囲碁の起源
狩猟ゲームからの派生か
囲碁なるゲームは、おそらく中国で生まれた。
しかし、駒で駒を囲むことで、盤からそれを取り除くゲームを囲碁の原型とする場合は、それが中国起源か少し怪しくなる。
そういうゲームはおそらく、将棋のような擬似戦争ゲームより古い可能性もある。
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発想としては、囲いこむゲームは、擬似狩猟だった。
肉食動物の駒で、草食動物の駒を囲うことで取る、狩りを再現したらしきゲームが、さらに古い時代のインドなどで遊ばれていたとされている。
盤上ゲームがジャンルごとに独立でなく、最初のゲームから派生して、枝分かれしていったものと考える立場を取るならば、実質的にあらゆる盤上ゲームの起源は、紀元前3000年くらいのエジプトやメソポタミアにまで遡らなければならなくなる。
伝説の皇帝、舜を起源とする伝説
囲碁の起源として、中国の舜(古代中国の伝説の皇帝)の発案とか、彼に仕えた占星術師だとか、いくらかの伝説は、このゲームが紀元前2000年くらいからあることを示唆している。
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実際には、いつ誰がこのゲームを考えたのかは全然わかっていないが、さすがに荒唐無稽と思われる舜説は、長い間、ほとんど常識のように信じられてきたらしい。
おそらく囲碁というゲームの権威を高めるために、舜説は都合がよかったこと。
また、江戸時代くらいまでは、中国という国はあまりにも、古くからの偉大な国家というイメージが強すぎて、とにかく世の中のもの何でも、その起源を古代中国に求めたがる傾向が極東アジア全体にあったことなどが、伝説をかなり確かな真実かのように、世に広めさせたのだろう。
六博とは何か関係があるか
また、少なくとも秦(紀元前3世紀くらい)の時代くらいまでに、中国では『六博』というゲームがかなり広範囲で流行っていたことがわかっている。
ルールはよくわかっていないが、サイコロを使う運の要素が強いゲームだったようで、六博という字が「賭博」の由来になったとも考えられている。
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六博と囲碁の共通点は少ないとされるが、駒が白黒で色分けされてるところは同じ。
関連してそうな出土品的には、六博の方が古くからある可能性が高く、周(紀元前11世紀~紀元前3世紀)、あるいは秦以降の、文化が洗練される時代の中で、賭博向きな運のゲームから離れたインテリたちが、戦術性の高い囲碁を開発したのかもしれない。
しかし囲碁が賭け事に使われていたことを示す記録も多いという。
古い法典などで、 賭博を禁止行為とする場合、囲碁もよく、サイコロゲームと一緒くたにされていたようだ。
日本における古い記録
遊びが好きだった倭人
7世紀くらいに成立したらしい『隋書倭国伝』という本には、以下のような記述がある。
「(倭人、つまり日本人は)正月には必ず射的競技をし、酒を飲む。季節行事はほぼ中国と同じ。囲碁、すごろく、サイコロ賭博と、遊びが好き」
この頃には、すでに囲碁というゲームが、日本にまですっかり浸透していたということだろう。
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すごろくが中国に登場したのは、おそらく漢(紀元前3世紀~紀元3世紀)以降。
六博の廃れるのと平行してということが時々指摘される。
いずれにしても、明らかに運の要素が強いサイコロゲームと、少なくとも現在残っている形では戦術性の強い囲碁が、この時代に、遊びとして同列に語られているのは興味深い。
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隋書倭国伝の記述は、日本における囲碁に関する、最古の現存記録のひとつと言われる。
囲碁が強かったから歓迎された留学生
8世紀ぐらいの日本で成立した『懐風藻』という詩集にも、囲碁に関する話がある。
それによると、当時の中国、つまり唐(7世紀~10世紀)に留学した弁正という僧が、後に6代目の皇帝となる李隆基太子に、「囲碁が上手だから」 という理由で歓迎されたそうである。
つまりこの時代には、日本人の中にも、囲碁の達人が存在していたというわけである。
ただし、弁正は純粋の日本人ではないとする説もある。
囲碁は高貴なゲームであったか
日本で最初の律令(法典)である『大宝律令』では賭博は禁止されているが、囲碁と琴に関しては例外とあるらしい。
琴ということは、大宝律令における賭博というのは、幅広い娯楽を意味していたのかもしれない。
それはともかくとして、囲碁も特別扱いされているのは、このゲームが、やはり賭博に使われるようなゲームとは一線を画する存在という認識も少しはあったということだろう
現存する日本で最古の碁盤は、奈良県の正倉院に長く保管されてきたものが候補のひとつである。
これは聖武天皇(701~756)が愛用したものと伝えられている。
この時代の天皇という存在が、どれほど高貴なものだったかはわからないが、少なくとも囲碁は、上等な貴族が親しんでいても、おかしくはないようなゲームだったと考えられる。
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学問の神、文豪たちも親しんだ
現在では学問の神として親しまれる、平安時代(794~1185)の貴族、菅原道真(845~903)も、碁に関する詩を数多く残しているようだから、かなり好んでいたろうと思われる。
それに、やはり平安時代の有名な書物である「源氏物語」や「枕草子」には、囲碁の専門用語などがよく使われているという。
それらの作者である紫式部や清少納言も、よく打ったのかもしれない。
仏教と囲碁
14世紀くらいに成立したらしい年代記、『帝王編年記』には弘法大師こと空海(774~835)の「碁と琴は禁止するものでない」という言葉が記録されているという。
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また、空海と同じく仏教の僧である日蓮(1222~1282)も囲碁をたしなんでいたが、日本で最古の囲碁の棋譜は彼と弟子が正月に打ったものという説がある。
名人、プロ制度の始まり
戦国時代の囲碁
戦国時代の武将の多くも、囲碁を楽しんだ。
織田信長(1534~1582)、豊臣秀吉(1537~1598)、徳川家康(1543~1616)の三大は、三大囲碁好きでもあったとされる。
しかし戦国時代まで遊ばれていた囲碁のルールは、今のものと同じものなのだろうか。
公家山科言継(1507~1579)が書き留めていた日記には、様々な遊戯についても語られているという。
しかし囲碁に関して、何百回と記述しながら、それがどのようなゲームなのかは書かれていない。
ただ会食の後などに、碁を打つことが多かったようである。
どうも和やかな雰囲気でお酒を飲みながら、という場合が多かったようで、強い棋士を目指しているとかそういう話はなく、完全に娯楽であったらしい。
当然のように賭け事としての対局も多かった。
貴族たちは、金というか、貴重品などを主に賭けていたようである。
特に『杉原紙』と呼ばれる紙は、賭ける品としてスタンダードだったという。
特筆すべきこととして、少なくとも言継が記録している対局に、「持碁」、つまり引き分けが多いらしいことがあろう。
バランス調整が非常に上手くなされていたのか、あるいは途中で終わったことが多かったのか、単にルールの不備か、とりあえず理由は不明であるが、 おそらく現在ほどは引き分けに関して 大した問題とされていなかったのだろう。
最初の名人、本因坊と職業としての囲碁
『本因坊』は、現在では本因坊戦と呼ばれる棋士の大会で優勝したものに授けられる称号であるが、もとは本因坊算砂(1559~1623)という人を開祖とする家系の名前である。
江戸時代においては、本因坊以外にも、『安井』、『井上』、『林』という、囲碁の名人家系があり、合わせて『家元四家』と呼ばれている。
『名人』という言葉は、本因坊算砂に対して、織田信長が初めて使ったものという説もある。
家康に滅ぼされた豊臣の二代目秀頼も、1608年に、本因坊と幾人かの碁打ちを大阪城に招いたそうである。
ただし、この時の催しは将棋の対局だったという話もある。
この時代には、囲碁と将棋の名人が被っていることは珍しくなかったのかもしれない。
目上の者に招かれ、対局を披露したと言う本因坊の記録は多い。
彼が最初かはわからないが、趣味でなく囲碁が仕事のような人物が登場したのは、この時期なのはほぼ間違いない。
もちろんこれ以前にも、かつての放浪するチェスプレイヤーたちと同じように、賭けで得た金で生活を営んでいた者もいたかもしれない。
しかしあくまでも公式に、囲碁の達人が、それを生活の糧とすることができるようになっていくのはこの頃からである。
そして、江戸時代になると、公式に認められた達人は国からの扶養を受けられるようになって、そこからプロ制度が発展していったのである。
ただ少なくとも江戸の初期の頃は、猿楽のような演劇や、絵のような芸術に比べると、囲碁の達人は、あまり大儲けはできなかったようである。