「ロイ・チャップマン・アンドリュース」伝説の化石ハンター、冒険家の話

砂漠のテント

インディ・ジョーンズのモデルとなった冒険家

 「私は生まれついての冒険家で、冒険家になろうという決意は必要なかった」と、ロイ・チャップマン・アンドリュース(1884~1960)は自伝『探検の仕事(This Business of Exploring)』に書いた。

 彼はインディ・ジョーンズのような、世にたくさんある冒険映画や冒険小説の主人公のモデルになった人物とも言われている。
そしてまた、古生物学の歴史に偉大な足跡を残した、化石発掘者、古生物学者でもあった。

小さな町での少年時代

 ロイ・チャップマン・アンドリュースは、1884年1月26日、ウィスコンシン州のベロイトで生まれた。
彼の父チャールズは、赤ん坊の目を見て、いかにも東洋人みたいだと思い、「私の息子は中国人」だと冗談交じりに言ったという。

 音楽グループの活動が盛んで、優雅のオペラ劇場があったベロイトは、少年が楽しく過ごすのに悪い場所ではなかっただろうが、アンドリュースは21歳の時、その町を出ていった。
 小さい頃からよく本を読み、特に冒険物語やフィールドガイド系が好きだった彼の夢はすでに博物学者であり、探検家だった。
小さな町で静かな一生を暮らすのでなく、まだ見ぬ未知の世界へと旅立って行きたかった。

 アンドリュースはあまり少年時代を語らなかったという。
もしかしたら彼にとって少年時代は、まったく意味のない時間だったのかもしれない。

アメリカ自然史博物館での研究の日々

剥製室で芽生えた友情

 1906年に、大学を卒業したアンドリュースは、ニューヨークの地を踏んだ。
彼は以前から、ずっとそこで働くことを切望していたという、セントラルパークウエスト79丁目のアメリカ自然史博物館に、「床磨きでもいいですから」と自分を必死に売り込んだ。

 そのあまりの情熱に打たれたのか、博物館館長だったハーモン・バンパスは、剥製担当助手として、アンドリュースを雇うことに了承した。

 最初は本当に床磨きぐらいしかやらせてもらえなかったアンドリュースだが、それでも憧れの職場で働けることが嬉しくて嬉しくて 、やる気は十分だった。

 また、剥製室で一緒に働いていた、同じ年代のジミー・クラークとは、親密な友情を結んだ。

ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンとの出会い

 ところでアンドリュースは、 学生時代に英語教師を籠絡ろうらくして、彼女の恋人だった数学教師に、苦手科目であった数学に関して合格点をもらえるように誘導してしまったことがあるほど、人の心を捉えるのが上手かった。

 この人間社会のどのような場所で働くのであっても、社交性というのは強力な武器である。
バンパスもアンドリュースの才を見抜き、展示の企画や客の案内など彼に任せる仕事を増やしていった。
 アンドリュースは、 博物館幹部達にもちゃんと紹介された。
この時、特にヘンリー・フェアフィールド・オズボーン(1857~1935)に対しては、かなりの畏敬の念を抱いたという。

 オズボーンは、例えば有名なティラノサウルスの命名者として名高い。
ティラノサウルス「ティラノサウルス」最強の理由。暴君恐竜の生態、能力

クジラを求めて。最初の冒険

 博物館で働き始めて半年ほど経った頃。
ロングアイランド島のアマガンセットに、捕鯨船に殺されたセミクジラの死骸が打ち上げられたという話を聞いて、バンパスはアンドリュースとクラークを派遣した。

 当時二人は、全長23メートルというシロナガスクジラの剥製作りに苦労していたのだが、その最中で舞い込んできた新たなクジラであった。
クジラとイルカ「クジラとイルカ」海を支配した哺乳類。史上最大級の動物 二人に与えられた仕事は、鯨ヒゲを買い、写真撮影をして、大きさを測って解剖学的記録を取り、さらに骨格を持ち帰ること。

 骨格を持ち帰るために、クジラの死骸から肉を取り除いていく作業はかなりの大仕事であり、しかも途中で嵐が起こって、それを埋めた砂をまた取り除かなければなかった。

 それは最初の彼の冒険にして、最も苦しい冒険だった。

 この件でアンドリュースは、クジラへ興味を抱き、またこの種の研究があまり進んでいないことを知ったので、動物学者として成功するチャンスだと思い、手に入れたセミクジラの詳細な観察記録をまとめた論文も発表した。

 このクジラの論文が評価されたのかどうかわからないが彼は1908年、哺乳類鳥類研究部門に異動となる。
哺乳類「哺乳類」分類や定義、それに簡単な考察の為の基礎知識 風切り羽「鳥類」絶滅しなかった恐竜の進化、大空への適応 それは雑用係卒業の意もあった。

クジラの研究で一躍有名に

 名実ともにクジラ学の研究者となったアンドリュースは、本格的に動物学者としての実績を高めようと、精力的にクジラの研究を続けた。

 解体されるクジラを次々と写真に撮り、大きさを測り、内臓や骨格についてを調べて、生殖についても、オス、メスの行動や、生殖周期、子宮や胎児の大きさや重さを次々記録した。

 また、動物学の博士号を取得するため、コロンビア大学にも通い始めた。
彼が一番最初に取った哺乳動物の進化に関する科目の先生は、オズボーンであったそうだ。

アルバトロス号と東洋への憧れ

インドネシアへの誘い

 アンドリュースの考えていた通り、クジラというのはあまり研究が進んでいなかった生物なので、彼の研究はよく人の注目を集めることができた。
そうして、クジラの専門家として名が知られるようになってきた中。
1990年6月に、彼はカナダのケベック州に、シロイルカと呼ばれる種の標本を収拾するためにやってきた。
 そして調査を置いてニューヨークに戻ってきた彼に、バンパスは尋ねた。
「君は、オランダ領の東インド諸島(インドネシア)に行きたいかね?」

 それは海洋生物調査船アルバトロス号への乗船の誘いだった。

 アンドリュースは大喜びだった。
彼は常に、それがどこであっても、世界中の自分の知らないどこかへと行きたいと、考えていたからだ。

日本、中国、フィリピン

 アンドリュースは、 アルバトロス号と合流するフィリピンに向かうのに日本を経由した。
噂には聞いていたが、壮大な装飾の神社や、優雅な庭園。
美しい着物を着た女や子供たち。
 また、彼は在住イギリス人の友人に、有名な吉原を紹介され、 魅力的で、神秘的な女将と、友人にになったそうである。
吉原の店の女将は、基本的に非常に人心掌握に長けていたようで、アンドリュースは、その魅力にやられた大勢の内の一人に過ぎないと考えられる。

 そして彼は日本を発つと、中国を通り、フィリピンに渡った。

遭難したけど、なんでもなかった

 しかし、アルバトロス号が、港に車では数週間かかるという話を聞いたアンドリュースは、いてもたってもいられなくなり、珍しい鳥がたくさんいるというフィリピン沖の無人島で、退屈な時間のいくらかを過ごすことにした。
 ところが、その島に彼を連れてきて、5日後に迎えに来ると言い残した蒸気船は、5日間経っても迎えにこなかった。

 アンドリュースはしかし、遭難したにも関わらず、むしろワクワクしたようだ。
まるで本物のロビンソン・クルーソーになれた気分だったという。

 彼は、助手として雇った二人のフィリピン人少年たちとともに、自らの知るサバイバル技術を駆使して、ついに船が迎えに来るまでの二週間をたくましく生きた。

 船が遅れた原因はスクリューが壊れてしまったためだった。
船員たちは島に置き去りにしてしまった三人は、もう餓死してしまっているのではないか、と心配していたが、島で彼らが見たものは、ヤシの実の殻に、ハトの肉のシチューをうまそうに食べるリアルクルーソーの姿だった。

密林の島の大冒険

 1909年10月。
アルバトロス号に乗り込んだアンドリュースを待っていたのは実に多種多様な魚たちだった。
特に奇妙な姿の深海魚たちは、アンドリュースの強い興味をひいたという。

 ボルネオ島などの島では密林を探検し、時には植物に足を絡められてしまったり、痛いトゲを踏まされてしまったりもした。
一度など、ロープのようなツルに全身を絡め取られ、完全に身動き出来なくなったが、現地の人達が救い出してくれたそうだ。

 友好的な現地人もいたが、敵対的な部族も普通にいたようで、村を襲撃する首狩り族たちがいる地域として、行けなかった場所もあった。
 またある時、彼は巨大なニシキヘビを踏みそうになったが、ガイドの人が気づいてくれたおかげで、怒らせる前に銃をぶっ放すことができた。
ヘビと餅「ヘビ」大嫌いとされる哀れな爬虫類の進化と生態  ちなみに彼はヘビが苦手だったそうである。

奇妙な男女のプライバシー

 1910年1月。
本来はアメリカに帰国するはずだったアンドリュースは、あえて日本に残った。

 日本ではクジラの肉が食料源として重要視されているということなので、捕鯨船でよく調査ができると考えたからだった。
そしてその通り、彼は捕鯨船に乗って、多くのクジラと出会ったという。

 アンドリュースはまた、以前から東洋に興味を抱いてはいたが、日本でしばし暮らして、東洋、アジアこそが自分のいるべき場所だったのだとすら考えるようになったとされる。

 便所も銭湯も囲いがなく、プライバシーなどないようなものだった。
また初対面の男女でも、背中を流しやったりするのは構わないのに、紹介されない限りは決して口を聞いてはいけないというような(今の日本人からしてみても)奇妙なルール。
他にもおかしいことは多々あったが、彼はすぐに慣れて、いざ慣れるや、その全てが好きになった。

ラクダのキャラバン

 しかしいくら日本を好きになろうと、彼はあくまで研究の名目でこの地に来ていたので、ずっといるというわけにはいかなかった。
様々な種類の海洋生物をホルマリン漬けにして、博物館に送った後、彼は帰国を余儀なくされる。
せめてとばかりに彼は、東南アジア、エジプト、ヨーロッパ経由で帰国した。

 北京では、美しい民芸品に魅了され、ヘビやコウモリやウナギやイヌまでも、食べ物として売られていることに仰天したという。
レストランの中華料理「中華の四大料理」個々の特徴、いくつか代表的料理の話 なにより、西よりやってきたラクダのキャラバンが、最も彼の心を奪った。
 アンドリュースは、ますます東洋という地域が好きになり、今は無理でも、いつか必ず移住してやろうと決心したそうである。

 そして1912年に、再び彼はアジアにやってくる。

朝鮮半島の冒険

人食いトラ退治

 アメリカに帰国してからも、彼はすぐに、日本で聞いたコククジラなるクジラの調査の名目で、アジアへと戻ろうとする。
話を聞いたオズボーンも、支援してくれた。

 さらにアンドリュースは、今度は朝鮮半島へ向かう計画も立てていた。

 そして彼は、訪れた朝鮮半島のとある町で、子供6人の命を奪ったという人食いトラの退治を頼まれ、了承した。
ただ、結局その人食い虎を退治できたのかどうかは謎である。
とにかくそのトラは、まるで不思議な能力を持っているかのように、誰かが近づいてくるとすぐ姿を消したという。

タイタニック号の話

 朝鮮半島でアンドリュースは、地元の人が、魔物が住むからと近寄らない森なども探検した。
その間、白人にはほとんど出会わなかったが、ソウル行きの列車の中で出会ったアメリカ人宣教師ゲールからの情報には驚かされた。

 アンドリュースは、アジアからヨーロッパ経由でアメリカに帰る計画であり、大西洋横断はタイタニック号という大型客船を使うつもりであるとゲイルに話した。
タイタニック号は、1912年4月の処女航海で、すでに沈没してしまっていたことを、アンドリュースは知らなかったわけである。

アジア探検隊

結婚と、博物館での仕事

 冒険家として有名になり、もともと社交性も高かく、その上、一箇所に留まるのは嫌っている性分のため、ほとんど必然的に、 1時の恋愛をすることが多かったアンドリュースだが、1914年にはイヴェットという女性と結婚した。

 1916年にはクジラの研究もやめて、アジアで出会った様々な野生動物たちの研究をするようになった。

 博物館の仕事が嫌いではなかったようだが、彼はまた、自分の天職だと考えていた、探検に出るための口実を求めていた。

オズボーンのアジア人類生誕説

 またキーとなったのがオズボーンだった。
彼は、ヨーロッパ、アメリカの古生物の移動ルートとしての北アジアに強い興味を抱いていて、また、霊長類が人類へと進化した場所もアジアだと考えていた。

 中央アジアは、アンドリュースの時代には、かなりの不毛地帯だったとされている。

 そして1916年。
アジア動物学探検隊が組織され、アンドリュースはその隊長兼動物学者となった。

 この探検は、中国の様々な野生動物の収集など、かなりの成果を上げたようだが、結局、第1次世界対戦の勃発による混乱から、 打ち切りとなった。

海軍のスパイとして中国各地を巡る

 しかし帰ってすぐ、アンドリュースは海軍情報部に勤務していた友人から、スパイにスカウトされた。
そしてその日のうちに彼は、再び極東へと向かうことになった。

 1918年6月。
アンドリュースはまた北京へと向かった。

 北京の情勢はあまりよいとは言えなかった。
実際にそうだったのかもしれないが、外国人はたいていスパイだろうと疑われたという。

 諜報員として中国各地を巡りながら、彼がいったい軍事的にどのような役割を担ったのか、彼は生涯誰にも語らなかった。
ただこの時期、彼が訪れたモンゴルは、彼に、オズボーンの説は正しいかもしれないと、印象付けさせたらしい。

目指すべきはモンゴル

 1919年4月。
アンドリュースはスパイの仕事を解任された。
理由はおそらくイヴェットが、彼がスパイであることを示す内容が書かれた手紙を、身内に送ってしまったためと考えられている。

 誰がスパイを加入されても、彼が表向き装っていた第二次動物学探検隊としての立場までなくなったわけではなかった。

 またしても、たくさんの動物のコレクションを博物館に送ることに成功したアンドリュースは、 1920年に、中国をまた去った。
帰国した彼の頭の中には、これまでで最も大規模の冒険と舞台としてのモンゴルがあった。

ゴビ砂漠の恐竜たち

最大規模の冒険計画

 アンドリュースは、オズボーンに会い、新たな計画を熱心に語った。
アジアの哺乳類がどう進化してきたかをたどるのに必要な、あらゆる古生物学、地質学のデータを収集するため、各分野の専門家たちを引き連れて、中央アジア平原、広大のゴビ砂漠を実地調査するという冒険計画。

 アンドリュースや長距離移動を可能とし機動力を増やすために、自動車と、ラクダのキャラバンでの探検方法を提案した。
車のスペアパーツや食料などを運ぶ、 定期的に合流するラクダ部隊が、補給戦艦と同じ役割を果たすであろうと言うのだ。
これまでの探検の経験と、現地の人たちとのやり取りから、考えついた方法だった。

 オズボーンは、了承した。

資金集め

 とはいえあまりにも大規模な冒険計画のために大量の資金がいることは間違いない。
アンドリュースは社交界を巡り、資金援助をしてくれる富豪を募った。

 支援者を集めるのにアンドリュースの持ち前の社交力はもちろん もともとヨーロッパの上流社会で、貴族的な教育を受けてきた妻イヴェットも、この資金集めに大きな役割を担った。

 アメリカの大名門一族として有名なロックフェラー家の、ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー・ジュニア(1874~1960)まで、 アンドリュースの冒険に金を出してくれた。

大げさな新聞記事とたくさんの手紙

 有名な大富豪たちが援助するこということでも話題となった、彼の研究をマスコミは大いに取り上げたようである。

 アンドリュースが何度もしっかり説明しようとしたにも関わらず、各新聞は、彼の探検隊をミッシングリング探検隊と呼んでいた。
 つまり彼の探検の目的は、 人類と 類人猿の間の生物化石を探すための旅だと されていたのである。
アンドリュースとしては、あくまでもただ、人類アジア起源説というオズボーンの仮説を検証するためのものであるとしていた。

 また彼の計画は一躍話題となり、多くの人たちから手紙が送られてきたという。
ほとんどが進化論反対してからの批判の手紙や、あるいはミッシングリンク探索など莫大な金を賭ける価値などあるのか、という疑問の投げかけなどだった。
進化の分かれ道「進化論」創造論を最も矛盾させた生物学理論  しかしなかなかユニークなものも多かったという。
「自分は格闘技をしているんだ。ボディーガードを務めさせてくれ」
「私はウェイターをしています。ゴビ砂漠でもウェイターをしましょう。タキシードは持っていますからご用意していただく必要はありません」

 女性からの手紙も多く、「あなた様に尽くしますから、どうかご同行させてください」というような内容のものもあり、いかにこの探検が人々の注目を集め、憧れさせていたかがわかる。
 また、「価値のある何かをしたいです。女性でも探検隊に加わることができるでしょうか? この手紙の返事として、男女の感情などの話をしていただく必要は一切ないです。私にはそんな感情はありません。ただ冒険がしたいだけです」というようなものもあったという。

プシッタコサウルス・モンゴリエンシス

 1921年2月。
いよいよ探検隊はアメリカから出発した。

 時代が悪く、様々な政治的障害のせいで、なかなか本格的な探検はなされなかったが、いざ始まると、探検隊は、期待どおりの成果が次々とあげることができた。

 東アジアでは初めてだった白亜紀の地層も見つかり、特に保存状態がよかった、くちばしのような口を持つ恐竜化石は、後にオズボーンにより、「プシッタコサウルス・モンゴリエンシス」と名付けられた。
恐竜「恐竜」中生代の大爬虫類の種類、定義の説明。陸上最強、最大の生物。  アンドリュースは、化石を探すのが好きでも、化石を掘り起こすのは性に合わなかった。
というかあまりにも下手くそで、よく貴重な化石を破損させてしまったため、後に自然史博物館では、破損した化石にたいする「RCAされてしまっている」という言い方が定着したという。

プロトケラトプス。オヴィラプトル。ヴェロキラプトル

 ゴビ砂漠の探検は何度かにわたって行われた。
1923年の探検では、角竜らしき「プロトケラトプス・アンドレウシ」と共に、 その卵らしき化石も発見された。
それは初めて科学的に、はっきりと記載された恐竜の卵の化石であった。

 またその、プロトケラトプスの、卵のある巣を襲おうとしているかのような恐竜化石も発見され、「オヴィラプトル・フィロケラトプス」と名付けられた。

 ただし、後にプロトケラトプスのものとアンドリュースやオズボーンが考えた卵は、実はオヴィラプトルのものと考えは改められた。

 他にも、映画ジュラシックパークでよく知られるようになった「ヴェロキラプトル・モンゴリエンシス」なども、アンドリュースの探検で発見された化石を、オズボーンが記載したものである。

科学者としては三流。冒険者としては一流

 中央アジア探検隊は 大成功を収めたが、その後のアンドリュースの人生は、失敗も多くなってきた。

 イヴェットとは別れ、中国の政治的不安定はなかなか回復せず、 さらに言うなら、彼やオズボーンの人類アジア起源説は間違っているという考えが主流になっていく。

 人類アジア起源説の人気が落ちる大きなきっかけとなったのは、1924年、アフリカでのアウストラロピテクスの発見であった。
人類学者の目は、だんだんとアフリカへ向けられていくことになるのである。

 アンドリュースは、1960年3月11日に心臓発作で亡くなった。

 彼は冒険家としては一流で科学者としては三流だったとされている、化石を扱うのが下手くそで、細かい作業も苦手、数学もまるでできなければ、かすかな痕跡を見つけ出すような観察力もなかった。
しかし冒険家としては超一流であり、不毛の地と考えられていたゴビ砂漠にその足を運び、古生物学という分野に多大なる貢献をなした。
 ゴビ砂漠は不毛な地などではなく、そこで彼が発見した多くの化石は、今でも世界中の古生物学者やマニアにとって、特別な意味を持っている。