「トーマス・エジソン」発明王と呼ばれた独学者。Hello、蓄音機、白熱電球

発明王エジソン

 トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison。1847~1931)と言えば、その生涯に凄まじい量の発明を行った「発明王(King of Invention)」として有名である。
その発明の数は1300を超えるともされる。

 また彼は、現在は総合電機メーカーの「ゼネラル・エレクトリック社(General Electric Company。GE)」として知られる「エジソン・ゼネラル・エレクトリック(Edison General Electric Company)」の創業者でもある。

 学校教育をほとんど受けていなかったが、非常に博学であったと伝えられる。
読書による独学で成り上がったらしいことから、「不屈の人」とも「非常な努力家」とも呼ばれる。
しかし母親が学校の(それも優秀だったらしい)教師であったのは、確実に運がよかったろう。

 それとエジソンは、個人の優れた発明家というだけでなく、科学的発明に組織的に取り組む、チームワーク研究の先駆者ともされる。

 彼に関する多くのエピソードから、おそらくは自閉症スペクトラムだったろうとされる。
自閉症的な心 「自閉症の脳の謎」ネットワークの異常なのか、表現された個性なのか

不可能なことはないとも考えられていた

 「魔術師(Wizard)」とも呼ばれていたように、 発明家としての名声は生前から大きく、彼には不可能なことなどないのではないか、というような風潮まであったとされる。

 1878年のエイプリルフール。
彼の新発明のネタを何か掴めないものかと、研究所に張り込んでいた新聞記者に対し、「実は、空気と水と土だけを使って、ビスケットと肉と野菜とワインを作る機械の発明に成功したんだよ」などと、エジソンはおもしろおかしく冗談を言った。
ところがそれが本気にされてしまい、 翌日にその発明の話がニューヨークの新聞のトップを飾る事になってしまったという話が残っている。

 また、「夜空に輝く金星とかいう星は、実はエジソンが風船で飛ばしている電灯である」なんて記事が、やはりニューヨークの新聞に掲載されてしまったことがあるのだという。
そしてその記事がきっかけだろう。
アメリカのあちこちから、夜に風船で飛ぶエジソンの電灯を見たという証言があがったそうである。
まるで、UFOの目撃証言などに関する集団ヒステリーのようだ。
現在のアメリカにおいても、その、金星とエジソンに関する話自体は、都市伝説的な感じで語り継がれているらしい。

自分の知識の深さを信じていた

 おそらく大層な自信家で、自己顕示欲は強かった。

 少年時代に、ヘリウムガスを使って、人が空を飛ぶための薬を開発しようとしたが、試作品を友人に飲ませて、殺しかけたという話が伝わっている。
この時は、普段彼に甘い母親も、相当な勢いで怒ったとされる。

 発明家としての名声を得てからも、自分の発明に関する自分の権利に関する、訴訟そしょうをためらうことはなかった。
開発競争の相手が気に入らない時はプロパガンダ(印象操作)的な宣伝まで行ったようである。

 また、エジソンは糖尿病に苦しんでいたが、「自分の方が(薬の原理である)化学の何たるかについて詳しく知っているから」と、医者の言うことを聞かなかったともされる。

二度の結婚

 恋愛が苦手だったようだ。

 二度結婚しているが、あまり自分の家庭を大切にするタイプでもなく、家よりも実験室で過ごすのが好きだった。

 最初の結婚は1871年、24歳の時。
相手はエジソンの店の従業員だった、メアリー・スティルウェル(Mary Stilwell。1855–1884)。
出会って2ヶ月ぐらいしてからの結婚だが、この速さは少しばかり、とりあえず感がある。
彼女はダンスが趣味だったようだが、エジソンには「チンパンジーじゃあるまいし」というように、バカにされていたともされる。

 メアリーは1884年8月に、29歳という若さで亡くなったが、原因は不明。
ただ、何かの病気の治療のために使った、モルヒネの過剰摂取という説がある。

 二度目の結婚は1886年。
相手は、仕事仲間の娘であったミナ・ミラー(Mina Miller。1865〜1947)。
しかしエジソンは、発明のための研究に熱中するあまり、彼女が誰かを忘れることすらあったという。

金にはあまり興味がなかった

 エジソンは、金を貯めるということをしない人で、いくら儲けようが、たくさん抱えるアイデアの次なる実現のために、金を惜しみなく使った。

 そして、わざとなのか、そこは計算に失敗していたのか、しばしば手元の金額以上の機材の発注などをして、支払いがとどこおったりして、警察や裁判所から説教をくらった。
「そのうち倍にして返してやるから、今は待て」というのが、借金取りたちに対する、彼の決まり文句だったともされる。

少年時代のエピソードに関して

 エジソンの少年時代に関しては、わりとわかっていないことが多い。
日本ではなぜかやたらと語られる傾向がある、わずかな期間、学校に通っていた時期のエピソードも、やや創作混じりな感じが強い。

 例えば「1+1=2」と教えられた時に、「1個ずつの粘土を混ぜたら、やっぱり1個の粘土じゃないですか」というように質問したとされる話など(注釈1)
ひまわり 1+1=2は証明されてない?「数の雑学」
 また、先生たちから「君の頭は腐っている」などと言われ、「ほかの生徒たちの迷惑になる」という理由で退学になったのだともされるが、実際は単に病気が理由だった説もある。

 ただ確かなことは、エジソンが少しだけで学校を止めて、そして12歳(あるいは13歳)くらいに働き始めた時代。
わずかな期間しか学校に通えないのも、10代前半で働き始めるのも、たいして珍しいことではなかったということ。
ちなみに、その頃と言えば、アメリカ合衆国と、合衆国から脱退した11州が結成したアメリカ連合国と間に「南北戦争(American Civil War)」が起こる寸前である。

(注釈1)ある量は不変

 粘土でいうなら、単に量的な話でよかったのでなかろうか。
そう考えてしまいたくもなるが、おそらくそれはエネルギー保存則を当たり前のように知っているからであろう。
熱力学 エントロピーとは何か。永久機関が不可能な理由。「熱力学三法則」
 エジソンなんて、ケルヴィン卿( William Thomson。1824~1907)やマクスウェル(英:James Clerk Maxwell。1831~1879)と大して変わらない世代なのである。
夕暮れ時のケンブリッジ 「ウィリアム・トムソン」ケルヴィン卿と呼ばれる、最後の大古典物理学者 「マクスウェル」電磁気学の方程式、土星の輪、色彩、口下手な大物理学者の人生

先祖と、両親

 オランダ系である(父方の)エジソン家の先祖は、アメリカの独立戦争の時までニュー・ジャージーに暮らしていたらしい。
オランダの家 「オランダ」低地国ならではの習慣と特徴。水と風車と倹約家主義 アメリカ独立 「アメリカの独立」宣言書、13の州、先住民、戦争により自由を
しかしイギリス王への忠誠心からカナダへと移住。
イングランド 「イギリス」グレートブリテン及び北アイルランド連合王国について カナダ 「カナダの歴史」重要な出来事、移民たちの文化、先住民との関わり
 第二次独立戦争とも言われる、1812年の米英戦争では、エジソンの先祖(おそらく祖父と曾祖父の世代)は、アメリカを敵として戦ったようである。

 エジソンの父であるサミュエル・オグデン・エジソン(1804~1896)は、ニューヨーク出身の母ナンシー・エリオット(1810~1871)と結婚したが、しばらくはカナダのオンタリオで暮らしていた。
しかし政治活動がらみの暴動に巻き込まれ、アメリカに逃亡。
オハイオ州のミラノに落ち着いたのだという。

 夫婦には7人の子供が生まれたが、トーマス・エジソンはその7人目の子だった。
幼い頃はアル(Al)という愛称で通っていたとされる。

 ちなみに、もともとの(おそらくはオランダ的な)姓名はエジソンでなく、エデソン(Edeson)だったらしい。

少年時代の興味と仕事

 1854年。
エジソン家は、ミシガン州ポートヒューロンに移住した。

 学校に通っていた期間は数ヶ月程度だった。
しかし退学後も、教師だった母から、読み書きや算数の教えは受けたとされる。

 そしていつ頃からか、化学や工学に強い興味を持つようになり、自宅で、独自の化学実験や、機械の発明を行うようになっていった。

 エジソンは病気がちだった子らしいが、12歳で聴覚に障害を持ってしまった。
しかし彼は後に、「むしろ読書に集中できるようになったので、自分としてはよかった」というように述べるようになる。

 エジソンは人付き合いをあまり好まなかったともされるが、耳を悪くしてしまったことがその直接的な原因だと、よく推測されている。

自宅新聞の販売

 1859年に、エジソンは独学で学んだ様々な知識を活かして、鉄道の駅で、自作の新聞を売り始めた。
これはわりと好評だったらしい。

 新聞の他に、お菓子や野菜を売っていたという話もある。

 儲けた金のほとんどは、電気や化学の実験のための機器に使われたという。

 1862年。
働いていた鉄道の駅で、列車にひかれそうになったジミーという3歳の男の子を助けたが、彼は駅長の子であった。
そうして感謝の気持ちとして、駅長は電気通信の技術をエジソンに教えてくれたが、これが、人生の大きな転機になったともされる。
電気回路 「電気回路、電子回路、半導体の基礎知識」電子機器の脈 電波 「電波」電磁波との違い。なぜ波長が長く、周波数が低いか

最初の発明、電子投票レコーダー

 1868年。
エジソンはボストンに移り、しばらくはウエスタンユニオン社のオフィスで働いていたが、翌年には、自分の発明に専念するために、退職したそうである。

 エジソンが特許を取得した最初の発明は、1869年の、賛成票と反対票の数を押しボタンで瞬時に集計できるという、「電子投票レコーダー(electric vote recorder)」であった。
しかし、この発明品のターゲットであろう政治家たちは、機械の使用に抵抗があり、これはまったく受け入れられなかった。

 エジソンはこの時に、二度と誰も望まない発明などしないと誓ったとされる。

最初の会社とストックスティッカー

 エジソンは1869年中に、ニューヨーク市に引っ越している。

 そして10月。
エジソンは、電気技師仲間のフランクリン(Franklin Leonard Pope。1840~1895)と一緒に、自分の会社を初めて立ち上げた。
結局このパートナーシップ(共同経営)は、わりとすぐに終焉を迎えたようだが、一緒に開発したらしい、かなり実用的な「ストックティッカー(stock ticker。株式相場表示機)」は、非常に好評で、その特許権は、予想以上の高値で売れたという。

 これによってエジソンは、 自身の発明品の商売人としても、自信を持ったとされる。

 ストックスティッカーは、株価情報を送受信し、 その情報を紙テープに印刷するというもの。
エジソンたちが開発したのはあくまでも、従来より高機能なもので、これ自体はエドワード・カラハン(Edward Augustin Calahan。1838~1912)という人の発明。

 現在はコンピューターモニターが使われることが普通になったから、廃止されたが、このティッカーというのは、当時はかなり革命的なものであった、
それがなかった時代は、株価情報はすべて口頭か手紙で伝えられていたのだ。
ティッカーは、 長距離感でのリアルタイムの商取引を可能にしたわけである。
株式ゲーム 「株と価値の仕組み」金儲けの為に動く現代社会

メンロパーク研究所がもたらした音と光

 「メンロパーク(Menlo Park)」はカリフォルニア州にある街の名前だが、ニュージャージーのミドルセックス郡にも、同じ名前のちょっとしたコミュニティエリアがあるという。
そこはどうも、不動産開発が失敗した場所であったらしい。

 エジソンが、そのニュージャージーのメンロパークに自宅を移し、研究所を開設したのは1876年のこと。

 そのメンロパークの発明研究所は、エジソンの多くの有名な実験と発明の舞台となったため、今日でも非常に有名である。
エジソンには、この場所にちなんだ「メンロパークの魔術師」などという呼び名もある。

 歴史的に見ても、メンロパーク研究所は、科学研究の実用的かつ商業的な応用を追求した、最初期の研究所の1つとされていて、かなり重要。

 発明家トーマス・エジソンの名前を不動のものにした、1877年末頃の「蓄音機ちくおんき(Phonograph。録音機)」の開発も、このメンロパーク研究所で行われた。

電話と挨拶

 グラハム・ベル(Alexander Graham Bell。)が、音声の送受信装置である電話の特許を取得したのは1876年の3月。
しかし伝わる音の精度があまりよろしくないと不満だったエジソンは、翌年の1877年に、電話回線を介して、より明瞭めいりょうに声が伝わる電話を発明した。

 エジソンは、電話に加え、それによる会話の第一の挨拶である「ハロー(Hello)」なる言葉を開発したという説もある(注釈2)

 1877年。
ピッツバーグ市に電話が開通した時。
電信会社の社長から、電話で会話する時に、最初に交わす挨拶の言葉はいったい何がいいだろうか、と相談されたエジソンは、ハローという言葉を提案したのだという。

 一方でグラハム・ベルは、船乗りの挨拶であった「アホイ(Ahoy)」というのを、第一の挨拶としようとしていたともされる。
エジソンは、響きが悪いということで、それをあまり好まなかったようである。

 ハローは1880年までには、電話を使う者たちの間に普及していたとされる。
この言葉は短く、そういう意味で実用的でもあった。
このような短い挨拶言葉を知らない者は、電話での会話の際に、まず、「何かようですか?」とか、「誰かいますか?」とかいった、微妙な長さの決まり文句を使っていたが、ハローの方が手っ取り早い。
当時の時代の、まだまだ感度のよろしくない電話機においては尚更である。

 ハローはすぐに、電話に限らず、使われる挨拶となった。
冷静に考えてみたらこの言葉は、初対面の相手とのコミュニケーションを容易にした。
誰かに声をかける場合に、ハローという短い挨拶は実に気軽なものであろう。
そこでハローは、英語圏の人々のコミュニケーション文化を変えたともされる。
しかし、短い挨拶言葉自体は、もっと古くからあるともされる。

(注釈2)実際、Helloはいつから使われていたか

 最も有名な英単語はOkだとされる。
一方で、最も最初に学ばれることが多い英単語がHelloだとされる。

 実際にこれをエジソンが開発したというのは、 数多くある説の一つにすぎないらしいが、いずれにしてもこの英単語の歴史が、英語という言語の歴史の中において、驚くべきほど新しいものであることは間違いないようである。

 少なくともシェイクスピア(William Shakespeare。1564~1616)の時代に使われていた挨拶は、Hailだったらしい。
もともとHelloは、このHailの訛った形の一つともされる。

 19世紀の初期頃には、挨拶というよりも、驚きを示す声としてHelloは使われていたという話がある。
だとすると挨拶言葉としてのHelloを発明したしたのは、確かにエジソンなのかもしれない。

蓄音機。音の記録と再生

 例によって、音を記録するための機械というのも、初めて考案、発明したのはエジソンではない。
ただしエジソンの蓄音機は、記録に加え、再現(再生)も可能なデバイス(装置)というのが、画期的であった。

 ちなみに史上最初の蓄音機は、エドゥアール・マルタンヴィル(Édouard-Léon Scott de Martinville。1817~1879)が1857年に発明した「フォノトグラフ (phonautograph)」とされている。
ただしこれは音を、波の図形(波形はけい)として記録し、その図形を紙に転写するというもので、いわば音を視覚的データとして記録する装置にすぎない。

 音の記録に加え、それをさらに再現する具体的な方法を最初に考案したのは、おそらくチャールズ・クロスの(Charles Cros。1842~1888)である。
彼のアイデアは、波形を転写するのでなく、物理的に溝として、回転や直進させたりする金属などの媒体ばいたい(レコード)に刻み、そこから可逆的に音声を再現するというもの
しかし彼には、自分の構想した蓄音機「パレオフォネ(Paleophone。過去の音)」を、職人に依頼するような資金がなかった。

 クロスが自分のアイデアを、フランスの科学アカデミーに提出してから半年後くらい。
原理の発表からなら2ヶ月後くらいに、エジソンは自身の蓄音機を発表した。
これは原理的にはパレオフォネと似たようなもので、音の波形を、ろうを塗った円筒の媒体である、「蝋管ろうかん(wax cylinder)」に刻み、そこから記録した音を再現していた。

 エジソンは、クロスのアイデアをおそらく知らなかったとされている。
時期が近しいのはおそらく偶然である。

 エジソンは電話の実験を繰り返す内に、蓄音機の原理を思いついたのだという。

白熱電球フィラメントと日本の竹

 エジソンは1878年からは、音でなく、光を貯めるシステムの研究に注目する。

 そして新たに開発され、1879年11月に特許申請したらしい、「白熱電球(incandescent lamp)」は、世界中に凄まじい影響を残した。
白熱電球は、フィラメントと呼ばれる抵抗体を熱して、光(電磁波)を放出させる装置。
これはエジソンの数多くの発明品の中で、最も重要なものとされている。
雷 「電磁気学」最初の場の理論。電気と磁気の関係
 フィラメントには「細い糸」というような意味があるが、そういうふうに見えるから、そう呼ばれるようになったらしい。

 電灯というもの自体も、白熱電球以前から「アーク灯(discharge lamp。放電灯)」がすでにあるが、 一般家庭で使うには明るすぎるとされていた。
電極をつけたガラス細工を光らせる「ガイスラー管(Geissler tube)」というのもあったが、こちらは必要な電気量が多すぎとされていた。

 ガイスラー管は「蛍光灯けいこうとう(fluorescent lamp)」の起源とされる。

 エジソンの発明はたいていそうだったとも言われるが、まったくそれまでにない新しいものというよりは、それまで問題が多かった物を実用的に改良することこそ、彼の得意技であったのだろう。

 白熱電球に関しては、連続して光を放ち続けることができるフィラメントがなかなか開発されなかったのだが、エジソンは何千回と実験を繰り返して、使える素材、竹を見いだしたのだった。

 エジソンは商品として売り出すためには、少なくとも600時間点灯が可能なフィラメントが必要と考えていた。
そして、ある時に使った竹を素材としたものが、200時間点灯できたことから、エジソンは素材を竹に限定。
世界中に エージェントを派遣して、あらゆる地域から竹を集めさせたという。

 そうして、最終的に採用されたのは日本の竹であった。
京都の石清水八幡宮いわしみずはちまんぐうから採取した竹を使ったフィラメントは 1200時間点灯し続けたともされる。

鉱石とコンクリートの失敗談

 輝かしい成功がよく語られるエジソンであるが、数多くの挑戦をしてきた彼であるからこそ、失敗も結構あったという。

 光の装置の研究に夢中になっていた頃。
エジソンは、鉱石からさまざまな金属を抽出する、鉱石粉砕のプロセスにも強い関心を持っていた。

 1881年には、鉱石事業を主とする会社を設立。
しかし、この事業が儲けにつながるような市場は、見つからなかったとされる。

 エジソンはまた、やたらコンクリートの使用促進をしていたらしい。
住宅、蓄音機、家具や楽器まで、 様々な製品の製造における低コスト化のための、コンクリートの代替を想定。
しかし、少なくとも当時は、コンクリートを使っても無駄にコストが増えるだけという結論が出されたらしい。

キネトスコープ。映画の始まり

 1888年。
エジソンはウェストオレンジで、写真家のエドワード・マイブリッジ(Eadweard Muybridge。1830~1904)と会い、彼が馬の走る様を連続撮影した臨場感ある写真をみて、大いに刺激を受けたという。

 エジソンはそうして、動く画像の装置の発明に取りかかり、1891年に完成したのが、映画を上映するための装置である、『キネトスコープ(Kinetoscope)』であった。
1893年のシカゴ万国博覧会にてお披露目されたこの装置は、覗き込むことで、箱の中に映された映像を見るというもの。

 このキネトスコープを改良し、スクリーンに映像を投影するシステムを作ったのは、オーギュスト・リュミエール(Auguste Marie Louis Lumière。1862~1954)とルイ・リュミエール(Louis Jean Lumière。1864~1948)の兄弟である。

海軍コンサルティング委員会

 20世紀になる頃には、エジソンの始めた事業組織は大きくなりすぎて、新しい発明よりも、むしろ市場の売上を維持することに努めるようになった。
これに不満を抱くエジソンと、組織との衝突も増えたとされる。

 また、ヨーロッパで始まった第一次世界大戦にアメリカが関与するようになった1915年頃。
エジソンは「海軍コンサルティング委員会(Naval Consulting Board)」の委員長に指名される。
これは、政府の防衛プログラムのための、科学導入の試みであった。
戦争中。
エジソンは特に、潜水艦の研究に尽力したが、 彼は自分の提案の多くがことごとく却下されることに、かなり不満を抱いていたようである。
潜水艦 「潜水艦の構造と仕組み」空気と海水。浮力と推進力をいかに得るか

スピリットフォンの噂

 1920年代には、エジソンの健康状態は悪化し、さすがに自宅で過ごす時間も増えたという。
しかしこの頃にも、彼の研究熱が覚めることはなかったとされる。

 電話のアイデアをさらに発展させようとしていたエジソンは、1920年10月に、スピリット(魂)の世界の住人とコミュニケーションを行うための機械「スピリットフォン(Spiritphone)」に取り組んでいると発表したらしい。

 第一次世界大戦は多くの人から家族を奪った。
そして残された人たちの中には、寂しさゆえか、気でも狂ったのか、永遠に別れたはずの大切な人と、また繋がりたいと、 スピリチュアルの思想に傾倒けいとうする人が増えたという。
ただしそこはさすがにもう20世紀。
魔法よりも、科学の力に頼ろうとする人が多かったようだ。

 歴史の妙であろうが、この頃は現在よりも科学は万能という風潮が強く、魔法よりも科学の方を信じるという人が多かったかもしれない。

 エジソン自身は、自分は不可知論者であり、本当に死者の世界なんてものがあるのかはわからない、としていたともされる。
一方で、彼は自身が開発したスピリットフォンで、すでに故人である物理学者のウィリアム・クルックス(William Crookes。1832~1919)との交信に成功したという話があった。

 ただし、エジソンは 生前にそのスピリットフォンを公表することはなかったし、1931年に彼自身が死んだ後の探索でも、そんなもの見つかりはしなかった。
現在ではスピリットフォンの話は、単に彼お得意のジョークだったという説が有力とされている。

秘密の実験

 しかしエジソンが生前に、死者に関する何かを特別な装置に記録したという噂は、現在まで根強く残っている。

 例えば1933年の10月。
Modern Mechanixという雑誌に「エジソン自身の秘密のスピリット実験(Edison’s Own Secret Spirit Experiments)」と題した、1920年代の後半に、エジソンが秘密の研究所で、何人かの科学者仲間と一緒に、死者の存在の痕跡を記録したという話が紹介されている。

 それはとある冬の夜のこと。
エジソンは、個人的に親しい何人かの科学者たちを、研究所の実験室に集めていた。
そこにはスピーカーに発電機、他様々な実験装置。
エジソンは暗闇を照らすためのようなランプ装置に光をつけた。

 エジソンは、幽霊なんてものが存在するのなら、電気を使って検出できるかもしれないし、その音を、人は聞けなくとも、機械なら 捉えられるかもしれないと考えた。

 しかしこの秘密の実験は、結局否定的な結果に終わったようである。

生命体には物理を超えた何かがあると信じていた

 エジソンは霊的なものでなくとも、ある生命には何か、不滅の要素か、それでなくても物理的な要素を超越した何かがあると信じた。

 エジソンはある時、自らの仮説を裏付けようと、自らの指に火を浴びせたともされる。
この意図的な火傷の前に、指の表面の皮膚の線を記録しておいて、傷が癒えた後に、回復した指と、前の分の記録を比較し、人の見事な復元能力を確かめる。
そして、そこには何らかの、意図されたデザインの記録が存在していることを理解したのだった。
「宇宙プログラム説」量子コンピュータのシミュレーションの可能性

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