台座主と呼ばれる。
座主とは、「最上位の僧」という 意味もあるようだが日本において 座主といえば、普通は天台座主のこと。
天台密教超人伝説
円仁。尸解した伝説
三代目天台座主、円仁(794〜864)は、15歳で比叡山に登り、最澄の弟子となったが、その事を彼は、事前に夢で知っていたそうである。
最澄をよく尊敬していた円仁は、44歳の時に中国に渡り、10年間ほど密教を学んだ後に帰国。
空海の真言密教に対抗しようと、天台密教の大成に努めたとされる。
彼は死した後、その遺体も遺留品もすべて消えたという逸話があり、尸解したのではないか、という説もあるという。
尸解とは、死んだ後に生き返って、神仙となること。
円珍。台密を完成させた法術師
五代目天台座主、円珍( 814〜891)は、円仁と並ぶ、台密の大僧である。
円珍は、空海の姪の子で、幼い彼と出会った空海は、即座に彼の才を見ぬき、「弟子にしたい」と頼んだが、母は、円珍が長男であるために断ったとされる。
しかし、 円珍自身は、 幼い頃から出勤を志願していて、結局は母も諦め、円珍は最澄の弟子であった、叔父の仁徳に引き取られ、15歳の時に、比叡山入り。
やがて、やはり中国にて真言密教を学んだ円珍は、帰国後は、天台宗にて、円仁の定めた台密の教義を整備。
天台宗が東密にたいする台密としての一応の完成を見たのは、彼の代と考えられている。
円珍はかなり強力な法力の持ち主であったとも伝えられている。
病気の天皇を一晩の祈りで治した。
中国で起きた火災を、日本にいながら霊視して、洪水を起こし、鎮火させた。
何より、かなり高い的中率を誇る予言能力は、評判であったという。
安然。類まれな仏教学者
元慶寺の安然(841〜897)は、人心を惑わす金を嫌い、清貧を心がけていたという。
しかしあまりに本格的すぎたためか、超貧乏であった、という伝説が、生まれるに至っているという。
非常に学に秀でていた知識人で、膨大な著作を残したそうである。
ある時に、服屋の主人に頼まれ、その息子の教育のために書いた『童子経』は、後には寺小屋(江戸時代の学校)教育に利用されたという。
安然は、円仁、円珍が発展させた天台密教を、さらに調整し、完全に完成させたとされている。
彼はまた、天台密教を、比叡山真言宗と称していたそうである。
良源。角大師、豆大師。多くの逸話
十八代天台座主、良源(912〜985)は、円珍と同等か、それ以上に強力な法力を有していたという。
まだ彼ら、比叡山の勢力を絶頂に導いた大僧とされていて、「最澄の再来」と讃えられる事もあるという。
火災などで荒廃していた、比叡山の様々な施設の再建。
円仁の思想を継いでいるとする山門派と、円珍の思想を継いでいるとする寺門派の対立を抑えるために、新しく規律を定めるなど、多くの業績を成したとされる。
彼の超常的な逸話は多い。
ある時、疫病をもたらす厄神が、良源を苦しめてやろうとしたが、彼はあえてその厄神を身に宿らせ、その力を利用し、逆に厄災を退ける「角大師」という護符を作ったのだという。
その護符には、彼が鏡に映した自分の姿を、弟子に描かせた絵が載っていた。
その姿は、恐ろしいガシャドクロのごとくであったとされる。
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また、ある時、宮廷に出入りしていた良源が、あまりに容姿端麗であったため、たちまちに彼は、女官達に好意を寄せられるようになった。
なが仏に仕える身としては、このままでは魔道に陥ってしまう、と恐れた彼は、豆つぶの大きさの鬼となりて、女官達を避けたという。
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この話との関連は不明だが、17世紀頃に、33の良源の姿を描いた「豆大師」という札が、それを大事にしていた農民の畑を、洪水から守った、という伝説があるという。
水びたしになった畑を、どこからともなく現れた若者達が、せっせと水をかき出して、十分に仕事を終えると、後は消え去ったのだという。
増賀。天台随一の変わり者
増賀(917〜1003)という人は、相当変わり者な僧だったようである。
伝えられるところによると、彼は4歳まで喋らなかったとされる。
そしてろくに言葉の喋れなかった彼が、突然に発した最初の言葉は、両親に衝撃を与えた。
「私は比叡山に登って、法華経を読み、一乗の道を習得して、聖人達の後を継ごうと思います」
それから、息子は鬼にでも取り憑かれたのではないか、と心配した母親だったが、夢に威厳ある僧が出てきて、「恐れることはない。あなたの子は、聖人となる定めを背負っているのだ」と告げられると、息子が偉大なる道を歩む事を確信したという。
しかし、そうはいかなかった。
増賀は10歳で比叡山に登り、良源の弟子となった。
しかし彼は、優れた学を示す一方で、その奇行ぶりは半端なかった。
そしてある時、宴席での残飯に、貧民たちと一緒になってありついた彼を、仲間達は、狂人とみなすようになった。
そういう事件からしばらくした後、彼はいよいよ、比叡山を去ることになったが、良源は、そのことを非常に惜しんだという。
良源は、弟子の奇行が、隠遁を望むがゆえの手段である事を見抜いていたのだ。(コラム)
すべては計画の上だった訳である。
(コラム)最初の忍者か
案外、彼は忍者の始祖だったりして。
そうじゃなくても初期の忍者。
「忍者」技能と道具、いかにして影の者たちは現れたか?