サッカーとは?
サッカーというスポーツは、イングランドが発祥だと言われる。
ただし、サッカーとは何を意味するかだ。
単にボールを足で扱うゲームの歴史なら、むしろイングランドそのものの歴史よりも長いかもしれはい。
しかしスポーツと呼べるような、そんなサッカーの歴史はわりと浅そうである。
フットボールとスール
中世ヨーロッパの代表的なボールゲームとして、イングランドの『フットボール』と共に、フランスの『スール』がある。
ルールらしいものがしっかりと決まっていた訳ではなく、これらのゲームには、ただボールを相手の陣地に運べば得点という事だけが決まっていた。
参加者の人数も、競技場の大きさも、試合時間もプレイ毎に即席で決められていたという。
別に足しか使ってはならないというものでもなく、普通に手も使い、それどころか暴力行為もありで、とにかくボールを運ぶという凄いゲームであった。
そんなんだから、当然負傷者が出るのも当たり前だし、ときには死者まで出たという。
パブリック・スクールのボールゲーム
ボールゲームはヨーロッパ各地で、ヨーロッパ以外にもアメリカやアジアなどで広く行われていた。
しかし18世紀末くらいから、世界中で、小さな共同体の崩壊と共に、伝統的なボールゲームは廃れていった。
例外が、イングランドのパブリック・スクールである。
パブリック・スクールとは、裕福層の子が通う名門学校の通称。
パブリック・スクールには、生徒達が自分達でチームを編成し、フットボールで競いあう習慣があった。
しかし、やはりもともとは明文化されたルールもなく、下級生へのいじめのように使われる場合も多かった。
ラグビーとの分岐
状況が変わったのは1830年以降の事。
産業革命により台頭した企業家達が、それまで貴族上級生が支配している状態であった、パブリックスクールにメスを入れたのである。
結果、教師は威厳を取り戻し、下級生がいじめられる事もなくなってきて、そこはあるべき学校の姿へと変わっていく。
そしてスクールの環境改善により、フットボールもちゃんとしたルールに基づいた、楽しいスポーツになっていったのである。
また、スポーツとしてのルール形成の過程で、フットボールは、ラグビーと、後にサッカーと呼ばれる事になる『ドリブリングゲーム』とに分裂していく事になる。
フットボール協会
1863年の事。
イートン校、ウェストミンスター校、ハロー校の卒業生らを中心としたイングランドのいくつかのクラブの代表者が、ロンドンに集まった。
それまで、各学校ごとに違っていたルールを、統一する為の会議を開催する為である。
そして集まった者達は新たに『FA(フットボール協会。Football Association)』という団体を設立。
統一ルールの下敷きにされたのは、1848年に作られたケンブリッジルールだった。
これは手を使う事を禁止するルールだったが、ラグビー校の代表者はそれに反対し、手を使うルールを続けた者たちは、後の1871年にラグビー・ボール連盟を設立。
一方、足のみ使うルールに賛同した者達は、同じ1871年に、共通ルールを採用したFA大会を開催。
それが波紋となり、足を使ったボールゲームスポーツ、
サッカーは広く知れわたっていったのだった。
増えていくサッカークラブ
サッカークラブが次々と作られるようになったのは1860年くらいからと言われる。
基盤となったのは、優れた肉体と精神をよしとしたキリスト教会や、地域ごとの社交場であった酒場などだった。
1870年代には企業が発足させたいクラブも現れ始める。
ゲーム好きのオーナーが始める場合もあれば、労働者達が集まって結成される場合もあった。
ただいずれの組織もFAの管轄に入り、そのFAが決める統一ルールでプレイした。
1882年には、FAに加盟したクラブは1000に到達するほどに、サッカーは人気になっていた。
ゲームの変遷
ルール整備からしばらく、サッカーで重視されたのは個人のドリブルテクニックだった。
しかし、ひとりのヒーローよりも、チームとしての勝利を目指す、特に労働者達のクラブが、新たな戦い方を誕生させる事となる。
すなわち、パスを駆使したチームプレイである。
それは、貴族と同じ土俵で戦えるサッカーというゲームで、貴族共を打ち負かす為の、労働者達の結束から生まれたものだったのだ。
また、少なくとも1870年くらいまでは、サッカーはとにかく攻撃ばかりのゲームであり、プレイヤー11人の内、7~8人くらいが攻撃ポジションであった。
しかしある時、ケンブリッジチームが、アタッカーを5人に絞った体制を採用。
サッカーはその時より、とにかく攻めまくるだけのゲームではなくなったのだった。
守りと言えば、1871年に、キーパーが手を使えるように決められた影響も大きかったと思われる。
間違いなくその新ルールは、キーパーというポジションの重要性を激変させたはずである。
大衆文化へ
サッカーはかつて、パブリック・スクールの学生や卒業生達の、つまりエリートの遊びだった。
そういう意味では1883年のFA大会決勝戦は、まさにサッカーという文化を変えたゲームだった。
その試合にて、パブリック・スクールのイートン校のチームを負かしてやったのは、労働者が結成したクラブであるブラックバーンだったのである。
そして1905年にはFAの加盟クラブは1万を越え、サッカーはすっかり大衆文化と化していた。
世界へ
サッカーを世界に広めたのは、仕事や留学などで各国に渡ったイギリス人と、かなり早くからサッカーを輸入していたスイス人達だった。
サッカーはもちろん、11人いないと行えない。
対戦相手も考えると22人いる。
だから各地のイギリス人は、サッカーを行う為に、チームメイトを募集。
ボールひとつと参加者さえいればプレイする事が出来るサッカーは、ヨーロッパのあちこちで、そしてヨーロッパよりは少し遅れたものの、南米、そしてアジアやアフリカにも浸透していった。
イギリスに習い、各国にサッカー協会が設立され、それがだんだんと『FIFA(国際サッカー連盟。Federation International Football Association)』という大組織に繋がっていく訳である。
FIFAの設立と、一強時代の終わり
FIFAの設立に、実はイギリスはあまり関わっていない。
その設立年である1904年という時期には、まだ最強のサッカー国はぶっちぎりでイギリスであり、発祥地という事で、彼らには自分達のサッカーこそ本流だという意識が強かった為とされる。
当時のイギリスは本当に他をよせつけない強さであり、他国のナショナルチームでも、イギリスのアマチュアチームに勝てないような有り様だったのだ。
しかし1910年頃から、イギリスのテクニックや戦術を学んだ他のヨーロッパのチームも、徐々にイギリスに勝てるようになっていく。
また南米ではウルグアイが特に目覚ましい実力を見せ、1930年に開催された第1回ワールドカップでも優勝した。
ワールドカップの始まり
FIFAの初代会長であるフランス人のロベール・ゲラン(1876~1952)は、サッカーの世界大会を構想。
それは最初、オリンピック競技という形で実現したが、後には独自の選手権が計画されるようになる。
そして1930年。
そのサッカーの世界大会、ワールドカップの第一回がウルグアイで開催される事になったのだった。
ただし交通の便の問題で、ヨーロッパから参加した国はベルギー、ルーマニア、ユーゴスラビア、フランスの4国だけだったという。
このワールドカップの開催がFIFAの権威を決定的なものとして、サッカーはゲームから、文化から、勝負から、夢へと変わったのである。