「マクスウェル」電磁気学の方程式、土星の輪、色彩、口下手な大物理学者の人生

「私はニュートンよりむしろ、マクスウェルの肩に乗っていました」
by.アルベルト・アインシュタイン

クラーク・マクスウェル

 ジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831~1879)は、1831年の6月13日に、スコットランドのエディンバラで生まれた。

 ジェームズとクラークが名前なのではなく、姓名がクラークとマクスウェルの二つだったようである。
父はそれなりの家だったらしいクラークのジョンで、詳しくは不明だが、ジェームズが幼い頃に、ダンフリースシャーにあるミドルビーという領地をマクスウェル家から継承することになったという。
それで彼の一家はマクスウェルという姓名も持つようになったのだった。

 ジョン・クラーク・マクスウェルは弁護士だったが、 趣味で機械工作もしていて、エディンバラの王立協会によく出席したりもしていたようだ。 

幾何学と文学が好きな子供

 クラーク・マクスウェル家が過ごしたミドルビーは、のどかな田園でんえんで、子供心に、ジェイムズは自然界への興味を抱くようになっていった。

 ジェームズは9歳の時、母フランシス・ケイを亡くしている。
そしてその翌年、エディンバラのアカデミー(中学校)に入学。
しかし入学時期が中途半端で、言葉のなまりや、父親譲りの服装の独特なセンスなども 災いし、あまり友達は作れなかったとされる。

 父の熱心な教育もあり、すでに、幾何学や文学に関して、それなりの教養を持っていたことも厄介だった。
暇な時間に、古いバラッド(物語の歌)を読んだり、妙な図形を描いたり、模型を作ったりする彼を、同級生たちは変人と見なしていたわけである。
当時の彼のあだ名はダフティ(あほう)だったともされる。

 しかしある程度学級が上がると、数学や詩に関することで賞をもらったりして、周囲の彼を見る目は、尊敬の眼差しへと変わっていった。

 ただ少年マクスウェルは神童というほどではなく、 あくまでも年齢のわりには数学のよくできる子供みたいな感じだったようだ。

卵形の曲線に関する最初の論文

 マクスウェルの興味は最初から数学と物理学であった。
14歳の時。
彼は卵円形らんえんけいの線に関する、おそらくは彼にとって初の論文を発表した。

 楕円は基準とする2定点(特定の動かない二つの点。焦点)からの距離の和を一定とする点の集合。
この定義より、2本の棒や、糸などを使えば、楕円を描ける。
マクスウェルはさらに複数の焦点を用いた、卵形の曲線を定義したらしい。

エディンバラ大学の先生たち

 マクスウェルの初の論文は非常に評価され、エディンバラ大学のジェームス・デイビッド・フォーブス(1809–1868)により、王立協会でも発表されたという。 

 フォーブズは、1847年にマクスウェルがエディンバラ大学に入学した後にも、物理学のよき先生となった。
また、数学はフィリップ・ ケランド(1808~1879)。
論理学をウィリアム・ローワン・ハミルトン(1805~1865)から学んだとされている。

 また、エディンバラにいる間にマクスウェルは、回転曲線の他、光による弾性個体(力を与えるとひずみが生じるような個体)の研究などを行い、成果をあげた。

 実験を重視していたフォーブズと、現実に再現できる知識などたかが知れていると考えていた哲学主義のハミルトンは仲があまりよろしくなかったようだが、マクスウェルにかける期待に関してだけは意見の一致を見ていたという。

ケンブリッジ大学での日々

恋と秘密クラブの交友関係

 マクスウェルは、1850年に一学期だけケンブリッジの聖ペテロカレッジ(後のピーターハウス)に入ったが、すぐにトリニティーカレッジに移る。
そちらの方が奨学金が安いと考えたかららしい。

 少年時代の頃に比べると、様々な話題に非常に詳しい彼は、最初から尊敬を集め、多くの人を魅了したとされる。
いとこの娘エリザベス・ケイと恋もしたが、 一族の血が濃くなりすぎるとして、家族は心配し、結局長い関係にはならなかった。

 また、マクスウェルはトリニティ・カレッジに来るやすぐに、ケンブリッジのエリート学生ばかりの秘密クラブ、あるいは知的コミュニティの「ケンブリッジ使途会(Cambridge Apostles)」のメンバーに選ばれたという。

 ケンブリッジ使途会は、卒業後にジブラルタルの司教となったジョージ・トムリンソン(1794~1863)が仲間たちと設立したとされるコミュニティで、マクスウェルはそこで、さらにその頭脳に磨きをかけたという説がある。
それに、聖書と信仰に関しても、強い影響を受けたと言われることもあるが、彼が宗教について語った記録はあまり残っていないようだ。

解析より幾何学で優れている

 ケンブリッジに入ってから2年くらいしてから、マクスウェルはそれまでの、読む本の適当な選び方を反省し、特別な数学の試験に向けたしっかりと体系的な勉強を始める。
それにあたって、ウィリアム・ホプキンス(1793~1866)の指導も受けたとされる。

 ホプキンスは、数学の教育者として非常に優秀だったとされている人で、マクスウェル以外にも、ウィリアム・トムソン(1824~1907)やアイザック・トドハンター(1820~1884)などの師でもあった。
夕暮れ時のケンブリッジ「ウィリアム・トムソン」ケルヴィン卿と呼ばれる、最後の大古典物理学者  そのホプキンスをして、マクスウェルは最も優れた生徒だったという。
また彼は、マクスウェルは解析より幾何学の分野で優れていると考えていたようである。

数学試験とストークスの定理

 マクスウェルはホプキンスに学んでいた時期に、やはりホプキンスの弟子だったことのあるジョージ・ガブリエル・ストークス(1819~1903)の講義も聞いているらしい。

 ただマクスウェルは1894年1月に、試験には合格したものの、首席の座をエドワード・ラウス(1831~1907)にとられてしまう。

 マクスウェルは そのことを非常に悔しく思い、その次すぐに行われたスミス賞の数学試験では、今度はラウスと同時首席となった。
その試験には、線積分と面積分の関係に関した「ストークスの定理(Stokes’ theorem)」も含まれていたという。

 ストークスの定理は、後に電磁気理論を組み立てる際の、マクスウェルの数学の使い方、材料として、大きな影響を与えているとされる。

電磁気理論との出会い

 電磁気にまつわるあらゆる現象を説明する方程式として彼が考えた、いわゆる「マクスウェル方程式(Maxwell’s equations)」は、「物理学の二番目の偉大な統一(second great unification in physics)」とされている。

 ちなみに一番目の統一は、アイザック・ニュートン(1642~1726)の力学と万有引力の一連の定理らしい。
リンゴの木「ニュートン」万有引力の発見。秘密主義の世紀の天才  重要な概念はマイケル・ファラデー(1791~1867)が考えたものだった。
「マイケル・ファラデー」逆転人生と逸話、場を定義した物理学者の伝記 それを考慮に入れて、マクスウェルは、それまで行われてきた電磁気に関するあらゆる研究成果、観察され確かめられてきた現象を、方程式の表現でまとめたのである。
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ファラデーの力線について

 ケンブリッジを卒業してからもトリニティカレッジで「色彩論(Color theory)」などを研究していたマクスウェルは、トムソンの論文を通じて、ファラデーが提唱した場の理論、磁気の影響範囲を示す磁力線という概念を知った。

 そしてマクスウェルは1855年12月に「ファラデーの力線について」という論文を発表。
これがファラデー自身にも高く評価され、二人は交流も持つようになった。
ファラデーは、 自分の理論に関して数学的な記述のみで満足しないで実験に応用できるような言葉で説明してほしいとも頼んだとされている。

 とにかくそうしてマクスウェルは電磁気の研究を自分でも始めたのだが、慎重派な上に忍耐強い彼は、その研究を完成させるまでに10年ほどもかけている。

説明下手な大学教師

 電磁気の方程式を発表した時まで、マクスウェルはずっとその問題ばかりに取り組んでいたわけではない。

先生としてはダメ

 電磁気学の研究を始めた矢先。
マクスウェルはフォーブズの推薦もあって、アバディーンにマーシャル・カレッジの教師の職を得る。
その推薦を受ける気になった理由の一つとして、敬愛していた父の暮らす実家が近いからということもあったらしいが、その父はその頃にちょうど亡くなってしまう。

 父の死はマクスウェルにかなりのショックを与えたようで、彼はマリシャス・カレッジの教授に正式に任命されながら、最初の講義を開くまで、かなりの間をおいたという。

 マクスウェルは人に教える才能に関してはあまりなかったようだ。
彼の授業は実にわかりにくいと不評で、多くの人からしてみれば、意味不明なことを説明するために意味不明な言葉を使っていたという。
ただしもちろん中身がなかったわけではなく、理解できる者にとっては素晴らしいものだったともされる。
しかし、マクスウェルはしばしば、講義中に思いついたかのようなことを、これは重要なことだろうと黒板にいきなり書き始めたりして、どれほど優秀な生徒であっても、それでついていけなくなったりした。

 またマクスウェルは、相変わらずの田舎訛りや、風習の違いなどから、アバディーンという土地自体にもあまり馴染めなかったらしい。

土星の輪は粒子

 アバディーンに勤めた期間の最初の2年ほどで、マクスウェルは土星の輪についてよく研究したという。
太陽系「太陽と太陽系の惑星」特徴。現象。地球との関わり。生命体の可能性  マクスウェルは論文で、土星の輪の引力や、運動の安定条件などに関する環境を提示し、その安定の唯一の解を導出。
彼の解は土星の環が安定して存在し続けるためには、それが粒子状でなければならないと示していたされる。
リングが固体なら安定できず、流体なら波の作用で分裂するとしたのだ。

 そしてマクスウェルはその論文で、ケンブリッジのアダムズ賞を受賞した。

結婚と夫婦仲

 アダムズ賞を受賞した1858年。
マクスウェルはマーシャルカレッジの学長の娘キャサリン・マリー・デュワーと結婚もしている。

 マクスウェルは最初はつれなかったキャサリンを熱心に口説いたという。
キャサリンとの夫婦仲はおそらく良好であったが、彼女は夫の携わる科学の仕事に反対しているような節があったともされる。
しかし、彼女は夫の実験を手伝ったりもしていたようだ。

エディンバラ大学のテイト

 1860年にマーシャルカレッジがキングスカレッジと統合するにあたり、マクスウェルは教師の職を解雇される。

 統合にともない、キングスカレッジのトムソンと職がかぶることになり、大学側は彼の方を取ったらしい。

 その後、マクスウェルは、すぐにエディンバラ大学への就職を希望したが、彼は採用されなかった。
希望者の中にはかつて数学で競ったラウスや、アカデミー時代からの友人であるピーター・ガスリー・テイト(1831~1901)もいた。
結局採用されたのはテイトだったという。

手紙のJCMのサイン

 マクスウェルは社交性はあまりなかったとされるが、テイトとはいつも仲良く手紙でのやり取りも多かった。
手紙にはよく「dp/dt」とサインされていたそうだが、これはなかなか洒落たジョークであった。

 テートはトムソンとよく物理学の著作を共同で書いたが、それが縁か、トムソンはT、テートはT’(Tプライム)とよく呼ばれてとそうだ。
関数グラフ「微積分とはどのような方法か?」瞬間を切り取る ちなみにファラデーの後継者とされていたジョン・ティンダル(1820~1893)がT”’(Tダブルプライム)だったらしい。
こういうことから思いついたのだろう。

 普通の微分式においては、T’は正確にはdT/dtのようにも書ける。
ところでJ(ジュールの当量)、C(カルノー関数)、M(絶対温度 Tを一定とした場合に、単位体積あたりの熱量の割合)において、
M = T(ds/dV)。
sはエントロピーで、Vは体積。
さらに、マクスウェルの熱力学の関係式のひとつに、
(ds/dV)=(dp/dT)
というのがある。
pは圧力。
ここから、JCMをもじってdp/dtなんだそうだが、ちょっとわかりにくすぎる。

 意味不明なことを説明するために意味不明な言葉を使っていたと言われるのも納得かもしれない。
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ロンドンでの最も創造的な5年

 エディンバラに職を得られなかったマクスウェルは結局、キングス・カレッジ・ロンドンの自然哲学教授に任命される。
そして、そのままロンドンで過ごすことになった5年間は、マクスウェルにとって最も創造的な時期だったとされる。

 彼はこの時期に、気体の振る舞いや、色に関する理論を発展させる。
さらに、3つの色のフィルターを通した写真を重ねることで、カラー写真を撮影することに、世界で初めて成功してもいる。
何より彼は、後のすべての科学に影響を与えたとされる、電磁気の力学理論も、この時期に完成させたとされている。

 マクスウェルが、電磁場の数学的モデルであるマクスウェル方程式を導出し、王立協会で発表したのは1864年のことであった。

 実際に方程式としてまとめたのは1861年で、その翌年には電磁気の伝わる速度が、光速に等しいことも明らかとし、彼は光は電磁気現象に他ならないと、すでに結論している。

 マクスウェルがまとめた方程式の数は20あったが、彼の熱心な支持者であったハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ(1857~1894)やオリバー・ヘビサイド(1850~1925)が再定式化した際に4つに減らされている。
現在マクスウェル方程式と言えば、ヘルツらが減らした4つの方程式のことである。

キャベンディッシュの研究

 1865年。
病をきっかけに、教授という職に疲れを感じたマクスウェルは、退職して、グレンレアで静養することを決める。

 そして1871年にケンブリッジに戻ったマクスウェルは、第7代デヴォンシャー公ウィリアム・キャヴェンディッシュの寄付金によって新しく作られた、キャヴェンディッシュ研究所の初代所長に任命された。

 最初はトムソンやヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821~1894)に話が来たが、彼らが断ったために、マクスウェルが就任という流れになったらしい。

 ウィリアム・キャヴェンディッシュは、かの有名な不出世の大科学者ヘンリー・キャヴェンディッシュ(1731~1810)の子孫である。
これも運命か。
その名前の研究所の所長になったことが、マクスウェルとキャベンディッシュが交わるきっかけとなった。

 そういうわけで、マクスウェルはキャベンディッシュの功績の最大の再発見者にもなったのだった。
キャベンディッシュの実験器具「ヘンリー・キャベンディッシュ」最も風変わりな化学者の生涯と謎。

驚くべき秘密の論文集

 研究所の建物自体が完全に完成したのは 1874年6月で、その時に キャベンディッシュの電気に関係する遺稿いこう(死んだ人の未発表の原稿)が、デヴォンシャー公からマクスウェルに贈られた。

 研究所所長として働く傍らで、マクスウェルはキャベンディッシュの原稿にすぐ夢中になったとされる。
それらはキャベンディッシュが自分のために書いたメモばかりで、100年も経った後のマクスウェルが読みやすいものではなかったはずだ。
マクスウェルは、それらのメモの内容全てを、一旦自分が読みやすいように書き写す必要さえあった。

 物理学の実験のための研究所所長という立場は好都合だった。
キャベンディッシュ研究所の一室でマクスウェルは、18世紀後半に、誰にも知られることなく行われていたのであろう様々な実験を、忠実に再現していった。

 そして1879年。
マクスウェルは、キャベンディッシュが行っていた電磁気学に関係する研究の論文集を発表したのだった。

 それは驚くべき発見であった。
例えばキャベンディッシュは、シャルル=オーギュスタン・ド・クーロン(1736~1806)やゲオルク・ジーモン・オーム(1789~1854)の法則などに先に気づいていたのだ。
ファラデーの電磁誘導にすら感づいていた節もあるという。

 マクスウェル自信が、謎に包まれたキャベンディッシュのファンになっていたのだろう。
後にジョゼフ・ラーモア(1857~1942)は以下のように評したとされる。
「一人の科学者が残した未発表の記録を、別の科学者が全く完全に整理して復元した例は、歴史を通して、おそらく他には見られないだろう」

二人目の巨人の最期

 1878年に行われた、マクスウェルにとって最後となった講演で、彼はアメリカで発明されてまだ2年ほどでしかなかった電話機について語ったとされる。
「これこそ人の知恵の結晶だ。多くの学者が歩いてきた茨の道の終着点だ」
この言葉はそのまま、彼が導出した電磁気学の方程式にも言えるだろう。

 彼ががんで苦しむようになったのは、その前年、1877年のこと。

 そして1879年11月5日。
別に奇跡も起きないで、ニュートンより後、アインシュタインより前の、二人目の科学の巨人は世を去ったのだった。

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