引っ込み思案な大作曲家
バッハ(Bach)、ベートーヴェン(Beethoven)と合わせ、ドイツ音楽三大Bとも称される作曲家ヨハネス・ブラームス(1833~1897)は、引っ込み思案な人だったとされる。
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表にあまり出たがらず、人付き合いをあまり重視せず、その創作活動により有名になってからも、自分の過去を語ったりすることも嫌っていた。
内気な性格は、彼の父ヨハン・ヤーコブ・ブラームス(1806~1872)の出身地である北ドイツ、ホルシュタイン地方の人特有の気質だという話もある。
あるいは単に彼は変わり者。
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もっと普通に、有名になってからの彼の活躍の場においては、話が合う人が全然いなかっただけという説もある。
ヨーロッパの社会階層の中で、彼の生まれは最底辺に近かったとされている。
確かにそれなら、広く作品が受け入れられたことで、(好む好まざるにかかわらず)身を置くことになった優雅な場所では、昔の自分のような人と会うことなど、あまりなかったかもしれない。
何にしても彼は運がよかったろう。
彼以前の偉大な作曲家たちはほとんどみな、それなりの社交性を持っていて、なればこそ作曲家という芸術家としての自分を世界に晒すことができたのだ。
中世から近世にかけてのヨーロッパという地域は、社交性こそが何よりも重要な要素だったともされている。
そこでブラームスはヨーロッパ史上初の、自分の創作能力のみを使い、生きるためのお金を稼げるようになった音楽家とも言われる。
ブラームス家と周囲の人たち
父と母
ホルシュタイン地方のハイデという田舎町で、ヨハネスの父ヨハン・ヤーコブは、旅館を営む一家に生まれる。
彼は音楽家に憧れ、家族の反対を押し切って数年、音楽を修行した後、1826年にハンブルクへとやってきた。
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最初は小さな酒場や路上での演奏から始め、彼の音楽演奏は、上流階級の耳にも聞かれるようになっていく。
そしてヨハンがハンブルクで出会った、クリスティアーネ・ニッセン(1789~1865)という女性との間に、ヨハネスは生まれた。
クリスティアーネは、ヨハンよりも17ほども歳上。
幼い頃に教育を受けられず、しかし織物が得意で、10年ほどメイドの仕事をしていたこともある、典型的な市民階級(実際には落ちぶれていた中流階級)の人だが、どこか優しげな魅力のある人だったという。
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貧乏な暮らしの中でも音楽
ヨハネスにはエリザベス(エリーゼ)という姉と、フリッツ・フリードリヒ(フリッツ)という弟がいた。
1833年5月7日に、ヨハネスが生まれた時。
ヨハンとクリスティアーネ夫妻は、貧民街の安アパートの一室暮らし。
音楽の仕事で、多少は成功していたヨハンだが、貧乏生活はなかなか抜けれなかった。
しかしヨハネスは学校に通うことはできたようで、若い頃から文学を楽しめたという。
そして音楽家の父は、息子にも音楽を学ばせた。
熱心な最初の教師コッセル
父を除けば、最初の音楽の先生とされるオットー・フリードリヒ・ウィリバルド・コッセル(1813–1865)のレッスンは1940年頃から始まったとされる。
彼はピアニストであり、「ピアニストは心で感じたものを指で表現できなければならぬ」というような思想を持っていた。
ヨハネス少年に関して、コッセルは教えはじめてから2年目くらいの頃に、「優れた演奏家になれるだろうが、この子自身は曲作りばかりしようとする」というような評価をしていたという。
そして学びはじめから3年。
10歳の時に、ヨハネスは父の主催する演奏会にて、その才能を初披露する。
その時に彼が演奏したのは、ベートーヴェンの「ピアノ五重奏曲」と、モーツァルトの「ピアノ四重奏曲」だったという。
コッセルは、ヨハネスの音楽教育の環境をよくするために、ブラームス家の近くに引っ越してくるほど、教育者としてヨハネスの才に入れ込んでいた。
そのコッセルだが、演奏会にてヨハネスを知ったアメリカの人の、「この少年を天才演奏家としてアメリカで売り出したい」という誘いになびきそうだったヨハンを止めたという話が残っている。
幼くしてヨハネスは、ト短調のピアノソナタを作曲したりもしていたが、両親としては、息子は作曲より、パフォーマー(演奏家)の才能があるのだと考えていたようだ。
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エドゥアルト・マルクセン
コッセルは、目先の金や名誉でなく、音楽家ヨハネスを大事に育ててあげるべきだと考えていた。
だからこそ彼は、自身の師である作曲家エドゥアルト・マルクセン(1806~1887)に、ヨハネスを紹介した。
1845年から、正式にヨハネスの教育を任されたマルクセンは、それまでの偉大な音楽家たちの伝統を彼に、次々と伝えていった。
そしてそんな偉大な作曲家の一人であるフェッリクス・メンデルスゾーン(1809~1847)の死の知らせを聞いた時、すでに弟子同様、ヨハネスの才能に魅せられていたマルクセンは、確信を抱いたのだった。
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ヨハネスのマルクセンへの尊敬はかなり大きかったようで、作曲の際にも、よく助言を求めていたようだ。
またヨハネスは、コッセルに関しても、彼が亡くなる少し前に、彼の娘に宛てた手紙において、「(コッセルは)私の生涯において、最も重要で、聖なる思い出の一つです」などと書いているという。
二人ともよい師だった。
ソロのピアニストとして
ヨハネスがソロのピアニストとして、始めて公に登場したのは1847年のこと。
ハンブルクのアザロポールにて、彼はシギスモンド・タルバーグ(1812~1871)の曲を披露し、好評を得たという。
マルクセンからは作曲もよく学び、彼に師事していた頃に製作した曲は100曲を超えるとされているが、ほとんど現存していない。
ヨハネスは自己批判精神が強く、たいていの曲は彼自身によって処分されてしまったのである。
若きクライスラーの宝物の小箱
ブラームスは音楽を学びながらも、貧乏な家計を助けるためにバイトなどもする苦労少年だった。
そんな彼はいつからか大の本好きであり、好みの文学の影響が、後の創作活動にも表れていると言われることもある。
そんな彼は、15歳くらいの時から、自分の読んだ本の中の好きな文章をノートに記録していたそうだ。
彼はそのノートを、「若きクライスラーの宝物の小箱」と名付けていたという。
それは、芸術論や宗教に関する格言のようなものも多く、彼の芸術感を、後世の人が知るための大きな手がかりとなっている。
放浪の音楽家ブラームス
エドゥアルト・レメーニ。ヨーゼフ・ヨアヒム
もうすぐ成人を迎えるくらいの頃に、ブラームスは、バイオリニストのエドゥアルト・レメーニ(1828~1898)と出会う。
それは幸運な出会いだった。
レメーニは、演奏旅行の相方として、ブラームスを選んでくれて、そしてある時にやってきたハノーファーにて、レメーニの知り合いであったバイオリニストで、宮廷楽団のコンサートマスターであったヨーゼフ・ヨアヒムとも知り合えた。
ブラームスとレメーニのコンビ自体は、二人の性格の違いも大きく、長続きする運命にはなかったという。
しかしヨアヒムもまた、ブラームスの資質をすぐに見抜き、彼との関係は長く続くことになった。
貴族肌のリスト
ヨアヒムはブラームスに対し、いつでも困った時の援助を約束し、さらに高名な作曲家であったフランツ・リスト(1811~1886)を紹介してくれたという。
そしてヴァイマールにて、実際にリストと出会ったブラームス。
しかしその時、「あなたの作品に興味があるのですが、何か演奏してもらえないでしょうか」というリストの提案を「こんなに緊張した状態では、とてもピアノなど弾けません」と、ブラームスは断った。
仕方がないとばかりにリストは、初見でブラームスのスケルツォを見事に弾いてみせたという。
リストとブラームスの間には何らかの衝突があったと推測されることもある。
ほぼ確かなことは、ブラームスの曲を気に入り、出版社に紹介しようとすらしたリストに対し、ブラームスがかなり消極的だったこと。
さらにブラームスが、レメーニと袂を分かったのも、ヴァイマールだったようだ。
リストが君臨していたヴァイマールはまさに、自己顕示欲やプライドの高い、崇高な精神の音楽家たちの集まりであり、ブラームスの肌に合わなかったのだろうともされる。
またレメーニについても、ブラームスは後に「彼には嘘が多すぎた」と語っているという。
ロバート・シューマン
ロバート・シューマン(1810~1856)は、ブラームスと似ているところがあった。
彼も幼少時代から音楽とともに文学も愛し、 また演奏の練習よりも作曲をしたがって講師を困らせたという。
その彼が1850年に、妻クララと共にハンブルクを訪れた時、 周囲の者たちの説得もあって、ブラームスは自作曲の楽譜を夫妻に送った。
しかし、もうハンブルクを発つ寸前であったシューマンは、封を開けずに、それを送り返してきてしまった。
それから3年ほど経ってから、ブラームスは、今度はヨアヒムに紹介される形で、シューマン夫妻と会うことになった。
リストに比べると、シューマンはずっと庶民的な人で、実際に会うや、ブラームスはすぐに好感を抱いたとされる。
シューマン夫妻の側も、温かく迎えてくれ、若き音楽家のピアノ演奏をよく気に入ってくれたという。
音楽雑誌の絶賛混じりの紹介
シューマンは自身が創立した音楽雑誌「新音楽時報(Neue Zeitschrift für Musik)」にて、ブラームスを紹介する。
「新しい芸術家は段階的に発展してくるものでなく、急に完全な形で現れるもの。それが彼だった」というように、まさしく大絶賛であった。
ただし、シューマンの絶賛混じりの紹介は、明らかに時期尚早であった。
ブラームスはまったく無名であり、当然のことながら彼の曲を聞いたことがある人すらそんなにいなかったのだ。
そうした状況で、名前だけ広く広まってしまったのである。
しかしブラームス自身、困惑しながらも、少ししてから感謝の手紙を書いている。
ただ、「期待に応えられるかどうかはわかりません」と、あまり自信はなさそうな感じだという。
そして、シューマンの後押しもあって、 音楽出版社であるブライトコップ&ハーテル社と、自作品の出版契約を結ぶこともできた。
恋と失恋と
シューマンの作品は出版前からの知名度もあってか、すぐに世間の評判を集めたという。
このような音楽家として幸先のよいスタートができたのは、まず間違いなくシューマンのおかげだ。
だからこそ1854年2月に、シューマンがライン川で自殺を試みたという事件は、衝撃的だったはず。
錯乱した精神状態のシューマンは、精神病院へと収容され、1856年に亡くなるまで、外に出られることはなかった。
シューマンに恩を感じていたブラームスは、ヨアヒムと共に、シューマンの残された妻クララや子供たちを援助して、暮らしを支えた。
クララは、夫の自殺未遂と精神病院送りにひどく傷ついていたが、ブラームスらのおかげで立ち直れたとされる。
そしてブラームスはより深く関わるうちに、クララにどうしても惹かれていったが、その気持ちが結婚のような形につながることはなかった。
ブラームスは1958年に、ゲッティンゲンで知り合ったアガーテ・フォン・シーボルトと新たな恋に落ちた。
そしてこの年に、クララもまたゲッティンゲンの地を踏んだのだが、二人の関係に気づき、ブラームスに何かを告げることもせず去っていったという。
男女問題が苦手
アガーテとの関係も、婚約までいきながら、結局は破局となった。
一説には、「あなたを愛していますが、僕は束縛されるわけにもいかないと思います。それでもあなたを愛するべきか、ご返事が欲しい」 というような内容の手紙が直接の破局の原因であったとされる。
手紙の言い方には、いかにも人間関係を築くのが苦手なブラームスの性格がよく現れている。
ブラームスは、結婚するべきなのかどうかを自分で決めることができず、相手に任せてしまったのだ。
そして、アガーテは、自分からは求めなかった。
ウィーンでの活躍と故郷への気持ち
恋には破れたが、ある意味そのおかげで、ブラームスは創作活動に没頭することができた。
そして1862年に彼はウィーンへとやってきた。
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翌年には、高名な批評家のエドゥアルト・ハンスリックが絶賛したことでブラームスの名声はウィーンにおいても確実のものとなる。
しかし、よいことばかりではなかった。
ウィーンでも有名になったのと同じ年に、ハンブルクのフィルハーモニー管弦楽団の指揮者が空席になったのだが、ブラームスは自分こそが新たにそこに指名される者としてふさわしいと、自信を持っていた。
だが、決定権を持つハンブルクの上流市民たちは、ジュリアス・クリスチャン・シュトックハウゼン(1826~1906)を選んだのだった。
ブラームスは、それからも、ハンブルクに職を求めることを諦めなかったが、なかなか上手くいかなかった。
彼は故郷に帰り、普通に定住することを夢見ていたが、夢見るだけに終わっていたのである。
後ブラームスは「しかるべき時に自分を管弦楽団の指揮者に選んでくれていたなら、自分は普通の市民となって、普通に家庭を持って、普通に暮らしていたろうに」と語ったという。
ただ一応、ウィーンでは、ジングアカデミー(合唱団)の指揮者に選ばれている。
ブラームスの指揮する最初の演奏会は、比較的古い巨匠の曲を使った珍しいプログラム構成で、聴衆だけでなく、合唱団のメンバーたちも驚かせたという。
また1863年は、ブラームスが、すでに名前はよく知っていたリヒャルト・ワーグナー(1813~1883)と出会った年でもあった。
ワーグナーは、ブラームスの音楽に対しては否定的だったとされている。
そして、当時としては革新的であったワーグナーと、保守的とされたブラームスは、本人たちが望むまでもなく、その支持者たちの間で激しい対立が巻き起こっていく。
ただブラームスの方は、別にワーグナーに対し敵対心を抱いていたりするわけではなく、普通に、むしろ関心を持って、彼の演出するオペラを楽しんでいたりもしたという。
恋は愚かか
ブラームスにとって、ウィーンは新しい故郷のようになっていったという。
慕ってくれる女性も多く、何度かまた恋に落ちそうになったことがあったようだが、しかし彼にとって、恋愛はもうあまり必要なものという認識ではなくなっていた。
女声合唱団のオッティーリエ・ハウアーは彼に創作の霊感を与え、16もの自筆楽譜を送らせるほどだった。
しかしブラームスは、クララに手紙で、「もし彼女を他の誰かが口説かなかったとしたら、僕は馬鹿なことをしたかもしれない」と白状している。
また、弟子のエリーザベト・フォン・シュトックハウゼンが、可愛らしい娘であったために、彼はあえて友人に彼女のレッスンを任せたりしている。
作曲活動のために
ブラームスは作曲活動に集中するため、1864年には、合唱団指揮者を辞めた。
それから数年間の間は、リヒテンタールで過ごすことが多くなる。
リヒテンタールにはクララがいた。
彼女とは、アガーテの件で、一時期は疎遠になりかけたものの、もう二人はすっかり仲直りしていたのだ。
しかし、誰とも ずっと一緒にいることは難しい。
ブラームスはまた定職を持たないで、各地を放浪する音楽家となって、生きるための金を稼いでいた。
貧しい子供達へのまなざし
1869年には「ドイツ・レクイエム」、「ハンガリー舞曲集」などの作品で、ブラームスはその名声をさらに確固たるものにした。
そしてもう故郷に帰ることは諦め、ウィーンに最期まで暮らす決意も固めていった。
1971年にブラームスは、それから生涯の住居となるカールスガッセ四番地の家に移った。
さらに1972年には、ウィーン楽友協会の芸術監督に就任する。
同時に、周囲の環境は、目まぐるしく変わっていた。
凄まじい速度で普及し整備された鉄道網のおかげで、世界は狭くなり、放浪の音楽家ブラームスは交遊関係を広めることになったのだ。
そして、知り合った人たちの幾人かは、ブラームスに関して、貴重な記録を残していく。
例えばベルンに住んでいた詩人ヨーゼフ・ヴィクトール・ヴィートマン(1842~1911)は、ブラームスは子供、特に貧しい子供たちが好きだったと記録しているという。
かつての彼自身と同じように。
変わらないこと
1890年。
57歳のブラームスは、自分の衰えを強く実感し、作曲活動の引退を考え始める。
友人にも「もう十分。ずいぶん歳もとったし、後は平和に生きたい」などと述べた。
ただ、1890年以降も、ブラームスは曲作りは続けている。
有名になってもブラームスの気質は変わらなかった。
60歳の誕生日には盛大な祝典が企画されたが、騒がしいのを嫌った彼は、友人とイタリア旅行へと逃げたという。
そして、1897年4月3日に、彼は世を去った。
それはドイツ音楽史の三人目の偉大なBの最期であり、ひとつの黄金時代の終わりであった。