そもそも神道とは何か
日本という国に、自分たちの国の宗教、外国の宗教という概念が明確に発生したのは、仏教が伝えられてきて、ある程度広まった時からとされている。そして長い時間をかけて、日本では神道よりも、仏教を重んじるものが増えていった。
神々は、本来どのような存在であるのか
そもそも、古い時代の日本で信仰されていた、神々とはいったいなんだったのだろうか。おそらくそれは、古い時代の(世界中の)多くの地域の多神教と、同じような思想から発展していった宗教体型であろう。
昔はこの世界の何もかもが説明のつかない出来事と言えた。
なぜほとんどの生物が大地から離れられず空を飛べないのか、熱を高めたら発火現象が起こるのか、夜空の星何なのか、病気とは何か、子はどのように親の中で生まれるのか。
世界のあらゆる現象が未知のもので、しかし実際に目の前にある、太陽や月、海、川、大地、山、森など、 自然の世界の様々な要素に対し、人々は畏怖の念を抱いたのである。
だから、多神教の始まりが、普通はそうだと考えられるように、神々とはもともと、自然界を構成する要素の1つ1つであったと思われる。
歴史的に、唯一の神が世界の全てを仕組んだという一神教の方が新しいというのは、かなり納得できることだ。世界がこれほど多くの要素で満ちているにも関わらず、それらの原因をたった1つの何かに求めるなど、かなり非現実的な話だったに違いない。
神々は、それが人から人へ伝わっていく過程で、物語の中のキャラクターに変わっていった。自然のある要素そのものではなく、その要素を司る神という存在が、いつのまにか定義されるようになっていく。
理由はともかくとして、原因を物語として理解するのは、人間という知性の得意技である。だが、ただそこに存在しているだけのものに物語を設定するのは難しい。そこで(場合によっては擬人化といってもいい)キャラクター性の授与が行われていったのだろう。
神道という宗教体系も、そうして造り上げられていったのだと思われる。
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仏教は学問的だったか
異国から伝えられてきた仏教は、神道よりも学問よりだった(だから説得力がある)と考えられていた、という説がある。
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(仏教が伝来した時代の)神道は、あちこちに物語が設定された典型的な宗教体系として考えた場合、まだまだ発展途上であったのかもしれない。
例えば多くの人が疑問に思っていただろうこと。「人は死んだらどうなるのか」とか、「何が正義で何が悪と考えられるか、そういうものがあるとして正義を行う意味があるのか」とか、「そもそも人は、神のような存在に変わることが可能か」といった問題に対し(信憑性はともかくとして)それなりに説得力がありそうな答を返せたのは、仏教の方だったろうと思われる。
ある宗教の成立過程は「未知の存在への畏怖→畏怖されていた諸々に関して、物語性、(神々という)キャラクター性の追加。畏怖されていた諸々の研究→神々の研究→理解(?)された神々の話(設定)の一般化」と考えられるかもしれない。そうだとして、神道はおそらく最終段階(神々の設定の一般化)までいっていなかった可能性は十分にある。
だが仏教は、おそらくすでに宗教体系として完成しているかのようで、神道に比べて説得力が高かったかもしれない訳だ。
そもそも互いの解釈に関しても、神道側は、仏教を外国の宗教としか定義できなかった。一方で仏教の方は、神道の神々が、仏が姿を変えて日本に現れた姿なのだ、という説を提唱したとされている。
仏教の方が、相手側を自分たちの方の世界観に取り込むことで、宗教体系としての矛盾性を少なくしている(ようにも思える)
素朴な(飾り気なく自然のままの)神祇(神々)への信仰こそを何よりの拠り所としている神道に関しては、もともと複雑な学問体系などいらないだろう、という発想もある。
何がどうなっているかと考えることは、道の外のことであり、大切なのは、ただそこにあるがままの自然を受け入れることなのだと。
神仏習合を否定した復古神道
『神仏習合』、あるいは『神仏混淆』という現象には、2つのパターンがあったと考えられる。
まずは、仏教側が神道世界を取り入れようとしたための神仏信仰の融合。 神道の密教(秘密仏教)化などと言われることもある。
もう1つは、仏教が代表する異国宗教の理論的世界観に対抗するべく、神道理論を成立させようとしたための神仏融合。理論に必要であった様々な用語は、結局は、仏教や儒教、陰陽道など、外来からの用語であり、そもそも打ち出される体系自体、仏教の影響が強いことが多かったろう。
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しかし成立過程はともかく、日本の歴史の中で、神と仏を混ぜた(そしてたいていの場合、仏が上位にあった)神仏習合的世界観が、広く受け入れられてきたことは確かである。
一方で、江戸時代くらいから、そうした外部要素を加えた神道を否定して、元の姿の「神(のみの)道」を思想的に取り戻そうという動きが目立つようになってくる。
そのような運動が、後に『古神道(復古神道)』と呼ばれる、いわば現代の純粋神道の根源になったのだとされている。
そもそも外来宗教の影響を受ける以前に存在していた純粋な神祇信仰、原始神道をこそ、古神道と呼ばれるべきものとし、復古神道もまた、様々な独自解釈が追加されたものと考えられることもある。
平田篤胤の神道研究
復古神道思想に多大な影響を与えたとされる人物として、特に平田篤胤(安永5年(1776)~天保14(1843))という国学者が知られている。
秋田、佐竹藩士の四男として生まれた彼は、20歳で江戸に出てきて、松山藩の山鹿流兵学者の平田篤隠の養子となった。後には、易学、蘭学、仏教、キリスト教などを幅広く研究する一方、霊的問題に関心を寄せ、儒教や仏教要素を廃した神道を研究した。
篤胤は、以下のような主張を、繰り返し広めていたとされる。
「そもそも日本という列島は、神が直接に作りたもうた唯一の大地であり、地理学的、神霊系譜的に、世界の中心と考えられる。
記紀神話で語られるように、イザナギ、イザナミの二神が、最初に創造した(あるいは最初にひとりでに生まれ、そこに二神が降り立った)オノゴロ島こそ、大地の御柱であり、オノゴロ島を核として生み出された日本列島こそ大地の元。
日本以外の全ての国は、しょせん潮の沫が凝り固まったもの。日本を大木の国とするならば、外国は枝の国にすぎない。だからこそ、最も重んじられるべきは、日本列島に元々存在していた、神の道の宗教」
全ての中心である皇国
篤胤が提唱したような復古神道の世界観においては、日本は世界最古の国と考えることができる。そして、あらゆる霊的秘技や秘宝は、日本にこそ正しいものが伝わっている。
篤胤の主張の中には、「はるか西の果ての国においては、アダムとエバが国を生んだという言い伝えがあるのだが、それは皇国の古伝を誤り伝えたもの」というようなものもあったという。
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また、復古神道の考え方においては、物理世界においても、霊的世界においても、その中心に存在しているのは、霊国、日本である。そしてその他の国に伝えられるいくつもの神話は、基本的に神代(神の時代)の正しき伝承(日本神話)を誤り伝えたものである。だが誤りがあるとはいえ、元は日本神話であるのだから、古神道の世界観、この世界の本質を考えるための参考として他国の宗教も使える。という説もある。
そもそもが、ある宗教をこの世界の唯一の真実神話として、 他を勘違いの産物だとするような考え方自体が、他国宗教の影響を受けているといえるかもしれない。
神道霊学
復古神道においては、この日本列島という、神が唯一直接造りし国土は、 それ自体が御神体であり、 神的霊気に満ちた聖なる世界とも言える。
そこで復古神道という思想自体が、神道的神秘主義とも言うべき、神霊信仰との関わりがとても深いと、普通は考えられる。
天狗小僧、寅吉
文政の時代(1818~1831)の江戸にて、天狗小僧として知られていた寅吉という少年の話に、平田篤胤は強い興味を抱いた。
篤胤は、寅吉を自分の家に引き取って 彼の語る 不可思議の物語を記録、『仙境異聞』という本にまとめたとされる。
寅吉は、幼い頃から透視能力を有するような超能力少年であり、預言者としても知られていた。
彼は7歳の頃、東叡山ふもとの五条天神宮の境内で、薬を売っていた謎の老人と出会い、それをきっかけに、常陸国南台山の仙境に出入りするようになったという。
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賀茂規清の烏伝神道
京都は賀茂神社の社家に生まれた賀茂規清(1798~1861)は、家伝の神道を基盤とし、『烏伝神道』を創始した。
烏伝神道はしかし、江戸幕府から異端扱いされ、弾圧され、最終的に廃絶となった。異端とされた理由に関しては、そのあまりにも特異的な霊的着想のためだったとも。
アカシックレコード(人間の京)や、失われた大陸伝説(五大陸の浮き沈み)など、現在でも語られるようなオカルト的発想が、あちこちに見られるのだ。
「ムー大陸」沈んだ理由、太陽神信仰の起源、忘れられた世界地図、機械仕掛けの創造宇宙 「アトランティス」大西洋の幻の大陸の実在性。考古学者と神秘主義者の記述。
ただし、弾圧に関しての決定的な理由としては、元々危険思想家として睨まれていたところ、「天保の大飢饉の原因を、人君の不徳にあり」としたことが、直接的な引き金となった。という説が有力なようだ。
造花妙用。人間の京
国之常立神(日本書紀において、天地開闢の後、最初に出現した原初の神)が書いたという、『造花妙用』という本。この、物理的な目には見ることができず、各人間に宿っている天目一箇神(鍛治の神)の分御霊の働きによってのみ、読解できるのだという霊書から、規清は多くの情報を得たとされる。
造花妙用の「人間の京」という章には、世の中の全ての仕組みが書かれているとも。
世界の寿命は3億7255万6322年。天地は1万2750年に1度、呼吸を行う。その呼吸のために、6375年ごとに5つの大陸が海中に沈み、別の5つの大陸が浮上してくるのだという。
本田親徳による、古代霊術の復興再編
鎮魂法、帰神法
第53代淳和天皇の勅により編纂されたとされる律令(法律)の書である『令義解』には、「遊離する魂を身体に留める呪法が鎮魂」という定義が記述されているという。
これを『鎮魂法』とする。
また、日本書紀にて、第14代仲哀天皇の妻である神功皇后は、自ら神主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣氏の祖とされる中臣烏賊津を審神者とし、神意を伺ったとされる。
これを『帰神法』とする。
「歴代天皇」実在する神から、偉大なる人へ
審神者とは、古神道の祭祀(祭り)において、神託を受けて、神意を解釈し伝える者のこと。祭祀の際に琴を弾く者を指すこともある。
鎮魂法、帰神法のいずれも、古代文献の記述のみが手がかりであり、実質的には歴史の闇に、その詳細は葬られていた。
だが、明治時代の神道家である本田親徳(文政5(1822)~明治22(1889))は、それらを復興再編、あらためて鎮魂帰神法として体系化した。とされている。
本田親徳は薩摩藩の典医の家の子として生まれた。
典医とは、典薬寮(政府内医療機関)に所属している、あるいは大名などに仕えた医師のこと。
この親徳は、天保14年(1843年)、京都にて、憑霊状態で和歌を読む狐憑きの少女と出会い、衝撃を受け、霊学研究を志したのだとされている。
神憑り状態、そして憑霊をいかにして見極めるか
一般的に、鎮魂法はある種の精神集中技法、帰神法はいわゆる神憑り状態を意図的に誘発させてコントロールする技法。そしてこれらはシステム領域的に連続しているとされる。
親徳は、帰神法により発生する状態には、『有形』、『無形』という分類が可能であるとした。
外見的に神憑りと判断できるような帰神状態が有形、 外見からは判断しにくい帰神状態が無形である。
さらに、有形、無形それぞれ『自感法』、『他感法』、『神感法』の3種ずつに分けられる。
自感法は、自らの鎮魂力により、霊魂を神界へと飛翔させ、自らの体に憑霊させる技法。
他感法は、術者である審神者が神霊を降臨させ、被術者である、対座した神主にそれ(神霊)を転送し、そちら(神主)を神憑り状態にする技法。
神感法は、神の都合により、特定の人物に憑る場合であり、技法というよりは、単なる現象にすぎない。
そして、自感法、他感法、神感法の各種も、それぞれ「上」、「中」、「下」に分けられる。
つまり18通り。
さらには、『妖魅界』系の帰神法も同じだけあるらしく、実質的に、合計36もの帰神法があるのだという。
妖魅界とは、文字通りに妖怪の世界のことであろうか。
親徳は、自分より以前の復古神道研究を、「神を人とし、現幽を混同し、神魔を弁別(区別)せず」などとして、批判してもいたという。
現(現実?)と区別されるべき幽、神と区別されるべき魔とは、いったいどのような存在なのであろうか。
審神者の役割。神霊の系統
親徳自身は、有形の他感法を重要視していたとされる。
他感法では、術者である審神者は、まず岩笛を吹くなどして幽玄なる雰囲気を発生させる。そして、自らの霊魂を霊界や神界に走らせ、まずは自分の体に神霊を降臨させる。この行いは「霊引き」と呼ばれる。
被術者である神主は、印を組み黙想している。審神者は、自分自身が神がかり状態となってしまう前に、素早く神霊を神主へと転送。この際に、審神者は、憑依した神霊の正邪、階級、系統を見分けないと、危険が伴う可能性がある。審神者はまさしく、審神(神を見分ける)役割も担っている訳である。
審神者が神霊を見分る一般的な方法は、様々な質問を行い、その矛盾などを参考にする、というものなので、審神者は、神々や古学にかなり通じている必要がある。
また親徳は、神霊の階級は181あるとしていたようである。
言霊宇宙論
江戸中期に興ったとされる、文献学的方法による古事記、日本書紀、万葉集などの古典研究を、『国学』というが、これは実質的に、儒教、仏教渡来以前の日本古来の文化の研究であり、復古神道とは深く関連している。
その国学という学問は、もともと古語の研究から始まったとされている。語音と語義の結合や変化、てにをはの動きなど、日本語という言語システムの原理、法則の研究。そして、その言語原理より見出された神秘的作用こそ、いわゆる『言霊』である。
言霊研究はやがて、一音ずつにすでに根源的な意味が宿っているという『音義言霊論』を生む。さらには、ひとつの言葉に多義的、重層的な意味を想定し、神秘的観念を高めた『言霊宇宙論』というのまで提唱される。
言霊論者として有名な中村孝道や山口志道(1765~1842)は、「声にはそれぞれ根源的形象があり、音声の曼荼羅図から言語秩序と宇宙秩序、言霊秩序と宇宙秩序を関連付けることが可能であること。言語を媒介に、大宇宙(神々)と小宇宙(人間)との魔術的照応が可能であること」というような思想が共通しているという。
大石凝真素美が琵琶湖に見いだした水茎文字
いろいろとその経緯について謎が多いが、祖父を介して、中村孝道の言霊学を学んでいたという、国学者の大石凝真素美(1832~1913)は、琵琶湖の水面に周期的に起こっているという大規模な波紋に、言霊の音韻、中村孝道が根源的形象と定義した『水茎文字』を見いだしたとされている。
真素美は、嘉永6年(1853年)の 黒船来航に衝撃を受けて、「外国に勝つためには元寇(鎌倉時代中期、13世紀後半にあった、当時、広大な大陸を支配していたモンゴル帝国(元朝)とその属国である高麗によって2度行われた日本侵攻)の時に日本を守った神風が必要」と考え、大神人を探す旅に出たのだという。
やがて、美濃国不破郡に、類稀な験力を有する人物がいるという噂を聞いた真素美は、宮代村にて、後に師となる山本秀道に出会う。
さらに後に、大和三山(天香久山、畝傍山、耳成山rp>()、それに吉野(吉野郡?)を巡った帰り。琵琶湖に立ち寄ったのだが、そこで例の水茎文字の波紋を発見したのだとされる。
そして、この発見を天啓とした真素美は、本格的に『古事記』の奥義に取り組み始める。
自身を審神者、師である山本秀道を神主として、武内宿禰の降霊(帰神法)を何度も行い、宇宙に関する真理を得たという。
それによると、天地開闢の原初から存在していたいくらかの言霊(?)に対照力が働いて、球状のタカマガハラ(至大天球)が形成され、その中心部にてノリ(大気)が結晶して地球が形成された。さらに、小宇宙である人間の創造儀式は、天照大御神と須佐之男尊によって、琵琶湖で行われたそうである。
「ビッグバン宇宙論」根拠。問題点。宇宙の始まりの概要
真素美からも影響を受けているとされる出口王仁三郎(1871~1948)も、明治32年(1899年)に、真素美その人の案内で、琵琶湖へときて、その水茎文字の形を見たとされている。
義父である出口なお(天保7(1837)~大正7(1918))と共に『大本』という宗教団体を立ち上げた、王仁三郎は、神憑り状態での口述筆記で書いたという『霊界物語』などの教本が、神道霊学に強い影響を残している。