ギリシアはなぜ0を嫌ったか
古代エジプト、バビロニア、ギリシアの数学
古代エジプト、古代バビロニアから、数学を学んだギリシア文明は、あっという間に、それらより高いレベルで、数学を扱うようになった。
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ギリシアは、バビロニアより、エジプトをよく手本としたようである。
ピタゴラスがエジプトで学んだからかもしれないが、事実は、おそらくゼロに通じる表記法のせいと思われる。
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ギリシアでは(かなり嫌われていたようだが)無理数すら認められていたのに、0はなかった。
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(注釈)バビロニアは60進法
ちなみにバビロニアは60進法を採用していたらしいから、もしギリシアがエジプトでなく、バビロニアによく学んでいたなら、我々も一般的に60進法を使うようになってたかもしれない。
我々の時間の数え方や、角度に使う数値などにも、バビロニアの影響は垣間見れる。
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位取りの法則
我々は、123456789、それに0のみで数字を表記する。
例えば(十進法表記で)7+5ならば12であるが、12の右側の1は、十の位である。
このような表記法は『位取りの法則』と言い、普及具合がもうその便利さを物語っていよう。
一方で、古代エジプトやギリシアでは、10や100のような、数にも専用の記号があった。
そうして、位取りの法則を使わなかった。
位取りの法則はバビロニア文明では使わていたようだ。
おそらくは、アメリカ大陸のマヤ文明も、独自にこの表記法を開発していた。
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位置取りの法則では。10や102を表したりするのに、ある位の数が空白(無)である事を示す記号が必要になる。
そこで、バビロニアでもマヤでも、そのような記号が作られたが、その記号こそ、ゼロに繋がるものだった。
0という量
0といえば、数直線上の、-1と1の中間に存在する整数である。
しかし、例えば0+0=0と言った、他の数には見られないような妙な性質がある。
数直線の開発はおそらく18世紀くらいであり、それ以前の人からしてみたら、0はガウス以前の虚数と、大して変わらないようなものだったかもしれない。
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ギリシアの人達にとって、数は量であったと考える人は多い。
例えば2×2の正方形は、4と同じものだったという訳である。
数を数えるとは、直線を測定することと同じであった。
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そうだとすると、マイナスの数はもちろん、0や無限大を信じたがらなかったのは、仕方がないであろう。
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インド数字。インド人の代数学
ギリシアの時代はローマに取って代わり、あらゆる科学の暗黒時代と呼ばれる中世へと、ヨーロッパが向かう中、インド、そしてその影響を受けたアラビア世界は、ゼロを受け入れた。
インドの数学者が、バビロニアの数学と出会ったのは、紀元前4世紀頃。
アレクサンドロス大王が。ペルシア軍を率いて、インドに進軍してきた時だとされている。
バビロニアにおいてゼロはただ、空白を埋めるための記号でしかなかったが、インド人達は、それも数字だと解釈するようになっていった。
インドが、ギリシアにも影響を受けてたのは間違いない。
その数の体系は、バビロニアの表記法を採用しながら、しかし十進法であったから。
我々が用いるアラビア数字とかいうのは、インド人が開発したものと言ってよい。
数の思想
インド人は、マイナスの数字もあっさり受け入れた。
七世紀のブラフマグプタは、「プラスの数をプラスの数で割っても、マイナスの数をマイナスの数で割っても、プラスになる。プラスの数をマイナスの数で割るとマイナスになる。マイナスの数をプラスの数で割ると、やはりマイナスになる」と述べたそうである。
こうなると、インド人が、数をどんなふうに考えていたのか、かなり奇妙にさえ思える。
今の我々のように、「数とは、これこれこういうもの、だという事」を、教えられた訳でもなく、ヒントもないような状態で、自力で考え出した人がいたのかもしれない。
驚異を覚えざるを得ない。
1/0は、0か無限か
ブラフマグプタは、1/0を0と考えた。
一方で、彼より4世紀くらい後世のバースカラは、1/0を無限だとした。
0で割り算した時に、何の数になるかは、0をどう解釈するかによる。
掛け算は、例えば10×5ならば、10が5個、10+10+10+10+10。
つまりは、掛け算は、「ある数を、ある回数足し算した場合の数を求める行為」と定義出来る。
割り算は掛け算の逆である。
例えば10÷5なら、5がいくつあれば10になるか。
言うなれば5×A=10における、Aの数を求める行為である。
割り算は、「ある数は、ある数を何回足し算した数なのかを求める行為」な訳である。
1×0は、1を0回足した数であるから、言うなれば何も足さなかった数である。
そういう訳で0。
一方で1/0は、1になる数は、0を何回足した数なのか、という問題と言える。
しかし、0を何回足し算したところで、その答は0である。
これならば、答はなしと言いたいが、あえて何かを設定するなら、無限しかないだろう。
少なくとも0ではない。
0から数える
ハンマーを振り下ろす、という行為を行い、リンゴを壊してしまったとして、ハンマーを振り上げる、という逆の行為を行っても、砕けたリンゴが元に戻るとは限らない。
また、数字は0から数えれるにも関わらず、なぜか1から数える(数えてるつもり)の習慣が、0のふるまいを、より不可解に思わせているのかもしれない。
しかし、時計などを見てみたら明らかなように、実は我々は、数字を0から数えている。
0と極限
惑星でも天使でも何でもよいけど、ある不規則な変化を続けるものの、ある瞬間の変化具合をどう捉えるか。
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それをするためには、普通、微分を用いる。
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不規則な変化をグラフで表すと、曲がりくねった曲線になるが、極一部のみ切り取れば、それは直線に近いはず。
極一部の極一部、極一部と、もう完全にそれが、直線と同じであるようなくらいのレベルで切り取ると、変化具合は、ある直線という、わかりやすい値となる。
しかし、そのある瞬間という幅をどんどん狭くすれば、最終的にそこに現れるのは、直線なんかでなく0になってしまう。
それは、無限に分割した、ある一辺だと言ってもいい。
正確にはそのような一辺を0でなく、限りなく0に近い何か、『極限』の値と定義する事で、微積分は成り立っている。
0は無か、数字か
0は0という数字であり、無ではない。
ただし、現実世界を様々な計算式で表現する場合に、「何もない」というのを0で表現出来る(しやすい)。
そういうふうに考えた方がいいかもしれない。
0をただ、無と解釈するから、それを使って無限を導き出したり、プラスとマイナスの間にある事を奇妙に感じたりするのかも。
あくまで、我々がよく使うような、ある思想体系において、0は無であるだけ。
だから0の振る舞いは、その数体系の決められた定義による訳である。
というふうに考える人もいる。