イギリスのジュール、ドイツのマイヤー
ジェームズ・プレスコット・ジュール(1818~1889)は、ユリウス・ロベルト・フォン・マイヤー(1814~1878)のライバル的な存在とされるが、両者ともに、正式な科学者でなさったことが共通している。
しかし、どちらかというと科学会で孤立した存在であり、その研究成果もなかなか世間に認められなかったマイヤーよりは早い段階で、ジュールは学会に認識されたらしい。
それぞれの国の状況も、二人の人生の違いに大きく関係していたのかもしれない。
マイヤーが生まれたドイツが工業の後進国だったのに比べて、ジュールのイギリスは産業革命で急速な工業の発展を遂げていたのだ。
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家庭教師たちの授業
1818年。
イギリスはマンチェスター近くの町サルフォードにて、ジュールは生まれた。
醸造業者を営む裕福な家の次男だった彼は、病弱で、正規の学校教育は受けず、勉学は自宅で家庭教師に教わった。
家庭教師の1人は、原子論研究などで高名なジョン・ドルトン(1766~1844)で、実質的には彼の授業が、ジュールが生涯で受けた、唯一の科学、数学教育だったとされている。
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電磁気学発展の時代
1800年に、アレッサンドロ・ヴォルタ(1745~1827)が発明したボルタ電池は、実用的に革命的だった。
それのおかげで持続的な電流の使用が可能となり、様々な電気実験が可能となったのだ。
電気分解、電流と磁気の相互作用、熱電流、電磁誘導。
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実用的な発電機まで作られるようになった。
すべて19世紀の前半でのことである。
電気、磁気、熱、化学的性質、運動まで。
それまでは別々と考えられていたいくつもの現象が、共通する何かを共有しているのではないか、とよく考えられるようになったのだった。
蒸気を越える電気機関の夢
ジュールは、電磁気学研究の最盛期とも言うべき1830年代の後半くらいから研究者としての道を歩み始めたとされる。
ジュールが最初に電気モーター(電動機)を個人的に作り上げたのは1837年の頃とされる
彼は電動機の改良と、蒸気機関との効率の比較などを研究した。
最終目標は、蒸気機関よりも高い効率を誇る、電気機関の開発であった。
彼は電磁石の引力は、電流の2乗に比例するという独自理論を持っていて、その法則が正しければ、電流を増加させることで電動機の効率を大きく上げることができるはずとも考えていた。
実際には彼のその法則は間違いであったとされている。
そもそも電流を発生させるためには電池という物質の消耗がともなうから、蒸気機関よりも効率的な電動機を作るのは難しいと、彼は理解するようになった。
1841年くらい。
ジュールは、1ポンドの亜鉛を使って動かした電動機でだせる動力は、1ポンドの石炭を使って動かした蒸気機関の動力の1/5ほどと結論した。
彼自身が「これではあまりに電動機が不利すぎる。電気的引力を動力として実用的に用いることは、見込みのない企てだ」などと述べているという。
ファラデーの影響はあったか
1840年に、マイケル・ファラデー(1791~1867)は論文で、「 これまでに様々な動力というものの形態的の変換を我々は知ってきたが、いずれにおいても、力の創造なんてものはなさそうである」というように書いているという。
ジュールは、ファラデーの提唱していた、電気分解時に、電気量(電子数)や物質量(原子量)は変わらないという「電気分解の法則(Faraday’s laws of electrolysis)」を知っていた節があるようだから、ファラデーの論文に影響を受けていたのかもしれない。
新しい興味、熱
まったく想定外の結果に終わってしまった電流研究の経験は、しかし無駄にはならなかった。
ジュールは、実験の時に、電流の発熱作用などについても研究していた。
つまり、蒸気機関以上のエネルギー機関の開発に失敗した彼に、それでも新たに、熱に関する興味が残っていたわけである。
電動機に関する諦めを表明した1841年。
ジュールは「科学において、熱と電気の関連性を研究すること以上に興味あることなど、ほとんどないだろう」とも述べているという。
電気と熱の実験
正確には、ジュールの、電気と熱の研究は1840年から本格的に始まったようである。
彼は最初に、「電流が生み出す熱は電流Iの2乗と電気抵抗Rに比例する」という、今では「ジュールの法則(Joule’s laws)」と呼ばれている法則を実証。
Qが発生する熱で、tが電流の流れる時間である。
実験は、「熱量計(calorimeter)」、つまり余計な外部からは断熱されている容器に満たした水に導線をつっこみ、電流を流して水の温度上昇を測るという感じだったようだ。
何かが保存されている
ジュールは、様々な化学反応の際における、この電流から生じる熱(ジュール熱)を測定し、比較し、1846年には、そこに常に保存される何かを見いだしていた。
それはマイヤーが単に「力(force)」と呼び、ウィリアム・トムソン(1824~1907)が「エネルギー(energy)」と名付けることになるものに他ならないとされる。
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電気と熱に関するジュールの初期論文は、全て学会から無視されてしまう。
これはやはり、論文の内容が時代の先を行き過ぎていたのではないかと言われることが多い。
ジュールの論文を読んだ者の中には、何か革新的と思われる考えがそこに含まれていることに気づいた者もいたろう。
だが確信が持てず、評価も批判もできなかった。
またジュールが、それ自体まだちゃんと認識されていなかった、ジュールの法則を平然と論文に使っていたことも、評価されにくかった原因かもしれない。
実際に力学的な力をどうやって測るか
ジュールも最初は力学的な力まで、電磁気や熱に関連付けられるとは思ってなかったようだ。
だが、それらの実験を繰り返すうちに、彼の認識は変わっていく。
ジュールはすでに1843年には、「電磁装置を使い、力学的な力を、それにより誘導した電流によって熱に変えられる」と述べているという。
ある熱量から変換させれる仕事量、すなわち「熱の仕事当量(mechanical equivalent of heat)」を明らかとするいくつかの実験は、どうも最初は、熱が物質(熱素)であるのか、振動状態であるのか、その論争に決着をつけるのが一番の目的だった節がある。
ジュールは誘導電流と、電池を繋げた場合の、どちらの電気回路でも、ジュールの法則が適用できることをまず示した。
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これは熱物質が移動してきたのでなく、電流を介して、力学的な仕事が生成されたことを示してるように考えられた。
彼は続いて、実際の錘と車輪を使い、力学的仕事を測った。
錘を落として電磁誘導コイル(車輪)を回し、発生させれる熱量を測ったのだ。
こうしてジュールは、熱の仕事当量を初めて決定した。
実験は十数回行われたが、誤差はかなり大きかったようだ。
ジュールという人は、かなり手先が器用な上に、高い集中力を持ち、さらには細かいところにまでこだわる人だったとされているから、当時の技術では、この実験がそれほど難しかったということだろう。
ジュールは実験のために 当時の技術の限界を詰め込んだ高性能温度計をオーダーメイドしたりもしたという。
彼は文字通りアマチュアであったが、金持ちの家のアマチュアだったことが、いろいろと幸いしている。
最も有名な羽根車の実験
1845年には、ジュールは空気を圧縮して温度変化を測定するという、また別の方法で、仕事当量を測り、その結果は以前のものとかなり一致していた。
そして1847年。
熱の仕事当量をよりはっきり決定するために、ジュールは、彼の生涯の中で最も有名な実験を行った。
彼は液体中の羽根車を錘によって回転させて、そのときの摩擦熱を測り、錘の位置変化から求めた仕事と比較したのだ。
結果はどうか。
熱と仕事の比率は確かにかなり一定だった。
熱の仕事当量は、完全にはっきりしたのである。
オックスフォードでの発表。トムソンとの出会い
1847年にジュールは、羽車の実験から得られた事実を、オックスフォードで開かれた会合の場で発表した。
その時までの論文は全然に評価されてなかったし、彼は招待されたのでなく自主参加だったから、発表時間はかなり短かった。
だが、その短い発表の時は、誰も彼も無関心というわけではなかった。
たった一人。
グラスゴー大学で自然哲学教授に任命されたばかりだったウィリアム・トムソンが立ち上がり、強い関心を持って、意見を述べたのである。
トムソンは父への手紙で「ジュールの考え方には間違っているところも多いと思います。ですけど彼は、極めて重要な事実をいくつか発見していると思います。例えば流体の摩擦によって熱が発生するということです」
そしてこのオックスフォードでの発表が転機となり、ジュールは瞬く間にその名声を高めていったのだった。
1850年には王立協会の会員にもなり、彼はその後も様々な科学、エネルギーの問題に関して研究したが、若い頃の成果を上回ることは、ついにできなかったともされている。
名声を得た後
トムソンと親交を持ったジュールは、共同研究なども行った。
最初はジュールの醸造所を実験場所に使っていたようだが、醸造所を売却した1854年からは、自宅で実験をするようになったらしい。
二人は例えば、気体を膨張させたら温度が下がることを示した。
後に「ジュール・トムソン効果」と呼ばれるものとされる。
その共同研究の時期。
私生活では不幸が何度か起きているという。
ジュールは1854年には妻アメリアと死別し、1858年には父も帰らぬ人となった。
1858年は、彼が列車事故に遭遇した年でもある。
彼はそれから列車がトラウマになってしまって、話の中でその乗り物が出てくることすら嫌ったとされる。
精神的な疲れもあったのだろうか。
ジュールは、マンチェスターのオーエンズ・カレッジが、 新たな物理学教授のポストを用意した時、ジュールはそれに就くこともできただろうが、応募しなかった。
その理由に関しては、トムソンに手紙で「脳を使いすぎるのはよくないと思ってる。今は頭脳労働もけっこう手に余ってきていて、出来る限りものを考えないようにしたいと思ってる。無理はよくないだろう。いつかはもっと楽に、もっと多くのことをしたいが」などと語っている。
科学への情熱は、家の没落を招いたか
ジュールは贅沢な実験を繰り返すことで、ジュール家の没落を早めたかもしれない。
1875年には、ジュールの財産は底をついたともされる。
しかしすでに研究者として名声を得ていたから、王立協会の援助などで実験生活を続けることはできたらしい。
ジュール最後の論文は1878年、再び熱の仕事当量の測定を扱ったものだったという。
その翌年。
1889年に、マンチェスター、セールにて彼は世を去ったのだった。