テオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム
フィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムというやたら長い本名が有名な、パラケルススこと、テオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム(1493〜1541)。
ただ、彼の長い本名は、どうも、生前に使われた確かな記憶が全然ないようなので、創作の可能性がある。
ホーエンハイムは、スイスのチューリッヒに近いアインジーデルンの村で生まれたとされている。
医師の息子であったのだが、病弱であり、大人になるまで、おそらくは生きられないだろうと考えられていた。
パラケルススの意味。バーゼル大学で何か学んだか
彼はバーゼル大学で学んだとされているが、理論より経験主義であり、あまり大学の空気は合わなかったようなので、ちゃんと卒業したかは疑問だとされている。
彼が、ローマの医術士ケルススにちなんで、パラケルススを自称するようになったのは、二十代前半の頃。
1年間ぐらい、テロル銀山で働いていたが、旅をして世界を見て回りたい、という野心が強くなり、彼は実際に、長い放浪の旅に出た。
そして、各地で、実際に病気の患者と接し、診察して、その経験を増やしていった。
彼は自身を魔術師だと言ったことはない、という人もいる。
彼は、魔術や錬金術を信じていたともされているが、それは、しっかりと経験に基づいた、根拠ある推論だった、というのである。
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ただし、彼は医師として、オカルト能力を用いた治療に関しては、懐疑的だったようである。
聖マルティン修道院のヨハンネス・トリテミウス
大学にて、パラケルススは、医学だけでなく、すでに錬金術についてもよく学んでいた。
また、おそらくは大学生の時代か、その前後くらいに、修道院長であり、神秘学者でもあったとされるヨハンネス・トリテミウスの元で、魔術の理論も学んだという。
トリテミウスは、一時期、アグリッパも師事していたという話があるので、 少なくてもこの時代(16世紀)のドイツにおいては、神秘主義者としても、それなりに知られていたのであろう。
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トリテミウスは、ハイデルベルク大学の学生であったが、1482年、大学から町への帰路で吹雪に見舞われ、シュポンハイムにあるベネディクト派の聖マルティン修道院に駆け込んだ。
彼は、これをきっかけに、この修道院で働くことに決める。
若くして修道院長になったトリテミウスは、その学問への熱心さをもって、修道院の著書を増やし、いつの間にやら聖マルティン修道院は、優れた図書館と化していたのだという。
謎の錬金術師、アイザック・ホランドス
大学生時代、パラケルススは、ヨハン・アイザック・ホランドスの書をよく読み、研究したという説もある。
アイザック・ホランドス(Isaac Hollandus)は、謎の錬金術師で、かなり伝説的な人物である。
賢者の石の製法を知っていた、という説まであるが、そもそもほとんど書の著者としてだけ知られている事から、むしろヘルメスやソロモンに近い存在かもしれない(つまり単に魔術師用のペンネーム)。
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アイザック・ホランドスは、15〜17世紀のどこかで生きていた錬金術師とされているが、それならば、16世紀以前でないと、16世紀のパラケルススが彼の書を読めるのはおかしい。
アイザック・ホランドスの書の著者は、 基本的にヨハン・アイザックと単なるアイザックの二人がいたとされ、二人の関係は父子とも、兄弟ともされる。
最もその名自体、作られたもの。
特にホランドスに限っては、単に地名を表現しているものらしい。
パラケルススは、彼らの書から、従来の医術にとらわれない、化学的治療を学んだともされる。
賢者の石を仕込んだアゾット剣。オカルト能力を有していたか
パラケルススの事を語る人の中には、彼は生来自然の治療師であったのだと言う者もいる。
パラケルススは、「魔術は、あらゆる書物に勝る医術の教師」と言っていともされる。
その、いわば精神的、本能的な力は、小宇宙(ミクロコスモス)たる人が、大自然に及ぼす影響なのだという。
錬金術師は、古くから水銀(アゾス)を重要視してきた。
パラケルスス自身は、自身の剣(あるいは杖)にアゾス(アゾット)と名をつけ、起きている時も、寝ている時も、肌身離さずそれを持っていたという。
このアゾスには、賢者の石が仕込まれていたとか、悪魔が封じられていた、という説もある。
また、パラケルススが、生まれつき腰から下が麻痺している宿屋の娘を、ぶどう酒と水銀の薬で治してやったのだという話もある。
それがもし真実なら、今の我々には、実に不思議に思えるだろう。
どうも、パラケルススの使用していた水銀は、我々の知っているそれとは違うのかもしれない。
あるいは、彼の治療の効用の原因は、やはり科学的な知識よりも、むしろ精神作用のオカルト能力によるところが大きかったのではないだろうか。
古い医学をあっさり捨てた異端児
パラケルススは1524年くらいから、バーゼル大学に落ち着き、医学教授となったそうである。
彼の医術が、どのような類のもので、実際にはどの程度の成果をあげていたのかは、不明な部分も多い。
しかし少なくとも、彼が自分の医術を革新的と考えていて、しかもそれの正しさに関して、かなりの自信を持っていたことは間違いないようである。
彼は、バーゼル大学の医学教授となってすぐ、学生達に焚火を燃やさせ、ガレノス、アヴィケンナ(イブン・スィーナー)、ラーゼス(アブ・バクル・ムハンマッド)などの、古代の著名な医者達の書物を、次々と投げたのである。
そうして、パラケルススは、「こいつらときたら、俺の髪の毛ほどの才能もない、ヤブ医者達だ」と告げた。
当然、この行動は医学部の他の教授達から、大いに反感を買ってしまい、みなパラケルススをイカサマ野郎だとなじったが、大学当局は 彼を庇護したとされている。
彼は変わり者であったとしても、医師としての能力は本物だと考える人がけっこういたのであろう。
実際、彼は他の医者が匙を投げた患者の病気を、いくらでも治すことができたとされている。
しかし、プライドが高く、口も悪かった彼は、「いつかきっとやらかすだろう」と考えていた、彼を嫌う者達の期待通りに、問題を起こしすぎて、バーゼルを去っていったのだった。
貴族との対立。放浪者としての生涯
パラケルススは、 言ってしまうなら、ちょっとした癇癪持ちだった。
ある時、赤痢に苦しむバーデン侯爵という貴族を治療してやった時に、侯爵は、約束の金でなく、大して貴重でもなかった類の宝石を用意した。
バーデンは少なくとも、パラケルススの力を信じていたから、その評判を広める事で役に立ってくれたろう。
だが、パラケルススは侯爵の報酬に対し、「これは侮辱だ」と大いに怒り、おかげで侯爵は、「実はパラケルススに診てもらう前から、すでに病気は治りかかっていた」などと言いだし、パラケルススの評判に傷をつけた。
そんな人であったからか、パラケルススは、バーゼルを離れて以降、死ぬまで放浪者であったという。
彼は暗殺されたという説もあるのだが、一般的には、普通に病死だとされている。
パラケルススの宇宙。硫黄、水銀、塩
彼は、まず第一に医者、少なくても医者のつもりだった。
毒と薬について、「結局、全ては毒なのだが、うまく量を調節すれば、それは薬にもなる」というような言葉を残している。
彼の魔術師的なイメージは、彼の生前の話よりも、むしろ彼が書いた著作の内容によるところが大きいのかもしれない。
パラケルススは、硫黄、水銀、塩こそが、この宇宙の最も基礎的な構成元素と考えていたようである。
彼は、それら三大元素がいろいろに混じり合う事で、第二要素たる、四大元素(地、水、火、空気)が生まれ、さらにそれらの組み合わせが万物を生むとしていた。
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四大精霊。エレメンタル
パラケルススの死後に出版されたという著書『ウンディーネ、シルフ、ノーム、サラマンダー、その他の精霊についての書(Liber de Nymphis, Sylphis, Pygmaeis et Salamandris et de caeteris Spiritibus)』、あるいは単に『精霊の書』において、彼は、四大元素を司る『四大精霊』なる存在を提唱している。
すなわち、火のサラマンダー、水のウンディーネ、風のシルフ、土のノームである。
これらは『元素霊』、あるいは『エレメンタル』とも呼ばれ、パラケルスス自信が論じるところによれば、肉体を持つ者でも、霊でもなく、しかし生きてはいる存在であるのだという。