ユダヤ、キリスト、イスラムの神
世界には多くの宗教がある。
ユダヤ系列の一神教。
「ユダヤ教」旧約聖書とは何か?神とは何か?
多くの神を想定する、例えば神道やギリシャ神話のような多神教。
「なぜ神を信じるのか」という質問を投げかけられるのは、基本的になんらかの宗教に属している人であろう。
特にユダヤ系列の信者ではなかろうか。
「なぜ神を信じるのか」と言う時、神とは何を意味しているのかをよく考える必要はあるかもしれない。
例えば仏教において、仏は悟りを得た者ならなれる。
仏教の仏がもしも神だというのなら、仏教においては、人は神になれるということだ。
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神道やギリシャ神話の神々はどうか。
彼らと来たら、人間と同じように感情豊かで、まるでただの別の生物みたいだ。
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人間ではありえないような強力な力を持っているではないか、という指摘もあるかもしれないが、魔法使いと何が違うと言うのだろう。
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別に魔法使いが本当にいると言っているわけではない。
ただ、たいていの多神教の神々なんて、魔法使いと同レベルな存在ではないかと思う。
しかし有名な宗教の中で、ユダヤ系の神だけは明らかに違う。
その神はおそらく、この世界が存在する前から存在していて、この世界を作って、人間を作った。
神は唯一、その何者かひとりだけ。
まず唯一の存在であるので、人間がなれるものではない。
だいたい、世界も人間も神が意図的に作ったものなので、神が唯一と決まっているのは、つまり神が、我々を我々の存在でしかないように開発したからと考えられる。
神がいるならなぜ、この世界に悪があるのか
神は万能だと考えている人も多い。
本当にそうであろうか。
この世界には神に逆らう悪が多い。
実際、聖書の中の有名な話に、神が思うようにいかなかった世界を洪水で壊す話があるではないか。
とりあえず、神が意図的にこの世界をそういうふうに作ったか、あるいは神は実は万能ではないかに関係なく、この世界は神の思う通りにいかない、ことがあるのは間違いなさそうである。
ただ恐ろしいことに、やはりこの世界の全てが、万能な神のシナリオ通りとすれば、もう神がどうたらという議論は茶番になるだろう。
そもそも人間が神に疑いを抱いたり、愚かな争いを繰り返したりするのも、全て神のシナリオ通りなら、信仰というものすら一気に安っぽくなろう。
誰がいつ深い信仰を手にするのかが、決まっているわけである。
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そういうふうに考えると、もしかしたらこの世界を神様が自分の思う通りにいかないよう、あえて創られたのは、信仰心というものを存在させるためなのかもしれない。
我々が自分の意思で生きて、時々は戦い、時々は愛しあうためには、自由意志というものが絶対に必要であるだろうから。
もし我々が何かを成す背後に、神様の操り糸があるのなら、それはもはや自由意志とは言えないと思われる。
しかし自由意志は、その存在の代償として、悪を産んでしまったのだろう。
なぜユダヤの神が一番、神様というイメージが強いのか
では「なぜ神を信じるのか」という質問における神に関して、再び考えよう。
おそらくそこで言う神とは、宗教というものにあまり関心がないか、あるいは現在の知見では説明できないようなことは安易に信じるべきでないと考えている人たちが、想像するような神である。
それは「万能の存在」、あるいは、「この世界を意図的に作ったクリエイター」のどちらかではないだろうか。
上記の二つの意味のいずれにも当てはまる可能性がある神は、有名な宗教の中では、おそらくユダヤ系列の神のみ。
どちらか一方に当てはまる神すら、ユダヤ系列の神しかいないかもしれない。
だから「なぜ神を信じるのか」という問いは、ユダヤ系列の宗教の信者に対してのイメージが強いのだと思う。
なぜ聖書の内容を信じているのか?
ユダヤ教もキリスト教も、聖書に書かれている内容が真実であるということが前提である。
「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束
イスラム教においても、コーランほどではないが、聖書もそれなりに重要な書である。
「イスラム教」アッラーの最後の教え、最後の約束
人がそれらの宗教の人に「なぜ神を信じるのか」と聞く時、それは、「なぜ聖書の内容を信じているのか?」という意味合いの場合もあろう。
実際に聖書は信じられるものだろうか。
これに関しては、歴史学的な観点から見ると、あまり信用できないというのが実情であろう。
書かれた年代が古すぎるというのは、現代に伝わってくるまでのどこかで、改変などが入っている可能性が高いということ。
聖書に関連するものとされる「死海文書」が重要視されるのは、それが非常に古い時代に書かれたものと考えられているからである。
今現在、これまでの地球で起こってきたと考えられている多くの出来事が、聖書の内容と矛盾しているというのも、この書物を怪しくしている。
神が「光あれ」と言った時、実際には光というか、空間の膨張が起こったのかもしれない。
「ビッグバン宇宙論」根拠。問題点。宇宙の始まりの概要
聖書と現代の常識との矛盾
聖書の内容が嘘である根拠は多い。
逆に真実であるという根拠は全然ない。
どうも聖書に登場する人物たちの年齢などを考えると、世界、少なくとも地球はまだ創られてから数万年も経ってないようだが、それは化学的な研究により明らかにされた地球の年代と矛盾する。
数万年以上前の生物のものとされるすべての化石の存在とも矛盾する。
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プレートテクトニクス研究が明らかとした、地球の大陸が長い時間をかけて動いてきたことに矛盾する。
「プレートテクトニクス」大陸移動説からの変化。地質学者たちの理解の方法
他にもあげていけば、きりがない。
一方、聖書の内容も全て真実であると信じている人の説明としては、「おそらく神がそういうふうに創った」というような、かなり苦しく思えるようなものしかないように思う。
もちろん聖書に、神がそういうふうに世界を作ったことを思わせる明確な描写はない。
「なぜ聖書の内容を信じるか?」
今、この質問に関しては、相手をバカにしているようなニュアンスすら感じる。
「宇宙人と世界の政府は密約していた」などという話を、まったく何の疑いも抱かずに書ききっている本を信じてる人に対して、「そんなもの信じてるのか?」と聞いてるような感じ。
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聖書に関しては、神の話であるのだとしても、それはやっぱり人間が書いたものだから、間違いがあったり、勘違いがあったりというのが真相なのではないだろうか。
それがさらに、人から人へと伝わっていくうちに、大きくねじ曲がって、(おそらくは大げさな方向に)改変されていった。
そういうことなのではないだろうか。
もちろん、神が本当に存在し、かつ聖書が本当にその神に関連している書であるとしての話だが。
私なりの今の答。それでもなぜ神の存在を信じるのか
私自身の考え
「なぜ神を信じるのか」
この問いが「なぜ万能な存在があると思うのか」、あるいは「なぜ我々を誰かの作品と思うのか」という意味合いであるとするなら、これは現在でもそうおかしな問いではなかろう。
なぜなら生物学、物理学、その他の多くの科学分野において、万能な存在、宇宙が誰かの作品である可能性を、決定的に否定する根拠などないからだ。
もうユダヤの神からも、聖書からも離れてみよう。
そうした時、万能な存在、宇宙クリエイターの意味での神を信じるのか、という問いに関して、それを投げるべき対象の数は一気に増えるだろうとも思う。
少なくとも一人は増える。
これを書いてる筆者自身がそうだ。
聖書の内容を真実と思ってない。
それに、我々がそういうふうに言う意味での万能な存在はありえないと思っている。
しかし、この宇宙を創ったクリエイターがいる確率は高いと思ってる。
もし、宇宙クリエイターに関して、信じているのか信じていないかの二択ではっきり答えろと、逃げ場を塞がれたら、「信じている」と答える。
万能な存在について
万能な存在とはどういう存在か。
この世界に存在するものすべてを超越したような存在、という意味でなら、存在しないと思う。
少なくとも今は存在していないと思う。
まず誤解なきよう言っておくが、ここでいう世界とは、地球のことでも、この宇宙のことでもおそらくない。
ただ全てだ。
存在する全てのことをまとめて「世界」としている。
世界を超越するような存在。
具体的には、世界を何もかも自由にできる存在なんてものがあるとするなら、それはおそらくこの世界そのものでなければならない。
そうでないと、自分自身でないその世界のどこかの何かは、思い通りにならないだろう。
また、もしもこの世界の全てになれないなら、それはこの世界の中に自分になれないものが存在しているということを意味している。
明らかに思い通りになっていない。
それとこれは個人的な感覚であり、大した根拠じゃないと言われても否定できないが、明らかに筆者は何者かの思い通りにはなっていない。
万能な存在というのが、「意思を持ち、かつ自分の意図していないことを起こさないでいれる者」とするなら、これはありえる存在かもしれないと思う。
だがそういうふうに、ありえそうな存在としての定義を与えた場合、それがありえそうゆえに問題が生じてしまう。
例えば上記の定義であるなら、「脳にダメージを負って、どんな出来事でも喜びに感じてしまう人」なんかも万能な存在ということになってしまうかもしれない(注釈)。
そういう人を万能な存在と言うのは、かなり違和感があろう。
(注釈)死と意識の謎
脳にさらなるダメージを負ったり、回復したりして、何もかも喜びに感じるという状態でなくなる、ということが、その人にとって意図しないことなのでは、という意見もあるだろうか。
しかし、それは意識自体が変わっている可能性はないだろうか。
つまり、どんなことでも自分の望み通りと感じるような万能な存在である意識は、脳に更なる変化があった瞬間に、死んでしまったということではないのだろうか。
だが、死は意識の喪失なのだろうか?
世界のクリエイターについて
本当に、すべての存在という意味での世界を作った者がいるとは思わない。
なぜなら、全てのものが存在していなかった時期があるとするなら、世界は何もないところから生まれたということになる。
何もないところに、クリエイターがいるわけがない。
この宇宙を作ったクリエイターならいるのではないかと思う。
物理学者が解き明かしてきたこの世界のシステムが、まるで量子コンピューターのようであることは有名だ。
「量子コンピュータとは何か」仕組み、宇宙の原理、実用化したらどうなるか
以下も、あくまで個人的な見解であり、人によってはバカバカしいと思うかもしれない。
しかしそのバカバカしい話が、どうしてもバカバカしいと思えなくもある。
物理学者のカール・セーガンは、かつて、惑星探査機ボイジャーが海王星を超えた先から地球の写真を撮らせた。
彼は「こんなちっぽけな光の点のために、他の宇宙すべてが作られたなんて、ありえないだろう」と述べた。
そうである。
地球はちっぽけな点なのである。
こんなちっぽけな点の上で、人は争ったり、信仰を尊く思ったり、自分の愛は本物だと思ったり、ティラノサウルスやアロマノカリスに心沸かされたりしてきたわけである。
「ティラノサウルス」最強の理由。暴君恐竜の生態、能力
大宇宙の中に輝く一つの点と、そこに生きる道化たち。
そんなのあまりに素晴らしいドラマ的要素じゃなかろうか。
本当に、一つの壮大なスケールの物語の設定のようである。
いかにも、作品的すぎる。
だからもし自分が誰かに「なぜあなたは神を信じるのか」と問われたら、それが「この宇宙のクリエイターを信じるか」という意味なのだとしたら、こう答えるかもしれない。
「こんな素晴らしい世界設定が偶然の産物で、クリエイターが存在していないなんて考えにくい」