そもそも美しい、可愛いとは何か
目が見える者なら、誰でもその理由を知っている
昔、「人はなぜ美しい物ばかり求めるのか?」と尋ねられて、アリストテレスはこのように返したという。
「目が見える者なら、誰でもその理由を知ってる」
アリストテレスよりもさらに前の時代。
プラトンは述べた。
「どんな人間であれ、少なくとも三つは望みがある。健康でいること、真っ当な方法で金を手に入れること、そして美しくあること」
美しい、可愛いは主観的か
美しいとか、可愛い。
というのは、ほとんど確実に、少なくとも現在は主観的なものである。
たいていの場合は、その人にとって美しいものが美しいのである。
一緒にいて楽しいと美しい。
喜びが伝わってくるようなら美しい。
心を落ち着かせてくれる、あるいは奮い立たせてくれるなら美しいわけである。
「意識とは何か」科学と哲学、無意識と世界の狭間で
今は、「ダサかっこいい」とか、「キモかわいい」とかいうような 言葉もある。
あまりよく考えなくても、けっこう意味不明である。
美しいを定義する、シンメトリー
調和した形や鮮やかな色彩は美しいものとされる場合がある。
これらを比率によって、その美しさのレベルを、しっかりと数値的に定義する試みは、ギリシャで盛んに行われていたようだ。
ローマ時代に至っては、哲学者プロディノスが、こう書き残している。
「美しいものは本質的にシンメトリーをなす」
要素は必ず全体につながる。
つまり、醜いものが美を構成することはありえないというのだ。
物理学者の理論上の、正しいと直感するような数式は非常に美しいとされることもある。
「超ひも理論、超弦理論」11次元宇宙の謎。実証実験はなぜ難しいか。
アインシュタインが相対性理論の正しさを強く信じていたのも、その考え方から導かれる数式が、美しかったからともされる。
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可愛いは正義、とかいう恐ろしい思想
知識人と呼ばれるような人は基本的に、美というものは、別にあまり意味もないものと考える。
だが美しいものに、人は目を止める。
美しいというだけで人は楽しめる。
我々の中に、もしかしたら気持ち悪いような欲望を掻き立てる。
それが争いのもとにもなる。
恐ろしいことに、多分たいていの人が、自分がそれによって不正していない、ということを認めるのが難しい。
自分にとって、それ以外が同じものなら、美しい醜いは明らかに判断基準となっている。
それだけならまだいいが、他の要素で少し劣っているものと、優っているものがあったとして、劣っているものの方が美しいならば、我々はきっとそっちを取ることがある。
それに、様々な人を判断してきて、良いことをする時、容姿に優れたものに関してはそれを大げさに見て、容姿の良くないものに対しては、少し悪いことをしただけで短絡的な判断を下しがちかもしれない。
何か感動的なエピソードがあった時に、実際の写真などを見せられて、そのエピソードの主役の容姿があまり良くなかったら、がっかりする気持ちが、少しでもわいてしまう。
相手のことをあまり知らないとして、いきなり告白されたとしたら、その相手の容姿が優れているなら、それだけで心が動く人もおそらく多い。
そんな場合は、逆に警戒するという人もいるだろうが、警戒するという人の警戒度合いも、おそらく相手の容姿が優れているほど大きいのではないだろうか。
それは、美しいのが優れたものであると、認識しているからではないだろうか。
人はなぜ恋をするのか?「恋愛の心理学」
美は少なくとも厄介なものではある。
人はそれに逆らうことが非常に難しいから。
もしアリストテレスが正しかったなら、我々が美しさから逃れるためには、この目を閉じるしかない。
美しさが原動力となる時
1991年。
ナオミ・ウルフ という人が、美というのは、客観的でも普遍的でもない。
そもそも実在しないという説を表明した。
彼女によると、美しいという概念はお金のような経済システムらしい。
美しさというイメージを女性達に売りつけることで、彼女らの社会的立場を、男性側が都合のいいように決定する。
男性側の陰謀的なものというのは、ちょっと極端な考え方のように思えるが、経済システムというのは、妙に納得できるかもしれない。
美しいもののために頑張る者が、非常に多いことを考えるなら。
例えば、これもまた極端な例かもしれないが、女の子にモテたいから、いろいろ頑張るという男性がいるとする。
実際的な話をするなら、彼はおそらく女の子にモテたいわけではない。
可愛い女の子にモテたいのである。
もし仮に、その男性が世の中の全ての女性を、醜いと感じる呪いをかけられたとすると、その男性はそれまでと同じように頑張れるだろうか。
少なくとも、以前と同じほどに頑張れる者は、ほとんどいないと思う。
だいたい可愛いは物理的に何か役立つか
美しさの基準は、生物学的本能か
美しいものを良いと感じるのは、生物学的な本能ではないだろうか。
しかし美しいものが、自然界で有利な存在かと言うと、ちょっと微妙なところである。
「ダーウィン進化論」自然淘汰と生物多様性の謎。創造論との矛盾はあるか
我々に近い猿はどうであろう。
猿の中には乱婚する種が少なくない。
もちろん何か基準があるのかもしれないが、とりあえず異性なら誰でもいいような感じがしないでもない。
少なくとも人間よりもあっさり妥協してる感じがする。
猿は、たいてい群れの中で、立場の低いオスは、ボスから振られたメスを相手にしたりとかするのである。
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むしろ子孫を残したいという意味合いで言うなら、若い者を魅力的だと思うことが理にかなっている。
実際、年齢と、それに伴う容姿以外の、他の要素が全く一緒なふたりがいたとしたら、たいていの人がおそらく、若い方を魅力的だと思う。
容姿が悪いから、いじめられる子供
子供は明らかに美しさを認識している。
容姿が悪いと思われた子は、いじめの対象になったりする。
だが子供の感性は、生まれつきというわけではなく、親の趣味やポップカルチャーに影響されると説もある。
しかし心理学者ジュリス・ラングロワによると、美しさは生まれたての赤ん坊でも判断できるという。
ラングロワは、様々な人の顔を映した写真を用意し、適当な大人達にその魅力のレベルを評価してもらった。
それから生後3ヶ月程度の赤ん坊たちに、それらの写真を見せると、彼らはしっかり、大人が高い評価をつけた顔を、より長く、興味深げに見つめていたのだという。
赤ん坊が可愛ければ、子育てのストレスは減るか
我々は何を見ているのだろうか。
赤ちゃんは基本、 少なくとも親にとっては可愛いと言うが、以下のような心理学的な実験結果もある。
赤の他人に、何人かの赤ん坊の写真を見せる。
そしてどの赤子が可愛いかを判断してもらう。
それで可愛いと判断された赤ん坊の方が、母親は非常に愛情を注ぐ傾向にあるようなのである。
別に、可愛さで劣る赤ん坊に、母親が冷たくするわけではないが、明らかに注ぐ愛情の量が違っているのだという。
また、子育てに対して、母親が感じるストレスも違ってくるようだ。
魅力的な赤ん坊の母親は、子育てにあまりストレスを感じないそうだ。
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これは美しさが、異性を惹きつけるというのなら、生物学的には理にかなっている。
なにせ自分の遺伝子を、さらに下の世代に繋げてほしい場合、子供が外見的に魅力的であることは、よいことだ。
魅力的な赤ん坊とは、単に健康な赤ん坊という説もある。
昔はとにかく子供に生き残ってもらうことが難しかった。
だから健康的なことを、魅力的に感じるようになったのは、当然である。
結局、容姿もコンプレックスも必要。子孫繁栄が大事なら
別に美しいものでなくてもよいのかもしれない。
だが、恋愛する事に関して、何か基準がないならば、そういうことが起きにくくなるだろう。
仮に、どいつもこいつも同じ容姿になったとする。
そうなったなら、人々は何を求めて恋愛するか。
実際よく基準とされているように、安定した暮らしとか、お金とかだろうか。
しかしそれらは、よく考えると、一緒にいたいものの基準である。
本当に容姿なんてのがなくなった場合を想像してほしい。
たぶん世の中には、同性のカップルや超歳の差の離れたカップルが溢れかえる。
それははっきり言って、次の世代を残すべきという、生物学的な事情において、かなりまずい状態と言えよう。
何事も比べるものがなければ判断しにくい。
多分、世界は根本的に不平等なのである。