「エレキギター開発史」電気と演奏のコンビネーションはいかにして始まったか

ハワイアンスタイルとリゾネーターギター

 『ピックアップ(pickup)』 という言葉は、適当なもの、最適なもの寄せ集めたり、ぬき出していったりする行為を意味している。
楽器の文脈においては、この言葉は、ギターの弦の振動などを電気信号に変換する装置のことをいう。
電気回路「電気回路、電子回路、半導体の基礎知識」電子機器の脈 それでもう明らかだろうが、この部品は『エレクトリック・ギター(electric guitar)』、いわゆる『エレキギター』という楽器に、 非常に重要な要素となっている。

ギターの利点、問題点

 20世紀初期のアメリカは、空前のハワイアンブームだったという。
どうもハワイのフラダンスや、火山の噴火などを描いたブロードウェイミュージカルが火付け役だったらしい。

 単にハワイ音楽だけでなく、ギターを横にした状態で演奏を行う『ハワイアンスタイル』もかなり広まったという。

 現在主流となっている、ギターを腹辺りに当てるように持って行う奏法は『スパニッシュスタイル』である。

 18世紀に移民が持ち込んだとされるギターは、ハワイ音楽に必須とされていた。
また、ギターとともに、「カヴァキーニョ」という弦楽器も持ち込まれたが、ハワイの人たちは、後にそれを「ウクレレ」と呼ぶようになった。

 1920年代頃までに、ハワイアンスタイルとともに、ギターは若者たちを熱狂させたジャズやダンスバンドが使用する楽器としても、一般的となっていった。
ただしそれまで主流だった弦楽器「バンジョー」に比べて、ギターはどれだけ力強くかき鳴らそうとも、その音が小さすぎるのが大きな欠点とされていた。

 音の大きさの問題があっても、ギターが他の弦楽器より人気だったのは、弦の数が6本と多めで、プレイの幅が広かったためとされている。

 とりあえず『アコースティックギター』が、 それほど大きな音を出せない仕様なのは当たり前の話と思われる。
元々ギターはヨーロッパにおいて、貴族の女性が嗜みとしてプレイする楽器だったとされているから。
本来ギターは、穏やかな旋律を奏でるための、上品な楽器だったのである。

 だがそんな歴史はどうでもよかった。

 ダンスホールや、禁酒法にもめげないもぐり酒場で演奏するギタリストたちは、誰もがその音の増幅を求めていた。

ジョージ・デルメティア・ビーチャム

 1920年代初期にテキサスの田舎町から、ロサンゼルスへ旅立ったジョージ・デルメティア・ビーチャム(George Delmetia Beauchamp。1899~1941)は、おそらくは夢を追う、若きギタリストだった。

 彼は、テキサスのビーチャム一家の9人の子供のうちの1人で、幼い頃には「バイオリン」を習ったのだが、やがてギターに傾倒した。

 録音音源を一切残していないため、ビーチャムがどのような曲を奏でるギタリストだったのかは不明である。
ただ、同じくギタリストであった兄弟のアントンとデュオを組んで、後にエルヴィス・プレスリー (Elvis Aron Presley。1935~1977)やビーチボーイズ(The Beach Boys)を排出した「William Morris Agency(WMA)」と契約していたようである。
また、ビーチャムのギター演奏も、基本的にはハワイアンだったが、彼はハワイアン、スパニッシュのどちらもマスターしていたとされる。

 今は、エレクトリックギターの開発において果たした役割だけが、彼の名をよく広めている。
ビーチャムは、ちゃんと実用的に機能する、ギター・ピックアップを発明した先駆者。
おそらくは世界で初めて販売目的で生産されたエレキギターが備えたピックアップのデザイナーとされている。

電気改造アコースティック

 ビーチャムは1926年頃に、ジョン・ドピエラ(John Dopyera。1893~1988)という楽器職人に、ギターの音を大きくする方法はないものかと相談した。
この問題に取り組んだ二人は、結果的に『リゾネーター・ギター(Resonator guitar)』というものを開発する。

 これは、「リゾネーター」という円形の共鳴板を、アコースティックギターの「ブリッジ(bridge)」に取り付けたもの。
ブリッジとは、弦をボディに固定して、その振動を伝えるためのパーツである。

 リゾネーターギターは、アコースティックギターの改造品というような感じでしかないが、エレキギターの前身とも言われている。
また、実際に職人と共同作業したビーチャムのこの時の経験が、後の開発にも存分に活かされたろうとされる。

 また、わりと自由主義だったビーチャムと、生真面目なドピエラのパートナーシップは、あまり長続きしなかったようである。

エレクトリックギター

 音楽演奏するためのどこかの過程が電気化された、つまりエレクトリックギターに関する最初の特許は、1890年、米国海軍士官ジョージ・ブリード(George Breed)のものだという説がある。

 ジョージ・ブリードのエレキギターは、現代の、弦の音を電気的に増幅するというようなそれとは、機能的にまったく異なる代物だったという。
どうもそれは電気を利用してある程度自動化された演奏を可能とするアコースティックギターだったようである。
弦をフレットに押し付けることにより、自動的かつ継続的に振動する回路を備え、片手での演奏などを可能にしていたらしい。

 このエレキギターは製品化されなかったようだが、おそらく技術面か安全面に問題があったのだろうと、よく考えられている。

電気の時代。ラジオ、真空管、スピーカー

 1920年代は、『ラジオ』の黄金時代でもあった。

 トーマス・エジソン(Thomas Alva Edison。1847~1931)が、マンハッタンでアメリカ初の発電機を設置したのは1882年のこと。
電気産業は人々の暮らしを大きく変えていくことになった。
「トーマス・エジソン」発明王と呼ばれた独学者。Hello、蓄音機、白熱電球  そして1907年。
リー・ド・フォレスト(Lee De Forest。1873~1961)が『真空管(vacuum tube。三極真空管)』を発明した。
これは、流されてくる電流に関して、増幅などの処理を行うための装置である。
雷「電磁気学」最初の場の理論。電気と磁気の関係「電気コンポーネントの動作」直流と交流の使い分け、各デバイスの役割  真空管は、空気が入らない状態の菅に、電極が封入されているという構造から、真空と呼ばれる。
真空管内の電流の変化は、「グリッド」と呼ばれる電極で制御されている。
エレキギターのアンプのボリュームを変えている時に起こっているのは、基本的にグリッドの電圧調整である。

 フォレストはさらに、1911年には、 ラジオ(の前身である無線通信)用の三極管で特許を取っている。

 そして1920年代に入ってからゼネラルエレクトリック社の、エドワード・ケロッグ(Edward Washburn Kellogg。1883~1960)とチェスター・ライス(Chester Williams Rice。1888~1951)が、電気信号を音へと変換させるための機器である、『スピーカー』を開発した。

 スピーカーは、電気回路を使う音の変換過程の最終段階、すなわち鳴り響くサウンドの質を大幅に向上させたとされている。

 ケロッグらのスピーカーは、 真空管アンプからの電気シグナルを伝授コイルを介して振動に変換し、それで「コーン紙(ペーパーコーン)」というのを介して空気圧の変化を促し、音声を発生させる。
このような形式のスピーカーは「ダイナミックスピーカー」と呼ばれ、現在でもわりと一般的である。

ローパットインのA-25

 1930年に、電気技師のアドルフ・リッケンバッカー(Adolph Rickenbacker。1886~1976)やドピエラのいとこであるポール・バース(Paul Barth)と共に新会社『ローパットイン(Ro-Pat-In Corporation)』を設立したビーチャムは、いち早く真空管スピーカーの技術に目をつけた一人だった。
無線電波の増幅が可能なら、楽器が発する振動波の増幅も可能ではなかろうかと、彼は発想したわけである。

 エレクトロ楽器の研究はギターだけに限ったものではない。
むしろ20世紀初期で言えば、音楽文化全体の中では、より支配的な楽器であったバイオリンと「ピアノ」の研究の方がずっと盛んであったようである。

 1920年代末頃には現代的なものに近いエレキギターもいくらか開発されたようだが、たいてい何か問題があったようで、世間に広めようとか、次世代に残そうという動きなどはなかった。

 ビーチャムは、試行錯誤の末に、そもそもの音の源である弦の振動を直接的に拾うことに特化したギターピックアップを作った。
そしてそれを取り付けたプロトタイプのエレクトリックギターを完成させる。
『フライングパン(frying pan)』、あるいは『パンケーキ』なんていう愛称がつけられたそれは、ギター音楽史の聖杯のひとつとされている。

 そしてそのフライングパンを原型とした、(おそらくはエレキギター史上初の)量産モデル『A-25(Rickenbacher A-25)』は1932年に、市場に登場した。

 名称(型番)の「A」はローパットイン社の最初の生産ラインの品であるから。
25という数字は、ギターの頭辺りの「ナット」というパーツからブリッジまでの距離、いわゆる『スケール』の(インチ単位での)長さのこと。

 A-25から間もなく、スケールの長さ以外は基本的に同じつくりの「A-22」というのも発売されたが、こちらの方がかなり売れたようである。

 また初期頃のAギター(フライングパン型ギター)には、開発者の名前を差し置いてRickenbacher(リッケンバッカー)の名がつけられていたが、新会社立ち上げの際に、彼が金銭的な面で多大な貢献をしたからという説が有力。

世界最新の楽器

 ローパットインは1933年に『エレクトロストリングインストルメント(Electro String Instrument Corporation)』に社名を変えている。

 ところで1930年と言えば、世界中が不景気となった、いわゆる大恐慌の時代である。
この時代にあって、さらに当時はそれほど大きくもなかったギターの市場で、新会社が新しく出した、新機軸の楽器としては、フライングパンギターは、そこそこには売れたらしい。

 その演奏はおそらく1932年のハロウィンの夜だったとされているが、ゲージ・ブルワー(Gage Kelso Brewer。1904~1985)は、おそらく世界で初めて、A-25、 すなわちエレキギターの演奏会を行ったギタリストとして知られている。
演奏会が行われたのは、彼が経営するナイトクラブ。

 そもそもブルワーは、A-25を初めて購入した人物でもあるらしい。

 ブルワーは、演奏会のプレスリリース(告知)にて、「私たちは今回、オーケストラに世界最新のセンセーショナルな楽器を導入します。演奏技術と電力とのコンビネーションが音楽界に新たに迎え入れられたのです。まだ数ヶ月ほどは市場に出回らないということなので、この驚くべき楽器の音色をまだ聞いたことがないというあなたは、今こそ聞くチャンスです」などと、大層に書いたという。

その後の展開

 A-25、A-22の登場より間もなく。
他社からもエレクトリックモデルのギターは次々と登場してきた。

 1933年には、エレクトロストリングとライバル関係だったという『ドブロ社』。
それに、『ギブソン社』や『ヴィヴィトーン社』からも、エレクトロが販売。
さらに1935年には『オーディオヴォックス社』、『エピフォン社』、『ヴォルトーン社』。
1936年には『リーガル社』、『ヴェガ社』、『スリンガーランド社』。
1938年には『サウンドプロジェクツ社』などが続いた。

 細かいデザインはいろいろ違っても、ピックアップに関してはビーチャムのそれと似たようなものばかりだった。
彼がピックアップモデルに関して特許を取ったのは1937年であり、問題なく模倣品を出す時間を競合会社に与えてしまったわけである。

 しかし結局エレクトロストリング社は、寛容にも、訴訟はしない方針を選んだそうである。

 1930年代を通して急速に拡大するエレクトロ楽器業界の中心にあって、エレクトロストリング社はあくまで革命家的だったという。
バイオリン、マンドリン、バスなど、彼らはさらに様々な楽器をエレクトロ化し、その製品の多様化していった。

エレクトロ楽器のイメージの変遷

 エレキギターが市場に出たばかりの頃といえば、まだまだ電気というものに関する理解が、世間ではイマイチで、 様々な迷信を信じる傾向も結構強かったようだ。

 (今でもそれはそうだけど) 雷のイメージから電気というのはとにかく危険なもので、エレキギターに限らず、電子機器というのはどれも、使い方を誤ると命を失いかねないような物だと考える向きもあった。

 不気味な噂として電気を浴びた死体が生き返るというような噂は古くからある。
「科学的ゾンビ研究」死んだらどうなるか。人体蘇生実験と臨死体験 1931年には、映画「フランケンシュタイン」がヒットを記録し、 強烈な電流が生命体を呼び起こすというようなイメージは、より広がったともされる。

 また、フォレストが自身の開発した真空管を、現代の魔法のランプ、というように称したりしたように、 電気には神秘的なイメージも強かった。
実際に電気は、離れたところにいる者たちの意思疎通とか、暗闇を灯す明かりのような、まさしく古い時代の魔法を思わせるような現象を実現する、マナ(魔力)であったのだ。

 そして、電気を利用して音楽を奏でるエレキギターにも、神秘的なイメージが結構もたれたりしたという。
もちろんエレキギターが広く普及するにつれて、そのような神秘的な イメージは薄れていったとされる。

 ロックンロールの時代と呼ばれる、1960年代くらいの頃までには、エレキギターはすっかりポピュラー音楽の主役となっていた。

 最も偉大なロックバンドとされる『ビートルズ(The Beatles)』のレコードデビューは1962年。
つまりA-25が市場に登場した年から、たった30年後である。

 それの開発に関わった者たちの多くは、 自分たちが発明したエレキギターの音楽が世界中に影響を与える様をしっかりと見ることができた。
しかしビーチャムに関しては、1941年に、若くしてその命を失ってしまったために、その栄光の時代を体験することはできなかった。

 晩年のビーチャムは、電子楽器産業からけっこう距離を置いていたらしい。
彼は死ぬ前の半年くらい。
音楽と同じくらいに熱中していた、もうひとつの趣味である、釣りばかりの日々だったらしい。