「アゼルバイジャン」コーカサスの、石油と山ばかりの国

アゼルバイジャン

アゼルバイジャンに関する基礎知識

 ソ連邦を構成していた国であるアゼルバイジャン共和国は、1991年のソ連解体を機に独立した。
また、アゼルバイジャンの地に最初に国が成立したのは1918年。  

地理的位置と国土面積

 アゼルバイジャン共和国は、コーカサス地域の南に位置している。

 コーカサスとは、黒海(ヨーロッパとアジアの間にある内海)とカスピ海(世界最大の湖)に挟まれコーカサス山脈と、その周辺の地域。

 アゼルバイジャンはコーカサスの一国として、カスピ海、ロシア、ジョージア、アルメニア、イランに囲まれた本土と、アルメニア、トルコ、イランに囲まれた飛び地から成る。
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 国土面積は8万6600平方km。
北海道より少し大きいくらいである。

 また、国土の半分くらいは山岳地帯で、国内最高峰の山である『バザルジュズ山』の標高は4500mほどもある。 

宗教は、大半の人がイスラム教

 アゼルバイジャンの南部にはシーア派、北部にはスンニ派が多いとされている。
面白いのが、アゼルバイジャン南部に接している国が、シーア派の多いイラン。
北部に接している国が、スンニ派の多い、ロシアの北コーカサスだという事だろう。
まるで、アゼルバイジャンは、ふたつの派閥の境目になっているわけだ。
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バクー。多様な景観を持つ都市

 アゼルバイジャンの首都『バクー』は、コーカサスで最大級の都市として知られている。
オイル国家として栄えてきたアゼルバイジャンだが、ロシア帝国(アゼルバイジャン成立前)の時代に、バクーの石油生産量は世界全体の半分以上になった時もあっという。

 バクーは、モスクなどの宗教施設、19世紀の西洋風建築物、ソ連時代の味気ない建築物、21世紀の近代的なビル群などに加え、伝統的な旧市街と、多様な景観を持つ都市である。
旧市街には、アゼルバイジャン国内で初めて世界遺産登録された、『城壁都市バクー、シルヴァンシャー宮殿、及び乙女の塔』がある。
 
 また、バクーの郊外には、ゾロアスター教の寺院があり、世界でも有数の巡礼地となっている。

 バクーの名には「風の町」の意味があり、よく強風にさらされる事からこの名がついたという。
ただしバクーの由来だとされるペルシア語の『バードクーベ(風吹く場所)』は、17世紀以前のペルシア語文献にはあまり見られない、やや不自然な言葉である。
そこで元々バクーが「風の町」というのは後付けであり、本来は全く違う意味であった、という説もある。

ゴブスタン、ギャンジャ、ナヒチェヴァン

 バクーから50kmほど離れた『ゴブスタン国立保護区』には、大量の洞窟があり、石器時代のものと思われる岩絵も多い。
『ゴブスタン』にはまた泥の火山が多く、そういう場所の泥には薬効があるという話もある。
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 バクーに次ぐ都市とされる、西部の『ギャンジャ』は、1918年から1920年までの2年間に存在した、最初のアゼルバイジャン共和国の首都であった。

 ギャンジャは、12世紀頃の大詩人、ニザーミー・ギャンジェヴィー(Nizami Gəncəvi)の出身地でもある。
ニザーミーの代表作とされる長篇叙事詩、『五宝』なる作品群の中の、『ホスローとシーリーン』と『ライラーとマジュヌーン』などは、挿絵などがついた本が後世にも広く伝わり、ペルシア語文学のみならす、絵画にも強い影響を残しているという。

 アゼルバイジャン国土の飛び地である『ナヒチェヴァン』は、自治共和国となっていて、その首都は自治国名と同じ名である『ナヒチェヴァン』である。
ナヒチェヴァンは、アルメニアとの間で領土問題を抱える地域でもあり、そのアルメニアにほとんど囲まれてるような位置にあるので、貿易関連が悩みの種となっているようだ。

汚染都市、名産地、レーダー基地、石油

 ソ連時代に重化学工業で栄えた町『スムガイド』は、環境汚染が深刻で、2007年にアメリカのブラックスミス研究所が発表する「世界で最も汚染された10の都市」に選ばれるほど。
ソ連解体後は、廃墟化した工業の再生の為に、日本企業を含む、外国からの多くの援助があるという。

 『シャマヒ』は絨毯とワインの名産地。
『ガバラ』は、ソ連時代からのレーダー基地があり、ゾロアスター、キリスト、イスラムの3つの宗教の遺跡が発見されている。
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 カスピ海に1940年代末から建設開始された海上油田都市『ネフチ・ダシュラリ』は、世界初の海上石油プラットフォームとして知られている。
また石油と言えば、『ナフタラン』という村も石油風呂で有名である。

歴史に関して

ソヴィエト・アゼルバイジャン

 1918年に国として成立したアゼルバイジャンは、そのわずか2年後の1920年に、ソヴィエトに武力合併、『ソヴィエト・アゼルバイジャン』となった。

 ソヴィエト政権は、バクー油田にかなりの資金や人材を投入し、現地住民の信頼確保の為に、政府人員の現地化政策も実地された。

 1928年から、ソ連は、スターリンの指導のもとで実施された、社会主義国家建設計画の一貫として、農村の集団化を推進。
農村集団化とは、いわば農村単位での農業の組織化であり、余計な因子となりうる大量の富農(裕福な農民)が虐殺されたという。

 また、第二次世界大戦後、ソ連の発展はブレジネフ書記長の時代(1966~1982年)に絶頂期を迎えたとされる。
アゼルバイジャンの絶頂期も同時期、ブレジネフの盟友ヘイダル・アリエフ(アゼルバイジャン共産党第一書記時代が1969~1982年。ソ連共産党中央委員会政治局員第一副首相時代が1982~1987年)の時代だとされている。

 しかしバクー油田の枯渇、深刻な公害問題、古くから領土問題の舞台となってきた『ナゴルノ・カラバフ自治区』を巡るアルメニア人との紛争と、社会の雰囲気が暗くなりはじめた頃に、ソ連は崩壊。
ソヴィエト・アゼルバイジャンも最後となった。

ヘイダル・アリエフ

 ヘイダル・アリエフは1923年5月10日、ナヒチェヴァン市で生を受けた。
1944年、後の「ソ連国家保安委員会KGB」(ソ連の諜報機関)の前身である「国家保安人民委員部」にて、彼は頭角を現した。
1964年にはアゼルバイジャンKGB第一副議長に、1967年には議長となった。
そして1969年には、アゼルバイジャン共産党中央委員会第一書記に選出され、共和国トップの座についた。
 
 第一書記就任後、アリエフは、ブレジネフを後ろ楯に、「反汚職キャンペーン」と称して、大規模な幹部の配置替えを行い、自らの共和国支配を、より強固なものにした。
1982年には「ソ連共産党中央委員会政治局員」、「第一副首相」となり、ソ連で最も高位についたアゼルバイジャン人となった。
 
 1987年に一度失脚するものの、1990年に、ナヒチェヴァン自治共和国から選挙に当選し、政治家として復帰。
1992年にソ連が崩壊し、その一年後の1993年に共和国のトップへと返り咲いたアリエフ。
彼はかつての人脈を駆使し、政治基盤の安定化に尽力。
2003年には、死去した彼の後を継いだ息子イルハムが跡を継ぎ、父ヘイダルを「偉大な国の父」として神格化させた。

 そういうわけで、現在では、「独立国アゼルバイジャンは、偉大なヘイダル・アリエフの傑作」などと、言われる事もある。

ナゴルノ・カラバフ紛争

 ナゴルノ・カラバフ(アゼルバイジャン語では「ダグルフ・ガラバグ」)はソ連時代、アゼルバイジャン共和国内の自治州だった。
しかし住人の多くはアルメニア系であり、ソ連がこの地をアゼルバイジャンのものとしたのは、アゼルバイジャン系とアルメニア系の民族間に禍根を残し、連帯を防ぐ為だったという説もある。

 ナゴルノ・カラバフ(以降NK)を、未回収のアルメニア地域のひとつとして、奪還しようとするアルメニアの運動は、1987年のアリエフ失脚以降、激化。
1988年2月22日にはNKの『アスケラン』で、アゼルバイジャン人の青年ふたりが殺されるという事件まで発生。

 アゼルバイジャン内で、アルメニアへの敵意は高まり、4日後の26日には、スムガイドで、今度はアゼルバイジャン人がアルメニア人を襲撃。
(謎が多く、ソ連の陰謀説もある)『スムガイド事件』と呼ばれるこの襲撃で、両民族合わせ32人が死亡。
アゼルバイジャンとアルメニアの対立は、決定的に暴力化してしまった。

 ソ連崩壊後、アゼルバイジャン、アルメニアがそれぞれ独立してからは、NK紛争は、内戦から国家間の戦争へと変わる。
一方でNK自体は91年9月2日に、『ナゴルノ・カラバフ共和国』として独立を宣言。
94年5月に、ロシアの仲介で、一応停戦を迎えた後も、NK紛争問題は普通に続いていて、NKは実質的に未承認国家となっている。

 停戦協定の会議は、キルギスの首都ビシュケクで、アゼルバイジャン、アルメニア、NK、ロシアそれぞれの代表によって行われたという。

黒い一月事件

 それは、ナゴルノ・カラバフ紛争が進行する中で起きた恐ろしい悲劇であった。

 1990年1月19日、ソ連最後の最高指導者であるゴルバチョフにより、バクーに「非常事態宣言」が出された。
そして19時15分にソ連の特殊部隊が、テレビや電話回線など、アゼルバイジャンの通信網を徹底的に破壊。
その後、19日の夜から20日にかけて、ソ連の部隊2万6000人ほどがバクーに侵攻し、一般民衆を無差別に虐殺したのである。
当時の人たちの記憶によると、ソ連軍の兵士たちは、とにかく動く者を撃った。
家にいても、窓から姿を見せてしまったら撃たれたという。

 この事件による死者は、わかっているだけで147名だが、実際は200人を越えているとも言われる。
多くの遺体がブルドーザーでカスピ海に投棄されたという証言もある。

 ゴルバチョフは、この事件を激化するNK紛争に伴う、市民の犠牲を防ぐ為のやむを得ない軍事介入だとしたが、真の理由は別にあったと考える人は多い。
各地で勢力を強めていた民間への圧力とか。

 とにもかくにも、黒い一月事件は、ただでさえアルメニア側とされていたロシアに対する、アゼルバイジャン人の憎しみを増幅させ、独立の後押しともなった。

 ちなみに1995年にゴルバチョフは「あれは私の最大の過ちだった」として、アゼルバイジャンに謝罪している。

石油の話

 1991年の独立直後、ナゴルノ・カラバフ紛争などの影響もあり、アゼルバイジャンの経済はかなり混乱していた。
しかし政治がある程度安定するや、ヘイダル・アリエフ大統領は、カスピ海の油田開発に力を入れた。

 ロシア帝国の時代から、この地の経済は、石油産業に頼りきりだが、独立国となってからも、それは変わらなかった。
結局は、この21世紀という時代に、石油大国として、アゼルバイジャンの経済は急速に成長した。

 しかし石油に頼りきりの経済は、いつまで続けられるのか、かなり不確定的である。
もちろんアゼルバイジャンの政府もそれはわかっているので、2010年以降は、情報技術分野や、農業分野など、非石油産業にもかなり力を入れてはいるようである。
特に農業に関しては、アゼルバイジャンは元々豊かな気候の、農業が盛んな地域だったので、かなり重要視されているという。

 また石油産業の恩恵が、その中心であるバクーなどに集中されすぎている事がまた、新たな問題を産みつつある。
早い話が、地方格差の問題である。

アゼルバイジャン語

 「実はトルコ語の一方言」と称されるくらいに、アゼルバイジャン語とトルコ語は似ているとされる。
アゼルバイジャン人とトルコ人は、それぞれの言葉のみで普通に意志疎通が可能らしい。

 南部と北部のアゼルバイジャン語は文法の細部などで異なっていて、アゼルバイジャンの公用語としてのアゼルバイジャン語は北部のものである。
ややこしいのが文字による違いで、北部アゼルバイジャン語は基本的にラテン文字(日本人的には単にアルファベット)で表記されるが、南部アゼルバイジャン語はアラビア文字で表記される場合もある事であろう。
 
 アゼルバイジャン語は歴史的に表記の為の文字が何度か変わっていて、ソ連時代はキリル文字が使われていた。
また、もともと使われていたのはアルファベット文字であったようである。

 また文法が日本語に似ているらしい。

アゼルバイジャンとチェス

 ソ連はチェスがかなり盛んであったので、つまりはソ連の1地域でもあったアゼルバイジャンでもチェスは盛んだ。
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 特にバクー出身の(ただし父がユダヤ人、母がアルメニア人なので血統的にはアゼルバイジャン人ではない)ガルリ・カスパロフは、22歳の時に、史上最年少で世界チャンピオンとなったチェスプレイヤーとして有名。

 カスパロフはまた、1996年と1997年の、スーパーコンピューター「ディープブルー」との六番勝負でも有名である。
1996年には勝利したが、1997年には敗れた。
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アゼルバイジャンと日本

 アゼルバイジャン人と日本人は遠い存在である。
しかし日本を知らないアゼルバイジャン人はあまりいない。

 もちろんたいていの国の人と同じく、アゼルバイジャン人にとっても、日本という国は、ソニーやパナソニック、トヨタや日産、マンガやアニメの大国らしい。
また、アゼルバイジャンは格闘技がわりと人気で、柔道や空手の発祥地として日本を認識している人も多いという。
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 しかしやはり最初の衝撃は日露戦争であったらしい。

 欧米諸国はもちろんだが、全アジアに衝撃を与えたとされるこの戦争は、もちろんアゼルバイジャン人にも強烈な印象を残したのだという。

アゼルバイジャンと東芝

 「東芝は素晴らしかった」
「東芝の工場がバクーにあった事は誇りだ」
そんなふうに言うアゼルバイジャン人がけっこういるという。

 どういう事かというと、1975年、ソ連からの注文を受け、日本の電気メーカーの東芝が、エアコンの製造工場をバクーに作ったのである。

 当時、世界的な温暖化を受けて、冬向きのソ連の建物が、やや暑すぎるという事態になっていた。
そこで、「国民生活の向上」をうたっていた当時のソ連政府は、東芝にエアコン工場建設を依頼したのだという。

 当時のソ連には周辺産業が皆無な為に、必要な全ての部品を自力で造らなければならず、結局、建設された工場は、かなり大規模なものとなった。

 そうしてアゼルバイジャンに、東芝製のエアコンが出回る事になったのだが、その評判はかなりよく、国民達に「東芝は素晴らしい」という記憶を植え付けたわけである。
とりあえずかなり壊れにくかったらしい。
さすが日本製。

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