「私の最大の発見はファラデーだ」
by.サー・ハンフリー・デービー
貧しい一家に生まれた
1791年9月22日。
マイケル・ファラデー(1791~1867)は、ロンドン郊外のニューイントン・バッツで生まれた。
四人兄弟の三男だった。
彼の父ジェームズは鍛治屋の見習いであったようだ。
キリスト教の一派である「サンデマン派(Sandemanianism)」に属していて、ロンドンで得た鍛治の仕事も、 その宗教のつながりを介して紹介されたものだった説がある。
信者としては熱心で、彼の家族間でも影響は大きかったようである。
母マーガレットについては、どのような人物だったのかほとんど記録には残っていないともされる。
ただ、貧乏性な見事な節約術で、 実質的に貧しい一家の暮らしを支えていたそうだ。
金はなかった。
両親は子供たちに、食事も満足に与えることができなかったとされる。
もちろん、いい学校に行って、ちゃんとした教育を受けられるような環境ではなかった。
それでも、簡単な算数くらいは習っていたらしい。
重要なことは、彼が文字を読むことができたこと。
本を読むことができたのだ。
多分、父の信仰心の影響のおかげでないかと思われる(例えば聖書を家族で読む習慣があったのかもしれない)。
本で科学を学んだ
1805年。
ファラデーは、ジョージ・リボーという人の、製本屋で見習いとして働くことになった。
自分からそういう職を求めたのか、単なる偶然かは定かではないが、本に近い環境で仕事ができたことは、学校に行けなかった彼にとっては非常に幸運となった。
リボーは、製本した本の内、興味を抱いた本を読むことを許してくれた。
おかげでファラデーは7年見習いとして働いている間に、たくさんの科学書や啓蒙書を楽しむことができた。
特に牧師のアイザック・ウォッツ(1674~1748)や、作家のジェーン・マーセット(1769~1858)の著作が、彼に大きな影響を与えた。
マーセットは、かなり初級者を意識した科学の入門書を書いた人で、まだ19世紀になったばかりという時代に、すでにそういう本があったことも、本当に幸いなことだった。
ファラデー自身も、ちゃんと科学者となってから、そういう入門書を書いたりしたが、それこそ昔の、ちゃんと学校教育も受けられなかったような自分のことを思いだし、そういう人たちのために書いてたのでないだろうか。
また、ファラデーは、ブリタニカ百科辞典で電気と磁気の科学について学んだという。
ハンフリー・デーヴィ卿
見習いも最後の年である1812年。
ファラデーは、王立協会のハンフリー・デーヴィ(1778~1829)の講演を見る機会に恵まれる。
チケットを手配してくれたのは、リボーの店の常連客であったダンスという人だったとされる。
そしてそのデーヴィの講演が転機となった。
見習いを卒業後、ド・ラ・ロシュという人の店で製本工になったファラデーは、ダンスに助言をもらい、デーヴィに手紙を書いた。
ファラデーは、科学に関わる仕事につきたい旨と、デーヴィの講演を聞き、熱心に書いたメモの内容をその手紙に書いた。
デーヴィは、手紙から十分に彼の情熱を理解したが、最初は「科学の仕事というのは困難で、収入も少ない。今の仕事をやめてまで就くようなものではない」とファラデーを説得する。
しかしファラデーは諦めず、デーヴィは結局1813年に、自身の助手として彼を雇ったのだった。
ヨーロッパ旅行で得たもの
当時のヨーロッパは政治的にかなり荒れていたようだが、 「科学に国境はない」という信念のもと、 高名な科学者であったデイビーは特別に各国を旅することが許されていた。
そして彼の助手になって間もなく、ファラデーはデーヴィ夫妻の旅行に連れていってもらえることになる。
そしてこのヨーロッパ旅行にてファラデーは、各地の科学者たちと交流を持つこともできたのだった。
また、デーヴィの奥さんの方は、ファラデーを単なる召使いかのように扱ったが、デーヴィ本人は、ファラデーと科学について様々な議論をし、かなりいい刺激になったろうとされる。
デーヴィと、彼の妻アプリースの間にもよく口争いなどがあり、ファラデーは「旅行が早く切り上げられてしまった原因は、何か政治的な理由があるのかもしれないですが、デーヴィ卿と夫人との間にあった、何らかの不調和かもしれません」というようなことを母への手紙に書いているという。
この旅の中でデーヴィは、パリでは、アンドレ=マリ・アンペール(1775~1836)から送られた物質が、「ヨウ素(iodine)」という新「原子(atom)」であることを明らかにする。
ジェノバでは、シビレエイが発生させる電圧の実験をした。
フィレンツェでは、(ファラデーはもったいないと思ったかもしれない)ダイヤモンドを燃やし、それが炭素であることを実演した。
1815年4月にイギリスに帰ってきたファラデーの中には、以前にはなかった、いくつもの新しい科学知識や、知的な興味があったろうとされている。
ウィリアム・ハイド・ウォラストン
ウィリアム・ハイド・ウォラストン(1766~1828)は、ロジウム、パラジウムといった原子の発見や、プラチナの精製法などの功績で知られる化学者である。
電動機の勝手な開発
ウォラストンは 1821年4月に、デーヴィの実験室を訪ねた。
彼らはそこで、前年にハンス・クリスティアン・エルステッド(1777~1851)の、「電流により磁気が発生することがある」という発見に基づいた実験をした。
二人はどうも「電動機(Electric motor)」を作ろうとしたらしい。
しかしたいした成果は得られなかったという。
「電磁気学」最初の場の理論。電気と磁気の関係
しかし二人から後で話を聞いたファラデーは、自分でも興味を覚えて、エルステッドの発見に関しての同じような実験をしてみた。
そして、デーヴィたちは失敗した「電磁回転(electromagnetic rotation)」、つまり電流により発生させた時期を利用した回転を、行う装置を見事に作る。
これはおそらく史上初の電動モーターであったと考えられているが、ファラデー自身はこれを、実用的に使おうとはしなかったようである。
ファラデーは9月に、その成果を発表したが、デーヴィとウォラストンについて言及しなかったために、二人から怒りを買ってしまうのだった。
一方で私生活においては、ファラデーはこの年に結婚している。
夫婦にはしかし、子供は出来なかった。
王立協会の会員へ
1824年5月。
王立協会にて、ファラデーを会員に迎えるべきか、という議題が持ち上がるが、まだ彼との関係がこじれたままだった会長デーヴィと副会長ウォラストンは、強く反対したという。
しかし、結局ウォラストンとは和解したようで、翌年の2月には、彼を含む多数の賛成者たちの署名で、ファラデーは正式に王立協会の会員となった。
そして4年後の1829年に、デーヴィは世を去った。
ウォラストンに関しては、はなからファラデーに対して寛大だったとしている伝記もある。
電磁誘導の発見
ファラデーの科学者としてのキャリアは、化学研究から始まったとされる。
彼の初の論文は、1816年の「トスカーナ産石炭の分析」で、それから1820年くらいまでは、主に分析が得意な化学者として知られていくことになった。
しかし、徐々に電磁気現象に興味を抱くようになった彼は、研究テーマをそちらへとシフトしていく。
そして実験を重ねた末の1831年にファラデーは、後に「電磁誘導(Faraday’s law of induction)」と呼ばれるようになる現象を発見したのだった。
電線を巻いたコイルに電流を流すと磁石(電磁石)になることは、フランソワ・ジャン・アラゴ(1786~1853)やアンペールが、エルステッド以上に早く証明している。
ファラデーが示した電磁誘導とは、その逆の現象だった。
彼はふたつ用意したコイルA、Bの内、Aを電磁石にし、その磁気によってBに電流を誘導させることに成功したのである。
この現象は簡単に見つけられそうなのに、なかなか見つからなかった理由も明らかとなる。
誘導電流は、電磁石となったコイルに動きがあった時、磁気的な効果が変化している時にしか生じなかったのだ。
これは電磁気学における重要な発見であった。
「電気の発見の歴史」電磁気学を築いた人たち
工学的にも、電磁誘導は「発電機(Generator)」の基本原理となるが、やはりファラデー自身は、この発見を実用的な目的で使おうとはしなかった。
ファラデーの答
実用的と言えば、ファラデーは様々な現象が、どういう原理で発生するのか、どのように発生させられるのか、 ということをよく解き明かしたものの、いつもそこで、もう終わりとばかりに立ち止まり、理論の世界から現実の世界に戻ってこようとはしなかった。
そういう人に対して、いったいそれが何の役に立つのか、という質問を浴びせる人は昔から多かったようだ。
ある時、まさしくその質問を投げかけられたファラデーは、こう返したという。
「赤ん坊が何の役に立つのか、生まれた時からわかっている人などいないだろう」
電気分解で分解されてるもの
ファラデーの時代。
原子論に疑問を抱く者は多かったが、彼もそうだった。
「原子という用語には疑問がある。原子について語るのは簡単だが、化合物に関してはそうではない。その性質を原子論に基づいて考えることは難しい」
そんなふうに考えていたという。
1830年代を迎え、電磁誘導を発見したファラデーは、少し化学の領域に戻ってくる。
彼は「電気分解(Electrolysis)」というものを研究し始める。
それは、結局のところ、人柄に呆れながらも科学者としては尊敬していた、師デーヴィが強く関心を抱いていたテーマでもあった。
原子はそれぞれ決まった電気量を持っている
水などの物質に電流を与えることで、それを構成する分子(原子の集まり)に分解することができる。
ファラデーは実験により、分解される物質の量は、その分解を生じさせる電気の量に関連していること。
それに、ある量の電気分解で現れる物質量は、化学当量と呼ばれる数に比例していることも見いだす。
eが分解で現れた物質量。
mが物質量。
Mが分子量。
Iが電流。
tが時間。
iがイオン価数(イオンの持つ電気料)。
Fがファラデー定数という物理定数。
ファラデーはつまり、各物質は、化学的な量ごとに決まった電気量を有すると推測したのだった。
「原子論的に説明するなら、個々の原子は決まった電気量を持っている」とも述べたとされる。
彼の時代には電荷を持った電子というような概念はなかったが、ファラデーは、それに近い考えをすでに持っていたわけである。
「量子論」波動で揺らぐ現実。プランクからシュレーディンガーへ
サイエンティスト流命名
荷電粒子を「イオン」と言うが、 この名称はファラデーが考案したものとされる。
他にも、プラス電荷を帯びた「陽イオン(positive ion)」。
マイナス電荷を帯びた「陰イオン(negative ion)」。
溶解させることで、イオンに分解できる物質を指す「電解質(electrolyte))」。
電流が流される領域において、外部回路から電流が流入したり、放出したりする部分を指す「電極(electrode)」などの、電気化学分野で使われる多くの用語が、ファラデーが提案したものだという。
電磁気関連の様々な用語を考え出すにあたり、ファラデーは、ウィリアム・ヒューウェル(1794~1866)という人に協力してもらったともされる(というか、実質的には彼のほうがそれらの用語を考え出した張本人だろう考える向きもある)。
ヒューエルは「scientist(サイエンティスト)」という名称を考えた人としても知られている。
トムソンとマクスウェル
1839年から体調を崩したファラデーは、 その後5年ほど研究ばかりの暮らしから離れることになる。
しかし、むしろその休息期間が、彼に更なる深い洞察を与えたのではないかともされる。
場の概念の発明
現代的な意味での「場の概念(field theory)」というのは、いつ頃からあるものだろうか。
諸説あるが、例えばイマヌエル・カント(1724~1804)などは、「物質は空間を埋める。空間を埋めるとは、その空間に移動しようとする他のすべての移動可能な物体に抵抗することを意味する」という意味深なことを述べたりもしていたという。
しかし、ファラデーが電磁気現象の理解のために、そこに電磁気の力の線が広がっているような、という感じの場を持ち込んだ当初は、彼の考えは異常に見られたそうである。
ファラデー自身は、磁気現象を説明するのに、「磁場(Magnetic field)」という概念を導入した。
正確には、ファラデーから力の線のアイデアを聞いたウィリアム・トムソン(1824~1907)が提案したという話もある。
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ただし彼はそれを数学的に厳密に定義することはできなかったとされている。
その仕事は、ファラデーのお抱え数学者の一人みたいであったジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831~1879)に託される形となる。
エーテル
正確にはファラデーは、音が空気という場を振動しあう波として伝わるように、電磁気現象は、その時までまだ定義されていない何かを介して場を形成するものなのだと考えたようだ。
そして、その媒介となる何かは、「エーテル」と名付けられた。
このエーテルは、アインシュタインが相対性理論を持って、「それはなくていい」と言うまで、科学の世界で最重要な要素となっていたとされ、よい語り草となっている。
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また、最初は否定されたエーテル理論に対して、当時それなりに有力とされていたのは、電気や磁気を、質量のない流体として考える説だったようだ。
熱の研究でよく定義されていた「熱素(caloric)」なるものも、同じような流体の類とされていたという。
一つの共通する原因がある
「どれか一つの力が原因じゃない。どれも全て繋がっていて、そこに何か大きな共通の原因があるのだろう」
1834年の講演会でファラデーはそんなことを言ったとされる。
電気と磁気だけではない。
ファラデーは、磁気の力が熱の影響を受けることや、どのような原因で発生した力も同じ性質を持っていることなどにも気づいた。
そして1845年の論文には、自信をもって、以下のように書いた。
「私はほぼ完全に確信している。物体の力の様々な形態は、一つの共通の源からその実態を現す。直接関係しあい、互いに依存しあい、あらゆる力は、他のあらゆる力に変換可能でもある」
数学の使えない物理学者
厳密な数学的手法ばかりが重視されていたという当時の学会において、数学の言葉を使わないのではなく、使えない科学者であったファラデーの道は多難だった。
王立協会の会員に選ばれ、その名声が知れ渡ってからですら、彼が提唱する場の理論は、かなり毛嫌いされたという。
おそらく大半の科学者たちは、新しい理論を提唱するなら、数学による説明も一緒でないと話にならないと考えていた。
場の概念の重要性にいち早く気づいた者たちの中に、トムソンとマクスウェルがいたことはかなり幸運と言えたろう。
トムソンは、他の学者たちが望むような数学による記述で、場の理論を語ってみせ、ファラデーを喜ばせた。
そしてマクスウェルは、そのトムソンの論文を通じて、ファラデーの理論を知り、有名な、電磁気学の四つの方程式を考え出すに至ったわけである。
家族、講演会、宗教、戦争
ファラデーと結婚したサラ・バーナードは、夫ほど科学に興味を持っていたわけではないが、研究に没頭する彼に、食事を用意し、健康を気づかい、生涯支えたとされる。
ファラデーは1826年から、一般向けの科学の講演会をよく行うようになる。
彼の講演会は人気で、予算不足の王立協会の助けにもなったという。
ファラデー自身は「物事を教える講義というのは人気が出ない。 人気のある講義は実は物事を教えていない」という持論を持っていたようだが、彼は自分で、それが間違いだと証明することになったのだった。
これは父の影響が結構大きかったかもしれないが、ファラデーは生涯にわたって、強い信仰心を持ち続けた。
ある時に、「宗教はあなたの哲学に影響を与えていますか?」と質問されたファラデーはこう返したらしい。
「私の信じる宗教に自然哲学は含まれていません」
ある意味で、聖書が科学と矛盾しようが、自分には大した問題ではない、という意思表明と言えよう。
また、クリミア戦争 (1853~1856) の時に、政府から化学兵器の依頼がきた際に、ファラデーは怒りを見せて言ったとされる。
「それを作ることはできる。だが私は絶対に作らない」
宮殿にて死す
1848年にヴィクトリア女王(1819~1901)の夫(王配)であるアルバート・オブ・ザクセン=コーブルク=ゴータ(1819~1861)の計らいで、サリーの「ハンプトン・コート宮殿(Hampton Court Palace)」に住めるようになっていたファラデーは、協会を引退した1858年からそこで過ごし始める。
その死は1867年8月25日だった。
その日。
恵まれない環境に生まれながら、それでも幸運で、 優れた理論と実験のアイデアを開発し続けた、計算が苦手な科学者ファラデーは、ハンプトン・コート宮殿内で、椅子に座ったままで永遠の眠りについたのだった。