「人間と動物の哲学、倫理学」種族差別の思想。違いは何か、賢いとは何か

倫理学

スピーシズムは知能差別か、人間優位主義か

 古くから人間は賢いから尊いとされることが多かった。
牛や豚は大丈夫で、イルカは狩ってはダメというような人の中には、イルカは賢いからなどという人もいる。
クジラとイルカ「クジラとイルカ」海を支配した哺乳類。史上最大級の動物  我々が普通に生きている社会という領域においても、暴力は憎まれるのに対し、知恵は重宝される。
社会は明らかに、多くの人の価値観において賢いとされる者を優先する傾向がある。
社会をどの程度発展させてくれるのかは賢さにかかっていると考えられてるようだ(実際にそうかもしれないけど)。

 賢い者が優れてるという考えは古くからある。
肌の色による差別は、黒人が白人よりも愚かだと考えられてたから。
性別による差別でも、女性が男性よりも愚かだと考えられていたからと、普通に説明される。

 しかし知的レベルで価値が決まるとなると、明らかにいくらかの問題が現れる。

 例えば、生まれつき脳に欠陥があり、犬よりも賢くなれない子供がいたとしよう。
その子供と、犬の命とどちらが重いだろうか。
もし自分がそのいずれかを犠牲にしなければならない時、どちらを犠牲にするだろうか。
犬と犬小屋「犬」人間の友達(?)。もっとも我々と近しく、愛された動物  どちらの命が重いかと言うと極端すぎて難しい。
だからこう考えればいい。
自分が陪審員になったとする。
そして犬よりも知能が低い人の命を奪った奴と、犬の命を奪った奴、どちらの懲役を長く設定するのかを考えよう。

 ちなみに同じような考え方で、被害者が正常な人間の場合と、自意識を保てないくらいに知能の低い人間の場合とを考えると、 自分が知能というものをどのくらい特別に思っているか、わりとわかると思う。
コネクトーム「意識とは何か」科学と哲学、無意識と世界の狭間で  だが、もしも自分が知能で価値を決定しているというのなら(少なくとも判断材料としてかなり重要視しているなら)、犬より愚かな人の命を、犬よりも下に見るのはおかしいのでなかろうか。

 犬を好きな人は多い。
だからここの例ではあえて犬を使った。
では犬じゃなくて、例えばネズミならどうだろう。

 人間を使う必要すらない場合もある。
ネズミより賢くなれない犬と、ネズミならどうだろう。
ここでもし、寿命の問題とか、子沢山の問題を持ち出すというのなら、兄弟がたくさんいる人や、病気で明日にも死ぬかもしれないような人に関してはどうなのだろう。
ネズミ「ネズミ」日本の種類。感染病いくつか。最も繁栄に成功した哺乳類  ようするに何が言いたいかというと、明らかな差別がある。
上記のいくらかの思考実験でわかることは、自分がどれくらい人間という生物を特別に思っているかということだ。
もしあなたが、上記のテストを全ておこなった結果、自分が『種族差別主義者』ではないということを悟れたのなら、あなたは多分これを書いてる僕よりも立派な存在だろう。
ただし社会で共存する人間としては、あまりよいものでないかもしれない。

 また、種の違いによる差別意識は『スピーシズム』と呼ばれる。

苦しむことがあるのが重要なのか

 動物解放運動を支持する哲学者であるピーター・シンガーは、大切なのは苦しみの感情だと考えた。
仮に本当に、知能のある者が優れているのだとしよう。
賢い人とバカの人のどちらかを犠牲にしなければならないのなら、バカな人を犠牲にするのがきっと正しい。
しかし賢い人か、バカな人かどちらかが、1日ひどい苦しみを受けなければならない時、その選択権があったなら、死を選択する時と比べて、少しでも難しくはならないだろうか。

 本当に辛いのは死ですらなく、苦しみである。
痛みとか悲しみだ。
普通の人が尋常ならざる痛みを受けて「誰か助けてくれ、なんでもするから」とか嘆いていたとする。
一方で、ろくに言葉も喋れない人が、同じ痛みで苦しみ、ただワーワー言ってたとする。
どちらかを救えるのだとしたら、どちらを救うべきだろうか。

 これを少し変えてみる。
かつてはデカルトのよう賢いと言われた人も、動物は機械と同じような存在と考える説を支持していた。
今は、犬が何の感情も抱かない機械だなんて思う人は少ないだろう。
犬はちゃんと苦しみというものを知っている。
もし犬と人間が同じ苦しみを抱いていたとしたら、どちらかを救えるなら、その時、人間であることが判断基準になりうるだろうか。
それは差別なのではなかろうか。

 やはり犬では近しい動物なので、考えづらい人もいるかもしれない。
ではまたしてもネズミを持ち込んでこよう。
ネズミが痛みを知っているのはまず間違いない。
数多くの、ストレスなどに関する動物実験で利用されたネズミたちが、彼らが苦しみを知っていることを証明している。
ストレス「ストレスとは何か」緊張状態。頭痛。吐き気。あらゆる病気に繋がる難敵 明らかなことだ。
ネズミが苦しみなんてもの知らないと考える根拠はまったくない。
実は自分以外の人間は全てあたかも感情があるかのように振舞っているロボットに過ぎないというような可能性くらいにだ。
人工知能の基礎「人工知能の基礎知識」ロボットとの違い。基礎理論。思考プロセスの問題点まで  例えば電気ショックを浴びてネズミが飛び上がる時、我々が電気を受けて痺れたときの感覚を味わっているだろう。
雷「電磁気学」最初の場の理論。電気と磁気の関係  だが本当に犬やネズミは苦しんでいるのだろうか。
我々が、例えば熱いものに触れて手を引っ込める時、実は熱いと理解するよりも早く手を引っ込めていることがあるというのは、数多くの実験で証明されている。
反射というのは無意識に起こるものなのだ。

 人間ほどの知能を持たない生物に、苦しみというものが本当に理解されているのだろうか。
そこに起こっているのは、やはり反射なのではないだろうか。

 だがこれだけは決して忘れてはならない。
動物と意思疎通ができないからと言って、本当に苦しんでるかどうかわからないという考えは、我々が口で苦しいと言っているからといって本当に苦しいと思っているとは限らないと考えるのと、おそらく近い。
むしろ後者の方が根拠があるとすら言える。
多分ある程度以上生きた人なら誰でも知ってるように、我々は嘘をつく生物だからだ。
仮に誰の言葉も信頼できないとしたら、我々はその人が何に喜んでいるかとか、苦しんでいるかとかを、どう判断できるだろうか。
その動作とか反応とかで判断するだろう。
そして動作とか反応とかは動物にもある。

意識は我々だけのものなのか

 我々は意識というものをちゃんと説明できない。
神経系がそれを生み出すとわかっているのに、そんなこと信じられない場合もある。
人のそういう部分に魂を見る人もいる。
本当に人が魂というものを持っているなら、それで動物たちと区別できる可能性はある。
だがそれについては、動物というのが実はあまり苦しんでないというの同じように根拠が薄すぎる。

我々は本当に動物を下に見ているか

なぜ我々は差別をしてしまうのか

 こういう選択もある。
もし1000人の命を救える方法があるとして、そのために動物を一体犠牲にしなければならないとしたら、動物を犠牲にするのは仕方がないと思えるかもしれない。
では、同じような状況で生後6ヶ月の赤子を犠牲にしなければ1000人を救えないとしたら、動物の場合と比べてあなたが躊躇する度合いは大きいだろうか。
生後6ヶ月以下の赤子は、たいていの場合、大人のチンパンジーの方が賢いのはほぼ間違いない。
はっきり言えば、自意識も強いだろう。
チンパンジーの足跡「チンパンジー」人間との比較、ニホンザルとの比較。どこに違いがあるか  ここに未来のことを考慮に入れる必要があるという人もいるかもしれない。
例えば生後6ヶ月の赤子であっても、10年経ったなら十分に人格を持つに至るだろうし、20年経ったなら我々が大人というような存在になる。
普通のチンパンジーでは到底追いつけないくらい賢くなるだろう。

 しかし未来のことまで考慮に入れるとなると、ほとんどすべてのことに対し価値などなくなる。
誰だって死んでしまうからだ。
もし死が終わりというのなら、それまでに何をしようと、何を考えようと、結局消えてしまう。
その消えてしまった後の未来において、何をしてきたとしても、何を考えていたのだとしても、もう価値などないのでなかろうか。

賢いというのを決めるのは難しい

 当たり前のように、ここまで動物よりも人間の方が賢いというように言ってきたが、本当にそう言えるのかわからない。
賢いというのが脳の優れた働きだというのなら、あらゆる動物の中で人間が特に優れていると考えるには、まだまだデータが足りない。

 意識を持って考えることができる。
そういう能力の強さが賢いというのなら、確かに人間は賢いと言えるかもしれない。

 一般的にはおそらく、学習能力の高さとか、記憶力のよさとか、優れたシュミレーション能力とかを賢いと言うだろう。
だがそれならコンピューターの方が人間よりずっと優れていると言える。
しかしコンピューターに、意識は明らかにない。
コンピュータの操作「コンピューターの構成の基礎知識」1と0の極限を目指す機械  賢いことが価値があることではないとは言いやすい。
なぜなら世間一般での賢いというのが、価値があるということならば、コンピューターの方が人間より尊いということになる。
1台のコンピューターを壊せば人を救えるという状況で、コンピューターを壊さない選択をする人は少ないはず。
おそらく賢い者を尊いと考えているという人でさえも、たいていは賢い人間を特別だと考えているのだ。

種族の線引き

 同族意識という考えもある。
我々は人間なのだから、人間を特別視するのは当然のことだろうという思想。
だが生物の分類なんてものは非常に難しい。
どこを区切るかに関して自由すぎる。
人間だから人間を特別視するのは当然だというのは、白人だから白人を重視するのは当たり前だとか、日本人だから日本人を重視するのは当たり前だとか、地球生命だから地球外の優れた生物より自分たちを重視するのは当たり前、みたいな考え方と同じようなものだろう。
これらの違いは、線引きする場所の違いにすぎない。

 いつか宇宙の時代に、地球生命を同族として扱うようになった未来人たちは、我々が人種差別をしてた人に対して抱くような気持ちを、今の我々に対して抱くかもしれない。

無知という鎧。隔離されてる動物たち

 特に、大量生産される安物の肉の生きていた頃の扱いなどを知った人は、「知らないほうがよかった」などと言うら。
それを聞かされる人も、「メシがまずくなるからそんなこと言わないでくれ」みたいなことを言うことがある。

 無知というのは悪い事のように言われることもあるが、時に人々は、明らかに無知を自ら望む。
明らかに、知ってしまうと道徳的に悩まなければならなくなるからだ。
ある意味で知らないということは、防衛線になる。

 我々は家畜から隔離されていると言われる。
初めて肉を食べる時、我々はそれが殺された動物の肉ということを知らないと思う。
やがてそのことを知ったとしても、それがどのように殺されるのか我々は知らずに生涯を終えることが多い。

 そんなことよりもっとひどい話もある。
可愛いからとペットを飼い始めたが途中で面倒くさくなったので捨てて、そのペットが殺処分されたとする。
そういうことを行った人の中には、自分が何をしたのかを完全には理解しないままの人も多いだろう。

 動物園や水族館はどうだろう。
狭いプールで飼われたイルカの芸を見るために、我々は金を動かす。
だが例えば、小さな部屋に生まれた時からずっと閉じ込められ、ただ外から与えられる食べ物などを食べながら生きて一生を終える人がいたなら、我々はその人を幸せだと思えるだろうか。
宮殿動物園「動物園の歴史」動物コレクション。メナジェリーとは何か?  我々は明らかに、物理的のみならず精神的にも動物から隔離されている。
おそらく牛や豚や鳥を平気で食うのに、犬や猿を食うことに関しては躊躇してしまうという人は、単に何も知らなかった頃から食っていたものが、牛や豚や鳥だったからだろう。

何も知らないことは不幸でないか

 例えば生まれた時から狭いゲージに大量の同族たちと入れられて、時期が来たら殺される鳥がいたとしよう。
そういう鳥はおそらく、生まれつきずっとそこにいるんだから、他の環境を知らない。
幸福や不幸というのは他のものと比較してのみ感じることができるものである。
だから他のよりよい状態を知らない鳥が、ひどい目に遭い続けたとしても、それは普通のことだと考えるかもしれない。
つまり不幸ではないだろう。
という説もある。

 だが我々は知っている。
ゲージの外の世界がどれだけ広いかを知っている。

 もしも、生まれた時から自分は人に尽くす奴隷人形なんだと教えられ続けた子供がいたとしたら、その子供を目の当たりにさせられた時、ひどい話と思うだろう。
しかしこれは、先の鳥の話と同じような話になるのではなかろうか。

(エッセー)VR世界で幸福を得られるか

 他の世界を知らないということに関しては、もう一つのシナリオがある。
それは例えば、生まれた時から仮想世界を見せられている場合である。
その仮想世界が現実よりもずっと楽しいような世界であった場合 現実には行けてなくてもその人は幸福と言えるかもしれない。
少なくとも 理想郷のVRを生まれた時から死ぬまで、ずっと見せられるほうが幸せだと考えている人の方人は今この世界に多いだろう。
宇宙プログラム「宇宙プログラム説」量子コンピュータのシミュレーションの可能性  個人的には少し心配ではある。
未来の人たちはVR世界に満足してしまう人が多くて技術の発展を遅らせてしまうのではないか、という心配だ。
例えば銀河の果てまで旅をできるような世界を、生まれた時から体験している人は、まだまだ太陽系からも出られないような現実なんて、どうでもいいと考えるようになるかもしれない。
銀河団とかを自分たちのものとするためには、おそらく数えきれないほどの世代を犠牲にしなければならない。
だがそんなことをするまでもなく、仮想世界ならば観測可能な領域すらも出ていける。
あっさりとだ。

 それでいいじゃないかという人もいるかもしれないが、我々の現実の体が地球にあるのなら、やがては太陽と共に、我々は死ぬ運命じゃないだろうか。

 よく動物をもっと大切に扱うべきとかいう者たちは、人間は自分から隔絶されたこととか、遠くのこととかを気にしない傾向にあるとか言うが、確かに数十億年後の未来の人たちのことなんて、ほとんど誰も気にしていないだろう。
だがよくよく考えれば、これからの未来の者たちの数は、おそらくこれまでの者たちの数よりも多いはずだ。

時間について。過去と未来にはどんな価値があるか

 あと50年生きる人が今にも死にそうだったとする。
その人を救うためには、あと10秒しか生きられない人を犠牲にしなければならないとしたら、多分10秒の方を犠牲にすることを間違いだと思える人は少ないだろう。

 だが我々はこの世界の機構に関しても無知だ。
10秒よりは50年生きる人の方が生きるべきだという考え方があるとするならば、それは時間というものが、ただひたすらに過ぎていくものだということを前提としていると思われる。

 例えば時間というのが、その一瞬一瞬の間に、宇宙に永久に刻まれていくものだと考えたらどうだろうか。
今から10秒、この宇宙に刻まれるものを失わせて、50年刻むものを生かすのは正しいことだろうか。
数の優位で、それでも50年の方が優位に考えられるかもしれない。
だがその場合の優位は、普通に我々が10秒と50年と考える時間の差に比べたら、全く違う問題のように感じられないだろうか。

 もっと単純に、時間というのがただまっすぐに進むだけのものでないと考えるだけでも、わずかな時間が、長い時間よりも優位だと考える理由はなくなってしまうだろう。

 時間が戻ることなんて誰も確認できたことがないから、あるわけがないと言う人もいるかもしれないが、実際に時間が巻き戻ったとしたら、我々はそれを感知できないのではないかとは、多くの人が考えてきたことだ。
タイムトラベル「タイムトラベルの物理学」理論的には可能か。哲学的未来と過去  実際に時間は巻き戻っているかもしれないのである。
時間がどのように進むのかということを我々は知らない。
そういうふうに考えると、10秒しか生きれない人と、50年生きれる人を、生きれる時間で区別することすらも正しいのかどうかわからなくなってくる。

 そしてもし時間というものがただひたすらに進むだけだという、我々が当たり前のように信じていることが真実だとしても、前に述べたように、結局は誰も彼もそのうちに失われるのだから、ものの価値に違いなどなくなる。
というよりも、やがてはどんなものだって、その価値はないも同じになる。
今だけが価値がある。

 1日前の自分は、今の自分と比べて価値があるだろうか。
1日前の自分の経験が活かされているという人がいるとしても、その人の経験というのはその人の中にある、その人のものだ。
1日前のその人が、今のその人に直接レクチャーしているわけではない。
ただ今、自分の教訓になっている1日前の自分は、自分の記憶の中だけにいるものだ。

 真実がどうであれ、そんなことを認めたくない人も多いと思う。
1日前の自分に価値があるかはどうでもいいと思う人がいるかもしれないが、そういう人であっても、大事な存在を失った10年後に、その大事な存在の価値なんてものが、もうないのだと聞かされたら不快な気持ちにならないだろうか。

 これは大勢の人が考えていることのはずだ。
自分が自分の大切なものを大切だと考えるのは、宇宙がどういう機構で成り立っているかなんてことと関係なんてない。
1000億年後に、自分を知っている者がもう誰もいなくなっているとしてもだ。

 とても長く広いこの宇宙の中で、どれくらい生きるかなんてことは誤差にすぎない。
それでも我々は、このわずかな時間にしか興味を持てない。

 これは我々の限界なのだろうか。

結局答はどこにあるのか

 ここまでの問題は考える人がいたとしても、答えがまるで出せないような問題に思えるかもしれない。

 だが重要なことは明らかだ。
何が大切かである。
そして、本当は何が大切なのか、価値の違いというのを知るために、最も有効だと考えられることは、この宇宙の機構すべてを解き明かすことしかないと思われる。

 本当にそうだろうか。